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いまし(戒)めは縛りか? 愛か?(징계는 속박인가, 사랑인가?)/ 出エジプト記 20:3-11(출20:3-11)/ 2016-08-18
いまし(戒)めは縛りか? 愛か?(징계는 속박인가, 사랑인가?) 出エジプト記 20:3-11(출20:3-11) ○ 題目: 戒めは縛りか?愛か? ○ 本文: 出エジプト記20章3~11節(新改訳) ○ 導入:アメリカが真実をいった日(The Day America Told The Truth)と言う本では、今現在の米国社会は昔の西部開拓時代より悪くて、荒くて堕落していると指摘しています。道徳的な面でどんな一致した見解もなく、皆各自自分なりの十戒を有していると指摘します。全部恣意的にこれが正しいと考えて生きると言う事です。 例を挙げてみるなら、アメリカ人の中の77%は、“自分がなぜ安息日を守らなければならないのか分からない。”と言う事です。安息日を守る必要を感じないと言う事です。74%は、“自分は金持ちには罪悪感がないので物を盗む事が出来る。相手は金持ちだから。”と。 64%の人々は、“自分は他人に深刻な被害を及ぼさない限りいつでも嘘をつく。”また、56%の人々は、“私は自ら節制する事が可能と考え飲酒運転も出来る。”と。特に、飲酒運転して事故を起こした人々を調査すると100人中100人が、“自分はまさか事故を起こすはずが無い。”と思っていたと言うのです。 また、53%は、“自分は浮気をするだろう。事実自分の妻も、自分の夫も機会があればその様にするはずなのにそれが何か?”と考えていると言います。 これが現在のアメリカの人々が持っている考えと言うものです。勿論、これがアメリカ人の全てではないですが、アメリカの縮図を示している様です。聖書が神様の御言葉だと考えて、神様の霊感で記録された御言葉、そしてその中で神様の御言葉が自分に臨まなければならないと考えながらも、実際具体的な神様の御言葉に関しては、信じないで生きる面が米国社会に広まっていると言う事です。 神様は人間の心に入れた律法である“良心”をくれました。ある人々には、この良心が基準になりますがその良心が停止する時があるのです。 ○ 本題:さて、神様はアメリカと言う国を通して、私達に警告を与えています。確かにここは日本でありアメリカではありません。しかし、この様な事柄はかつて大リバイバルを経験したヨーロッパも、アメリカの姿を予知するかの様に、霊的に荒廃してしまい久しいです。 また、その次に韓国をはじめ、日本にもそれは伝染してくる可能性が高いと言う事です。それは、今迄のキリスト教の歴史を紐解くなら見えてくる事でもあります。神様はその様な意味からも、十戒を与えて下さっているのです。十戒の中で二つの部分に分けた時の神様との関係について見ていきます。 ○ ポイントの第一番目は、「十戒は愛の現われである」と言う事です。先程も言及した通り、十戒は大きく分けて二つに分ける事が出来ます。それは、第一戒から、第四戒です。それは、私達人間と神様との関係の中で、守る様にと定められました。 そして、五戒から十戒は私達人間同士の中で、守る様にと定められました。これを見ても分かる様に、私達人間と神様との関係が何よりも大切なので、最初の四戒はその様に定められました。しかし、五戒から十戒は私達人間関係の中での掟なので、神様は私達人間がお互いに良い関係を築ける様に、一つの指針を示して下さったのです。 つまり、私達の国でも「憲法」がある様に、国が国として成り立っていく為には「秩序」がとても大切になって来ます。それを神様が制定されて十戒の中の五戒から十戒まで定められたのです。もし、神様が私達人間を創造主のおもちゃ及びロボットとして造られたのであれば、五戒から十戒は無くても良いのです。 しかし、神様はご自分が造られた民達が無秩序の中でカオスの様な生き方をする事を望まれませんでした。だからこそ、神様は私達人間にまず神様との関係を大事にされた上で、次に私達人間同士の関係もないがしろにされず、戒めを制定されたのです。 そこには、神様の私達に対する大きな愛の中で、ご配慮が現されているのです。それを抑えた上で、今日の御言葉を再確認していきたいものです。 ○ ポイントの第二番目は、「神様の愛から離れると堕落する」と言う事です。さて、第一戒は3節に記録されています。“あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。”と。 これも、神様の愛から出ています。もし、神様が愛故にこのご命令を語っておられないと仮定するならば、そもそも神様は私達人間を造りはしなかったのです。もし、神様が違う目的で造られたのであれば、私達に「自由意志」と言うものを与えられなかったはずです。しかし、現実に与えて下さいました。 また、第二戒の4~6節を見ると、次の様な御言葉が記録されています。“あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。”と。 偶像は何も他の神々に頭を下げて仕えるだけではありません。目に見える物、目に見えない物を問わずに神様よりも優先し、それに仕えるならそれも偶像にいくらでもなり得るのです。更に第三戒に関しては、本文の7節にそれが記録されています。“あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。”と。 これは、神様が聖書の中で色々な名前の表現の仕方を記録しているのですが、それを通して神様の属性と、神性を現わしておられるのです。それ故に、その御名を私達は純粋に、また真実な祈りと賛美、感謝で、その御名に相応しく栄光をお返しする事が大切であると言う事です。 勿論、私達はその偉大な神様の子ども達として、地上での旅路を歩ませて頂いている存在です。つまり、子どもが父に対して何でも願う様に、神様にお頼りするのは喜ばれる事ですが、そうではない動機からむやみやたらに神様の御名を唱える事は神様を冒涜してしまう事を警告しています。 さて、これらの第一戒から第四戒までの戒めは、神様の愛に留まるなら何の問題もないのですが、一旦、それが薄れてくるととことんまで戒めを守らなくなるのです。いや、守れなくなると言った方が正しいのかもしれません。いずれにしても、もし私達が神様の愛に留まるのであれば、私達を造られ愛して下さっているお方の喜ばれる歩みになるはずです。 そして、逆にそこから遠のいてしまうなら、どこまでも遠ざかってしまいます。ノアの時代のあの洪水も、結局は神様の愛から離れて行った人間の行き着いた姿を現しているのです。創世記6章11~12節を見ると、次の様な御言葉が記録されています。“地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。”と。 正に、この様な様子を呈して行く様になる可能性が高いのです。では、少なくても私達はその様な二の舞にならない様にする為に、次のポイントを見てみましょう。 ○ ポイントの第三番目は、「十戒を通して神様の愛に立ち返る」と言う事です。本文の8~11節までが、第四戒になります。まず本文の8節で、次の様な御言葉が記録されています。“安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。”と。 さて、これは現在の新約時代を生かされている私達にとっては、イエス様のご復活を記念する日曜日に再制定されています。そして、週の初めの日曜日にこの様に集まって共同礼拝を捧げているのです。それ故に、神様は本文の9節で次の様に命じておられます。“六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。”と。 これに関しては議論が分かれる所です。今の現代社会で、これを遵守しようと思うならばかなりの損害を被る人が出て来るでしょう。仕事や家事、または病気など、様々な要因を挙げるとこれを処方化する事が困難になって来ます。 それで、今はそれを議論する時間ではないので、ただ神様が制定された理由についてだけ触れていきたいと思います。本文の10節でも、次の様に更に強調します。“しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も──”と。 そして、その根拠になるのが今日の本文の最後の11節に、次の様に記録されています。“それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。”と。 以前にも何度か触れて来ましたが、神様はなぜ六日も掛けて天地創造をされたのでしょうか。そんなに時間を掛けなくても、お言葉一つで一瞬にしてお造りになる事が出来るお方です。しかし、神様は敢えて六日掛けて天地創造を成し遂げられました。 また、七日目には休まれたのですが、それもわざわざ休まれる必要があったのでしょうか。それは取りも直さず、私達に安息が必要であり、その安息日に神様を賛美し礼拝し、崇める事で私達の霊肉共に安息を味わう事が出来、一週間の始まりが礼拝から始められると言う祝福に預かるのです。 それらの事を通して、私達は再度神様の愛を確認しつつ、また新しい週に力と満たしを受ける事が出来るのです。それを味わう事で、更に主への賛美と感謝、礼拝が豊かになって行く体験をされる皆様と私になる事が出来る様、イエスキリストの御名によって祝福致します。
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ こころ(心)の貧しい人の幸い(마음이 가난한 사람들의 행복)/ マタイ5:3(마5:3)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ こころ(心)の貧しい人の幸い(마음이 가난한 사람들의 행복) マタイ5:3(마5:3) 心の貧しい人の幸い マタイによる福音書 第5章3節   1.幸いの教え(3~12節) 幸いになるための条件 「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者」(文語訳聖書) 「あなたがたは幸いだ」という主イエスの宣言 2.「貧しい」とは 完全に無一物であることを表わす言葉。生活に余裕がなくて苦しい、という貧しさを表わす言葉は別にある。ここで用いられている言葉は、全く何も持っていない、乞食をして、物乞いをして生きるしかない、という意味。 3.心の貧しさ  「心において貧しい」とは  自分の心の中には、寄り頼むべきもの、支えや誇りとなるものは何一つない、ということ。私たちは、心の豊かさを求めている。たとえ生活は貧しくても、心は豊かでありたい、と思っている。ところが、「心の貧しい人々」というのは、そのような心の豊かさを失っている人のこと。 自分の中に、自分を支える拠り所となる心の豊かさを全く持っていない者のこと。そういう者が幸いだ、という宣言。 4.間違った理解 教会の歴史においてしばしば、「心の貧しい」とは「謙遜な、へりくだった」という意味だ、という解釈がなされてきた。しかしそれは間違い。「謙遜」は、「貧しい」という言葉の意味とは違う。 さらに謙遜はそれ自体が一つの美徳になり、自分を支える拠り所、誇り、心の豊かさとなる。自分の謙遜さを誇る、ということも起る。あるいは、心の貧しさということについて、これは世間で言われる悪口としての「あの人は心の貧しい人だ」ということとは違う、と説明しようとすることがある。世間で「あの人は心が貧しい」と言われる時、その意味は、心が狭い、親切でない、愛がない、人を受け入れる度量がない、気持ちに余裕がない、という意味。このみ言葉の「心の貧しい」はこれとは違うと主張する時、私たちは「心の貧しい」ということを、欠点としてではなく、「謙遜」のような一つのよい資質として考えようとしている。 しかし「心の貧しさ」とは、よい資質を持っていることではない。むしろそういう良さがないこと、誇り得るような、拠り所とすることができるような、まさに心の豊かさが何もないことが「心の貧しさ」。だから「心の貧しい者」というのはやはり、心が狭い、愛がない、度量がない、気持ちに余裕がない人だと言える。 5.ルカによる福音書との比較  「貧しい人々は、幸いである」(ルカによる福音書6章20節) ルカの方が主イエスがお語りになった形であり、マタイがそこに「心の」をつけ加えて、この教えを精神的なものへと変質させ、この教えの強烈さをやわらげ、そこそこに富んでいる、豊かな人々のつまずきを取り除こうとした、と説明されることがある。しかしその読み方は浅薄。そこには、「貧しい人々は」と言うよりも、「心の貧しい人々は」と言った方がつまずきがなくなるという前提があるが、それは間違い。「貧しい人々は幸いだ」というのなら、私たちだって大金持ちに比べれば貧しいのだからその分幸いだとも言える。自分は貧しくても心豊かに生きていると誇りをもって言うこともできる。しかし「心の貧しい人々は幸いである」と言われたら、そんなことは言えなくなる。自分はそこそこに貧しい、と安心することもできなくなるし、財布の中はともかく、心だけは豊かだという自負も打ち砕かれてしまう。「心の貧しい人は」の方が、ずっと強烈な、容易には受け入れ難い教え。 6.心の貧しさは幸いではない  「心が貧しい」ことは、幸いであり得ない私たち人間の現実。私たちは、自分は貧しくても心は豊かだ、と思いたいが、現実には、私たちの心は、豊かでも広くもなく、愛に富んでもいない、人を、特に自分と意見や考え、感覚が違う人を受け入れる度量もない、自分の思いに反することを、まずは冷静に受け止め、相手の考えや状況をよく理解して、思い遣りをもって対話していくような心の余裕もない、すぐにイライラとし、かっとなり、八つ当たりし、人を責めることに熱心になっていく、要するに、私たちはまことに心の貧しい者。それは決して幸いなことではない。 そのような心の貧しさのゆえに、様々な問題が、争いが、困難が起って来る。 7.主イエスの宣言  このような私たちの現実の中に、「心の貧しい人々は、幸いである」という主イエスのお言葉が響く。 それは「このように見方を変えれば幸いだと言える」ということではない。主イエスが「幸いである」と言われるのは、心の貧しい者である私たちに、主イエスを通して、神様が与えて下さるものがあるから。 「天の国はその人たちのものである」これが幸いの理由。 8.神様のご支配  天の国=神の国  「国」とは王国、支配という意味  天の国=神のご支配 天の国=私たちの救い 「天の国は近づいた」が主イエスの伝道第一声 その天の国が与えられることが、心の貧しい人の幸い。 どうして心の貧しい人にそれが与えられるのか、それは、心の貧しさという良い資質に対するご褒美としてではない。心の貧しい人ほど、それを本当に必要としているから。自分の心の中に、拠り所となるもの、誇るべきものを何も持たない、豊かさがない、愛がない、度量も狭い、そういう者は、神様の救いに寄り頼むしかない。天の国を求めるしかない。 神様は、そのように天の国を本当に必要としている者たちに、深い憐れみと恵みによってそれを与えて下さる。そこに心の貧しい人の幸いがある。 9.天の国はどのようにしてその人たちのものとなるのか。  神の独り子主イエス・キリストによって。主イエスが、心の貧しい者である私たちのために、人となり、私たちの心の貧しさを、言い替えれば罪を、全てご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さった、このことによって、私たちの罪は赦された。 心の貧しい者である私たちを、主イエス・キリストが背負って下さった。そして「あなたは幸いだ、喜びなさい」と言って下さった。 「あなたはもう、自分の中に豊かさを持とうとしなくてよい。自分の心を豊かにすることに必死にならなくてよい。そういう豊かさが自分の中にないと生きていけないということはもうない。あなたがどんなに貧しい者であっても、誇るべきものを、これだけは人に負けないと自負できるようなものを何も持っていなくても、私はあなたを愛する。あなたを背負い、支えている。だからあなたは幸いなのだ。大いに喜んで、安心して生きていってよいのだ。」 10.私たちに求められていること  この教えが私たちに求めているのは、主イエスからこの幸いをいただいて、喜んで生きること。  心の貧しい人になろうと努力せよ、と求められているのではない。私たちはもともと心の貧しい者。そのことを認めて、その私たちに、主イエスが、十字架の死と復活によって天の国を、神様の恵みのご支配を、救いを与えて下さる、その恵みに寄り頼み、感謝して、喜んで生きる、それが私たちの信仰による生活の基本。 その幸いの中でこそ、私たちの貧しい心は次第に広げられていき、豊かにされていき、愛や思い遣りの心、人を受け入れる度量が与えられていく。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ こころ(心)の貧しい人の幸い(마음이 가난한 사람들의 행복)/ マタイ5:3(마5:3)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ こころ(心)の貧しい人の幸い(마음이 가난한 사람들의 행복) マタイ5:3(마5:3) 心の貧しい人の幸い マタイによる福音書 第5章3節   1.