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かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ こころ(心)の貧しい人の幸い(마음이 가난한 사람들의 행복)/ マタイ5:3(마5:3)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ こころ(心)の貧しい人の幸い(마음이 가난한 사람들의 행복) マタイ5:3(마5:3) 心の貧しい人の幸い マタイによる福音書 第5章3節   1.幸いの教え(3~12節) 幸いになるための条件 「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者」(文語訳聖書) 「あなたがたは幸いだ」という主イエスの宣言 2.「貧しい」とは 完全に無一物であることを表わす言葉。生活に余裕がなくて苦しい、という貧しさを表わす言葉は別にある。ここで用いられている言葉は、全く何も持っていない、乞食をして、物乞いをして生きるしかない、という意味。 3.心の貧しさ  「心において貧しい」とは  自分の心の中には、寄り頼むべきもの、支えや誇りとなるものは何一つない、ということ。私たちは、心の豊かさを求めている。たとえ生活は貧しくても、心は豊かでありたい、と思っている。ところが、「心の貧しい人々」というのは、そのような心の豊かさを失っている人のこと。 自分の中に、自分を支える拠り所となる心の豊かさを全く持っていない者のこと。そういう者が幸いだ、という宣言。 4.間違った理解 教会の歴史においてしばしば、「心の貧しい」とは「謙遜な、へりくだった」という意味だ、という解釈がなされてきた。しかしそれは間違い。「謙遜」は、「貧しい」という言葉の意味とは違う。 さらに謙遜はそれ自体が一つの美徳になり、自分を支える拠り所、誇り、心の豊かさとなる。自分の謙遜さを誇る、ということも起る。あるいは、心の貧しさということについて、これは世間で言われる悪口としての「あの人は心の貧しい人だ」ということとは違う、と説明しようとすることがある。世間で「あの人は心が貧しい」と言われる時、その意味は、心が狭い、親切でない、愛がない、人を受け入れる度量がない、気持ちに余裕がない、という意味。このみ言葉の「心の貧しい」はこれとは違うと主張する時、私たちは「心の貧しい」ということを、欠点としてではなく、「謙遜」のような一つのよい資質として考えようとしている。 しかし「心の貧しさ」とは、よい資質を持っていることではない。むしろそういう良さがないこと、誇り得るような、拠り所とすることができるような、まさに心の豊かさが何もないことが「心の貧しさ」。だから「心の貧しい者」というのはやはり、心が狭い、愛がない、度量がない、気持ちに余裕がない人だと言える。 5.ルカによる福音書との比較  「貧しい人々は、幸いである」(ルカによる福音書6章20節) ルカの方が主イエスがお語りになった形であり、マタイがそこに「心の」をつけ加えて、この教えを精神的なものへと変質させ、この教えの強烈さをやわらげ、そこそこに富んでいる、豊かな人々のつまずきを取り除こうとした、と説明されることがある。しかしその読み方は浅薄。そこには、「貧しい人々は」と言うよりも、「心の貧しい人々は」と言った方がつまずきがなくなるという前提があるが、それは間違い。「貧しい人々は幸いだ」というのなら、私たちだって大金持ちに比べれば貧しいのだからその分幸いだとも言える。自分は貧しくても心豊かに生きていると誇りをもって言うこともできる。しかし「心の貧しい人々は幸いである」と言われたら、そんなことは言えなくなる。自分はそこそこに貧しい、と安心することもできなくなるし、財布の中はともかく、心だけは豊かだという自負も打ち砕かれてしまう。「心の貧しい人は」の方が、ずっと強烈な、容易には受け入れ難い教え。 6.心の貧しさは幸いではない  「心が貧しい」ことは、幸いであり得ない私たち人間の現実。私たちは、自分は貧しくても心は豊かだ、と思いたいが、現実には、私たちの心は、豊かでも広くもなく、愛に富んでもいない、人を、特に自分と意見や考え、感覚が違う人を受け入れる度量もない、自分の思いに反することを、まずは冷静に受け止め、相手の考えや状況をよく理解して、思い遣りをもって対話していくような心の余裕もない、すぐにイライラとし、かっとなり、八つ当たりし、人を責めることに熱心になっていく、要するに、私たちはまことに心の貧しい者。それは決して幸いなことではない。 そのような心の貧しさのゆえに、様々な問題が、争いが、困難が起って来る。 7.主イエスの宣言  このような私たちの現実の中に、「心の貧しい人々は、幸いである」という主イエスのお言葉が響く。 それは「このように見方を変えれば幸いだと言える」ということではない。主イエスが「幸いである」と言われるのは、心の貧しい者である私たちに、主イエスを通して、神様が与えて下さるものがあるから。 「天の国はその人たちのものである」これが幸いの理由。 8.神様のご支配  天の国=神の国  「国」とは王国、支配という意味  天の国=神のご支配 天の国=私たちの救い 「天の国は近づいた」が主イエスの伝道第一声 その天の国が与えられることが、心の貧しい人の幸い。 どうして心の貧しい人にそれが与えられるのか、それは、心の貧しさという良い資質に対するご褒美としてではない。心の貧しい人ほど、それを本当に必要としているから。自分の心の中に、拠り所となるもの、誇るべきものを何も持たない、豊かさがない、愛がない、度量も狭い、そういう者は、神様の救いに寄り頼むしかない。天の国を求めるしかない。 神様は、そのように天の国を本当に必要としている者たちに、深い憐れみと恵みによってそれを与えて下さる。そこに心の貧しい人の幸いがある。 9.天の国はどのようにしてその人たちのものとなるのか。  神の独り子主イエス・キリストによって。主イエスが、心の貧しい者である私たちのために、人となり、私たちの心の貧しさを、言い替えれば罪を、全てご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さった、このことによって、私たちの罪は赦された。 心の貧しい者である私たちを、主イエス・キリストが背負って下さった。そして「あなたは幸いだ、喜びなさい」と言って下さった。 「あなたはもう、自分の中に豊かさを持とうとしなくてよい。自分の心を豊かにすることに必死にならなくてよい。そういう豊かさが自分の中にないと生きていけないということはもうない。あなたがどんなに貧しい者であっても、誇るべきものを、これだけは人に負けないと自負できるようなものを何も持っていなくても、私はあなたを愛する。あなたを背負い、支えている。だからあなたは幸いなのだ。大いに喜んで、安心して生きていってよいのだ。」 10.私たちに求められていること  この教えが私たちに求めているのは、主イエスからこの幸いをいただいて、喜んで生きること。  心の貧しい人になろうと努力せよ、と求められているのではない。私たちはもともと心の貧しい者。そのことを認めて、その私たちに、主イエスが、十字架の死と復活によって天の国を、神様の恵みのご支配を、救いを与えて下さる、その恵みに寄り頼み、感謝して、喜んで生きる、それが私たちの信仰による生活の基本。 その幸いの中でこそ、私たちの貧しい心は次第に広げられていき、豊かにされていき、愛や思い遣りの心、人を受け入れる度量が与えられていく。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 平和を実現する人々の幸い(평화를 실현하는 사람들의 행복)/ マタイ5:9(마5:9)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 平和を実現する人々の幸い(평화를 실현하는 사람들의 행복) マタイ5:9(마5:9) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 平和を実現する人々の幸い マタイによる福音書 第5章9節   1.「平和を実現する」ことの難しさ 「平和を好む」ではなく、「平和を実現する」(口語訳聖書では「平和をつくり出す」)人の幸いを主イエスは語られた。 争いを避けているだけでは平和を実現することはできない。しかし争うことによって平和が実現できるわけでもない。 個人の関係のみでなく、国と国、民族と民族の間の平和はどうしたら実現できるか。 国権の発動たる戦争を放棄し、軍隊を持たないことを謳った平和憲法(9条)によって平和が実現しているのか? 2.神の子主イエスの実現した平和  「その人たちは神の子と呼ばれる」  平和を実現する者は「神の子」  神の子イエス・キリストは、平和を実現する方として来られた。  主イエスはどのようにして平和を実現なさるのか。  エフェソの信徒への手紙第2章14~16節 「敵意という隔ての壁」が平和を妨げている。主イエス・キリストはその十字架の死において敵意を滅ぼし、平和を実現して下さった。人間の敵意は罪から生まれる。罪の根本には神に対する敵意がある。神に対する敵意は、人に対しても向けられていく。神と人とに対する私たちの敵意、罪が平和を妨げている。キリストの十字架は、その私たちの罪、敵意を、主イエスがご自分の身に引き受けて下さったということ。私たちの、神と隣人に対する敵意、罪が、独り子イエス・キリストに全てふりかかり、主イエスを苦しめ、殺した。その苦しみと死を主イエスが引き受けて下さったことによって、神は私たちの敵意を乗り越え、平和を宣言して下さった。これは神の一方的宣言。今も私たちはなお神と隣人に対する敵意、罪に生きている。けれども神は、その敵意はイエス・キリストの十字架によってもう滅ぼされた、我々は和解し、敵意はもう存在しないという「平和の福音を告げ知らせ」て下さっている。 これが、主イエス・キリストによって実現された平和。 私たちは、争い、対立において、その争いを避けるか、あるいは争いに身を投じてその中で自分の主張を通すか、あるいは相手の主張との折り合いをつけるか、という仕方で平和を実現しようとする。しかし主イエスは、相手の敵意をご自分の身に引き受け、それによって死なれた。つまり敗北された。その敗北の中で、敵を憎み怨むのではなく、赦した。そして、もう敵意は滅ぼされた、もうここには敵意はないと宣言された。 キリストの復活は、人々の敵意を引き受けて死なれた主イエスの死を、父なる神が、私たちと神との和解のための死、私たちの罪を赦し、敵意を滅ぼすための死として認め、和解と平和と永遠の命を宣言して下さったということ。神と私たちとの間に、敵意はもう存在しない、存在するのは神が与えて下さる復活の命、死に勝利する恵みなのだということが、キリストの復活において明らかにされている。私たちは、主イエスの復活の記念日、小さなイースターである毎週日曜日の礼拝において、キリストが私たちの平和を実現して下さったという神の宣言を新たに聞きつつ生きる。 「平和を実現する人々は幸いである」という教えは、そのような私たちの歩みにおいてこそ意味と力を持っている。 3.平和を実現する者として  私たちは、主イエス・キリストによって神が与えて下さった平和の中で、その主イエスに従うことによって、争いに満ちたこの世界に平和を実現する者として生きる。その私たちの歩みは、争いを避けるのでも、争いに勝利し、あるいは妥協するのでもなく、敵意を引き受け、赦すことによって敵意を乗り越えるという歩みになる。 一人のアメリカの黒人の少女が、「イエス・キリストを信じたことによってあなたは何を得たか」という問いに対して、一言、「キリストは、私の父を殺した人をゆるすことができるようにしてくださいました」と語った(ウィリアム・バークレー『山上の説教に学ぶ』)。 アメリカ公民権運動におけるマーティン・ルーサー・キング牧師の言葉。「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようになりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。どんなに良心的に考えても、私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない。なぜなら、悪への非協力は、善への協力と同じほどの道徳的義務だからである。だから、私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。つらいことだが、それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。