幸いの教え(3~12節) 幸いになるための条件 「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者」(文語訳聖書) 「あなたがたは幸いだ」という主イエスの宣言 2.「貧しい」とは 完全に無一物であることを表わす言葉。生活に余裕がなくて苦しい、という貧しさを表わす言葉は別にある。ここで用いられている言葉は、全く何も持っていない、乞食をして、物乞いをして生きるしかない、という意味。 3.心の貧しさ  「心において貧しい」とは  自分の心の中には、寄り頼むべきもの、支えや誇りとなるものは何一つない、ということ。私たちは、心の豊かさを求めている。たとえ生活は貧しくても、心は豊かでありたい、と思っている。ところが、「心の貧しい人々」というのは、そのような心の豊かさを失っている人のこと。 自分の中に、自分を支える拠り所となる心の豊かさを全く持っていない者のこと。そういう者が幸いだ、という宣言。 4.間違った理解 教会の歴史においてしばしば、「心の貧しい」とは「謙遜な、へりくだった」という意味だ、という解釈がなされてきた。しかしそれは間違い。「謙遜」は、「貧しい」という言葉の意味とは違う。 さらに謙遜はそれ自体が一つの美徳になり、自分を支える拠り所、誇り、心の豊かさとなる。自分の謙遜さを誇る、ということも起る。あるいは、心の貧しさということについて、これは世間で言われる悪口としての「あの人は心の貧しい人だ」ということとは違う、と説明しようとすることがある。世間で「あの人は心が貧しい」と言われる時、その意味は、心が狭い、親切でない、愛がない、人を受け入れる度量がない、気持ちに余裕がない、という意味。このみ言葉の「心の貧しい」はこれとは違うと主張する時、私たちは「心の貧しい」ということを、欠点としてではなく、「謙遜」のような一つのよい資質として考えようとしている。 しかし「心の貧しさ」とは、よい資質を持っていることではない。むしろそういう良さがないこと、誇り得るような、拠り所とすることができるような、まさに心の豊かさが何もないことが「心の貧しさ」。だから「心の貧しい者」というのはやはり、心が狭い、愛がない、度量がない、気持ちに余裕がない人だと言える。 5.ルカによる福音書との比較  「貧しい人々は、幸いである」(ルカによる福音書6章20節) ルカの方が主イエスがお語りになった形であり、マタイがそこに「心の」をつけ加えて、この教えを精神的なものへと変質させ、この教えの強烈さをやわらげ、そこそこに富んでいる、豊かな人々のつまずきを取り除こうとした、と説明されることがある。しかしその読み方は浅薄。そこには、「貧しい人々は」と言うよりも、「心の貧しい人々は」と言った方がつまずきがなくなるという前提があるが、それは間違い。「貧しい人々は幸いだ」というのなら、私たちだって大金持ちに比べれば貧しいのだからその分幸いだとも言える。自分は貧しくても心豊かに生きていると誇りをもって言うこともできる。しかし「心の貧しい人々は幸いである」と言われたら、そんなことは言えなくなる。自分はそこそこに貧しい、と安心することもできなくなるし、財布の中はともかく、心だけは豊かだという自負も打ち砕かれてしまう。「心の貧しい人は」の方が、ずっと強烈な、容易には受け入れ難い教え。 6.心の貧しさは幸いではない  「心が貧しい」ことは、幸いであり得ない私たち人間の現実。私たちは、自分は貧しくても心は豊かだ、と思いたいが、現実には、私たちの心は、豊かでも広くもなく、愛に富んでもいない、人を、特に自分と意見や考え、感覚が違う人を受け入れる度量もない、自分の思いに反することを、まずは冷静に受け止め、相手の考えや状況をよく理解して、思い遣りをもって対話していくような心の余裕もない、すぐにイライラとし、かっとなり、八つ当たりし、人を責めることに熱心になっていく、要するに、私たちはまことに心の貧しい者。それは決して幸いなことではない。 そのような心の貧しさのゆえに、様々な問題が、争いが、困難が起って来る。 7.主イエスの宣言  このような私たちの現実の中に、「心の貧しい人々は、幸いである」という主イエスのお言葉が響く。 それは「このように見方を変えれば幸いだと言える」ということではない。主イエスが「幸いである」と言われるのは、心の貧しい者である私たちに、主イエスを通して、神様が与えて下さるものがあるから。 「天の国はその人たちのものである」これが幸いの理由。 8.神様のご支配  天の国=神の国  「国」とは王国、支配という意味  天の国=神のご支配 天の国=私たちの救い 「天の国は近づいた」が主イエスの伝道第一声 その天の国が与えられることが、心の貧しい人の幸い。 どうして心の貧しい人にそれが与えられるのか、それは、心の貧しさという良い資質に対するご褒美としてではない。心の貧しい人ほど、それを本当に必要としているから。自分の心の中に、拠り所となるもの、誇るべきものを何も持たない、豊かさがない、愛がない、度量も狭い、そういう者は、神様の救いに寄り頼むしかない。天の国を求めるしかない。 神様は、そのように天の国を本当に必要としている者たちに、深い憐れみと恵みによってそれを与えて下さる。そこに心の貧しい人の幸いがある。 9.天の国はどのようにしてその人たちのものとなるのか。  神の独り子主イエス・キリストによって。主イエスが、心の貧しい者である私たちのために、人となり、私たちの心の貧しさを、言い替えれば罪を、全てご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さった、このことによって、私たちの罪は赦された。 心の貧しい者である私たちを、主イエス・キリストが背負って下さった。そして「あなたは幸いだ、喜びなさい」と言って下さった。 「あなたはもう、自分の中に豊かさを持とうとしなくてよい。自分の心を豊かにすることに必死にならなくてよい。そういう豊かさが自分の中にないと生きていけないということはもうない。あなたがどんなに貧しい者であっても、誇るべきものを、これだけは人に負けないと自負できるようなものを何も持っていなくても、私はあなたを愛する。あなたを背負い、支えている。だからあなたは幸いなのだ。大いに喜んで、安心して生きていってよいのだ。」 10.私たちに求められていること  この教えが私たちに求めているのは、主イエスからこの幸いをいただいて、喜んで生きること。  心の貧しい人になろうと努力せよ、と求められているのではない。私たちはもともと心の貧しい者。そのことを認めて、その私たちに、主イエスが、十字架の死と復活によって天の国を、神様の恵みのご支配を、救いを与えて下さる、その恵みに寄り頼み、感謝して、喜んで生きる、それが私たちの信仰による生活の基本。 その幸いの中でこそ、私たちの貧しい心は次第に広げられていき、豊かにされていき、愛や思い遣りの心、人を受け入れる度量が与えられていく。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ こころ(心)の貧しい人の幸い(마음이 가난한 사람들의 행복)/ マタイ5:3(마5:3)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ こころ(心)の貧しい人の幸い(마음이 가난한 사람들의 행복) マタイ5:3(마5:3) 心の貧しい人の幸い マタイによる福音書 第5章3節   1.幸いの教え(3~12節) 幸いになるための条件 「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者」(文語訳聖書) 「あなたがたは幸いだ」という主イエスの宣言 2.「貧しい」とは 完全に無一物であることを表わす言葉。生活に余裕がなくて苦しい、という貧しさを表わす言葉は別にある。ここで用いられている言葉は、全く何も持っていない、乞食をして、物乞いをして生きるしかない、という意味。 3.心の貧しさ  「心において貧しい」とは  自分の心の中には、寄り頼むべきもの、支えや誇りとなるものは何一つない、ということ。私たちは、心の豊かさを求めている。たとえ生活は貧しくても、心は豊かでありたい、と思っている。ところが、「心の貧しい人々」というのは、そのような心の豊かさを失っている人のこと。 自分の中に、自分を支える拠り所となる心の豊かさを全く持っていない者のこと。そういう者が幸いだ、という宣言。 4.間違った理解 教会の歴史においてしばしば、「心の貧しい」とは「謙遜な、へりくだった」という意味だ、という解釈がなされてきた。しかしそれは間違い。「謙遜」は、「貧しい」という言葉の意味とは違う。 さらに謙遜はそれ自体が一つの美徳になり、自分を支える拠り所、誇り、心の豊かさとなる。自分の謙遜さを誇る、ということも起る。あるいは、心の貧しさということについて、これは世間で言われる悪口としての「あの人は心の貧しい人だ」ということとは違う、と説明しようとすることがある。世間で「あの人は心が貧しい」と言われる時、その意味は、心が狭い、親切でない、愛がない、人を受け入れる度量がない、気持ちに余裕がない、という意味。このみ言葉の「心の貧しい」はこれとは違うと主張する時、私たちは「心の貧しい」ということを、欠点としてではなく、「謙遜」のような一つのよい資質として考えようとしている。 しかし「心の貧しさ」とは、よい資質を持っていることではない。むしろそういう良さがないこと、誇り得るような、拠り所とすることができるような、まさに心の豊かさが何もないことが「心の貧しさ」。だから「心の貧しい者」というのはやはり、心が狭い、愛がない、度量がない、気持ちに余裕がない人だと言える。 5.ルカによる福音書との比較  「貧しい人々は、幸いである」(ルカによる福音書6章20節) ルカの方が主イエスがお語りになった形であり、マタイがそこに「心の」をつけ加えて、この教えを精神的なものへと変質させ、この教えの強烈さをやわらげ、そこそこに富んでいる、豊かな人々のつまずきを取り除こうとした、と説明されることがある。しかしその読み方は浅薄。そこには、「貧しい人々は」と言うよりも、「心の貧しい人々は」と言った方がつまずきがなくなるという前提があるが、それは間違い。「貧しい人々は幸いだ」というのなら、私たちだって大金持ちに比べれば貧しいのだからその分幸いだとも言える。自分は貧しくても心豊かに生きていると誇りをもって言うこともできる。しかし「心の貧しい人々は幸いである」と言われたら、そんなことは言えなくなる。自分はそこそこに貧しい、と安心することもできなくなるし、財布の中はともかく、心だけは豊かだという自負も打ち砕かれてしまう。「心の貧しい人は」の方が、ずっと強烈な、容易には受け入れ難い教え。 6.心の貧しさは幸いではない  「心が貧しい」ことは、幸いであり得ない私たち人間の現実。私たちは、自分は貧しくても心は豊かだ、と思いたいが、現実には、私たちの心は、豊かでも広くもなく、愛に富んでもいない、人を、特に自分と意見や考え、感覚が違う人を受け入れる度量もない、自分の思いに反することを、まずは冷静に受け止め、相手の考えや状況をよく理解して、思い遣りをもって対話していくような心の余裕もない、すぐにイライラとし、かっとなり、八つ当たりし、人を責めることに熱心になっていく、要するに、私たちはまことに心の貧しい者。それは決して幸いなことではない。 そのような心の貧しさのゆえに、様々な問題が、争いが、困難が起って来る。 7.主イエスの宣言  このような私たちの現実の中に、「心の貧しい人々は、幸いである」という主イエスのお言葉が響く。 それは「このように見方を変えれば幸いだと言える」ということではない。主イエスが「幸いである」と言われるのは、心の貧しい者である私たちに、主イエスを通して、神様が与えて下さるものがあるから。 「天の国はその人たちのものである」これが幸いの理由。 8.神様のご支配  天の国=神の国  「国」とは王国、支配という意味  天の国=神のご支配 天の国=私たちの救い 「天の国は近づいた」が主イエスの伝道第一声 その天の国が与えられることが、心の貧しい人の幸い。 どうして心の貧しい人にそれが与えられるのか、それは、心の貧しさという良い資質に対するご褒美としてではない。心の貧しい人ほど、それを本当に必要としているから。自分の心の中に、拠り所となるもの、誇るべきものを何も持たない、豊かさがない、愛がない、度量も狭い、そういう者は、神様の救いに寄り頼むしかない。天の国を求めるしかない。 神様は、そのように天の国を本当に必要としている者たちに、深い憐れみと恵みによってそれを与えて下さる。そこに心の貧しい人の幸いがある。 9.天の国はどのようにしてその人たちのものとなるのか。  神の独り子主イエス・キリストによって。主イエスが、心の貧しい者である私たちのために、人となり、私たちの心の貧しさを、言い替えれば罪を、全てご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さった、このことによって、私たちの罪は赦された。 心の貧しい者である私たちを、主イエス・キリストが背負って下さった。そして「あなたは幸いだ、喜びなさい」と言って下さった。 「あなたはもう、自分の中に豊かさを持とうとしなくてよい。自分の心を豊かにすることに必死にならなくてよい。そういう豊かさが自分の中にないと生きていけないということはもうない。あなたがどんなに貧しい者であっても、誇るべきものを、これだけは人に負けないと自負できるようなものを何も持っていなくても、私はあなたを愛する。あなたを背負い、支えている。だからあなたは幸いなのだ。大いに喜んで、安心して生きていってよいのだ。」 10.私たちに求められていること  この教えが私たちに求めているのは、主イエスからこの幸いをいただいて、喜んで生きること。  心の貧しい人になろうと努力せよ、と求められているのではない。私たちはもともと心の貧しい者。そのことを認めて、その私たちに、主イエスが、十字架の死と復活によって天の国を、神様の恵みのご支配を、救いを与えて下さる、その恵みに寄り頼み、感謝して、喜んで生きる、それが私たちの信仰による生活の基本。 その幸いの中でこそ、私たちの貧しい心は次第に広げられていき、豊かにされていき、愛や思い遣りの心、人を受け入れる度量が与えられていく。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 平和を実現する人々の幸い(평화를 실현하는 사람들의 행복)/ マタイ5:9(마5:9)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 平和を実現する人々の幸い(평화를 실현하는 사람들의 행복) マタイ5:9(마5:9) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 平和を実現する人々の幸い マタイによる福音書 第5章9節   1.「平和を実現する」ことの難しさ 「平和を好む」ではなく、「平和を実現する」(口語訳聖書では「平和をつくり出す」)人の幸いを主イエスは語られた。 争いを避けているだけでは平和を実現することはできない。しかし争うことによって平和が実現できるわけでもない。 個人の関係のみでなく、国と国、民族と民族の間の平和はどうしたら実現できるか。 国権の発動たる戦争を放棄し、軍隊を持たないことを謳った平和憲法(9条)によって平和が実現しているのか? 2.神の子主イエスの実現した平和  「その人たちは神の子と呼ばれる」  平和を実現する者は「神の子」  神の子イエス・キリストは、平和を実現する方として来られた。  主イエスはどのようにして平和を実現なさるのか。  エフェソの信徒への手紙第2章14~16節 「敵意という隔ての壁」が平和を妨げている。主イエス・キリストはその十字架の死において敵意を滅ぼし、平和を実現して下さった。人間の敵意は罪から生まれる。罪の根本には神に対する敵意がある。神に対する敵意は、人に対しても向けられていく。神と人とに対する私たちの敵意、罪が平和を妨げている。キリストの十字架は、その私たちの罪、敵意を、主イエスがご自分の身に引き受けて下さったということ。私たちの、神と隣人に対する敵意、罪が、独り子イエス・キリストに全てふりかかり、主イエスを苦しめ、殺した。その苦しみと死を主イエスが引き受けて下さったことによって、神は私たちの敵意を乗り越え、平和を宣言して下さった。これは神の一方的宣言。今も私たちはなお神と隣人に対する敵意、罪に生きている。けれども神は、その敵意はイエス・キリストの十字架によってもう滅ぼされた、我々は和解し、敵意はもう存在しないという「平和の福音を告げ知らせ」て下さっている。 これが、主イエス・キリストによって実現された平和。 私たちは、争い、対立において、その争いを避けるか、あるいは争いに身を投じてその中で自分の主張を通すか、あるいは相手の主張との折り合いをつけるか、という仕方で平和を実現しようとする。しかし主イエスは、相手の敵意をご自分の身に引き受け、それによって死なれた。つまり敗北された。その敗北の中で、敵を憎み怨むのではなく、赦した。そして、もう敵意は滅ぼされた、もうここには敵意はないと宣言された。 キリストの復活は、人々の敵意を引き受けて死なれた主イエスの死を、父なる神が、私たちと神との和解のための死、私たちの罪を赦し、敵意を滅ぼすための死として認め、和解と平和と永遠の命を宣言して下さったということ。神と私たちとの間に、敵意はもう存在しない、存在するのは神が与えて下さる復活の命、死に勝利する恵みなのだということが、キリストの復活において明らかにされている。私たちは、主イエスの復活の記念日、小さなイースターである毎週日曜日の礼拝において、キリストが私たちの平和を実現して下さったという神の宣言を新たに聞きつつ生きる。 「平和を実現する人々は幸いである」という教えは、そのような私たちの歩みにおいてこそ意味と力を持っている。 3.平和を実現する者として  私たちは、主イエス・キリストによって神が与えて下さった平和の中で、その主イエスに従うことによって、争いに満ちたこの世界に平和を実現する者として生きる。その私たちの歩みは、争いを避けるのでも、争いに勝利し、あるいは妥協するのでもなく、敵意を引き受け、赦すことによって敵意を乗り越えるという歩みになる。 一人のアメリカの黒人の少女が、「イエス・キリストを信じたことによってあなたは何を得たか」という問いに対して、一言、「キリストは、私の父を殺した人をゆるすことができるようにしてくださいました」と語った(ウィリアム・バークレー『山上の説教に学ぶ』)。 アメリカ公民権運動におけるマーティン・ルーサー・キング牧師の言葉。「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようになりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。どんなに良心的に考えても、私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない。なぜなら、悪への非協力は、善への協力と同じほどの道徳的義務だからである。だから、私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。つらいことだが、それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。真夜中に、頭巾をかぶったあなたがたの暴漢を私たちの共同体に送り、私たちをその辺の道端に引きずり出し、ぶん殴って半殺しにしたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。国中に情報屋を回し、私たち黒人は文化的にもその他の面でも人種統合にふさわしくない、と人々に思わせたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。つまり、私たちの勝利は二重の勝利なのだ、ということをあなたがたの心と良心に強く訴えたいのである」。(コレッタ・スコット・キング編『キング牧師の言葉』) 「あなたがたをも勝ち取る」とは、友として勝ち取るということ。今黒人を差別し、暴力によって抑えつけようとしている白人たちと黒人との間に、平和が実現するということ。そのことを、「苦しむ能力、苦しみに耐える能力」によって実現していくのだというこの言葉は、まことに「平和を実現する者」の言葉。彼がこのように語ることができたのは、主イエス・キリストが、十字架の死によって、人々の敵意、罪をご自身の身に受け、死んで下さることによって敵意を滅ぼして下さったことを知っているから。そして彼が、いつの日か私たちは必ず勝利する、と確信をもって語ることができたのは、父なる神が主イエスを死者の中から復活させ、死の力に勝利しておられることを知っているから。彼は、平和を実現する神の子イエス・キリストを信じ、その主イエスに従っていくことによって、平和を実現する神の子として生きた。私たちもこの信仰を受け継ぎ、平和を実現して下さる主イエスの後に従っていく。その時私たちも、平和を実現する神の子らのはしくれに加わることができる。平和を実現する者たちの幸いに生きることができる。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 平和を実現する人々の幸い(평화를 실현하는 사람들의 행복)/ マタイ5:9(마5:9)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 平和を実現する人々の幸い(평화를 실현하는 사람들의 행복) マタイ5:9(마5:9) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 平和を実現する人々の幸い マタイによる福音書 第5章9節   1.「平和を実現する」ことの難しさ 「平和を好む」ではなく、「平和を実現する」(口語訳聖書では「平和をつくり出す」)人の幸いを主イエスは語られた。 争いを避けているだけでは平和を実現することはできない。しかし争うことによって平和が実現できるわけでもない。 個人の関係のみでなく、国と国、民族と民族の間の平和はどうしたら実現できるか。 国権の発動たる戦争を放棄し、軍隊を持たないことを謳った平和憲法(9条)によって平和が実現しているのか? 2.神の子主イエスの実現した平和  「その人たちは神の子と呼ばれる」  平和を実現する者は「神の子」  神の子イエス・キリストは、平和を実現する方として来られた。  主イエスはどのようにして平和を実現なさるのか。  エフェソの信徒への手紙第2章14~16節 「敵意という隔ての壁」が平和を妨げている。主イエス・キリストはその十字架の死において敵意を滅ぼし、平和を実現して下さった。人間の敵意は罪から生まれる。罪の根本には神に対する敵意がある。神に対する敵意は、人に対しても向けられていく。神と人とに対する私たちの敵意、罪が平和を妨げている。キリストの十字架は、その私たちの罪、敵意を、主イエスがご自分の身に引き受けて下さったということ。私たちの、神と隣人に対する敵意、罪が、独り子イエス・キリストに全てふりかかり、主イエスを苦しめ、殺した。その苦しみと死を主イエスが引き受けて下さったことによって、神は私たちの敵意を乗り越え、平和を宣言して下さった。これは神の一方的宣言。今も私たちはなお神と隣人に対する敵意、罪に生きている。けれども神は、その敵意はイエス・キリストの十字架によってもう滅ぼされた、我々は和解し、敵意はもう存在しないという「平和の福音を告げ知らせ」て下さっている。 これが、主イエス・キリストによって実現された平和。 私たちは、争い、対立において、その争いを避けるか、あるいは争いに身を投じてその中で自分の主張を通すか、あるいは相手の主張との折り合いをつけるか、という仕方で平和を実現しようとする。しかし主イエスは、相手の敵意をご自分の身に引き受け、それによって死なれた。つまり敗北された。その敗北の中で、敵を憎み怨むのではなく、赦した。そして、もう敵意は滅ぼされた、もうここには敵意はないと宣言された。 キリストの復活は、人々の敵意を引き受けて死なれた主イエスの死を、父なる神が、私たちと神との和解のための死、私たちの罪を赦し、敵意を滅ぼすための死として認め、和解と平和と永遠の命を宣言して下さったということ。神と私たちとの間に、敵意はもう存在しない、存在するのは神が与えて下さる復活の命、死に勝利する恵みなのだということが、キリストの復活において明らかにされている。私たちは、主イエスの復活の記念日、小さなイースターである毎週日曜日の礼拝において、キリストが私たちの平和を実現して下さったという神の宣言を新たに聞きつつ生きる。 「平和を実現する人々は幸いである」という教えは、そのような私たちの歩みにおいてこそ意味と力を持っている。 3.平和を実現する者として  私たちは、主イエス・キリストによって神が与えて下さった平和の中で、その主イエスに従うことによって、争いに満ちたこの世界に平和を実現する者として生きる。その私たちの歩みは、争いを避けるのでも、争いに勝利し、あるいは妥協するのでもなく、敵意を引き受け、赦すことによって敵意を乗り越えるという歩みになる。 一人のアメリカの黒人の少女が、「イエス・キリストを信じたことによってあなたは何を得たか」という問いに対して、一言、「キリストは、私の父を殺した人をゆるすことができるようにしてくださいました」と語った(ウィリアム・バークレー『山上の説教に学ぶ』)。 アメリカ公民権運動におけるマーティン・ルーサー・キング牧師の言葉。「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようになりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。どんなに良心的に考えても、私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない。なぜなら、悪への非協力は、善への協力と同じほどの道徳的義務だからである。だから、私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。つらいことだが、それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。真夜中に、頭巾をかぶったあなたがたの暴漢を私たちの共同体に送り、私たちをその辺の道端に引きずり出し、ぶん殴って半殺しにしたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。国中に情報屋を回し、私たち黒人は文化的にもその他の面でも人種統合にふさわしくない、と人々に思わせたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。つまり、私たちの勝利は二重の勝利なのだ、ということをあなたがたの心と良心に強く訴えたいのである」。(コレッタ・スコット・キング編『キング牧師の言葉』) 「あなたがたをも勝ち取る」とは、友として勝ち取るということ。今黒人を差別し、暴力によって抑えつけようとしている白人たちと黒人との間に、平和が実現するということ。そのことを、「苦しむ能力、苦しみに耐える能力」によって実現していくのだというこの言葉は、まことに「平和を実現する者」の言葉。彼がこのように語ることができたのは、主イエス・キリストが、十字架の死によって、人々の敵意、罪をご自身の身に受け、死んで下さることによって敵意を滅ぼして下さったことを知っているから。そして彼が、いつの日か私たちは必ず勝利する、と確信をもって語ることができたのは、父なる神が主イエスを死者の中から復活させ、死の力に勝利しておられることを知っているから。彼は、平和を実現する神の子イエス・キリストを信じ、その主イエスに従っていくことによって、平和を実現する神の子として生きた。私たちもこの信仰を受け継ぎ、平和を実現して下さる主イエスの後に従っていく。その時私たちも、平和を実現する神の子らのはしくれに加わることができる。平和を実現する者たちの幸いに生きることができる。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 平和を実現する人々の幸い(평화를 실현하는 사람들의 행복)/ マタイ5:9(마5:9)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 平和を実現する人々の幸い(평화를 실현하는 사람들의 행복) マタイ5:9(마5:9) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 平和を実現する人々の幸い マタイによる福音書 第5章9節   1.「平和を実現する」ことの難しさ 「平和を好む」ではなく、「平和を実現する」(口語訳聖書では「平和をつくり出す」)人の幸いを主イエスは語られた。 争いを避けているだけでは平和を実現することはできない。しかし争うことによって平和が実現できるわけでもない。 個人の関係のみでなく、国と国、民族と民族の間の平和はどうしたら実現できるか。 国権の発動たる戦争を放棄し、軍隊を持たないことを謳った平和憲法(9条)によって平和が実現しているのか? 2.神の子主イエスの実現した平和  「その人たちは神の子と呼ばれる」  平和を実現する者は「神の子」  神の子イエス・キリストは、平和を実現する方として来られた。  主イエスはどのようにして平和を実現なさるのか。  エフェソの信徒への手紙第2章14~16節 「敵意という隔ての壁」が平和を妨げている。主イエス・キリストはその十字架の死において敵意を滅ぼし、平和を実現して下さった。人間の敵意は罪から生まれる。罪の根本には神に対する敵意がある。神に対する敵意は、人に対しても向けられていく。神と人とに対する私たちの敵意、罪が平和を妨げている。キリストの十字架は、その私たちの罪、敵意を、主イエスがご自分の身に引き受けて下さったということ。私たちの、神と隣人に対する敵意、罪が、独り子イエス・キリストに全てふりかかり、主イエスを苦しめ、殺した。その苦しみと死を主イエスが引き受けて下さったことによって、神は私たちの敵意を乗り越え、平和を宣言して下さった。これは神の一方的宣言。今も私たちはなお神と隣人に対する敵意、罪に生きている。けれども神は、その敵意はイエス・キリストの十字架によってもう滅ぼされた、我々は和解し、敵意はもう存在しないという「平和の福音を告げ知らせ」て下さっている。 これが、主イエス・キリストによって実現された平和。 私たちは、争い、対立において、その争いを避けるか、あるいは争いに身を投じてその中で自分の主張を通すか、あるいは相手の主張との折り合いをつけるか、という仕方で平和を実現しようとする。しかし主イエスは、相手の敵意をご自分の身に引き受け、それによって死なれた。つまり敗北された。その敗北の中で、敵を憎み怨むのではなく、赦した。そして、もう敵意は滅ぼされた、もうここには敵意はないと宣言された。 キリストの復活は、人々の敵意を引き受けて死なれた主イエスの死を、父なる神が、私たちと神との和解のための死、私たちの罪を赦し、敵意を滅ぼすための死として認め、和解と平和と永遠の命を宣言して下さったということ。神と私たちとの間に、敵意はもう存在しない、存在するのは神が与えて下さる復活の命、死に勝利する恵みなのだということが、キリストの復活において明らかにされている。私たちは、主イエスの復活の記念日、小さなイースターである毎週日曜日の礼拝において、キリストが私たちの平和を実現して下さったという神の宣言を新たに聞きつつ生きる。 「平和を実現する人々は幸いである」という教えは、そのような私たちの歩みにおいてこそ意味と力を持っている。 3.平和を実現する者として  私たちは、主イエス・キリストによって神が与えて下さった平和の中で、その主イエスに従うことによって、争いに満ちたこの世界に平和を実現する者として生きる。その私たちの歩みは、争いを避けるのでも、争いに勝利し、あるいは妥協するのでもなく、敵意を引き受け、赦すことによって敵意を乗り越えるという歩みになる。 一人のアメリカの黒人の少女が、「イエス・キリストを信じたことによってあなたは何を得たか」という問いに対して、一言、「キリストは、私の父を殺した人をゆるすことができるようにしてくださいました」と語った(ウィリアム・バークレー『山上の説教に学ぶ』)。 アメリカ公民権運動におけるマーティン・ルーサー・キング牧師の言葉。「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようになりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。どんなに良心的に考えても、私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない。なぜなら、悪への非協力は、善への協力と同じほどの道徳的義務だからである。だから、私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。つらいことだが、それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。真夜中に、頭巾をかぶったあなたがたの暴漢を私たちの共同体に送り、私たちをその辺の道端に引きずり出し、ぶん殴って半殺しにしたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。国中に情報屋を回し、私たち黒人は文化的にもその他の面でも人種統合にふさわしくない、と人々に思わせたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。つまり、私たちの勝利は二重の勝利なのだ、ということをあなたがたの心と良心に強く訴えたいのである」。(コレッタ・スコット・キング編『キング牧師の言葉』) 「あなたがたをも勝ち取る」とは、友として勝ち取るということ。今黒人を差別し、暴力によって抑えつけようとしている白人たちと黒人との間に、平和が実現するということ。