真夜中に、頭巾をかぶったあなたがたの暴漢を私たちの共同体に送り、私たちをその辺の道端に引きずり出し、ぶん殴って半殺しにしたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。国中に情報屋を回し、私たち黒人は文化的にもその他の面でも人種統合にふさわしくない、と人々に思わせたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。つまり、私たちの勝利は二重の勝利なのだ、ということをあなたがたの心と良心に強く訴えたいのである」。(コレッタ・スコット・キング編『キング牧師の言葉』) 「あなたがたをも勝ち取る」とは、友として勝ち取るということ。今黒人を差別し、暴力によって抑えつけようとしている白人たちと黒人との間に、平和が実現するということ。そのことを、「苦しむ能力、苦しみに耐える能力」によって実現していくのだというこの言葉は、まことに「平和を実現する者」の言葉。彼がこのように語ることができたのは、主イエス・キリストが、十字架の死によって、人々の敵意、罪をご自身の身に受け、死んで下さることによって敵意を滅ぼして下さったことを知っているから。そして彼が、いつの日か私たちは必ず勝利する、と確信をもって語ることができたのは、父なる神が主イエスを死者の中から復活させ、死の力に勝利しておられることを知っているから。彼は、平和を実現する神の子イエス・キリストを信じ、その主イエスに従っていくことによって、平和を実現する神の子として生きた。私たちもこの信仰を受け継ぎ、平和を実現して下さる主イエスの後に従っていく。その時私たちも、平和を実現する神の子らのはしくれに加わることができる。平和を実現する者たちの幸いに生きることができる。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 平和を実現する人々の幸い(평화를 실현하는 사람들의 행복)/ マタイ5:9(마5:9)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 平和を実現する人々の幸い(평화를 실현하는 사람들의 행복) マタイ5:9(마5:9) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 平和を実現する人々の幸い マタイによる福音書 第5章9節   1.「平和を実現する」ことの難しさ 「平和を好む」ではなく、「平和を実現する」(口語訳聖書では「平和をつくり出す」)人の幸いを主イエスは語られた。 争いを避けているだけでは平和を実現することはできない。しかし争うことによって平和が実現できるわけでもない。 個人の関係のみでなく、国と国、民族と民族の間の平和はどうしたら実現できるか。 国権の発動たる戦争を放棄し、軍隊を持たないことを謳った平和憲法(9条)によって平和が実現しているのか? 2.神の子主イエスの実現した平和  「その人たちは神の子と呼ばれる」  平和を実現する者は「神の子」  神の子イエス・キリストは、平和を実現する方として来られた。  主イエスはどのようにして平和を実現なさるのか。  エフェソの信徒への手紙第2章14~16節 「敵意という隔ての壁」が平和を妨げている。主イエス・キリストはその十字架の死において敵意を滅ぼし、平和を実現して下さった。人間の敵意は罪から生まれる。罪の根本には神に対する敵意がある。神に対する敵意は、人に対しても向けられていく。神と人とに対する私たちの敵意、罪が平和を妨げている。キリストの十字架は、その私たちの罪、敵意を、主イエスがご自分の身に引き受けて下さったということ。私たちの、神と隣人に対する敵意、罪が、独り子イエス・キリストに全てふりかかり、主イエスを苦しめ、殺した。その苦しみと死を主イエスが引き受けて下さったことによって、神は私たちの敵意を乗り越え、平和を宣言して下さった。これは神の一方的宣言。今も私たちはなお神と隣人に対する敵意、罪に生きている。けれども神は、その敵意はイエス・キリストの十字架によってもう滅ぼされた、我々は和解し、敵意はもう存在しないという「平和の福音を告げ知らせ」て下さっている。 これが、主イエス・キリストによって実現された平和。 私たちは、争い、対立において、その争いを避けるか、あるいは争いに身を投じてその中で自分の主張を通すか、あるいは相手の主張との折り合いをつけるか、という仕方で平和を実現しようとする。しかし主イエスは、相手の敵意をご自分の身に引き受け、それによって死なれた。つまり敗北された。その敗北の中で、敵を憎み怨むのではなく、赦した。そして、もう敵意は滅ぼされた、もうここには敵意はないと宣言された。 キリストの復活は、人々の敵意を引き受けて死なれた主イエスの死を、父なる神が、私たちと神との和解のための死、私たちの罪を赦し、敵意を滅ぼすための死として認め、和解と平和と永遠の命を宣言して下さったということ。神と私たちとの間に、敵意はもう存在しない、存在するのは神が与えて下さる復活の命、死に勝利する恵みなのだということが、キリストの復活において明らかにされている。私たちは、主イエスの復活の記念日、小さなイースターである毎週日曜日の礼拝において、キリストが私たちの平和を実現して下さったという神の宣言を新たに聞きつつ生きる。 「平和を実現する人々は幸いである」という教えは、そのような私たちの歩みにおいてこそ意味と力を持っている。 3.平和を実現する者として  私たちは、主イエス・キリストによって神が与えて下さった平和の中で、その主イエスに従うことによって、争いに満ちたこの世界に平和を実現する者として生きる。その私たちの歩みは、争いを避けるのでも、争いに勝利し、あるいは妥協するのでもなく、敵意を引き受け、赦すことによって敵意を乗り越えるという歩みになる。 一人のアメリカの黒人の少女が、「イエス・キリストを信じたことによってあなたは何を得たか」という問いに対して、一言、「キリストは、私の父を殺した人をゆるすことができるようにしてくださいました」と語った(ウィリアム・バークレー『山上の説教に学ぶ』)。 アメリカ公民権運動におけるマーティン・ルーサー・キング牧師の言葉。「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようになりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。どんなに良心的に考えても、私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない。なぜなら、悪への非協力は、善への協力と同じほどの道徳的義務だからである。だから、私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。つらいことだが、それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。真夜中に、頭巾をかぶったあなたがたの暴漢を私たちの共同体に送り、私たちをその辺の道端に引きずり出し、ぶん殴って半殺しにしたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。国中に情報屋を回し、私たち黒人は文化的にもその他の面でも人種統合にふさわしくない、と人々に思わせたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。つまり、私たちの勝利は二重の勝利なのだ、ということをあなたがたの心と良心に強く訴えたいのである」。(コレッタ・スコット・キング編『キング牧師の言葉』) 「あなたがたをも勝ち取る」とは、友として勝ち取るということ。今黒人を差別し、暴力によって抑えつけようとしている白人たちと黒人との間に、平和が実現するということ。そのことを、「苦しむ能力、苦しみに耐える能力」によって実現していくのだというこの言葉は、まことに「平和を実現する者」の言葉。彼がこのように語ることができたのは、主イエス・キリストが、十字架の死によって、人々の敵意、罪をご自身の身に受け、死んで下さることによって敵意を滅ぼして下さったことを知っているから。そして彼が、いつの日か私たちは必ず勝利する、と確信をもって語ることができたのは、父なる神が主イエスを死者の中から復活させ、死の力に勝利しておられることを知っているから。彼は、平和を実現する神の子イエス・キリストを信じ、その主イエスに従っていくことによって、平和を実現する神の子として生きた。私たちもこの信仰を受け継ぎ、平和を実現して下さる主イエスの後に従っていく。その時私たちも、平和を実現する神の子らのはしくれに加わることができる。平和を実現する者たちの幸いに生きることができる。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 心の清い人々の幸い(마음이 깨끗한 사람들의 행복)/ マタイ5:8(마5:8)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 心の清い人々の幸い(마음이 깨끗한 사람들의 행복) マタイ5:8(마5:8) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 心の清い人々の幸い マタイによる福音書 第5章8節   1.信仰とは、心の清い人になろうと努力すること? 私のような汚れた不純な人間は神様を見ることなどできない。だから少しでも心の清い人になるために教会の礼拝に通い、聖書を読み、祈っている…。 2.「清い」とは  「清いもの」と「汚れたもの」とを区別することが、旧約聖書の重大な関心事の一つ。 それは神様のみ前に出るため。 日本でも、神事に携わる人は斎戒沐浴して身を清める。水で洗うのは象徴的行為。心の中の汚れをおとさないで、ただ体の表面だけを洗い清めても意味はない(マタイ23章25、6節)。 神様のみ前に出ることのできる清さは、心の清さ。(詩編24編) 3.悔い改め  私たちは、自分がとても神様のみ前に出ることのできない、汚れた、罪深い者であることを覚えずにはおれない。それゆえに私たちは、神様を礼拝する最初に、罪を告白し、赦しと憐れみを求めなければならない、つまり悔い改めなければならない。 悔い改めの詩編の代表的なもの=詩編第51編 自分の罪、汚れに本当に気づき、おののく時に、私たちはこのように祈るしかない。身勝手と言われようが、虫が好いと言われようが、神様の憐れみにすがるしかない。それが悔い改め。その悔い改めによってこそ私たちは神様のみ前に出て、礼拝をすることができる。 4.主イエスの求める清さ  ルカによる福音書第18章9節以下(ファリサイ派の人と徴税人の祈り)。 義とされて家に帰った=「心の清い者」と認められたのは徴税人だった。 ファリサイ派の人が見つめているのは自分の姿。彼は目を天に向けてはいても、神ではなく自分自身を見、また隣にいる徴税人と自分を比較している。 徴税人は、ただひたすら神を見つめている。罪人である自分の姿を嘆き悲しみつつ、その自分からは目を離して、ただ神様の憐れみを求めている。そのことによって彼は、義とされ、心の清い者と認められた。 心の清い人とは、自分の姿から目を離し、神様を見つめ、神様の憐れみを求める人。神様から目を離し、自分がどれだけ良い者であるか、人と比べてどうであるか、を見つめるようになる時、私たちの心は、誇り、高ぶり、プライド、嫉み、うらみ、卑屈な思いなどの汚れで満たされていく。 5.その人たちは神を見る  神をこそ見つめている人は、神を見ることができる。 自分の姿を鏡に写して、ここがまだ汚れている、あそこをもっと清くしなければ、と言っているのをやめて、神様をこそ見つめ、神様の憐れみを願い求めるところでこそ、あなたがたは神様を見ることができる、神様と出会うことができる。何の汚れも罪もない、清い純粋な心になることによって神を見るのではない。むしろ罪や汚れの中にいる者が、その中から、神の憐れみと赦しをひたすら求めて祈る所で、神を見ることができる。 神の憐れみと赦しは主イエス・キリストによって、その十字架の死と復活によって与えられる。 自分の罪や汚れの中から、神の憐れみと赦しを祈り求めるとは、主イエス・キリストをこそ見つめ、よりすがっていくこと。主イエス・キリストの十字架の死と復活においてこそ、神はご自身を示して下さる。主イエス・キリストにおいてこそ、私たちの罪の赦しのために十字架かかって死んで下さった神を見ることができる。ただひたすら主イエス・キリストの十字架を見つめていく者こそが心の清い人。神はその人にご自身を示し、その恵みをはっきりと見せて下さる。 6.世の終わりに この世を生きる私たちは、神を肉体の目で見ることはできない。私たちは、信仰の目によって神を見る。 しかしいつまでもそうなのではない。今は隠されている真理(神のご支配、キリストによる救い)が顕わになる時が来る。