そのことを、「苦しむ能力、苦しみに耐える能力」によって実現していくのだというこの言葉は、まことに「平和を実現する者」の言葉。彼がこのように語ることができたのは、主イエス・キリストが、十字架の死によって、人々の敵意、罪をご自身の身に受け、死んで下さることによって敵意を滅ぼして下さったことを知っているから。そして彼が、いつの日か私たちは必ず勝利する、と確信をもって語ることができたのは、父なる神が主イエスを死者の中から復活させ、死の力に勝利しておられることを知っているから。彼は、平和を実現する神の子イエス・キリストを信じ、その主イエスに従っていくことによって、平和を実現する神の子として生きた。私たちもこの信仰を受け継ぎ、平和を実現して下さる主イエスの後に従っていく。その時私たちも、平和を実現する神の子らのはしくれに加わることができる。平和を実現する者たちの幸いに生きることができる。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 平和を実現する人々の幸い(평화를 실현하는 사람들의 행복)/ マタイ5:9(마5:9)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 平和を実現する人々の幸い(평화를 실현하는 사람들의 행복) マタイ5:9(마5:9) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 平和を実現する人々の幸い マタイによる福音書 第5章9節   1.「平和を実現する」ことの難しさ 「平和を好む」ではなく、「平和を実現する」(口語訳聖書では「平和をつくり出す」)人の幸いを主イエスは語られた。 争いを避けているだけでは平和を実現することはできない。しかし争うことによって平和が実現できるわけでもない。 個人の関係のみでなく、国と国、民族と民族の間の平和はどうしたら実現できるか。 国権の発動たる戦争を放棄し、軍隊を持たないことを謳った平和憲法(9条)によって平和が実現しているのか? 2.神の子主イエスの実現した平和  「その人たちは神の子と呼ばれる」  平和を実現する者は「神の子」  神の子イエス・キリストは、平和を実現する方として来られた。  主イエスはどのようにして平和を実現なさるのか。  エフェソの信徒への手紙第2章14~16節 「敵意という隔ての壁」が平和を妨げている。主イエス・キリストはその十字架の死において敵意を滅ぼし、平和を実現して下さった。人間の敵意は罪から生まれる。罪の根本には神に対する敵意がある。神に対する敵意は、人に対しても向けられていく。神と人とに対する私たちの敵意、罪が平和を妨げている。キリストの十字架は、その私たちの罪、敵意を、主イエスがご自分の身に引き受けて下さったということ。私たちの、神と隣人に対する敵意、罪が、独り子イエス・キリストに全てふりかかり、主イエスを苦しめ、殺した。その苦しみと死を主イエスが引き受けて下さったことによって、神は私たちの敵意を乗り越え、平和を宣言して下さった。これは神の一方的宣言。今も私たちはなお神と隣人に対する敵意、罪に生きている。けれども神は、その敵意はイエス・キリストの十字架によってもう滅ぼされた、我々は和解し、敵意はもう存在しないという「平和の福音を告げ知らせ」て下さっている。 これが、主イエス・キリストによって実現された平和。 私たちは、争い、対立において、その争いを避けるか、あるいは争いに身を投じてその中で自分の主張を通すか、あるいは相手の主張との折り合いをつけるか、という仕方で平和を実現しようとする。しかし主イエスは、相手の敵意をご自分の身に引き受け、それによって死なれた。つまり敗北された。その敗北の中で、敵を憎み怨むのではなく、赦した。そして、もう敵意は滅ぼされた、もうここには敵意はないと宣言された。 キリストの復活は、人々の敵意を引き受けて死なれた主イエスの死を、父なる神が、私たちと神との和解のための死、私たちの罪を赦し、敵意を滅ぼすための死として認め、和解と平和と永遠の命を宣言して下さったということ。神と私たちとの間に、敵意はもう存在しない、存在するのは神が与えて下さる復活の命、死に勝利する恵みなのだということが、キリストの復活において明らかにされている。私たちは、主イエスの復活の記念日、小さなイースターである毎週日曜日の礼拝において、キリストが私たちの平和を実現して下さったという神の宣言を新たに聞きつつ生きる。 「平和を実現する人々は幸いである」という教えは、そのような私たちの歩みにおいてこそ意味と力を持っている。 3.平和を実現する者として  私たちは、主イエス・キリストによって神が与えて下さった平和の中で、その主イエスに従うことによって、争いに満ちたこの世界に平和を実現する者として生きる。その私たちの歩みは、争いを避けるのでも、争いに勝利し、あるいは妥協するのでもなく、敵意を引き受け、赦すことによって敵意を乗り越えるという歩みになる。 一人のアメリカの黒人の少女が、「イエス・キリストを信じたことによってあなたは何を得たか」という問いに対して、一言、「キリストは、私の父を殺した人をゆるすことができるようにしてくださいました」と語った(ウィリアム・バークレー『山上の説教に学ぶ』)。 アメリカ公民権運動におけるマーティン・ルーサー・キング牧師の言葉。「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようになりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。どんなに良心的に考えても、私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない。なぜなら、悪への非協力は、善への協力と同じほどの道徳的義務だからである。だから、私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。つらいことだが、それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。真夜中に、頭巾をかぶったあなたがたの暴漢を私たちの共同体に送り、私たちをその辺の道端に引きずり出し、ぶん殴って半殺しにしたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。国中に情報屋を回し、私たち黒人は文化的にもその他の面でも人種統合にふさわしくない、と人々に思わせたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。つまり、私たちの勝利は二重の勝利なのだ、ということをあなたがたの心と良心に強く訴えたいのである」。(コレッタ・スコット・キング編『キング牧師の言葉』) 「あなたがたをも勝ち取る」とは、友として勝ち取るということ。今黒人を差別し、暴力によって抑えつけようとしている白人たちと黒人との間に、平和が実現するということ。そのことを、「苦しむ能力、苦しみに耐える能力」によって実現していくのだというこの言葉は、まことに「平和を実現する者」の言葉。彼がこのように語ることができたのは、主イエス・キリストが、十字架の死によって、人々の敵意、罪をご自身の身に受け、死んで下さることによって敵意を滅ぼして下さったことを知っているから。そして彼が、いつの日か私たちは必ず勝利する、と確信をもって語ることができたのは、父なる神が主イエスを死者の中から復活させ、死の力に勝利しておられることを知っているから。彼は、平和を実現する神の子イエス・キリストを信じ、その主イエスに従っていくことによって、平和を実現する神の子として生きた。私たちもこの信仰を受け継ぎ、平和を実現して下さる主イエスの後に従っていく。その時私たちも、平和を実現する神の子らのはしくれに加わることができる。平和を実現する者たちの幸いに生きることができる。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 平和を実現する人々の幸い(평화를 실현하는 사람들의 행복)/ マタイ5:9(마5:9)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 平和を実現する人々の幸い(평화를 실현하는 사람들의 행복) マタイ5:9(마5:9) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 平和を実現する人々の幸い マタイによる福音書 第5章9節   1.「平和を実現する」ことの難しさ 「平和を好む」ではなく、「平和を実現する」(口語訳聖書では「平和をつくり出す」)人の幸いを主イエスは語られた。 争いを避けているだけでは平和を実現することはできない。しかし争うことによって平和が実現できるわけでもない。 個人の関係のみでなく、国と国、民族と民族の間の平和はどうしたら実現できるか。 国権の発動たる戦争を放棄し、軍隊を持たないことを謳った平和憲法(9条)によって平和が実現しているのか? 2.神の子主イエスの実現した平和  「その人たちは神の子と呼ばれる」  平和を実現する者は「神の子」  神の子イエス・キリストは、平和を実現する方として来られた。  主イエスはどのようにして平和を実現なさるのか。  エフェソの信徒への手紙第2章14~16節 「敵意という隔ての壁」が平和を妨げている。主イエス・キリストはその十字架の死において敵意を滅ぼし、平和を実現して下さった。人間の敵意は罪から生まれる。罪の根本には神に対する敵意がある。神に対する敵意は、人に対しても向けられていく。神と人とに対する私たちの敵意、罪が平和を妨げている。キリストの十字架は、その私たちの罪、敵意を、主イエスがご自分の身に引き受けて下さったということ。私たちの、神と隣人に対する敵意、罪が、独り子イエス・キリストに全てふりかかり、主イエスを苦しめ、殺した。その苦しみと死を主イエスが引き受けて下さったことによって、神は私たちの敵意を乗り越え、平和を宣言して下さった。これは神の一方的宣言。今も私たちはなお神と隣人に対する敵意、罪に生きている。けれども神は、その敵意はイエス・キリストの十字架によってもう滅ぼされた、我々は和解し、敵意はもう存在しないという「平和の福音を告げ知らせ」て下さっている。 これが、主イエス・キリストによって実現された平和。 私たちは、争い、対立において、その争いを避けるか、あるいは争いに身を投じてその中で自分の主張を通すか、あるいは相手の主張との折り合いをつけるか、という仕方で平和を実現しようとする。しかし主イエスは、相手の敵意をご自分の身に引き受け、それによって死なれた。つまり敗北された。その敗北の中で、敵を憎み怨むのではなく、赦した。そして、もう敵意は滅ぼされた、もうここには敵意はないと宣言された。 キリストの復活は、人々の敵意を引き受けて死なれた主イエスの死を、父なる神が、私たちと神との和解のための死、私たちの罪を赦し、敵意を滅ぼすための死として認め、和解と平和と永遠の命を宣言して下さったということ。神と私たちとの間に、敵意はもう存在しない、存在するのは神が与えて下さる復活の命、死に勝利する恵みなのだということが、キリストの復活において明らかにされている。私たちは、主イエスの復活の記念日、小さなイースターである毎週日曜日の礼拝において、キリストが私たちの平和を実現して下さったという神の宣言を新たに聞きつつ生きる。 「平和を実現する人々は幸いである」という教えは、そのような私たちの歩みにおいてこそ意味と力を持っている。 3.平和を実現する者として  私たちは、主イエス・キリストによって神が与えて下さった平和の中で、その主イエスに従うことによって、争いに満ちたこの世界に平和を実現する者として生きる。その私たちの歩みは、争いを避けるのでも、争いに勝利し、あるいは妥協するのでもなく、敵意を引き受け、赦すことによって敵意を乗り越えるという歩みになる。 一人のアメリカの黒人の少女が、「イエス・キリストを信じたことによってあなたは何を得たか」という問いに対して、一言、「キリストは、私の父を殺した人をゆるすことができるようにしてくださいました」と語った(ウィリアム・バークレー『山上の説教に学ぶ』)。 アメリカ公民権運動におけるマーティン・ルーサー・キング牧師の言葉。「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようになりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。どんなに良心的に考えても、私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない。なぜなら、悪への非協力は、善への協力と同じほどの道徳的義務だからである。だから、私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。つらいことだが、それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。真夜中に、頭巾をかぶったあなたがたの暴漢を私たちの共同体に送り、私たちをその辺の道端に引きずり出し、ぶん殴って半殺しにしたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。国中に情報屋を回し、私たち黒人は文化的にもその他の面でも人種統合にふさわしくない、と人々に思わせたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。つまり、私たちの勝利は二重の勝利なのだ、ということをあなたがたの心と良心に強く訴えたいのである」。(コレッタ・スコット・キング編『キング牧師の言葉』) 「あなたがたをも勝ち取る」とは、友として勝ち取るということ。今黒人を差別し、暴力によって抑えつけようとしている白人たちと黒人との間に、平和が実現するということ。そのことを、「苦しむ能力、苦しみに耐える能力」によって実現していくのだというこの言葉は、まことに「平和を実現する者」の言葉。彼がこのように語ることができたのは、主イエス・キリストが、十字架の死によって、人々の敵意、罪をご自身の身に受け、死んで下さることによって敵意を滅ぼして下さったことを知っているから。そして彼が、いつの日か私たちは必ず勝利する、と確信をもって語ることができたのは、父なる神が主イエスを死者の中から復活させ、死の力に勝利しておられることを知っているから。彼は、平和を実現する神の子イエス・キリストを信じ、その主イエスに従っていくことによって、平和を実現する神の子として生きた。私たちもこの信仰を受け継ぎ、平和を実現して下さる主イエスの後に従っていく。その時私たちも、平和を実現する神の子らのはしくれに加わることができる。平和を実現する者たちの幸いに生きることができる。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 心の清い人々の幸い(마음이 깨끗한 사람들의 행복)/ マタイ5:8(마5:8)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 心の清い人々の幸い(마음이 깨끗한 사람들의 행복) マタイ5:8(마5:8) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 心の清い人々の幸い マタイによる福音書 第5章8節   1.信仰とは、心の清い人になろうと努力すること? 私のような汚れた不純な人間は神様を見ることなどできない。だから少しでも心の清い人になるために教会の礼拝に通い、聖書を読み、祈っている…。 2.「清い」とは  「清いもの」と「汚れたもの」とを区別することが、旧約聖書の重大な関心事の一つ。 それは神様のみ前に出るため。 日本でも、神事に携わる人は斎戒沐浴して身を清める。水で洗うのは象徴的行為。心の中の汚れをおとさないで、ただ体の表面だけを洗い清めても意味はない(マタイ23章25、6節)。 神様のみ前に出ることのできる清さは、心の清さ。(詩編24編) 3.悔い改め  私たちは、自分がとても神様のみ前に出ることのできない、汚れた、罪深い者であることを覚えずにはおれない。それゆえに私たちは、神様を礼拝する最初に、罪を告白し、赦しと憐れみを求めなければならない、つまり悔い改めなければならない。 悔い改めの詩編の代表的なもの=詩編第51編 自分の罪、汚れに本当に気づき、おののく時に、私たちはこのように祈るしかない。身勝手と言われようが、虫が好いと言われようが、神様の憐れみにすがるしかない。それが悔い改め。その悔い改めによってこそ私たちは神様のみ前に出て、礼拝をすることができる。 4.主イエスの求める清さ  ルカによる福音書第18章9節以下(ファリサイ派の人と徴税人の祈り)。 義とされて家に帰った=「心の清い者」と認められたのは徴税人だった。 ファリサイ派の人が見つめているのは自分の姿。彼は目を天に向けてはいても、神ではなく自分自身を見、また隣にいる徴税人と自分を比較している。 徴税人は、ただひたすら神を見つめている。罪人である自分の姿を嘆き悲しみつつ、その自分からは目を離して、ただ神様の憐れみを求めている。