それはキリストの再臨による世の終わりの時。その時私たちははっきりと神を見ることができる。 コリントの信徒への手紙一第13章12節 「その人たちは神を見る」という幸いの約束は、世の終わりに成就完成する。 「今は一部しか知らない」、しかし「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(口語訳「わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」)。 7.良い循環  世の終わりに、私たちは神を、その恵みを、はっきりと、完全に知る者となる。けれどもその前に、今既に、神は私たちのことを完全に知っておられる。神が私たちの全て(罪も汚れも)を完全に知っておられ、なお愛し、赦していて下さるから、私たちは自分の罪や汚れや弱さから目を離して、神を見つめていくことができる。神をまっすぐに見つめる清い心をもって生きることができる。自分自身を見つめるならば、私たちは決して清い者ではない。外面的にはともかく、心において清い者であることのできる人は一人もいない。しかしそのような私たちを、主イエスが、十字架の苦しみと死、そして復活の恵みによって招いて下さり、神様をまっすぐに見つめ「罪人の私を憐れんでください」と祈る清い心を造り出し、与えて下さる。 神様がこの主イエス・キリストの恵みによって招いていて下さるから、私たちは悔い改めることができる。 神様をまっすぐに見つめ、憐れみと赦しを祈り願うことができる。 そこで私たちは神を見る。私たちのために十字架の苦しみと死とを引き受けて下さった恵みの神を見る。主イエス・キリストによる神の招きによって、自分自身から目を離し、神の憐れみと赦しを求めていく者が、主イエス・キリストにおいて恵みの神を見る。そのことによってますます、神の招きを確信し、ますますまっすぐに神を見つめる者となっていく。そういう良い循環の中に身を置くことこそ、心の清い者の幸いである。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 悲しむ人々の幸い(애통하는 사람들의 행복)/ マタイ5:4(마5:4)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 悲しむ人々の幸い(애통하는 사람들의 행복) マタイ5:4(마5:4) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 悲しむ人々の幸い マタイによる福音書 第5章4節   1.悲しんでいる人が何故幸いなのか? この言葉は以下のように読まれることが多かった。  「この悲しみとは、自分の罪を嘆き悲しむこと。つまりこの幸いは、悔い改める者の幸い。  悔い改めこそが、神様から与えられる本当の祝福、幸いへの道である。自分の罪を悲しむことは、他者の罪を悲しむことにもつながる。そこには、人の罪をただ批判し裁くのではなく、それを共に嘆き悲しむ姿勢が生まれる。そのような働きかけによって、罪を犯している者が悔い改めへと導かれていく。 またそれは、この世に起る様々な悲惨な出来事、人間の罪が引き起こす苦しみの現実を悲しむことにもつながる。戦争、難民、飢餓、災害、南北問題… これらの現実を悲しむところから、何とかしていこうとする努力が生じる。人の悲しみへの共感、同情はとても大事。人の悲しみを自分の悲しみとする感受性は、自分自身の悲しみの中で育てられる。悲しみを知っている者こそが、人の悲しみを思いやり、人と心を通わせることができる。 そういう意味で、悲しむ人々は幸いであると言うことができる。」 しかしこのように理解し、説明する時に、この言葉は私たちから遠く離れた、別の世界の事柄になってしまうのではないか。私たちは、自分の罪を嘆き悲しむよりもむしろ、いろいろと言い訳をし、人のせいにしてしまう。人の罪を悲しむよりもそれを喜び、興味の対象とし、優越感にひたっている。 また本当に悲しんでいる時には、自分のことで精一杯で、人のことをかまっている余裕などなくなる。それが私たちの現実ではないだろうか。 「悲しみはこのような意味で幸いなのだ」と説明するどのような言葉も、私たちの現実の具体的な悲しみの前では力を失い、私たちとは遠く離れた別世界の話になってしまう。 2.宣言された幸い  主イエスは、悲しむ人々はこういう意味で幸いなのだ、という説明をしてはいない。主イエスが語っているのは、悲しむ人々は幸いであるという宣言。このような悲しみならば、という限定も、このような見方をすれば、という留保もない。私たちはそれぞれが、様々な悲しみをかかえている。その私たち一人一人に対して、「悲しむ人々は、幸いである」と宣言されている。この宣言によって主イエスは、悲しんでいる私たちの現実のただ中に、幸いを作り出そうとしておられる。 その幸いとは何か。 それは「その人たちは慰められる」ということ。 悲しむ人々には、慰めが与えられる、そこに、悲しむ人々の幸いがあると主イエスは言われる。 3.慰めとは何か  私たちは、悲しみは人それぞれに違っており、だから慰めも人によって違うものとなると考える。 「慰め」を、悲しみの原因の解決、解消と考えるならばその通り。しかし「慰められる」とは、問題の解決や解消ではなく、悲しみの現実の中で、その重荷を背負って生きていく力を与えられること。慰められることによって、悲しみがなくなるのではなく、悲しみを背負って生きていく力を与えられる。 「慰める」という言葉は、「励ます」、「勧める」とも訳される、広がりを持った言葉。 そのもとの意味は「傍らに呼ぶ」。慰めは、傍らに呼んで下さる方がおられるところに与えられる。私たちを傍らに呼んで、慰めと励ましと勧めを与えて下さるのは主イエス・キリスト。 「その人たちは慰められる」とは、主イエスご自身が、悲しむ者たちを傍らに呼び、ねんごろに慰めを与えて下さる、という宣言、約束。 4.どこで慰めを受けるのか 私たちはどこで主イエスの傍らに呼ばれるのか。 日曜日の礼拝の時間に、人生の戦いからしばし離れて、監督が試合の途中にタイムをかけて選手たちを呼ぶように主イエスのもとに呼ばれ、慰め、励まし、勧めを受けるのか。しかし人生にタイムはない。私たちは、自分の悲しみの全てをかかえたままで礼拝に集う。そこで主イエスの傍らに呼ばれることが起る。 それは実は、主イエスの方が、悲しんでいる私たちの傍らへと来て下さり、ねんごろに語りかけて下さるということ。主イエス・キリストがこの世にお生まれになったことにはそういう意味がある。私たちは、主イエスの傍らに呼ばれるのではなくて、主イエスご自身が、私たちの傍らにまで降りて来て下さって、悲しんでいる私たちの傍らに立って下さっている。悲しみにおしつぶされそうになっている身をひきずるようにして、私たちは礼拝に集う。そしてそこで、私たちのために苦しみと死とを引き受けて下さった主イエス・キリストが、傍らにいて、私たちを担い、支えていて下さることを示される。そして慰めを受ける。 5.悲しみを背負って  悲しみの現実はなお変わることなく私たちの重荷としてある。しかし、その下にある私たちが、傍らに共にいて下さる主イエスとの出会いによって、主イエスが悲しむ私たちを担って下さることによって、悲しみに押しつぶされることなく、それを背負って立ち上がり、新しい一歩を踏み出していく力を与えられる。その力は私たちの中にあるものではない。主イエス・キリストの父なる神様から与えられるもの。主イエスによって、父なる神様が、私たちをご自分のものとして傍らに置いて下さる。それによって大きな力が与えられ、それぞれの悲しみを背負いながら、共にいて下さる主イエスに支えられて歩む者とされる。 その歩みの中で、慰めを与えられる。悲しむ人々が幸いであるのは、この慰めのゆえである。 3節の「心の貧しい人々は、幸いである」という教えにおいて、心の貧しいことそれ自体が幸いなことではなかったように、「悲しむ人々は幸いである」という教えも、悲しみそれ自体が幸いであったり、価値があったりするわけではない。悲しみをも無理に幸いと思わければならないのではない。私たちのために十字架の苦しみと死とを受けて下さった主イエス・キリストが傍らにいて下さることによって、悲しむ私たちが慰められる。 その慰めをいただきつつ歩む時に、私たちの悲しみは、意味のあるものとなる。 人の悲しみに共感する感性が与えられていくというのもその一つ。自分の罪を悲しみ、悔い改めることも、この主イエスによる慰めの中でこそできる。そして人の罪を悲しみ、それを責めるのではなく共に嘆き悲しみ、共に悔い改めへと至るということも、主イエスによる慰めを与えられている者にこそできること。 主イエス・キリストによる慰めの中で悲しむ者は幸いなのである。 6.あなたは悲しんでよい  信仰者はいつも喜んでいなければならない、という強迫観念に捉えられる必要はない。 主イエスはここで、悲しむ人々の幸いを語られた。「あなたがたは悲しんでよいのだ、泣いてよいのだ。ただ、忘れないでほしい、その悲しんでいるあなたの傍らに、私がいる、泣いているあなたの隣に私がいて、慰めを与えようとしている、あなたがたの悲しみは、その慰めの中にあるのだ」。 この慰めの中で生きることが信仰。 「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5・16)というのは、悲しみなどないかのように、あってもおし隠して生きよということではなくて、この慰めに支えられて、悲しみを背負って歩みなさいということである。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 憐れみ深い人々の幸い(긍휼히 여기는 사람들의 행복)/ マタイ5:7(마5:7)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 憐れみ深い人々の幸い(긍휼히 여기는 사람들의 행복) マタイ5:7(마5:7) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 憐れみ深い人々の幸い マタイによる福音書 第5章7節   1.「情けは人のためならず」? 日本の諺に「情けは人のためならず」というのがある。 私たちは主イエスのこの教えをそれと同じと理解し、「この教えは既に知っている」と思っているのではないか? この諺における「情け」と、主イエスの言われる「憐れみ」は同じなのか? 「憐れみ深い」についての聖書の教え マタイ福音書25章31節以下 「憐れみ深い人々」とは、思うだけでなく具体的な行動ができる人。自分の周囲にいる、自分が助けるべき「最も小さい人の一人」に気づく感性を持っている人。隣人を見出し、隣人となることができる人。 ルカによる福音書第10章25節以下(「善いサマリア人」の話) 隣人になるとは、敵意を乗り越えること。「最も小さい者」とはしばしば自分の敵のこと。 「憐れみ深い者」=敵をも愛する人(5章44節)。 これらの教えから、主イエスが教えている「憐れみ」は、「情けは人のためならず」の「情け」をはるかに越えたものであることがわかる。私たちは、自分は「憐れみ深さ」からはるかに遠いと言わざるを得ない。そのことを知ることによってこそ、私たちはこの教えの前に本当に立つことができる。「情けは人のためならず」と同じに受け止め、「それは知っている」と思っている間は、この教えを本当に聞くことができない。 「幸いの教え」はどれも、私たちがもともと知っていることではない。 主イエスはこれらの教えによって、私たちの生活の中に、私たちの知らない新しい、本当の幸いを造り出そうとしておられる。 2.神の憐れみ  この教えが与えようとしている「幸い」は、「その人たちは憐れみを受ける」という幸い。 それは人からの憐れみでなく、神の憐れみ。 神の憐れみとはどのようなものか? 詩編第89編 「主の慈しみ」(2節)=「憐れみ」 「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び、わたしの僕ダビデに誓った。あなたの子孫をとこしえに立て、あなたの王座を代々に備える、と」(4、5節)。 主の慈しみとは、お選びになった者(ここではダビデとその子孫)と契約を結び、それをどこまでも守って下さること。 31~33節…ダビデの子孫である王たちの罪とそれに対する神の罰 「それでもなお、わたしは慈しみを彼から取り去らず、わたしの真実をむなしくすることはない。契約を破ることをせず、わたしの唇から出た言葉を変えることはない」 (34、5節) 主なる神が、人間との間に結んだ契約をどこまでも守り、人間の裏切りに対して怒りはするし罰を与えるが、契約を破棄することなく、どこまでもそれに忠実であって下さる。これが神の慈しみ=憐れみ。この神の憐れみは、主イエス・キリストによって私たちに与えられている。キリストの十字架の死によって、神は私たちと新しい契約を結んで下さった。その契約において、私たちは罪を赦され、神の恵みの下に生きる新しい命を与えられている。私たちは主イエスが求めておられる憐れみからほど遠い者だが、既にこのような憐れみを受けている。 3.憐れみを受けた者として  7節の教えは、「憐れみ深い者となりなさい、そうすればあなたがたは神の憐れみを受けることができ、幸いになることができる」ということではない。私たちはキリストによって神の憐れみを既に受けているがゆえに、憐れみ深い者となることができるし、そのために努力することができる、ということ。 18章21節以下(「仲間を赦さない家来のたとえ」) 「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(33節)。 私たちは自分では決して償うことができない罪(負債)を、キリストの十字架の死によって赦して(帳消しにして)いただいた。借金を帳消しにする時に、貸していた者は損害を引き受ける。神が私たちの罪を赦すために引き受けて下さった損害が、独り子主イエス・キリストの十字架の死。そこに神の深い憐れみがある。その憐れみを受けた私たちが、自分に百デナリオンの負債(罪)のある人を赦すこと、それが、私たちが「憐れみ深い者」となること。百デナリオンは決して小さい額ではない。人を赦し、憐れみ深い者であろうとすることは、苦しみと損害を伴う。「情けは人のためならず(=それは結局は自分のためだ)」などと思っていたらそれはできない。どう廻り廻っても自分のためになりそうもない、損失を受けることにしかならない、という場面において、私たちの憐れみ深さが問われている。そこでなお憐れみ深い者として生きることは、主イエスによって神の大きな憐れみをいただいていることを知り、その憐れみに応えて生きようとする所でこそ可能となる。 逆に私たちが人に対して憐れみ深くなろうとしないならば、それは神が御子の十字架の死によって与えて下さった憐れみを無にすることになる。 4.憐れみ深い人々の幸い  憐れみ深い人が憐れみを受け、幸いになるのではない。神の憐れみを受けている幸いな者が、憐れみ深くあろうとすることができる。それが信仰における順序。それならなぜ主イエスは「憐れみを受けている人々は幸いである、その人たちは憐れみ深くあるであろう」と言わないのか。 マタイ18章においても、あのたとえ話の前に、「あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」というみ言葉がある。 七の七十倍までも(徹底的に)兄弟の罪を赦す、憐れみ深い者であれ、とまず命じられている。あなたがたは憐れみを受けている者なのだから、という根拠はその後で示される。それと同じように、私たちは、「憐れみ深い人々は幸いである」という主のお言葉に従って、人の自分に対する百デナリオンの罪を赦そうと努力していく。そのことの中でこそ、主イエス・キリストによる神の憐れみ(一万タラントンの赦し)を本当に知ることができる。憐れみにほど遠い者であることをいつも思い知らされていく私たちだが、主イエスにおける神の憐れみを知らされているがゆえに、なお憐れみ深い者であろうとすることができる。そこに、私たちの幸いがある。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 憐れみ深い人々の幸い(긍휼히 여기는 사람들의 행복)/ マタイ5:7(마5:7)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 憐れみ深い人々の幸い(긍휼히 여기는 사람들의 행복) マタイ5:7(마5:7) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 憐れみ深い人々の幸い マタイによる福音書 第5章7節   1.「情けは人のためならず」? 日本の諺に「情けは人のためならず」というのがある。 私たちは主イエスのこの教えをそれと同じと理解し、「この教えは既に知っている」と思っているのではないか? この諺における「情け」と、主イエスの言われる「憐れみ」は同じなのか? 「憐れみ深い」についての聖書の教え マタイ福音書25章31節以下 「憐れみ深い人々」とは、思うだけでなく具体的な行動ができる人。自分の周囲にいる、自分が助けるべき「最も小さい人の一人」に気づく感性を持っている人。隣人を見出し、隣人となることができる人。 ルカによる福音書第10章25節以下(「善いサマリア人」の話) 隣人になるとは、敵意を乗り越えること。「最も小さい者」とはしばしば自分の敵のこと。 「憐れみ深い者」=敵をも愛する人(5章44節)。 これらの教えから、主イエスが教えている「憐れみ」は、「情けは人のためならず」の「情け」をはるかに越えたものであることがわかる。私たちは、自分は「憐れみ深さ」からはるかに遠いと言わざるを得ない。そのことを知ることによってこそ、私たちはこの教えの前に本当に立つことができる。「情けは人のためならず」と同じに受け止め、「それは知っている」と思っている間は、この教えを本当に聞くことができない。 「幸いの教え」はどれも、私たちがもともと知っていることではない。 主イエスはこれらの教えによって、私たちの生活の中に、私たちの知らない新しい、本当の幸いを造り出そうとしておられる。 2.神の憐れみ  この教えが与えようとしている「幸い」は、「その人たちは憐れみを受ける」という幸い。 それは人からの憐れみでなく、神の憐れみ。 神の憐れみとはどのようなものか? 詩編第89編 「主の慈しみ」(2節)=「憐れみ」 「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び、わたしの僕ダビデに誓った。あなたの子孫をとこしえに立て、あなたの王座を代々に備える、と」(4、5節)。 主の慈しみとは、お選びになった者(ここではダビデとその子孫)と契約を結び、それをどこまでも守って下さること。 31~33節…ダビデの子孫である王たちの罪とそれに対する神の罰 「それでもなお、わたしは慈しみを彼から取り去らず、わたしの真実をむなしくすることはない。契約を破ることをせず、わたしの唇から出た言葉を変えることはない」 (34、5節) 主なる神が、人間との間に結んだ契約をどこまでも守り、人間の裏切りに対して怒りはするし罰を与えるが、契約を破棄することなく、どこまでもそれに忠実であって下さる。これが神の慈しみ=憐れみ。この神の憐れみは、主イエス・キリストによって私たちに与えられている。キリストの十字架の死によって、神は私たちと新しい契約を結んで下さった。その契約において、私たちは罪を赦され、神の恵みの下に生きる新しい命を与えられている。私たちは主イエスが求めておられる憐れみからほど遠い者だが、既にこのような憐れみを受けている。 3.憐れみを受けた者として  7節の教えは、「憐れみ深い者となりなさい、そうすればあなたがたは神の憐れみを受けることができ、幸いになることができる」ということではない。私たちはキリストによって神の憐れみを既に受けているがゆえに、憐れみ深い者となることができるし、そのために努力することができる、ということ。 18章21節以下(「仲間を赦さない家来のたとえ」) 「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(33節)。 私たちは自分では決して償うことができない罪(負債)を、キリストの十字架の死によって赦して(帳消しにして)いただいた。借金を帳消しにする時に、貸していた者は損害を引き受ける。神が私たちの罪を赦すために引き受けて下さった損害が、独り子主イエス・キリストの十字架の死。そこに神の深い憐れみがある。その憐れみを受けた私たちが、自分に百デナリオンの負債(罪)のある人を赦すこと、それが、私たちが「憐れみ深い者」となること。百デナリオンは決して小さい額ではない。人を赦し、憐れみ深い者であろうとすることは、苦しみと損害を伴う。「情けは人のためならず(=それは結局は自分のためだ)」などと思っていたらそれはできない。どう廻り廻っても自分のためになりそうもない、損失を受けることにしかならない、という場面において、私たちの憐れみ深さが問われている。そこでなお憐れみ深い者として生きることは、主イエスによって神の大きな憐れみをいただいていることを知り、その憐れみに応えて生きようとする所でこそ可能となる。 逆に私たちが人に対して憐れみ深くなろうとしないならば、それは神が御子の十字架の死によって与えて下さった憐れみを無にすることになる。 4.憐れみ深い人々の幸い  憐れみ深い人が憐れみを受け、幸いになるのではない。神の憐れみを受けている幸いな者が、憐れみ深くあろうとすることができる。それが信仰における順序。それならなぜ主イエスは「憐れみを受けている人々は幸いである、その人たちは憐れみ深くあるであろう」と言わないのか。 マタイ18章においても、あのたとえ話の前に、「あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」というみ言葉がある。 七の七十倍までも(徹底的に)兄弟の罪を赦す、憐れみ深い者であれ、とまず命じられている。あなたがたは憐れみを受けている者なのだから、という根拠はその後で示される。それと同じように、私たちは、「憐れみ深い人々は幸いである」という主のお言葉に従って、人の自分に対する百デナリオンの罪を赦そうと努力していく。そのことの中でこそ、主イエス・キリストによる神の憐れみ(一万タラントンの赦し)を本当に知ることができる。憐れみにほど遠い者であることをいつも思い知らされていく私たちだが、主イエスにおける神の憐れみを知らされているがゆえに、なお憐れみ深い者であろうとすることができる。そこに、私たちの幸いがある。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 柔和な人々の幸い(온유한 사람들의 행복)/ マタイ5:5(마5:5)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 柔和な人々の幸い(온유한 사람들의 행복) マタイ5:5(마5:5) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 柔和な人々の幸い マタイによる福音書 第5章5節   1.柔和とは  「穏やかな、やさしい」、しかし「軟弱」ではない、本当の強さに基づくもの。  「柔和」と訳されている聖書の言葉は、「中庸な」という意味   怒るべき時に怒り、怒るべきでない時には怒らない、強い自己制御能力  「訓練を受けている人びとの祝福」(ウィリアム・バークレー『山上の説教に学ぶ』)  このような柔和さを持っている人は確かに幸いだと私たちは思う。 2.幸いだから柔和になれる?   しかし私たちは次のようにも思うのでは?  「柔和になれるのは幸いな人だけだ。私はとてもそんなにおっとりと構えていられるような状態にない。私は柔和に生きることができるほど幸いではないし、そんな余裕はない」 3.詩編37編  この教えは旧約聖書、詩編第37編11節からの引用  「貧しい人は地を継ぎ」(「しかし柔和な者は国を継ぎ」、口語訳聖書)  「柔和な」という新約の言葉は、この個所の「七十人訳」(ギリシャ語訳)による。  「柔和」という言葉の背後には、「貧しい」という言葉がある。  詩編37編において「貧しい人」とはどのような人か。  「悪事を謀る者は断たれ、主に望みをおく人は、地を継ぐ」(9節)  「神の祝福を受けた人は地を継ぐ。神の呪いを受けた者は断たれる」(22節)  …「貧しい人」とは、主に望みをおき、神の祝福を受ける人  「地を受け継ぐ」=神の豊かな祝福の中に生かされる  この「貧しい人々」は、7、8節のような苛立ちの中にある  「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や悪だくみをする者のことでいら立つな。怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない」(7、8節)。  悪事を行う者が繁栄し、豊かに富み栄えているという現実がある。それに対して、主なる神に従い、正しいことをして歩もうとする自分たちは、かえって苦しみを受け、いつまでも貧しい者であり続けている、という苛立ち。(1節も)  いっそのこと自分も彼らと一緒になって悪事を謀り、自分の豊かさを追及した方がよいのではないか、という苛立ちの中にある者たちに対して、苛立ってはならない、沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれ、主に望みを置け、貧しい人は地を継ぐのだ、あなたがたは神の豊かな祝福の約束を与えられているのだ、とこの詩は語っている。  