そのことによって彼は、義とされ、心の清い者と認められた。 心の清い人とは、自分の姿から目を離し、神様を見つめ、神様の憐れみを求める人。神様から目を離し、自分がどれだけ良い者であるか、人と比べてどうであるか、を見つめるようになる時、私たちの心は、誇り、高ぶり、プライド、嫉み、うらみ、卑屈な思いなどの汚れで満たされていく。 5.その人たちは神を見る  神をこそ見つめている人は、神を見ることができる。 自分の姿を鏡に写して、ここがまだ汚れている、あそこをもっと清くしなければ、と言っているのをやめて、神様をこそ見つめ、神様の憐れみを願い求めるところでこそ、あなたがたは神様を見ることができる、神様と出会うことができる。何の汚れも罪もない、清い純粋な心になることによって神を見るのではない。むしろ罪や汚れの中にいる者が、その中から、神の憐れみと赦しをひたすら求めて祈る所で、神を見ることができる。 神の憐れみと赦しは主イエス・キリストによって、その十字架の死と復活によって与えられる。 自分の罪や汚れの中から、神の憐れみと赦しを祈り求めるとは、主イエス・キリストをこそ見つめ、よりすがっていくこと。主イエス・キリストの十字架の死と復活においてこそ、神はご自身を示して下さる。主イエス・キリストにおいてこそ、私たちの罪の赦しのために十字架かかって死んで下さった神を見ることができる。ただひたすら主イエス・キリストの十字架を見つめていく者こそが心の清い人。神はその人にご自身を示し、その恵みをはっきりと見せて下さる。 6.世の終わりに この世を生きる私たちは、神を肉体の目で見ることはできない。私たちは、信仰の目によって神を見る。 しかしいつまでもそうなのではない。今は隠されている真理(神のご支配、キリストによる救い)が顕わになる時が来る。それはキリストの再臨による世の終わりの時。その時私たちははっきりと神を見ることができる。 コリントの信徒への手紙一第13章12節 「その人たちは神を見る」という幸いの約束は、世の終わりに成就完成する。 「今は一部しか知らない」、しかし「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(口語訳「わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」)。 7.良い循環  世の終わりに、私たちは神を、その恵みを、はっきりと、完全に知る者となる。けれどもその前に、今既に、神は私たちのことを完全に知っておられる。神が私たちの全て(罪も汚れも)を完全に知っておられ、なお愛し、赦していて下さるから、私たちは自分の罪や汚れや弱さから目を離して、神を見つめていくことができる。神をまっすぐに見つめる清い心をもって生きることができる。自分自身を見つめるならば、私たちは決して清い者ではない。外面的にはともかく、心において清い者であることのできる人は一人もいない。しかしそのような私たちを、主イエスが、十字架の苦しみと死、そして復活の恵みによって招いて下さり、神様をまっすぐに見つめ「罪人の私を憐れんでください」と祈る清い心を造り出し、与えて下さる。 神様がこの主イエス・キリストの恵みによって招いていて下さるから、私たちは悔い改めることができる。 神様をまっすぐに見つめ、憐れみと赦しを祈り願うことができる。 そこで私たちは神を見る。私たちのために十字架の苦しみと死とを引き受けて下さった恵みの神を見る。主イエス・キリストによる神の招きによって、自分自身から目を離し、神の憐れみと赦しを求めていく者が、主イエス・キリストにおいて恵みの神を見る。そのことによってますます、神の招きを確信し、ますますまっすぐに神を見つめる者となっていく。そういう良い循環の中に身を置くことこそ、心の清い者の幸いである。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 心の清い人々の幸い(마음이 깨끗한 사람들의 행복)/ マタイ5:8(마5:8)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 心の清い人々の幸い(마음이 깨끗한 사람들의 행복) マタイ5:8(마5:8) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 心の清い人々の幸い マタイによる福音書 第5章8節   1.信仰とは、心の清い人になろうと努力すること? 私のような汚れた不純な人間は神様を見ることなどできない。だから少しでも心の清い人になるために教会の礼拝に通い、聖書を読み、祈っている…。 2.「清い」とは  「清いもの」と「汚れたもの」とを区別することが、旧約聖書の重大な関心事の一つ。 それは神様のみ前に出るため。 日本でも、神事に携わる人は斎戒沐浴して身を清める。水で洗うのは象徴的行為。心の中の汚れをおとさないで、ただ体の表面だけを洗い清めても意味はない(マタイ23章25、6節)。 神様のみ前に出ることのできる清さは、心の清さ。(詩編24編) 3.悔い改め  私たちは、自分がとても神様のみ前に出ることのできない、汚れた、罪深い者であることを覚えずにはおれない。それゆえに私たちは、神様を礼拝する最初に、罪を告白し、赦しと憐れみを求めなければならない、つまり悔い改めなければならない。 悔い改めの詩編の代表的なもの=詩編第51編 自分の罪、汚れに本当に気づき、おののく時に、私たちはこのように祈るしかない。身勝手と言われようが、虫が好いと言われようが、神様の憐れみにすがるしかない。それが悔い改め。その悔い改めによってこそ私たちは神様のみ前に出て、礼拝をすることができる。 4.主イエスの求める清さ  ルカによる福音書第18章9節以下(ファリサイ派の人と徴税人の祈り)。 義とされて家に帰った=「心の清い者」と認められたのは徴税人だった。 ファリサイ派の人が見つめているのは自分の姿。彼は目を天に向けてはいても、神ではなく自分自身を見、また隣にいる徴税人と自分を比較している。 徴税人は、ただひたすら神を見つめている。罪人である自分の姿を嘆き悲しみつつ、その自分からは目を離して、ただ神様の憐れみを求めている。そのことによって彼は、義とされ、心の清い者と認められた。 心の清い人とは、自分の姿から目を離し、神様を見つめ、神様の憐れみを求める人。神様から目を離し、自分がどれだけ良い者であるか、人と比べてどうであるか、を見つめるようになる時、私たちの心は、誇り、高ぶり、プライド、嫉み、うらみ、卑屈な思いなどの汚れで満たされていく。 5.その人たちは神を見る  神をこそ見つめている人は、神を見ることができる。 自分の姿を鏡に写して、ここがまだ汚れている、あそこをもっと清くしなければ、と言っているのをやめて、神様をこそ見つめ、神様の憐れみを願い求めるところでこそ、あなたがたは神様を見ることができる、神様と出会うことができる。何の汚れも罪もない、清い純粋な心になることによって神を見るのではない。むしろ罪や汚れの中にいる者が、その中から、神の憐れみと赦しをひたすら求めて祈る所で、神を見ることができる。 神の憐れみと赦しは主イエス・キリストによって、その十字架の死と復活によって与えられる。 自分の罪や汚れの中から、神の憐れみと赦しを祈り求めるとは、主イエス・キリストをこそ見つめ、よりすがっていくこと。主イエス・キリストの十字架の死と復活においてこそ、神はご自身を示して下さる。主イエス・キリストにおいてこそ、私たちの罪の赦しのために十字架かかって死んで下さった神を見ることができる。ただひたすら主イエス・キリストの十字架を見つめていく者こそが心の清い人。神はその人にご自身を示し、その恵みをはっきりと見せて下さる。 6.世の終わりに この世を生きる私たちは、神を肉体の目で見ることはできない。私たちは、信仰の目によって神を見る。 しかしいつまでもそうなのではない。今は隠されている真理(神のご支配、キリストによる救い)が顕わになる時が来る。それはキリストの再臨による世の終わりの時。その時私たちははっきりと神を見ることができる。 コリントの信徒への手紙一第13章12節 「その人たちは神を見る」という幸いの約束は、世の終わりに成就完成する。 「今は一部しか知らない」、しかし「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(口語訳「わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」)。 7.良い循環  世の終わりに、私たちは神を、その恵みを、はっきりと、完全に知る者となる。けれどもその前に、今既に、神は私たちのことを完全に知っておられる。神が私たちの全て(罪も汚れも)を完全に知っておられ、なお愛し、赦していて下さるから、私たちは自分の罪や汚れや弱さから目を離して、神を見つめていくことができる。神をまっすぐに見つめる清い心をもって生きることができる。自分自身を見つめるならば、私たちは決して清い者ではない。外面的にはともかく、心において清い者であることのできる人は一人もいない。しかしそのような私たちを、主イエスが、十字架の苦しみと死、そして復活の恵みによって招いて下さり、神様をまっすぐに見つめ「罪人の私を憐れんでください」と祈る清い心を造り出し、与えて下さる。 神様がこの主イエス・キリストの恵みによって招いていて下さるから、私たちは悔い改めることができる。 神様をまっすぐに見つめ、憐れみと赦しを祈り願うことができる。 そこで私たちは神を見る。私たちのために十字架の苦しみと死とを引き受けて下さった恵みの神を見る。主イエス・キリストによる神の招きによって、自分自身から目を離し、神の憐れみと赦しを求めていく者が、主イエス・キリストにおいて恵みの神を見る。そのことによってますます、神の招きを確信し、ますますまっすぐに神を見つめる者となっていく。そういう良い循環の中に身を置くことこそ、心の清い者の幸いである。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 心の清い人々の幸い(마음이 깨끗한 사람들의 행복)/ マタイ5:8(마5:8)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 心の清い人々の幸い(마음이 깨끗한 사람들의 행복) マタイ5:8(마5:8) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 心の清い人々の幸い マタイによる福音書 第5章8節   1.信仰とは、心の清い人になろうと努力すること? 私のような汚れた不純な人間は神様を見ることなどできない。だから少しでも心の清い人になるために教会の礼拝に通い、聖書を読み、祈っている…。 2.「清い」とは  「清いもの」と「汚れたもの」とを区別することが、旧約聖書の重大な関心事の一つ。 それは神様のみ前に出るため。 日本でも、神事に携わる人は斎戒沐浴して身を清める。水で洗うのは象徴的行為。心の中の汚れをおとさないで、ただ体の表面だけを洗い清めても意味はない(マタイ23章25、6節)。 神様のみ前に出ることのできる清さは、心の清さ。(詩編24編) 3.悔い改め  私たちは、自分がとても神様のみ前に出ることのできない、汚れた、罪深い者であることを覚えずにはおれない。それゆえに私たちは、神様を礼拝する最初に、罪を告白し、赦しと憐れみを求めなければならない、つまり悔い改めなければならない。 悔い改めの詩編の代表的なもの=詩編第51編 自分の罪、汚れに本当に気づき、おののく時に、私たちはこのように祈るしかない。身勝手と言われようが、虫が好いと言われようが、神様の憐れみにすがるしかない。それが悔い改め。その悔い改めによってこそ私たちは神様のみ前に出て、礼拝をすることができる。 4.主イエスの求める清さ  ルカによる福音書第18章9節以下(ファリサイ派の人と徴税人の祈り)。 義とされて家に帰った=「心の清い者」と認められたのは徴税人だった。 ファリサイ派の人が見つめているのは自分の姿。彼は目を天に向けてはいても、神ではなく自分自身を見、また隣にいる徴税人と自分を比較している。 徴税人は、ただひたすら神を見つめている。罪人である自分の姿を嘆き悲しみつつ、その自分からは目を離して、ただ神様の憐れみを求めている。そのことによって彼は、義とされ、心の清い者と認められた。 心の清い人とは、自分の姿から目を離し、神様を見つめ、神様の憐れみを求める人。神様から目を離し、自分がどれだけ良い者であるか、人と比べてどうであるか、を見つめるようになる時、私たちの心は、誇り、高ぶり、プライド、嫉み、うらみ、卑屈な思いなどの汚れで満たされていく。 5.その人たちは神を見る  神をこそ見つめている人は、神を見ることができる。 自分の姿を鏡に写して、ここがまだ汚れている、あそこをもっと清くしなければ、と言っているのをやめて、神様をこそ見つめ、神様の憐れみを願い求めるところでこそ、あなたがたは神様を見ることができる、神様と出会うことができる。何の汚れも罪もない、清い純粋な心になることによって神を見るのではない。むしろ罪や汚れの中にいる者が、その中から、神の憐れみと赦しをひたすら求めて祈る所で、神を見ることができる。 神の憐れみと赦しは主イエス・キリストによって、その十字架の死と復活によって与えられる。 自分の罪や汚れの中から、神の憐れみと赦しを祈り求めるとは、主イエス・キリストをこそ見つめ、よりすがっていくこと。主イエス・キリストの十字架の死と復活においてこそ、神はご自身を示して下さる。主イエス・キリストにおいてこそ、私たちの罪の赦しのために十字架かかって死んで下さった神を見ることができる。ただひたすら主イエス・キリストの十字架を見つめていく者こそが心の清い人。神はその人にご自身を示し、その恵みをはっきりと見せて下さる。 6.世の終わりに この世を生きる私たちは、神を肉体の目で見ることはできない。私たちは、信仰の目によって神を見る。 しかしいつまでもそうなのではない。今は隠されている真理(神のご支配、キリストによる救い)が顕わになる時が来る。それはキリストの再臨による世の終わりの時。その時私たちははっきりと神を見ることができる。 コリントの信徒への手紙一第13章12節 「その人たちは神を見る」という幸いの約束は、世の終わりに成就完成する。 「今は一部しか知らない」、しかし「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(口語訳「わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」)。 7.良い循環  世の終わりに、私たちは神を、その恵みを、はっきりと、完全に知る者となる。けれどもその前に、今既に、神は私たちのことを完全に知っておられる。神が私たちの全て(罪も汚れも)を完全に知っておられ、なお愛し、赦していて下さるから、私たちは自分の罪や汚れや弱さから目を離して、神を見つめていくことができる。神をまっすぐに見つめる清い心をもって生きることができる。自分自身を見つめるならば、私たちは決して清い者ではない。外面的にはともかく、心において清い者であることのできる人は一人もいない。しかしそのような私たちを、主イエスが、十字架の苦しみと死、そして復活の恵みによって招いて下さり、神様をまっすぐに見つめ「罪人の私を憐れんでください」と祈る清い心を造り出し、与えて下さる。 神様がこの主イエス・キリストの恵みによって招いていて下さるから、私たちは悔い改めることができる。 神様をまっすぐに見つめ、憐れみと赦しを祈り願うことができる。 そこで私たちは神を見る。私たちのために十字架の苦しみと死とを引き受けて下さった恵みの神を見る。主イエス・キリストによる神の招きによって、自分自身から目を離し、神の憐れみと赦しを求めていく者が、主イエス・キリストにおいて恵みの神を見る。そのことによってますます、神の招きを確信し、ますますまっすぐに神を見つめる者となっていく。そういう良い循環の中に身を置くことこそ、心の清い者の幸いである。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 悲しむ人々の幸い(애통하는 사람들의 행복)/ マタイ5:4(마5:4)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 悲しむ人々の幸い(애통하는 사람들의 행복) マタイ5:4(마5:4) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 悲しむ人々の幸い マタイによる福音書 第5章4節   1.悲しんでいる人が何故幸いなのか? この言葉は以下のように読まれることが多かった。  「この悲しみとは、自分の罪を嘆き悲しむこと。つまりこの幸いは、悔い改める者の幸い。  悔い改めこそが、神様から与えられる本当の祝福、幸いへの道である。自分の罪を悲しむことは、他者の罪を悲しむことにもつながる。そこには、人の罪をただ批判し裁くのではなく、それを共に嘆き悲しむ姿勢が生まれる。そのような働きかけによって、罪を犯している者が悔い改めへと導かれていく。 