つまり「柔和な人々」とは、決して幸いな、力と余裕のある人ではない。むしろ弱く貧しく力ない者が、神に従って生きようと必死になっている、しかし悪い者の方が富み栄えていくというこの世の現実の中で、押しつぶされそうになり、いっそ自分の好き勝手に生きていこうか、という苛立ちの中にある、そういう者こそがここで見つめられている。  私たちもしばしばこのような苛立ちを覚える。自分の弱さ、乏しさを嘆き、こんな自分の力では、こんな状況では、柔和になどなっておれない、なぜ神はもっと力を与えて下さらないのか、なぜもっとよい条件の下に置いて下さらないのか、とうらみつらみを言いたくなる。 主イエスはそういう私たち一人一人に、「柔和な人々は幸いである」と語りかけておられる。 4.柔和に生きることこそ幸い  詩編37編が教えているのは「柔和に生きよ」ということ。  悪事を謀る者が繁栄している現実の中でも苛立たずに、主に従う道に踏み止まれ、とこの詩は教えている。それは苛立ちまぎれに神を否定するような不信仰に走らず、しっかり自らを制御せよということ。そこにこそ神からの祝福、恵みが約束されている。  自分は貧しいから、余裕がないから、柔和になれない、と言っていたのでは救いはない。力も余裕もなく、苦しみと悲しみに翻弄され、苛立ちを覚えずにはおれない私たちが、そのような中で、沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれ、主に望みを置く、その柔和さによってこそ、私たちは信仰による幸いにあずかることができる。  柔和になれないとは、苛立ちに負けること。 そこでは、沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれるのではなく、自分が語りだし、自分の力で何とかしようとすることが起る。自分の思いに従って事を裁こうとするようになる。その裁きは、背後に苛立ちや怒りがある限り、幸いを生まない。 人を本当に救う働きは、怒りや苛立ちによってではなく、柔和さによってこそなされる。 5.真実に柔和な方、主イエス・キリスト  「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」 (11章28、29節)  主イエス・キリストは柔和で謙遜な方。苛立ちに負け、怒りに任せ、力に任せて事をなすのではなく、私たちの罪を黙って背負い、十字架の死への道を歩いて下さった。主イエスの柔和さによって、私たちの罪の赦し、救いが実現した。そして主イエスは私たちにも、この柔和さの道を歩むことを求めておられる。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」。それは決して負いきれない重い軛ではない。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」。それは主イエスが大部分を背負っていて下さるから。私たちはこの主イエスにつながって、主イエスと共にその軛を負い、柔和に生きる。  「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」(21章5節)。  「柔和な王」としてエルサレムに来られた主イエスは、その週の内に十字架につけられた。主イエスが「柔和な方」であるとは、十字架の死への道を黙って歩まれたこと。その柔和さのゆえに、私たちの救いが実現した。  真実に柔和な方である主イエス・キリストの十字架の死によって、罪の赦しの恵みを与えられた者が、主なる神のみ前に沈黙し、主に望みを置き、その恵みのみ業を待ち望みつつ生きるところに、真実の幸いが与えられる。  十字架の死に至る柔和な歩みを歩み通された主イエスは、復活して天に昇り、父なる神の右に座して、今や私たちを、この世界を、支配しておられる。つまり地を受け継いでおられる。今はまだ隠されているその主イエスのご支配を信じて生きることが私たちの信仰。  つまり私たちの信仰は、主イエスが、その柔和さによって地を受け継いでおられることを信じること。そして柔和な方である主イエスのご支配に支えられて生きること。主イエスの柔和さに支えられて、私たちもまた、様々な苦しみ悲しみがあり、悪を行う者がむしろ栄えていくようなこの世の現実の中にあっても、苛立ちに負けることなく、沈黙して主を仰ぎ、主に望みを置く柔和な者として生きることができる。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 義に飢え渇く人々の幸い(의에 주리고 목마른 사람들의 행복)/ マタイ5:6(마5:6)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 義に飢え渇く人々の幸い(의에 주리고 목마른 사람들의 행복) マタイ5:6(마5:6) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 義に飢え渇く人々の幸い マタイによる福音書 第5章6節 1.マタイの教えは抽象的? 「今飢えている人々は幸いである。あなたがたは満たされる。」 (ルカ福音書6章21節)  ルカの具体的な教えが、マタイでは「義に」という精神的、抽象的な教えに変えられている  ←「義に飢え渇く」などというのは、生活に余裕がある者のぜいたくな飢え渇きだ  →自分はまだ義に飢え渇いているような余裕はない。 2.ルカの教えの意味 「今飢えている人々は」 =今この世において「あなたがたは満たされる」 =神の国においては、満ち足りることができる。 =「金持ちとラザロ」の話(ルカ福音書16章)  主イエスは、飢えている人々の具体的空腹を満たそうとはしていない(荒れ野の誘惑)。 この世の不公平、不平等が、そのままで終ることはない、飢えに苦しんだ者には、神の国において満ち足りる喜びが与えられ、それによって神の正しさ、正義が貫かれる。本当の飢えは、食物の乏しさよりも、神の正義が貫かれず、神が自分の苦しみを無視している、という絶望。主イエスは人々のその絶望に目をとめ、神はあなたがたの苦しみを見ておられ、神の国においてあなたがたをねぎらい、飢えを満たして下さるのだ、と語られた。それがルカにおけるこの教えの意味。 3.私たちは義に飢え渇いている  「義に飢え渇く」のは、生活に余裕のある人のみが覚える、精神的、抽象的な、贅沢な飢え渇きではない。私たちの具体的な生活における、深刻な飢え渇き。私たちはこの世の人生において、神の正しさ、正義はどこにあるのか、自分の苦しみをちゃんと見ておられる神がおられるのか、という問いを感じる。それが義に対する飢え渇き。私たちは様々な苦しみの中で、常に、神の義、神の正しさが貫かれ、実現することに飢え渇いている。  詩編42編参照 「お前の神はどこにいる」という嘲笑による渇き 「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、嘆きつつ歩くのか」という渇き 4.この社会、世界において義に飢え渇く 「義に飢え渇く」は、自分の人生における自分のための義に飢え渇くのみではなく、この世界に存在する不正義、不平等に目を向け、義に飢え渇いている隣人のことを思い、そこでなすべき正義を行なっていくことをも意味している。(「金持ちとラザロ」の話) 5.その人たちは満たされる  義への飢え渇きは、私たちの苦しみ悲しみが解決することによって満たされるのではない。 神の義は、独り子イエス・キリストの十字架の死において貫かれている。 まことの神であられる方が、私たちの罪の赦しのために、苦しみを受け、命を捨てて下さった。神の正しさはそこに貫かれている。そのことによって私たちは救われた。もしも神の正しさが、人間に正しさを求め、正しい者のみを救い、悪い者を滅ぼすという形で貫かれたとしたら、私たちは救われない。そこでは、神の正しさが貫かれると、私たちが滅ぼされることになる。神の正しさが貫かれ、なおそこで罪人である私たちが救われるためには、独り子主イエスが、十字架の苦しみと死とを引き受けなければなかった。神の独り子が、私たちのために、私たちに代わって滅ぼされて下さったことによって、神の正しさは私たちを滅ぼすものではなく、救うものとなった。神の義はこのようにして貫かれた。 主イエスによって貫かれ、満たされた義は、神の恵みであり、私たちの救いである。 6.主イエスに従うことの中で  主イエス・キリストにおいて神の義、正しさが貫かれていることと、私たちの苦しみにおける義への飢え渇きが満たされることの間には、なお大きな隔たりがある。この隔たりは何によって乗り越えられるのか。 この説教は、弟子たち、即ち主イエスに従っている人々に向かって語られている。主イエスに従い、主イエスと共に歩むことにおいてこそ、その隔たりは乗り越えられる。私たちは、苦しみの中で、義に飢え渇きつつ、主イエスの十字架の苦しみと死とを見つめつつ主イエスに従う。その時、自分の傍らに、自分のために苦しんで下さった主イエスがいて下さることを示される。そこでこそ、主イエスの苦しみと死において貫かれている神の義を実感することができる。苦しみは相変わらず苦しみであり、義への飢え渇きは続いているが、それは絶望に陥ることのない、満たされた飢え渇きとなる。 ルカ福音書は、今飢えている人が、神の国において満たされるという、終りの日の希望を語っていた。マタイは、むしろそれが今のこの世の歩みにおいて現実となることを見つめている。それは主イエス・キリストが、その十字架の苦しみと死とによって、私たちの苦しみ悲しみを担って下さることにおいて実現する。そのことを私たちは、主イエスに従うことの中で、体験する。こうして、私たちの義への飢え渇きは、この世において確かに満たされる。 7.義に飢え渇く人々は幸いである  主イエス・キリストの苦しみと死とによって神の義がこの世に貫かれていることを知っているからこそ、私たちは、自分のためにも、またこの世界においても、飢え渇くように義を求めていくことができる。この信仰を失い、神の正義がこの世で貫かれることはないと思ってしまう時、そこには絶望が支配する。絶望が支配するところには「どうせ正義が貫かれることはないのだから、せいぜい自分の好きなことをして生きよう。正義を貫こうとしても骨折り損のくたびれ儲けだ」という気楽な思いが生まれる。 このような思いが蔓延し、人々がもはや義に飢え渇くことをせず、楽しく楽なことだけを追い求めるようになるとしたら、その社会は絶望に支配されているということ。義を追い求めるにはエネルギーがいる。それはつらいことでもあり、損をするようなことでもある。そのような中で私たちは、楽な方に流され、義を求めることをやめてしまう。 主イエスはそういう私たちに、「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる」と語りかけておられる。 それは、「私の十字架と復活において、この世には確かに神の義が貫かれている。だからあなたがたは、どんな時にも絶望せずに、義に飢え渇く者となることができるのだ。そこにあなたがたの幸いがあるのだ」ということ。 この社会に義が完全に達成されることはない。それが与えられるのは神の国においてであり、この世においては、義への飢え渇きが続く。しかし私たちは、主イエス・キリストにおいて神が義を貫いて下さり、同時に私たちを救って下さったことを知っている。その恵みに支えられて、義に飢え渇く者であり続けることができる。 そこに私たちの幸いがある。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 義のために迫害される人々の幸い(의를 위하여 박해 받는 사람들의 행복)/ マタイ5:10-12(마5:10-12)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-22
家庭集会説教(가정집회설교)/ 義のために迫害される人々の幸い(의를 위하여 박해 받는 사람들의 행복) マタイ5:10-12(마5:10-12) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 義のために迫害される人々の幸い マタイによる福音書 第5章10~12節 1.八つの幸いの教えのしめくくり 「今飢えている人々は幸いである。あなたがたは満たされる。」 (ルカ福音書6章21節) 主イエスは私たち一人一人の中に、これら八つの幸いを造り出し、与えようとしておられる。私たちはこの八つの幸いのどれか好きなものを選び取るのではない。これらの八つの幸い全てを主イエスからいただいて生きるのが、信仰者の生活。「義のために迫害される者の幸い」もその一つであり、「これだけはご免被る」というものではない。 2.教会の歴史は迫害の歴史 この幸いの教えは、過去の教会の歩み、キリスト教の歴史において、大きな励ましと力とを信仰者たちに与えてきた。殉教者(マーター)は「証人、証し人」という言葉から来ている。殉教こそ、信仰の最大の証しであり、「一人の殉教者は十人の信者を生む」と言われる。 3.わたしのために 「義のために」は11節では「わたしのために」と置き換えられている。迫害は、私たちが積極的に義(正しいこと)を行っていくところに起るのみでなく、主イエスに属する者、主イエスを信じる者として生きるところに起る。主イエスを信じて生きようとする時に、私たちは、そうでない人々から様々な仕方でののしられ、悪口を言われる。「義のために迫害される」は、特別な時代の、特別な人々の話ではなく、私たちが教会に通い、主イエス・キリストを信じて生きようとする時に身近な所で日々起って来る様々なすれ違い、誤解、行き違いにまで及んでいる。 4.「あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい」 主イエスのゆえに誤解を受け、悪口を言われることは、あってはならないことではない。それが当たり前なのだ、ということ。私たちは、主イエスを信じ、信仰者としての奉仕や働きに励めば、人に受け入れられ、認められ、尊敬されるようになる、と心のどこかで思っているのではないか。そう思っていると、ののしられたり、身に覚えのない悪口を言われたりすることに耐えられない。しかし主イエスは、そのことでくよくよする必要はない、それが当然なのだ、とおっしゃっている。 5.「天には大きな報いがある」 「天に」とは、父なる神様のみもとに、ということ。父なる神様の大きな報いを見つめよ、と主イエスは言っておられる。 「そんな報いの約束は何の力にもならない」と思うとしたらそれは、私たちがこの世のこと、地上のこと、人間のことしか見つめておらず、天を、神様を見つめていないということ。言い換えれば、人に受け入れられ、喜ばれ、認められることしか考えていないということ。「彼らは既に報いを受けている」[6章5節]と通じる。 天を、神様を見つめている者は、神様が自分を見ていて下さり、主イエスのゆえにののしりや悪口を受けていることを知っていて下さり、必ず報いて下さることに望みを置いて生きる。その報いがどんな形で与えられるかはわからない。 地上の生活における幸いという形でなのか、地上の命を終えた後、天の父のみもとでの祝福としてなのか、いずれにせよ、報いは天の神様が与えて下さることを信じてそこに希望を置く。神様を信じるとはそういうこと。 6.「天の国はその人たちのものである」 「天の国はその人たちのものである」は、第一の幸いの教え「心の貧しい人々は幸いである」においても語られていた。八つの幸いの教えの最初と最後が「天の国はその人たちのものである」で括られている。そういう意味でこの言葉は、幸いの教え全体の枠となっている、中心的な幸い。「天の国」とは、神様の恵みのご支配という意味。天の国、神の恵みのご支配の下に生きることができるのは、地上の、人間からの報いや賞賛ではなく、神様の報いをこそ見つめ、求める者。「心の貧しい人々」の場合も、自分の心の中に何らかの豊かさを求め、拠り所を見出していこうとする者は、天の国に生きることができなかった。できないと言うよりも、彼らが求めているのは神様の恵みのご支配ではなくて、自分の豊かさによる満足である。自分の中に、人間の間に、地上に、寄り頼むべき理解者を持たず、報いてくれる人を持たず、ただ天の神様が自分を理解し、豊かに報いて下さることのみを信じ、求めていくという点で、「心の貧しい人々」と「義のために迫害される人々」とは相通じる。 7.あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害された 主イエスがここで見つめさせようとしているのは、教会の歴史における殉教者たちのことのみではない。最後、最大の預言者、預言者の中の預言者として来られた主イエス・キリストが、「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられ」た。この主イエス・キリストをこそ私たちはしっかりと思い起し、見つめるべき。主イエスは私たちのために、全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さった救い主であり、私たちが従っていくべき主。 その方が、迫害を受け、ののしられ、悪口を浴びせられて歩まれたのだから、私たちがそのような体験をするとしたら、それは主イエスの後に従っているということ。それは幸いなことであり、喜ばしいこと。私たちはまことに弱い者であり、自分の力で迫害に耐えて信仰の証をなすことができるような者ではないが、しかし私たちが、それぞれの生活の中で主イエス・キリストに従い、天の父なる神様の報いをこそ求めて生きていく時、主イエスがお語りになったこの第八の幸いもまた私たちに与えられる 8.ペトロの手紙一、第2章18~25節  召し使い(奴隷)、(妻、夫)への教え 「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(21~25節) 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 義のために迫害される人々の幸い(의를 위하여 박해 받는 사람들의 행복)/ マタイ5:10-12(마5:10-12)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-22
家庭集会説教(가정집회설교)/ 義のために迫害される人々の幸い(의를 위하여 박해 받는 사람들의 행복) マタイ5:10-12(마5:10-12) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 義のために迫害される人々の幸い マタイによる福音書 第5章10~12節 1.八つの幸いの教えのしめくくり 「今飢えている人々は幸いである。あなたがたは満たされる。」 (ルカ福音書6章21節) 主イエスは私たち一人一人の中に、これら八つの幸いを造り出し、与えようとしておられる。私たちはこの八つの幸いのどれか好きなものを選び取るのではない。これらの八つの幸い全てを主イエスからいただいて生きるのが、信仰者の生活。「義のために迫害される者の幸い」もその一つであり、「これだけはご免被る」というものではない。 2.教会の歴史は迫害の歴史 この幸いの教えは、過去の教会の歩み、キリスト教の歴史において、大きな励ましと力とを信仰者たちに与えてきた。殉教者(マーター)は「証人、証し人」という言葉から来ている。殉教こそ、信仰の最大の証しであり、「一人の殉教者は十人の信者を生む」と言われる。 3.わたしのために 「義のために」は11節では「わたしのために」と置き換えられている。迫害は、私たちが積極的に義(正しいこと)を行っていくところに起るのみでなく、主イエスに属する者、主イエスを信じる者として生きるところに起る。主イエスを信じて生きようとする時に、私たちは、そうでない人々から様々な仕方でののしられ、悪口を言われる。「義のために迫害される」は、特別な時代の、特別な人々の話ではなく、私たちが教会に通い、主イエス・キリストを信じて生きようとする時に身近な所で日々起って来る様々なすれ違い、誤解、行き違いにまで及んでいる。 4.「あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい」 主イエスのゆえに誤解を受け、悪口を言われることは、あってはならないことではない。それが当たり前なのだ、ということ。私たちは、主イエスを信じ、信仰者としての奉仕や働きに励めば、人に受け入れられ、認められ、尊敬されるようになる、と心のどこかで思っているのではないか。そう思っていると、ののしられたり、身に覚えのない悪口を言われたりすることに耐えられない。しかし主イエスは、そのことでくよくよする必要はない、それが当然なのだ、とおっしゃっている。 5.「天には大きな報いがある」 「天に」とは、父なる神様のみもとに、ということ。父なる神様の大きな報いを見つめよ、と主イエスは言っておられる。 「そんな報いの約束は何の力にもならない」と思うとしたらそれは、私たちがこの世のこと、地上のこと、人間のことしか見つめておらず、天を、神様を見つめていないということ。言い換えれば、人に受け入れられ、喜ばれ、認められることしか考えていないということ。「彼らは既に報いを受けている」[6章5節]と通じる。 天を、神様を見つめている者は、神様が自分を見ていて下さり、主イエスのゆえにののしりや悪口を受けていることを知っていて下さり、必ず報いて下さることに望みを置いて生きる。その報いがどんな形で与えられるかはわからない。 地上の生活における幸いという形でなのか、地上の命を終えた後、天の父のみもとでの祝福としてなのか、いずれにせよ、報いは天の神様が与えて下さることを信じてそこに希望を置く。神様を信じるとはそういうこと。 6.「天の国はその人たちのものである」 「天の国はその人たちのものである」は、第一の幸いの教え「心の貧しい人々は幸いである」においても語られていた。八つの幸いの教えの最初と最後が「天の国はその人たちのものである」で括られている。そういう意味でこの言葉は、幸いの教え全体の枠となっている、中心的な幸い。「天の国」とは、神様の恵みのご支配という意味。天の国、神の恵みのご支配の下に生きることができるのは、地上の、人間からの報いや賞賛ではなく、神様の報いをこそ見つめ、求める者。「心の貧しい人々」の場合も、自分の心の中に何らかの豊かさを求め、拠り所を見出していこうとする者は、天の国に生きることができなかった。できないと言うよりも、彼らが求めているのは神様の恵みのご支配ではなくて、自分の豊かさによる満足である。自分の中に、人間の間に、地上に、寄り頼むべき理解者を持たず、報いてくれる人を持たず、ただ天の神様が自分を理解し、豊かに報いて下さることのみを信じ、求めていくという点で、「心の貧しい人々」と「義のために迫害される人々」とは相通じる。 7.あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害された 主イエスがここで見つめさせようとしているのは、教会の歴史における殉教者たちのことのみではない。最後、最大の預言者、預言者の中の預言者として来られた主イエス・キリストが、「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられ」た。この主イエス・キリストをこそ私たちはしっかりと思い起し、見つめるべき。主イエスは私たちのために、全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さった救い主であり、私たちが従っていくべき主。 その方が、迫害を受け、ののしられ、悪口を浴びせられて歩まれたのだから、私たちがそのような体験をするとしたら、それは主イエスの後に従っているということ。それは幸いなことであり、喜ばしいこと。私たちはまことに弱い者であり、自分の力で迫害に耐えて信仰の証をなすことができるような者ではないが、しかし私たちが、それぞれの生活の中で主イエス・キリストに従い、天の父なる神様の報いをこそ求めて生きていく時、主イエスがお語りになったこの第八の幸いもまた私たちに与えられる 8.ペトロの手紙一、第2章18~25節  召し使い(奴隷)、(妻、夫)への教え 「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(21~25節) 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
ヨハネの第一の手紙講解(岩住賢)(01)(요한일서강해(이와즈미 켄)(01))/ 聞き、見て、触れる(듣고 보고 만졌다)/ 1ヨハネ1:1-4(요일1:1-4), エゼキエル11:19-20(겔11:19-20)/ いわずみ けん(岩住賢)伝道師(横浜指路教会)/ 2013-04-07