またそれは、この世に起る様々な悲惨な出来事、人間の罪が引き起こす苦しみの現実を悲しむことにもつながる。戦争、難民、飢餓、災害、南北問題… これらの現実を悲しむところから、何とかしていこうとする努力が生じる。人の悲しみへの共感、同情はとても大事。人の悲しみを自分の悲しみとする感受性は、自分自身の悲しみの中で育てられる。悲しみを知っている者こそが、人の悲しみを思いやり、人と心を通わせることができる。 そういう意味で、悲しむ人々は幸いであると言うことができる。」 しかしこのように理解し、説明する時に、この言葉は私たちから遠く離れた、別の世界の事柄になってしまうのではないか。私たちは、自分の罪を嘆き悲しむよりもむしろ、いろいろと言い訳をし、人のせいにしてしまう。人の罪を悲しむよりもそれを喜び、興味の対象とし、優越感にひたっている。 また本当に悲しんでいる時には、自分のことで精一杯で、人のことをかまっている余裕などなくなる。それが私たちの現実ではないだろうか。 「悲しみはこのような意味で幸いなのだ」と説明するどのような言葉も、私たちの現実の具体的な悲しみの前では力を失い、私たちとは遠く離れた別世界の話になってしまう。 2.宣言された幸い  主イエスは、悲しむ人々はこういう意味で幸いなのだ、という説明をしてはいない。主イエスが語っているのは、悲しむ人々は幸いであるという宣言。このような悲しみならば、という限定も、このような見方をすれば、という留保もない。私たちはそれぞれが、様々な悲しみをかかえている。その私たち一人一人に対して、「悲しむ人々は、幸いである」と宣言されている。この宣言によって主イエスは、悲しんでいる私たちの現実のただ中に、幸いを作り出そうとしておられる。 その幸いとは何か。 それは「その人たちは慰められる」ということ。 悲しむ人々には、慰めが与えられる、そこに、悲しむ人々の幸いがあると主イエスは言われる。 3.慰めとは何か  私たちは、悲しみは人それぞれに違っており、だから慰めも人によって違うものとなると考える。 「慰め」を、悲しみの原因の解決、解消と考えるならばその通り。しかし「慰められる」とは、問題の解決や解消ではなく、悲しみの現実の中で、その重荷を背負って生きていく力を与えられること。慰められることによって、悲しみがなくなるのではなく、悲しみを背負って生きていく力を与えられる。 「慰める」という言葉は、「励ます」、「勧める」とも訳される、広がりを持った言葉。 そのもとの意味は「傍らに呼ぶ」。慰めは、傍らに呼んで下さる方がおられるところに与えられる。私たちを傍らに呼んで、慰めと励ましと勧めを与えて下さるのは主イエス・キリスト。 「その人たちは慰められる」とは、主イエスご自身が、悲しむ者たちを傍らに呼び、ねんごろに慰めを与えて下さる、という宣言、約束。 4.どこで慰めを受けるのか 私たちはどこで主イエスの傍らに呼ばれるのか。 日曜日の礼拝の時間に、人生の戦いからしばし離れて、監督が試合の途中にタイムをかけて選手たちを呼ぶように主イエスのもとに呼ばれ、慰め、励まし、勧めを受けるのか。しかし人生にタイムはない。私たちは、自分の悲しみの全てをかかえたままで礼拝に集う。そこで主イエスの傍らに呼ばれることが起る。 それは実は、主イエスの方が、悲しんでいる私たちの傍らへと来て下さり、ねんごろに語りかけて下さるということ。主イエス・キリストがこの世にお生まれになったことにはそういう意味がある。私たちは、主イエスの傍らに呼ばれるのではなくて、主イエスご自身が、私たちの傍らにまで降りて来て下さって、悲しんでいる私たちの傍らに立って下さっている。悲しみにおしつぶされそうになっている身をひきずるようにして、私たちは礼拝に集う。そしてそこで、私たちのために苦しみと死とを引き受けて下さった主イエス・キリストが、傍らにいて、私たちを担い、支えていて下さることを示される。そして慰めを受ける。 5.悲しみを背負って  悲しみの現実はなお変わることなく私たちの重荷としてある。しかし、その下にある私たちが、傍らに共にいて下さる主イエスとの出会いによって、主イエスが悲しむ私たちを担って下さることによって、悲しみに押しつぶされることなく、それを背負って立ち上がり、新しい一歩を踏み出していく力を与えられる。その力は私たちの中にあるものではない。主イエス・キリストの父なる神様から与えられるもの。主イエスによって、父なる神様が、私たちをご自分のものとして傍らに置いて下さる。それによって大きな力が与えられ、それぞれの悲しみを背負いながら、共にいて下さる主イエスに支えられて歩む者とされる。 その歩みの中で、慰めを与えられる。悲しむ人々が幸いであるのは、この慰めのゆえである。 3節の「心の貧しい人々は、幸いである」という教えにおいて、心の貧しいことそれ自体が幸いなことではなかったように、「悲しむ人々は幸いである」という教えも、悲しみそれ自体が幸いであったり、価値があったりするわけではない。悲しみをも無理に幸いと思わければならないのではない。私たちのために十字架の苦しみと死とを受けて下さった主イエス・キリストが傍らにいて下さることによって、悲しむ私たちが慰められる。 その慰めをいただきつつ歩む時に、私たちの悲しみは、意味のあるものとなる。 人の悲しみに共感する感性が与えられていくというのもその一つ。自分の罪を悲しみ、悔い改めることも、この主イエスによる慰めの中でこそできる。そして人の罪を悲しみ、それを責めるのではなく共に嘆き悲しみ、共に悔い改めへと至るということも、主イエスによる慰めを与えられている者にこそできること。 主イエス・キリストによる慰めの中で悲しむ者は幸いなのである。 6.あなたは悲しんでよい  信仰者はいつも喜んでいなければならない、という強迫観念に捉えられる必要はない。 主イエスはここで、悲しむ人々の幸いを語られた。「あなたがたは悲しんでよいのだ、泣いてよいのだ。ただ、忘れないでほしい、その悲しんでいるあなたの傍らに、私がいる、泣いているあなたの隣に私がいて、慰めを与えようとしている、あなたがたの悲しみは、その慰めの中にあるのだ」。 この慰めの中で生きることが信仰。 「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5・16)というのは、悲しみなどないかのように、あってもおし隠して生きよということではなくて、この慰めに支えられて、悲しみを背負って歩みなさいということである。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 悲しむ人々の幸い(애통하는 사람들의 행복)/ マタイ5:4(마5:4)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 悲しむ人々の幸い(애통하는 사람들의 행복) マタイ5:4(마5:4) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 悲しむ人々の幸い マタイによる福音書 第5章4節   1.悲しんでいる人が何故幸いなのか? この言葉は以下のように読まれることが多かった。  「この悲しみとは、自分の罪を嘆き悲しむこと。つまりこの幸いは、悔い改める者の幸い。  悔い改めこそが、神様から与えられる本当の祝福、幸いへの道である。自分の罪を悲しむことは、他者の罪を悲しむことにもつながる。そこには、人の罪をただ批判し裁くのではなく、それを共に嘆き悲しむ姿勢が生まれる。そのような働きかけによって、罪を犯している者が悔い改めへと導かれていく。 またそれは、この世に起る様々な悲惨な出来事、人間の罪が引き起こす苦しみの現実を悲しむことにもつながる。戦争、難民、飢餓、災害、南北問題… これらの現実を悲しむところから、何とかしていこうとする努力が生じる。人の悲しみへの共感、同情はとても大事。人の悲しみを自分の悲しみとする感受性は、自分自身の悲しみの中で育てられる。悲しみを知っている者こそが、人の悲しみを思いやり、人と心を通わせることができる。 そういう意味で、悲しむ人々は幸いであると言うことができる。」 しかしこのように理解し、説明する時に、この言葉は私たちから遠く離れた、別の世界の事柄になってしまうのではないか。私たちは、自分の罪を嘆き悲しむよりもむしろ、いろいろと言い訳をし、人のせいにしてしまう。人の罪を悲しむよりもそれを喜び、興味の対象とし、優越感にひたっている。 また本当に悲しんでいる時には、自分のことで精一杯で、人のことをかまっている余裕などなくなる。それが私たちの現実ではないだろうか。 「悲しみはこのような意味で幸いなのだ」と説明するどのような言葉も、私たちの現実の具体的な悲しみの前では力を失い、私たちとは遠く離れた別世界の話になってしまう。 2.宣言された幸い  主イエスは、悲しむ人々はこういう意味で幸いなのだ、という説明をしてはいない。主イエスが語っているのは、悲しむ人々は幸いであるという宣言。このような悲しみならば、という限定も、このような見方をすれば、という留保もない。私たちはそれぞれが、様々な悲しみをかかえている。その私たち一人一人に対して、「悲しむ人々は、幸いである」と宣言されている。この宣言によって主イエスは、悲しんでいる私たちの現実のただ中に、幸いを作り出そうとしておられる。 その幸いとは何か。 それは「その人たちは慰められる」ということ。 悲しむ人々には、慰めが与えられる、そこに、悲しむ人々の幸いがあると主イエスは言われる。 3.慰めとは何か  私たちは、悲しみは人それぞれに違っており、だから慰めも人によって違うものとなると考える。 「慰め」を、悲しみの原因の解決、解消と考えるならばその通り。しかし「慰められる」とは、問題の解決や解消ではなく、悲しみの現実の中で、その重荷を背負って生きていく力を与えられること。慰められることによって、悲しみがなくなるのではなく、悲しみを背負って生きていく力を与えられる。 「慰める」という言葉は、「励ます」、「勧める」とも訳される、広がりを持った言葉。 そのもとの意味は「傍らに呼ぶ」。慰めは、傍らに呼んで下さる方がおられるところに与えられる。私たちを傍らに呼んで、慰めと励ましと勧めを与えて下さるのは主イエス・キリスト。 「その人たちは慰められる」とは、主イエスご自身が、悲しむ者たちを傍らに呼び、ねんごろに慰めを与えて下さる、という宣言、約束。 4.どこで慰めを受けるのか 私たちはどこで主イエスの傍らに呼ばれるのか。 日曜日の礼拝の時間に、人生の戦いからしばし離れて、監督が試合の途中にタイムをかけて選手たちを呼ぶように主イエスのもとに呼ばれ、慰め、励まし、勧めを受けるのか。しかし人生にタイムはない。私たちは、自分の悲しみの全てをかかえたままで礼拝に集う。そこで主イエスの傍らに呼ばれることが起る。 それは実は、主イエスの方が、悲しんでいる私たちの傍らへと来て下さり、ねんごろに語りかけて下さるということ。主イエス・キリストがこの世にお生まれになったことにはそういう意味がある。私たちは、主イエスの傍らに呼ばれるのではなくて、主イエスご自身が、私たちの傍らにまで降りて来て下さって、悲しんでいる私たちの傍らに立って下さっている。悲しみにおしつぶされそうになっている身をひきずるようにして、私たちは礼拝に集う。そしてそこで、私たちのために苦しみと死とを引き受けて下さった主イエス・キリストが、傍らにいて、私たちを担い、支えていて下さることを示される。そして慰めを受ける。 5.悲しみを背負って  悲しみの現実はなお変わることなく私たちの重荷としてある。しかし、その下にある私たちが、傍らに共にいて下さる主イエスとの出会いによって、主イエスが悲しむ私たちを担って下さることによって、悲しみに押しつぶされることなく、それを背負って立ち上がり、新しい一歩を踏み出していく力を与えられる。その力は私たちの中にあるものではない。主イエス・キリストの父なる神様から与えられるもの。主イエスによって、父なる神様が、私たちをご自分のものとして傍らに置いて下さる。それによって大きな力が与えられ、それぞれの悲しみを背負いながら、共にいて下さる主イエスに支えられて歩む者とされる。 その歩みの中で、慰めを与えられる。悲しむ人々が幸いであるのは、この慰めのゆえである。 3節の「心の貧しい人々は、幸いである」という教えにおいて、心の貧しいことそれ自体が幸いなことではなかったように、「悲しむ人々は幸いである」という教えも、悲しみそれ自体が幸いであったり、価値があったりするわけではない。悲しみをも無理に幸いと思わければならないのではない。私たちのために十字架の苦しみと死とを受けて下さった主イエス・キリストが傍らにいて下さることによって、悲しむ私たちが慰められる。 その慰めをいただきつつ歩む時に、私たちの悲しみは、意味のあるものとなる。 人の悲しみに共感する感性が与えられていくというのもその一つ。自分の罪を悲しみ、悔い改めることも、この主イエスによる慰めの中でこそできる。そして人の罪を悲しみ、それを責めるのではなく共に嘆き悲しみ、共に悔い改めへと至るということも、主イエスによる慰めを与えられている者にこそできること。 主イエス・キリストによる慰めの中で悲しむ者は幸いなのである。 6.あなたは悲しんでよい  信仰者はいつも喜んでいなければならない、という強迫観念に捉えられる必要はない。 主イエスはここで、悲しむ人々の幸いを語られた。「あなたがたは悲しんでよいのだ、泣いてよいのだ。ただ、忘れないでほしい、その悲しんでいるあなたの傍らに、私がいる、泣いているあなたの隣に私がいて、慰めを与えようとしている、あなたがたの悲しみは、その慰めの中にあるのだ」。 この慰めの中で生きることが信仰。 「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5・16)というのは、悲しみなどないかのように、あってもおし隠して生きよということではなくて、この慰めに支えられて、悲しみを背負って歩みなさいということである。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 悲しむ人々の幸い(애통하는 사람들의 행복)/ マタイ5:4(마5:4)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 悲しむ人々の幸い(애통하는 사람들의 행복) マタイ5:4(마5:4) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 悲しむ人々の幸い マタイによる福音書 第5章4節   1.悲しんでいる人が何故幸いなのか? この言葉は以下のように読まれることが多かった。  「この悲しみとは、自分の罪を嘆き悲しむこと。つまりこの幸いは、悔い改める者の幸い。  悔い改めこそが、神様から与えられる本当の祝福、幸いへの道である。自分の罪を悲しむことは、他者の罪を悲しむことにもつながる。そこには、人の罪をただ批判し裁くのではなく、それを共に嘆き悲しむ姿勢が生まれる。そのような働きかけによって、罪を犯している者が悔い改めへと導かれていく。 またそれは、この世に起る様々な悲惨な出来事、人間の罪が引き起こす苦しみの現実を悲しむことにもつながる。戦争、難民、飢餓、災害、南北問題… これらの現実を悲しむところから、何とかしていこうとする努力が生じる。人の悲しみへの共感、同情はとても大事。人の悲しみを自分の悲しみとする感受性は、自分自身の悲しみの中で育てられる。悲しみを知っている者こそが、人の悲しみを思いやり、人と心を通わせることができる。 そういう意味で、悲しむ人々は幸いであると言うことができる。」 しかしこのように理解し、説明する時に、この言葉は私たちから遠く離れた、別の世界の事柄になってしまうのではないか。私たちは、自分の罪を嘆き悲しむよりもむしろ、いろいろと言い訳をし、人のせいにしてしまう。人の罪を悲しむよりもそれを喜び、興味の対象とし、優越感にひたっている。 また本当に悲しんでいる時には、自分のことで精一杯で、人のことをかまっている余裕などなくなる。それが私たちの現実ではないだろうか。 「悲しみはこのような意味で幸いなのだ」と説明するどのような言葉も、私たちの現実の具体的な悲しみの前では力を失い、私たちとは遠く離れた別世界の話になってしまう。 2.宣言された幸い  主イエスは、悲しむ人々はこういう意味で幸いなのだ、という説明をしてはいない。主イエスが語っているのは、悲しむ人々は幸いであるという宣言。このような悲しみならば、という限定も、このような見方をすれば、という留保もない。私たちはそれぞれが、様々な悲しみをかかえている。その私たち一人一人に対して、「悲しむ人々は、幸いである」と宣言されている。この宣言によって主イエスは、悲しんでいる私たちの現実のただ中に、幸いを作り出そうとしておられる。 その幸いとは何か。 それは「その人たちは慰められる」ということ。 悲しむ人々には、慰めが与えられる、そこに、悲しむ人々の幸いがあると主イエスは言われる。 3.慰めとは何か  私たちは、悲しみは人それぞれに違っており、だから慰めも人によって違うものとなると考える。 「慰め」を、悲しみの原因の解決、解消と考えるならばその通り。しかし「慰められる」とは、問題の解決や解消ではなく、悲しみの現実の中で、その重荷を背負って生きていく力を与えられること。