ヨハネの第一の手紙講解(岩住賢)(01)(요한일서강해(이와즈미 켄)(01))/ 聞き、見て、触れる(듣고 보고 만졌다) 1ヨハネ1:1-4(요일1:1-4), エゼキエル11:19-20(겔11:19-20) 2013年4月7日・夕礼拝説教  ◆ 「聞き、見て、触れる」  伝道師 岩住賢 ・ 旧約聖書: エゼキエル書 第11章19-20節 ・ 新約聖書: ヨハネの手紙一 第1章1-4節   ・ 讃美歌:351、458、73 今ヨハネの手紙一、1章1節から4節の御言葉をわたしたちは聴きました。この1節から4節は、この手紙全体が何のために書かれているのか、また何を書いてあるか、そのことを初めに明らかにしているところであります。 では何のためか、何ついて書かれているのかというと、それは一節の最後のところですが、「命の言について──」これをヨハネは伝えたかったのです。命の言というのは、これは神様の言葉であります。神様の言葉をなぜ「命の言」と言うかというと、実は、その神様の言葉こそ私たちに「命」を与えるものだからであります。旧約聖書の申命記に「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」という言葉があります。そのように、人が生きる、人が人として生きるということのためには、神様の言葉を聞くということが、どうしても必要になります。 しかし、私たちはどうか?私たちも神様の御言葉を聞きたいと思って一生懸命願っているけれども、「あ、いま神様の言葉を聞こえた」そのようには、簡単には聞けません。聖書を見るとアブラハムとか、イサクとか、ヤコブとか、信仰の先達が神様の言葉を聞いたということが書いてある。そこでは神様の言葉は、天から突然声が聞こえる。どうも旧約聖書の話の中では、アブラハムにしても、モーセにしてもそのように言葉を聞いております。わたしたちもそういう経験をすることができるのかと期待をしておりますけれども、大体わたしたちにはそのような経験はありません。そこで私たちは神様の言葉を聞いてないのだろうか、ということを悩み始めます。それではいったいどうしたら、私は神様の言葉を聞くことができるだろうかということが、わたしたちの問題になってくるのです。ここでヨハネは、命の言を聞くにとどまらず、また見た、触れたとも言っています。では言葉を見る、触れるとはまた、いったいなんなのでしょうか。これらの悩みに聖書は、答えております。それはヨハネによる福音書の1章の14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」という言葉であります。この「言」というのは、もちろん神様の言です。どうしたら、いったい神様の言葉を聞くこと、見ること、触れることができるだろうか、思い悩んでおります私たちに、その神様の御言葉が、肉体をとって私たちの目の前に現れたのだ、ということをヨハネは私たちに告げております。肉体を取るということはつまり人となるということです。 では人となられた神様の御言葉とは一体誰なのであるかというと。それは主イエス・キリストです。福音書でヨハネは「わたしたちはその栄光を見た」といっておりますが、ヨハネは肉体をとった主イエス・キリストを栄光としてその目で見たのです。そのことをこのヨハネ手紙一の冒頭でも同じように言っております。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――」とヨハネは言っております。命の言というところを、主イエス・キリストに置き換えてみるとはっきりとします。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、主イエス・キリストについて。――この主イエス・キリストは現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――」命の言であられる主イエス・キリストのことを私はあなたがたにお伝えするというのが、ヨハネの言っていることです。ではヨハネはいつ主イエス・キリストに出会って、見て、聞き、触れたのか。ヨハネが主イエス・キリストに出会ったのは、日常生活をしていた時です。その時、イエスという方がヨハネの元に来られて「わたしについてきなさい」と言われました。ヨハネはその方の話、その肉声を彼自身の耳で聞ききました。主イエス・キリストはいろいろと話してくださったのです。また、その御顔、その御姿、なさることを、彼はその目で見た。そうしているうちに、この方はいったいどなただろうか、弟子たちが主イエス・キリストの御業を見て「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言って驚いているところがあります。改めて、いったいこの方はどなただろうか、思いを込めて見直した、そういう経験もありました。それだけでなくて「この手でさわった」とヨハネは言います。主イエス・キリストがユダの裏切りを予告なさった夜に、主イエス・キリストの胸に寄りかかって「それはだれのことですか」と尋ねたのはヨハネです。そういう目で見て、この手でさわることができた御方が、実は、命を与える神様だということを後に知った時の、弟子たちの衝撃はどのようなものだったのでしょうか。「私は、神様にこの手でさわっていたのだ」とその驚きと感動がこの短い言葉の中に表れております。私たちはそういう驚くべきメッセージをここで聞いています。 しかしここで気付かされることがあります。2000年前に、実際に主イエス・キリストを見、その肉声を聞き、触れたことのあるすべての人が、弟子たちのように主イエス・キリストの御言葉に聞き従ったのか、というと実はそうではありません。実際、主を十字架にその手で架けた人物、主イエス・キリストを陥れようと問答を仕掛けた律法学者やファリサイ派の人たち、その人達も主イエス・キリストを見、その声を聞き、時には触れたことのある人たちです。その者たちは、主を肉眼で見たが、その時にすぐにその主の御言葉を受け入れて、従うということはありませんでした。ですからここから、わたしたちは、直接主を見たり、そのお言葉を直接聞いたりすることができれば、すぐさま「わたしは命の言を聞いた」と自覚するというわけではないのだ、とわたしたちは気付かされます。弟子たちも初めから主イエス・キリストの言葉を命の言だと自覚していたのではありません。弟子たちも最初は主イエス・キリストの言葉は「先生の権威あるお言葉」、「風や湖を従わせることのできる不思議なお言葉」、だったのです。そう理解していたのです。この弟子たちが「主イエス・キリストは命の言である」と気付くのは十字架と復活の出来事の後のことです。十字架の出来事以前の弟子たちは、「イエスが生ける神の子、救い主である」ということを告白していましたけれども、実際にはどれほど主イエス・キリストに従えていたかというと、主イエス・キリストがエルサレムで無実の罪で逮捕されるその時には、弟子たちは主イエス・キリストの下から逃げ出す、また一番弟子ペトロは三度も主イエス・キリストのことなど「知らない」と否む。このようなものでした。なぜ聞き、見て、触れることのできた人たちが、命の言である主イエス・キリストを拒否してしまったのか。それは人の持つ、そしてわたしたちにもある罪の故です。神様などわたしとは無関係である。神様を信じ従うのでなく、自分の信念に従う。神様中心でなく自分中心となる。その罪の中での人の耳は、神様の言葉も都合のいいように聞く耳になっていたり、そもそも聞くことすらも拒否する耳であったりするのです。罪とは神様をいらないと人間の側から神様との関係を切ることなのです。命を与える神様の言葉を拒否するということは、自ら命を絶っているということに等しいのです。 しかし、主イエス・キリストは弟子たちが主を拒絶している時でも、弟子たちが言葉を理解できない時も、弟子たちの信仰が揺れ動いてぶれている時も、彼らをお見捨てにならないで、むしろ言であるかたの方から弟子たちに近づいてきてくださったのです。このことは弟子たちのみならならずわたしたちにも同じなのです。   しかも、命であられるその方が、人の罪のために十字架に架かって死に、わたしたちの罪と死を代わりに受けてくださり、死ぬべきはずのわたしたちを生かしてくださいました。そして三日目に復活され、死に打ち勝つ御姿をわたしたちに示してくださいました。悔い改めてその主イエス・キリストの信じるものは、死ぬことのない永遠の主の命に与ることがゆるされました。弟子たちはその復活された主イエス・キリストに出会って、既に主が語られていたこと、主イエス・キリストがわたしたちを罪の中から救うメシアであることを理解しました。そして主イエス・キリストが命の言である、わたしたちを死から生へと変えてくださる方であると知るようになった。 しかし、ここで最後に大きな問いが残ります。それは、なるほど、ペテロやヨハネ、そういう主イエス・キリストの弟子たちは、主イエス・キリストの肉声を聞き、その御姿を見、手でその御体をさわり、復活された主イエス・キリストと出会った。けれども、2000年の時を隔てた、今この日本に住んでいる私たちはいったいどうなるのか、「イエス様を見ることはできないじゃないか」と思ってしまいます。確かに、私たちは自分自身の目で主イエス・キリストの御姿を見、主イエス・キリストの肉声を聞き、その御体に触れることはできません。 では一体どうすれば、今を生きるわたしたちは神様の言葉、命の言に出会うことができるのか。実は2000年後のこの私たちとは同じ立場にある人達がいます。その人達はこのヨハネの手紙一の手紙の受け取った人たちです。ヨハネは主イエス・キリストを見ることのできなかった人たち、その人たちにこの手紙を書いております。「あなたたちはイエス様を見たからいいでしょうけれども、私たちは見ておりません」この手紙を受け取った人たちは皆そういう人です。そういうことから言えば、この手紙の受取人である当時の教会の人たちと同じです。そういう主イエス・キリストを見たことのない人たちに向かって、ヨハネが主イエス・キリストのことをあなたがたに書き送る。そこでヨハネは自らの言葉をもって、復活の主の福音、命の言をこの人たちに伝えようとしているのです。「あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」私たちが神様の言葉を聞き、神様の御言葉にお答えをするという、そういう交わりを与えられていると同じように、あなたがたもそうなる、そのために私はこの手紙を書いている。ヨハネは教会の人たちに向かって手紙を書いています。そこで重要なことが三節にいわれています。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」主イエス・キリストを見た、神様にさわった、それはただ、不思議な神秘な経験をするということではなくて、その神様との深い交わりを与えられるということです。神様の御言葉を聞き、それにお答えをする、そういう神様との交わりに入れられる、弟子たちはそういう恵みに与りました。 「交わり」というものは、いつも言葉がかけられ、それにお答えをするという、そういう生きた関係というものがないと、その交わりの「命」というものは続かない。人間の体は、これは生まれた時から生き続けていますけれども、いつも呼吸をしています、いつも脈を打っています。信仰者の集まりである教会というものは、ただそこに黙って動かず存在しているというのでなくて、生きています。その生きている生命を保っていくために、いつも呼吸をし、脈打たなければならない、これが信仰者の営み、また教会の営みであります。そのために私はこの手紙を書くというのです。人間というものは一度聞いて、信じて「分かった」と言って、それでそのまま生命がつながっていくかというとそうではない。どうしたら、生き生きとした生命を持つことができるか、これがわたしたちにとっての大切な問題です。  主イエス・キリストは神の御子であって、私たちの救い主である。私たちの罪を贖うために十字架にかかってくださった。主イエス・キリストは復活をなさった。私たちの罪は赦された。死ぬものから生きるものへと変えられる。この命の言を礼拝において、わたしたちが聞いている。実は、この今語られている説教を通して、神様が私たち一人一人に語りかけておられるのです。私たちはアブラハムが神様の言葉を直接聞いたというところを読むと、「いいなあ」と思います。それで「私たちはそんな風には聞けない」と思っているのですけれども、そうではありません。聖書の言葉そのものが、また礼拝の説教を通して、わたしたちは神様の語りかけを聞いています。わたしたちは説教で神様の言葉を聞く、そして生きている主イエス・キリストと出会います。しかしわたしたちは、時にそのみ言葉を聞くことができなくなることがあります。大変な試練の中にある時、悩み苦しみの中にある時、病の中にある時、わたしたちは苦しみの囲いの中にいて一人耳を手で塞ぎ、座り込んでしまう。その時私たちは主の言葉を聞くことができなくなる。しかしその苦しみの囲いの中に主は見える姿で私たちの目の前に現れてくださいます。今日わたしたちの与る聖餐は、まさに見える主の体と血です。そしてわたしたちは聖餐において主の肉と血に触れることができます。これが見える神の言葉としての聖餐です。主イエス・キリストが、今肉眼で主を見ることのできないわたしたちのために備えて下さいました。神様は、この礼拝を私たちに備えてくださいました。今わたしたちはこの礼拝において神様の御前にいます。肉体をとって来られた神の言。目で見、手でさわることのできたあの言が、今この説教を通して私たちに語りかけてくださっています。そして見、触ることの出来る御言葉を聖餐として与えてくださっています。この礼拝で御言葉を聞き、聖餐にあずかり、賛美をし、神様を讃え、わたしたちの身を主に捧げる、これが私たちの応答であり、交わりです。 このことが起こるためにヨハネはこの手紙を書きました。この手紙を通して、主イエス・キリストが、神様が、礼拝を通して私たちに語りかけてくださる。今教会の中でその御方が生きて働き、私たち一人一人に語りかけてくださっている、このことが大変な喜びなのです。そして最後にヨハネは「これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである」と言っております。神様が言葉を語り、神様の言葉を聞く、そういう交わりの中で本当に信仰生活の喜びというものがあります。そのような恵みをわたしたちは与えられています。そうした恵みに与っていることを自覚して、また新しく感謝をもって信仰生活を続けたいと思います。 岩住賢伝道師(横浜指路教会)