慰められることによって、悲しみがなくなるのではなく、悲しみを背負って生きていく力を与えられる。 「慰める」という言葉は、「励ます」、「勧める」とも訳される、広がりを持った言葉。 そのもとの意味は「傍らに呼ぶ」。慰めは、傍らに呼んで下さる方がおられるところに与えられる。私たちを傍らに呼んで、慰めと励ましと勧めを与えて下さるのは主イエス・キリスト。 「その人たちは慰められる」とは、主イエスご自身が、悲しむ者たちを傍らに呼び、ねんごろに慰めを与えて下さる、という宣言、約束。 4.どこで慰めを受けるのか 私たちはどこで主イエスの傍らに呼ばれるのか。 日曜日の礼拝の時間に、人生の戦いからしばし離れて、監督が試合の途中にタイムをかけて選手たちを呼ぶように主イエスのもとに呼ばれ、慰め、励まし、勧めを受けるのか。しかし人生にタイムはない。私たちは、自分の悲しみの全てをかかえたままで礼拝に集う。そこで主イエスの傍らに呼ばれることが起る。 それは実は、主イエスの方が、悲しんでいる私たちの傍らへと来て下さり、ねんごろに語りかけて下さるということ。主イエス・キリストがこの世にお生まれになったことにはそういう意味がある。私たちは、主イエスの傍らに呼ばれるのではなくて、主イエスご自身が、私たちの傍らにまで降りて来て下さって、悲しんでいる私たちの傍らに立って下さっている。悲しみにおしつぶされそうになっている身をひきずるようにして、私たちは礼拝に集う。そしてそこで、私たちのために苦しみと死とを引き受けて下さった主イエス・キリストが、傍らにいて、私たちを担い、支えていて下さることを示される。そして慰めを受ける。 5.悲しみを背負って  悲しみの現実はなお変わることなく私たちの重荷としてある。しかし、その下にある私たちが、傍らに共にいて下さる主イエスとの出会いによって、主イエスが悲しむ私たちを担って下さることによって、悲しみに押しつぶされることなく、それを背負って立ち上がり、新しい一歩を踏み出していく力を与えられる。その力は私たちの中にあるものではない。主イエス・キリストの父なる神様から与えられるもの。主イエスによって、父なる神様が、私たちをご自分のものとして傍らに置いて下さる。それによって大きな力が与えられ、それぞれの悲しみを背負いながら、共にいて下さる主イエスに支えられて歩む者とされる。 その歩みの中で、慰めを与えられる。悲しむ人々が幸いであるのは、この慰めのゆえである。 3節の「心の貧しい人々は、幸いである」という教えにおいて、心の貧しいことそれ自体が幸いなことではなかったように、「悲しむ人々は幸いである」という教えも、悲しみそれ自体が幸いであったり、価値があったりするわけではない。悲しみをも無理に幸いと思わければならないのではない。私たちのために十字架の苦しみと死とを受けて下さった主イエス・キリストが傍らにいて下さることによって、悲しむ私たちが慰められる。 その慰めをいただきつつ歩む時に、私たちの悲しみは、意味のあるものとなる。 人の悲しみに共感する感性が与えられていくというのもその一つ。自分の罪を悲しみ、悔い改めることも、この主イエスによる慰めの中でこそできる。そして人の罪を悲しみ、それを責めるのではなく共に嘆き悲しみ、共に悔い改めへと至るということも、主イエスによる慰めを与えられている者にこそできること。 主イエス・キリストによる慰めの中で悲しむ者は幸いなのである。 6.あなたは悲しんでよい  信仰者はいつも喜んでいなければならない、という強迫観念に捉えられる必要はない。 主イエスはここで、悲しむ人々の幸いを語られた。「あなたがたは悲しんでよいのだ、泣いてよいのだ。ただ、忘れないでほしい、その悲しんでいるあなたの傍らに、私がいる、泣いているあなたの隣に私がいて、慰めを与えようとしている、あなたがたの悲しみは、その慰めの中にあるのだ」。 この慰めの中で生きることが信仰。 「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5・16)というのは、悲しみなどないかのように、あってもおし隠して生きよということではなくて、この慰めに支えられて、悲しみを背負って歩みなさいということである。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 憐れみ深い人々の幸い(긍휼히 여기는 사람들의 행복)/ マタイ5:7(마5:7)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 憐れみ深い人々の幸い(긍휼히 여기는 사람들의 행복) マタイ5:7(마5:7) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 憐れみ深い人々の幸い マタイによる福音書 第5章7節   1.「情けは人のためならず」? 日本の諺に「情けは人のためならず」というのがある。 私たちは主イエスのこの教えをそれと同じと理解し、「この教えは既に知っている」と思っているのではないか? この諺における「情け」と、主イエスの言われる「憐れみ」は同じなのか? 「憐れみ深い」についての聖書の教え マタイ福音書25章31節以下 「憐れみ深い人々」とは、思うだけでなく具体的な行動ができる人。自分の周囲にいる、自分が助けるべき「最も小さい人の一人」に気づく感性を持っている人。隣人を見出し、隣人となることができる人。 ルカによる福音書第10章25節以下(「善いサマリア人」の話) 隣人になるとは、敵意を乗り越えること。「最も小さい者」とはしばしば自分の敵のこと。 「憐れみ深い者」=敵をも愛する人(5章44節)。 これらの教えから、主イエスが教えている「憐れみ」は、「情けは人のためならず」の「情け」をはるかに越えたものであることがわかる。私たちは、自分は「憐れみ深さ」からはるかに遠いと言わざるを得ない。そのことを知ることによってこそ、私たちはこの教えの前に本当に立つことができる。「情けは人のためならず」と同じに受け止め、「それは知っている」と思っている間は、この教えを本当に聞くことができない。 「幸いの教え」はどれも、私たちがもともと知っていることではない。 主イエスはこれらの教えによって、私たちの生活の中に、私たちの知らない新しい、本当の幸いを造り出そうとしておられる。 2.神の憐れみ  この教えが与えようとしている「幸い」は、「その人たちは憐れみを受ける」という幸い。 それは人からの憐れみでなく、神の憐れみ。 神の憐れみとはどのようなものか? 詩編第89編 「主の慈しみ」(2節)=「憐れみ」 「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び、わたしの僕ダビデに誓った。あなたの子孫をとこしえに立て、あなたの王座を代々に備える、と」(4、5節)。 主の慈しみとは、お選びになった者(ここではダビデとその子孫)と契約を結び、それをどこまでも守って下さること。 31~33節…ダビデの子孫である王たちの罪とそれに対する神の罰 「それでもなお、わたしは慈しみを彼から取り去らず、わたしの真実をむなしくすることはない。契約を破ることをせず、わたしの唇から出た言葉を変えることはない」 (34、5節) 主なる神が、人間との間に結んだ契約をどこまでも守り、人間の裏切りに対して怒りはするし罰を与えるが、契約を破棄することなく、どこまでもそれに忠実であって下さる。これが神の慈しみ=憐れみ。この神の憐れみは、主イエス・キリストによって私たちに与えられている。キリストの十字架の死によって、神は私たちと新しい契約を結んで下さった。その契約において、私たちは罪を赦され、神の恵みの下に生きる新しい命を与えられている。私たちは主イエスが求めておられる憐れみからほど遠い者だが、既にこのような憐れみを受けている。 3.憐れみを受けた者として  7節の教えは、「憐れみ深い者となりなさい、そうすればあなたがたは神の憐れみを受けることができ、幸いになることができる」ということではない。私たちはキリストによって神の憐れみを既に受けているがゆえに、憐れみ深い者となることができるし、そのために努力することができる、ということ。 18章21節以下(「仲間を赦さない家来のたとえ」) 「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(33節)。 私たちは自分では決して償うことができない罪(負債)を、キリストの十字架の死によって赦して(帳消しにして)いただいた。借金を帳消しにする時に、貸していた者は損害を引き受ける。神が私たちの罪を赦すために引き受けて下さった損害が、独り子主イエス・キリストの十字架の死。そこに神の深い憐れみがある。その憐れみを受けた私たちが、自分に百デナリオンの負債(罪)のある人を赦すこと、それが、私たちが「憐れみ深い者」となること。百デナリオンは決して小さい額ではない。人を赦し、憐れみ深い者であろうとすることは、苦しみと損害を伴う。「情けは人のためならず(=それは結局は自分のためだ)」などと思っていたらそれはできない。どう廻り廻っても自分のためになりそうもない、損失を受けることにしかならない、という場面において、私たちの憐れみ深さが問われている。そこでなお憐れみ深い者として生きることは、主イエスによって神の大きな憐れみをいただいていることを知り、その憐れみに応えて生きようとする所でこそ可能となる。 逆に私たちが人に対して憐れみ深くなろうとしないならば、それは神が御子の十字架の死によって与えて下さった憐れみを無にすることになる。 4.憐れみ深い人々の幸い  憐れみ深い人が憐れみを受け、幸いになるのではない。神の憐れみを受けている幸いな者が、憐れみ深くあろうとすることができる。それが信仰における順序。それならなぜ主イエスは「憐れみを受けている人々は幸いである、その人たちは憐れみ深くあるであろう」と言わないのか。 マタイ18章においても、あのたとえ話の前に、「あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」というみ言葉がある。 七の七十倍までも(徹底的に)兄弟の罪を赦す、憐れみ深い者であれ、とまず命じられている。あなたがたは憐れみを受けている者なのだから、という根拠はその後で示される。それと同じように、私たちは、「憐れみ深い人々は幸いである」という主のお言葉に従って、人の自分に対する百デナリオンの罪を赦そうと努力していく。そのことの中でこそ、主イエス・キリストによる神の憐れみ(一万タラントンの赦し)を本当に知ることができる。憐れみにほど遠い者であることをいつも思い知らされていく私たちだが、主イエスにおける神の憐れみを知らされているがゆえに、なお憐れみ深い者であろうとすることができる。そこに、私たちの幸いがある。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 憐れみ深い人々の幸い(긍휼히 여기는 사람들의 행복)/ マタイ5:7(마5:7)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 憐れみ深い人々の幸い(긍휼히 여기는 사람들의 행복) マタイ5:7(마5:7) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 憐れみ深い人々の幸い マタイによる福音書 第5章7節   1.「情けは人のためならず」? 日本の諺に「情けは人のためならず」というのがある。 私たちは主イエスのこの教えをそれと同じと理解し、「この教えは既に知っている」と思っているのではないか? この諺における「情け」と、主イエスの言われる「憐れみ」は同じなのか? 「憐れみ深い」についての聖書の教え マタイ福音書25章31節以下 「憐れみ深い人々」とは、思うだけでなく具体的な行動ができる人。自分の周囲にいる、自分が助けるべき「最も小さい人の一人」に気づく感性を持っている人。隣人を見出し、隣人となることができる人。 ルカによる福音書第10章25節以下(「善いサマリア人」の話) 隣人になるとは、敵意を乗り越えること。「最も小さい者」とはしばしば自分の敵のこと。 「憐れみ深い者」=敵をも愛する人(5章44節)。 これらの教えから、主イエスが教えている「憐れみ」は、「情けは人のためならず」の「情け」をはるかに越えたものであることがわかる。私たちは、自分は「憐れみ深さ」からはるかに遠いと言わざるを得ない。そのことを知ることによってこそ、私たちはこの教えの前に本当に立つことができる。「情けは人のためならず」と同じに受け止め、「それは知っている」と思っている間は、この教えを本当に聞くことができない。 「幸いの教え」はどれも、私たちがもともと知っていることではない。 主イエスはこれらの教えによって、私たちの生活の中に、私たちの知らない新しい、本当の幸いを造り出そうとしておられる。 2.神の憐れみ  この教えが与えようとしている「幸い」は、「その人たちは憐れみを受ける」という幸い。 それは人からの憐れみでなく、神の憐れみ。 神の憐れみとはどのようなものか? 詩編第89編 「主の慈しみ」(2節)=「憐れみ」 「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び、わたしの僕ダビデに誓った。あなたの子孫をとこしえに立て、あなたの王座を代々に備える、と」(4、5節)。 主の慈しみとは、お選びになった者(ここではダビデとその子孫)と契約を結び、それをどこまでも守って下さること。 31~33節…ダビデの子孫である王たちの罪とそれに対する神の罰 「それでもなお、わたしは慈しみを彼から取り去らず、わたしの真実をむなしくすることはない。契約を破ることをせず、わたしの唇から出た言葉を変えることはない」 (34、5節) 主なる神が、人間との間に結んだ契約をどこまでも守り、人間の裏切りに対して怒りはするし罰を与えるが、契約を破棄することなく、どこまでもそれに忠実であって下さる。これが神の慈しみ=憐れみ。この神の憐れみは、主イエス・キリストによって私たちに与えられている。キリストの十字架の死によって、神は私たちと新しい契約を結んで下さった。その契約において、私たちは罪を赦され、神の恵みの下に生きる新しい命を与えられている。私たちは主イエスが求めておられる憐れみからほど遠い者だが、既にこのような憐れみを受けている。 3.憐れみを受けた者として  7節の教えは、「憐れみ深い者となりなさい、そうすればあなたがたは神の憐れみを受けることができ、幸いになることができる」ということではない。私たちはキリストによって神の憐れみを既に受けているがゆえに、憐れみ深い者となることができるし、そのために努力することができる、ということ。 18章21節以下(「仲間を赦さない家来のたとえ」) 「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(33節)。 私たちは自分では決して償うことができない罪(負債)を、キリストの十字架の死によって赦して(帳消しにして)いただいた。借金を帳消しにする時に、貸していた者は損害を引き受ける。神が私たちの罪を赦すために引き受けて下さった損害が、独り子主イエス・キリストの十字架の死。そこに神の深い憐れみがある。その憐れみを受けた私たちが、自分に百デナリオンの負債(罪)のある人を赦すこと、それが、私たちが「憐れみ深い者」となること。百デナリオンは決して小さい額ではない。人を赦し、憐れみ深い者であろうとすることは、苦しみと損害を伴う。「情けは人のためならず(=それは結局は自分のためだ)」などと思っていたらそれはできない。どう廻り廻っても自分のためになりそうもない、損失を受けることにしかならない、という場面において、私たちの憐れみ深さが問われている。そこでなお憐れみ深い者として生きることは、主イエスによって神の大きな憐れみをいただいていることを知り、その憐れみに応えて生きようとする所でこそ可能となる。 逆に私たちが人に対して憐れみ深くなろうとしないならば、それは神が御子の十字架の死によって与えて下さった憐れみを無にすることになる。 4.憐れみ深い人々の幸い  憐れみ深い人が憐れみを受け、幸いになるのではない。神の憐れみを受けている幸いな者が、憐れみ深くあろうとすることができる。それが信仰における順序。それならなぜ主イエスは「憐れみを受けている人々は幸いである、その人たちは憐れみ深くあるであろう」と言わないのか。 マタイ18章においても、あのたとえ話の前に、「あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」というみ言葉がある。 七の七十倍までも(徹底的に)兄弟の罪を赦す、憐れみ深い者であれ、とまず命じられている。あなたがたは憐れみを受けている者なのだから、という根拠はその後で示される。それと同じように、私たちは、「憐れみ深い人々は幸いである」という主のお言葉に従って、人の自分に対する百デナリオンの罪を赦そうと努力していく。そのことの中でこそ、主イエス・キリストによる神の憐れみ(一万タラントンの赦し)を本当に知ることができる。憐れみにほど遠い者であることをいつも思い知らされていく私たちだが、主イエスにおける神の憐れみを知らされているがゆえに、なお憐れみ深い者であろうとすることができる。