인생의 두 가지 길(じんせい(人生)の二つの道)/ マタイ 7:13-27(마7:13-27)/ 김수미 목사/ 한일대역설교/ 2012-12-09
인생의 두 가지 길(じんせい(人生)の二つの道) マタイ 7:13-27(마7:13-27) 오늘 본문에서 예수님께서는 우리의 인생에 두 가지 문과 두 가지 길이 있다고 말씀하십니다. 큰 문과 넓은 길이 있고, 좁은 문과 협착한 길이 있다고 하십니다. 그런데 큰 문과 넓은 길은 찾는 사람들이 많지만 멸망으로 인도하는 문과 길이고, 좁은 문과 협착한 길은 찾는 사람이 적지만 생명으로 인도하는 문과 길이라고 하십니다. 그래서 좁은 문으로 들어가고 협착한 길을 가라고 가르치십니다. 今日の本文でイエス様は私たちの人生に二種類の門と二種類の道があるとおっしゃいます。大きな門と広い道があって、狭い門と狭窄な道があるといいます。ところで大きな門と広い道は探す人々が多いが、滅亡に引き渡す門と道で、狭い門と狭窄な道は探す人が少ないけれど生命に引き渡す門と道だといいます。それで狭い門に入って狭窄な道を行けと教えます。 (요10:9) 내가 문이니 누구든지 나로 말미암아 들어가면 구원을 받고 또는 들어가며 나오며 꼴을 얻으리라. わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。 (요14:6) 내가 곧 길이요 진리요 생명이니 나로 말미암지 않고는 아버지께로 올 자가 없느니라. イエスは彼に言われた。「わたしが 道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり、父のみもとに来ることはありません。 생명으로 인도하는 그 문과 길은 곧 예수 그리스도이십니다. 이렇게 놀라운 축복의 길과 문이 넓고 크면 좋을 텐데, 작고 협착하다고 성경은 말씀하고 있는 것입니다. 生命に引き渡すその門と道はまもなくイエス キリストでいらっしゃいます。 このように驚くべき祝福の道と門が広くて大きければ良いはずなのに、小さくて狭窄だと聖書はおっしゃっているのです。 좁은 문, 좁은 길이 무슨 의미일까요? 한 마디로 말하면 하나님과 교회와 이웃을 위해 희생하고 헌신하며 사는 삶이라는 것입니다. 狭い門、狭い道は何の意味でしょうか? 一言で話せば神様と教会と隣のために犠牲にして献身して生きる人生というものです。 넓은 문은 1) 문이 크고 2) 길이 넓고 3) 인기가 있어 들어가는 사람이 많으나 4) 그러나 멸망으로 끝납니다. 좁은 문은 1) 문이 좁고 협착하고 2) 빈 몸으로 들어가야 하고 3) 혼자 가는 외로운 길이고 4) 인기가 없는 문이나 5)그러나 생명으로 통합니다. 그런데 안타까운 사실은 우리 교인들이 본인의 삶을 돌아보려고 하지 않고 나 자신이 어떻게 살고 있던 그것은 문제가 아니고, 내가 교회에 다니고 있고, 예수 믿고 있기 때문에 나는 당연히 좁은 문으로 들어갔다고 착각을 하고 있는 것입니다. 広い門は、1) 門が大きくて 2) 道が広い 3) 人気があって入る人が多い 4) しかし滅亡で終わります。 狭い門は、1) 門が狭くて狭窄だ 2) 手ぶらに入ってこそ 3) 一人で行く孤独な道 4) 人気がない 門 5) しかし生命に通じます。 ところで残念な事実は、私たちの教会の信者が本人の人生を顧ようとはしないで、私自身がどのように暮らしていたそれは問題でなくて、私が教会に通っていて、イエス信じているので、私は当然狭い門に入ったと錯覚をしているのです。 (마16:24) 누구든지 나를 따라오려거든 자기를 부인하고 자기 십자가를 지고 나를 따를 것이니라. それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 이번에는 눈에 보이는 화려한 길을 한번 볼까요? 今回は目に見える派手な道を一度見ましょうか? (15절) 거짓 선지자들을 삼가라 양의 옷을 입고 너희에게 나아오나 속에는 노략질하는 이리라 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。 왜 이 말씀을 하셨습니까? 거짓 선지자들은 신자들을 넓은 문으로 인도한다는 것입니다. 즉 멸망의 길로 인도한다는 것입니다. なぜこの話をしましたか? 偽り預言者は信者を広い文に引き渡すということです。 すなわち滅亡の道に引き渡すということです。 에덴동산에서 아담과 하와를 유혹했던 열매를 보시기 바랍니다. 작고 초라한 열매가 아닙니다. 보암직도 하고 먹음직도 하고 지혜롭게 할 만큼 탐스럽기도 하였다고 했습니다. エデンの園ででアダムとイヴを誘惑した実をご覧になってください。 小さくてみすぼらしい実ではありません。 食べるのに良く、目に慕わしく、賢くする程見事だったといいました。 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも 好ましかった。 사망의 열매는 생명의 열매에 비해 오히려 더 겉모습이 요란했던 것입니다. 버섯도 독버섯이 더 예쁘고 먹음직스럽지 않습니까? 死亡の実は生命の実に比べてかえってさらに外見が見事でした。 キノコも毒きのこがさらに可愛くて美味しそうではないですか? 롯이 소돔을 선택할 때도 그랬습니다. 겉보기에 그 땅은 문화가 잘 발달된 애굽과 같았고 아름다운 에덴동산 같았습니다. 반면에 아브라함이 선택한 헤브론은 황량한 황무지처럼 보였습니다. 그러나 롯은 망했고 아브라함은 갈수록 더 존귀하게 되었습니다. ロトがソドムを選択する時もそうでした。見かけにはその土地は文化がよく発達したエジプトと同じだったし、美しいエデンの園のようでした。反面アブラハムが選択したヘブロンは荒涼な荒れ地のように見えました。しかしロトは滅びたし、アブラハムはますますさらに尊くなりました。 (21절) 나더러 주여 주여 하는 자마다 천국에 다 들어갈 것이 아니요 다만 하늘에 계신 내 아버지의 뜻대로 행하는 자라야 들어가리라 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられる わたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 좁은 길을 가는 것이 하나님의 뜻을 행하는 것입니다. 우리가 십자가를 지고 주님을 좇는 삶을 사는 것은 입으로만 주여 주여 하는 삶이 아니라는 것입니다. 그럼 십자가를 지고 주님을 좇는 삶은 어떤 삶인가요? 狭い道を行くことが神様の意を行うのです。 私たちが十字架を背負って神様を追う生活を送るのは口だけで主よ、主よとという人生ではないというのです。 それでは十字架を背負って神様を追う人生はどんな人生でしょうか? 1) 자신의 것을 버리는 것입니다. 1) 自身のことを捨てるのです。 나의 아집과 고집, 이기심과 자존심, 욕심과 욕망과 질투와 시기와 미움과 분노를 버리지 않으면 나 외에 다른 것이 보이지도 들리지도 않게 됩니다. 그렇게 되면 세상을 읽을 수 없게 됩니다. 세상도 볼 수 없는데 하나님인들 보일 리가 없는 것은 당연합니다. 결국 자기주장만 하게 되고 친구도 다 떠나게 되고 남는 것은 영원한 죽음밖에 없다는 것을 깨달아야 합니다. 私の我執と意地、利己心と自尊心、欲と欲望と嫉妬と猜忌と憎しみと怒りを捨てなければ私の外に違うものが見ることも聞こえることもできなくなります。そうなれば世の中を読むことができなくなります。世の中も見ることができないのに神様も見えるはずがないのは当然です。結局自己主張だけいうことになって友達もみな離れることになって残るものは永遠の死しかないということを悟らなければなりません。 2) 아버지의 뜻을 아는 것입니다. 2) お父さんの意を分かるのです。 (22절) 그 날에 많은 사람이 나더러 이르되 주여 주여 우리가 주의 이름으로 선지자 노릇 하며 주의 이름으로 귀신을 쫓아내며 주의 이름으로 많은 권능을 행하지 아니하였나이까 하리니 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 (23절) 그 때에 내가 그들에게 밝히 말하되 내가 너희를 도무지 알지 못하니 불법을 행하는 자들아 내게서 떠나가라 하리라. しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者どもよ、わたしから離れて行け。』 예수님은 하늘의 메시지를 여기저기 예언하고 간증하고 돌아다니는 선지자가 되고, 귀신들린 사람들을 고치고 사람들의 병을 낫게 하는 능력을 행하는 사람이 되는 것이 목적이 아니라는 것입니다. 하나님의 뜻이 무엇인지. 하나님의 속성이 무엇인지. 하나님의 원하시는 것이 무엇인지를 깊이 아는 자가 되어야 한다는 것입니다. イエス様は天のメッセージをあちこち予言して証をして歩き回る預言者になり、物の怪に取りつかれた人々を直して人々の病気を良くなるようにする能力を行う人になることが目的でないというです。 神様の意が何か。神様の属性が何か。神様の希望されることが何なのかを深く分かる者にならなければならないということです。 3) 말씀을 그대로 실천하는 것입니다. 3) お言葉をそのまま実践するのです。 교회는 다니지만, 예배는 참석하고 말씀은 듣지만, 그것이 자신의 삶과 연결되지 못합니다. 때문에 정작 중요한 결심이나 선택의 순간에는 주님의 말씀과 가르침이 아니라 자신의 판단과 세상의 기준을 따라갑니다. 중요한 선택과 결정의 순간에도 하나님의 말씀대로 행하지 않습니다. 그리고 결과가 자신이 원하는 대로 되지 않을 때 쉽게 좌절하고 절망합니다. 바로 이것이 예수님의 말씀을 듣지만 행하지 않는 사람들의 모습이며 결과입니다. 教会は通うが、礼拝は参加してお言葉は聞くが、それが自身の人生と連結されません。 だから本来重要な決心や選択の瞬間には神様のお言葉と教えでなく自身の判断と世の中の基準について行きます。 重要な選択と決定の瞬間にも神様のお言葉のとおり行いません。 そして結果が自身が願い次第ならない時簡単に挫折して絶望します。 すぐにこれがイエス様のお言葉を聞くが行わない人々の姿であり結果です。 (마7:26) 나의 이 말을 듣고 행치 아니하는 자는 그 집을 모래 위에 지은 어리석은 사람 같으리니 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた 愚かな人に比べることができます。 순간의 이익과 이기적인 마음으로 소돔과 고모라 성으로 달려가는 롯과 같은 지혜 없는 자가 아닌, 좁은 길, 좁은 문임에도 불구하고 예수님만을 바라보면서 말씀 먹고 기도하고 순종하여 영원한 생명을 소유하시는 저와 여러분 되시기를 예수님의 이름으로 축원합니다. 아멘. 瞬間の利益と利己的な気持ちでソドムとゴモラ城に走って行くロトと同じ知恵のない者でない、狭い道、狭い門にもかかわらずイエス様だけを眺めてお言葉を食べて祈って従順にして永遠の生命を所有する私と皆さんになるようにイエス様の御名で祈願します。アーメン。