そこに、私たちの幸いがある。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 憐れみ深い人々の幸い(긍휼히 여기는 사람들의 행복)/ マタイ5:7(마5:7)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 憐れみ深い人々の幸い(긍휼히 여기는 사람들의 행복) マタイ5:7(마5:7) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 憐れみ深い人々の幸い マタイによる福音書 第5章7節   1.「情けは人のためならず」? 日本の諺に「情けは人のためならず」というのがある。 私たちは主イエスのこの教えをそれと同じと理解し、「この教えは既に知っている」と思っているのではないか? この諺における「情け」と、主イエスの言われる「憐れみ」は同じなのか? 「憐れみ深い」についての聖書の教え マタイ福音書25章31節以下 「憐れみ深い人々」とは、思うだけでなく具体的な行動ができる人。自分の周囲にいる、自分が助けるべき「最も小さい人の一人」に気づく感性を持っている人。隣人を見出し、隣人となることができる人。 ルカによる福音書第10章25節以下(「善いサマリア人」の話) 隣人になるとは、敵意を乗り越えること。「最も小さい者」とはしばしば自分の敵のこと。 「憐れみ深い者」=敵をも愛する人(5章44節)。 これらの教えから、主イエスが教えている「憐れみ」は、「情けは人のためならず」の「情け」をはるかに越えたものであることがわかる。私たちは、自分は「憐れみ深さ」からはるかに遠いと言わざるを得ない。そのことを知ることによってこそ、私たちはこの教えの前に本当に立つことができる。「情けは人のためならず」と同じに受け止め、「それは知っている」と思っている間は、この教えを本当に聞くことができない。 「幸いの教え」はどれも、私たちがもともと知っていることではない。 主イエスはこれらの教えによって、私たちの生活の中に、私たちの知らない新しい、本当の幸いを造り出そうとしておられる。 2.神の憐れみ  この教えが与えようとしている「幸い」は、「その人たちは憐れみを受ける」という幸い。 それは人からの憐れみでなく、神の憐れみ。 神の憐れみとはどのようなものか? 詩編第89編 「主の慈しみ」(2節)=「憐れみ」 「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び、わたしの僕ダビデに誓った。あなたの子孫をとこしえに立て、あなたの王座を代々に備える、と」(4、5節)。 主の慈しみとは、お選びになった者(ここではダビデとその子孫)と契約を結び、それをどこまでも守って下さること。 31~33節…ダビデの子孫である王たちの罪とそれに対する神の罰 「それでもなお、わたしは慈しみを彼から取り去らず、わたしの真実をむなしくすることはない。契約を破ることをせず、わたしの唇から出た言葉を変えることはない」 (34、5節) 主なる神が、人間との間に結んだ契約をどこまでも守り、人間の裏切りに対して怒りはするし罰を与えるが、契約を破棄することなく、どこまでもそれに忠実であって下さる。これが神の慈しみ=憐れみ。この神の憐れみは、主イエス・キリストによって私たちに与えられている。キリストの十字架の死によって、神は私たちと新しい契約を結んで下さった。その契約において、私たちは罪を赦され、神の恵みの下に生きる新しい命を与えられている。私たちは主イエスが求めておられる憐れみからほど遠い者だが、既にこのような憐れみを受けている。 3.憐れみを受けた者として  7節の教えは、「憐れみ深い者となりなさい、そうすればあなたがたは神の憐れみを受けることができ、幸いになることができる」ということではない。私たちはキリストによって神の憐れみを既に受けているがゆえに、憐れみ深い者となることができるし、そのために努力することができる、ということ。 18章21節以下(「仲間を赦さない家来のたとえ」) 「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(33節)。 私たちは自分では決して償うことができない罪(負債)を、キリストの十字架の死によって赦して(帳消しにして)いただいた。借金を帳消しにする時に、貸していた者は損害を引き受ける。神が私たちの罪を赦すために引き受けて下さった損害が、独り子主イエス・キリストの十字架の死。そこに神の深い憐れみがある。その憐れみを受けた私たちが、自分に百デナリオンの負債(罪)のある人を赦すこと、それが、私たちが「憐れみ深い者」となること。百デナリオンは決して小さい額ではない。人を赦し、憐れみ深い者であろうとすることは、苦しみと損害を伴う。「情けは人のためならず(=それは結局は自分のためだ)」などと思っていたらそれはできない。どう廻り廻っても自分のためになりそうもない、損失を受けることにしかならない、という場面において、私たちの憐れみ深さが問われている。そこでなお憐れみ深い者として生きることは、主イエスによって神の大きな憐れみをいただいていることを知り、その憐れみに応えて生きようとする所でこそ可能となる。 逆に私たちが人に対して憐れみ深くなろうとしないならば、それは神が御子の十字架の死によって与えて下さった憐れみを無にすることになる。 4.憐れみ深い人々の幸い  憐れみ深い人が憐れみを受け、幸いになるのではない。神の憐れみを受けている幸いな者が、憐れみ深くあろうとすることができる。それが信仰における順序。それならなぜ主イエスは「憐れみを受けている人々は幸いである、その人たちは憐れみ深くあるであろう」と言わないのか。 マタイ18章においても、あのたとえ話の前に、「あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」というみ言葉がある。 七の七十倍までも(徹底的に)兄弟の罪を赦す、憐れみ深い者であれ、とまず命じられている。あなたがたは憐れみを受けている者なのだから、という根拠はその後で示される。それと同じように、私たちは、「憐れみ深い人々は幸いである」という主のお言葉に従って、人の自分に対する百デナリオンの罪を赦そうと努力していく。そのことの中でこそ、主イエス・キリストによる神の憐れみ(一万タラントンの赦し)を本当に知ることができる。憐れみにほど遠い者であることをいつも思い知らされていく私たちだが、主イエスにおける神の憐れみを知らされているがゆえに、なお憐れみ深い者であろうとすることができる。そこに、私たちの幸いがある。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 柔和な人々の幸い(온유한 사람들의 행복)/ マタイ5:5(마5:5)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 柔和な人々の幸い(온유한 사람들의 행복) マタイ5:5(마5:5) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 柔和な人々の幸い マタイによる福音書 第5章5節   1.柔和とは  「穏やかな、やさしい」、しかし「軟弱」ではない、本当の強さに基づくもの。  「柔和」と訳されている聖書の言葉は、「中庸な」という意味   怒るべき時に怒り、怒るべきでない時には怒らない、強い自己制御能力  「訓練を受けている人びとの祝福」(ウィリアム・バークレー『山上の説教に学ぶ』)  このような柔和さを持っている人は確かに幸いだと私たちは思う。 2.幸いだから柔和になれる?   しかし私たちは次のようにも思うのでは?  「柔和になれるのは幸いな人だけだ。私はとてもそんなにおっとりと構えていられるような状態にない。私は柔和に生きることができるほど幸いではないし、そんな余裕はない」 3.詩編37編  この教えは旧約聖書、詩編第37編11節からの引用  「貧しい人は地を継ぎ」(「しかし柔和な者は国を継ぎ」、口語訳聖書)  「柔和な」という新約の言葉は、この個所の「七十人訳」(ギリシャ語訳)による。  「柔和」という言葉の背後には、「貧しい」という言葉がある。  詩編37編において「貧しい人」とはどのような人か。  「悪事を謀る者は断たれ、主に望みをおく人は、地を継ぐ」(9節)  「神の祝福を受けた人は地を継ぐ。神の呪いを受けた者は断たれる」(22節)  …「貧しい人」とは、主に望みをおき、神の祝福を受ける人  「地を受け継ぐ」=神の豊かな祝福の中に生かされる  この「貧しい人々」は、7、8節のような苛立ちの中にある  「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や悪だくみをする者のことでいら立つな。怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない」(7、8節)。  悪事を行う者が繁栄し、豊かに富み栄えているという現実がある。それに対して、主なる神に従い、正しいことをして歩もうとする自分たちは、かえって苦しみを受け、いつまでも貧しい者であり続けている、という苛立ち。(1節も)  いっそのこと自分も彼らと一緒になって悪事を謀り、自分の豊かさを追及した方がよいのではないか、という苛立ちの中にある者たちに対して、苛立ってはならない、沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれ、主に望みを置け、貧しい人は地を継ぐのだ、あなたがたは神の豊かな祝福の約束を与えられているのだ、とこの詩は語っている。  つまり「柔和な人々」とは、決して幸いな、力と余裕のある人ではない。むしろ弱く貧しく力ない者が、神に従って生きようと必死になっている、しかし悪い者の方が富み栄えていくというこの世の現実の中で、押しつぶされそうになり、いっそ自分の好き勝手に生きていこうか、という苛立ちの中にある、そういう者こそがここで見つめられている。  私たちもしばしばこのような苛立ちを覚える。自分の弱さ、乏しさを嘆き、こんな自分の力では、こんな状況では、柔和になどなっておれない、なぜ神はもっと力を与えて下さらないのか、なぜもっとよい条件の下に置いて下さらないのか、とうらみつらみを言いたくなる。 主イエスはそういう私たち一人一人に、「柔和な人々は幸いである」と語りかけておられる。 4.柔和に生きることこそ幸い  詩編37編が教えているのは「柔和に生きよ」ということ。  悪事を謀る者が繁栄している現実の中でも苛立たずに、主に従う道に踏み止まれ、とこの詩は教えている。それは苛立ちまぎれに神を否定するような不信仰に走らず、しっかり自らを制御せよということ。そこにこそ神からの祝福、恵みが約束されている。  自分は貧しいから、余裕がないから、柔和になれない、と言っていたのでは救いはない。力も余裕もなく、苦しみと悲しみに翻弄され、苛立ちを覚えずにはおれない私たちが、そのような中で、沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれ、主に望みを置く、その柔和さによってこそ、私たちは信仰による幸いにあずかることができる。  柔和になれないとは、苛立ちに負けること。 そこでは、沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれるのではなく、自分が語りだし、自分の力で何とかしようとすることが起る。自分の思いに従って事を裁こうとするようになる。その裁きは、背後に苛立ちや怒りがある限り、幸いを生まない。 人を本当に救う働きは、怒りや苛立ちによってではなく、柔和さによってこそなされる。 5.真実に柔和な方、主イエス・キリスト  「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」 (11章28、29節)  主イエス・キリストは柔和で謙遜な方。苛立ちに負け、怒りに任せ、力に任せて事をなすのではなく、私たちの罪を黙って背負い、十字架の死への道を歩いて下さった。主イエスの柔和さによって、私たちの罪の赦し、救いが実現した。そして主イエスは私たちにも、この柔和さの道を歩むことを求めておられる。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」。それは決して負いきれない重い軛ではない。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」。それは主イエスが大部分を背負っていて下さるから。私たちはこの主イエスにつながって、主イエスと共にその軛を負い、柔和に生きる。  「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」(21章5節)。  「柔和な王」としてエルサレムに来られた主イエスは、その週の内に十字架につけられた。主イエスが「柔和な方」であるとは、十字架の死への道を黙って歩まれたこと。その柔和さのゆえに、私たちの救いが実現した。  真実に柔和な方である主イエス・キリストの十字架の死によって、罪の赦しの恵みを与えられた者が、主なる神のみ前に沈黙し、主に望みを置き、その恵みのみ業を待ち望みつつ生きるところに、真実の幸いが与えられる。  十字架の死に至る柔和な歩みを歩み通された主イエスは、復活して天に昇り、父なる神の右に座して、今や私たちを、この世界を、支配しておられる。つまり地を受け継いでおられる。今はまだ隠されているその主イエスのご支配を信じて生きることが私たちの信仰。  つまり私たちの信仰は、主イエスが、その柔和さによって地を受け継いでおられることを信じること。そして柔和な方である主イエスのご支配に支えられて生きること。主イエスの柔和さに支えられて、私たちもまた、様々な苦しみ悲しみがあり、悪を行う者がむしろ栄えていくようなこの世の現実の中にあっても、苛立ちに負けることなく、沈黙して主を仰ぎ、主に望みを置く柔和な者として生きることができる。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 柔和な人々の幸い(온유한 사람들의 행복)/ マタイ5:5(마5:5)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 柔和な人々の幸い(온유한 사람들의 행복) マタイ5:5(마5:5) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 柔和な人々の幸い マタイによる福音書 第5章5節   1.柔和とは  「穏やかな、やさしい」、しかし「軟弱」ではない、本当の強さに基づくもの。  「柔和」と訳されている聖書の言葉は、「中庸な」という意味   怒るべき時に怒り、怒るべきでない時には怒らない、強い自己制御能力  「訓練を受けている人びとの祝福」(ウィリアム・バークレー『山上の説教に学ぶ』)  このような柔和さを持っている人は確かに幸いだと私たちは思う。 2.幸いだから柔和になれる?   しかし私たちは次のようにも思うのでは?  「柔和になれるのは幸いな人だけだ。私はとてもそんなにおっとりと構えていられるような状態にない。私は柔和に生きることができるほど幸いではないし、そんな余裕はない」 3.詩編37編  この教えは旧約聖書、詩編第37編11節からの引用  「貧しい人は地を継ぎ」(「しかし柔和な者は国を継ぎ」、口語訳聖書)  「柔和な」という新約の言葉は、この個所の「七十人訳」(ギリシャ語訳)による。  「柔和」という言葉の背後には、「貧しい」という言葉がある。  詩編37編において「貧しい人」とはどのような人か。  「悪事を謀る者は断たれ、主に望みをおく人は、地を継ぐ」(9節)  「神の祝福を受けた人は地を継ぐ。神の呪いを受けた者は断たれる」(22節)  …「貧しい人」とは、主に望みをおき、神の祝福を受ける人  「地を受け継ぐ」=神の豊かな祝福の中に生かされる  この「貧しい人々」は、7、8節のような苛立ちの中にある  「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や悪だくみをする者のことでいら立つな。怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない」(7、8節)。  悪事を行う者が繁栄し、豊かに富み栄えているという現実がある。それに対して、主なる神に従い、正しいことをして歩もうとする自分たちは、かえって苦しみを受け、いつまでも貧しい者であり続けている、という苛立ち。(1節も)  いっそのこと自分も彼らと一緒になって悪事を謀り、自分の豊かさを追及した方がよいのではないか、という苛立ちの中にある者たちに対して、苛立ってはならない、沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれ、主に望みを置け、貧しい人は地を継ぐのだ、あなたがたは神の豊かな祝福の約束を与えられているのだ、とこの詩は語っている。  つまり「柔和な人々」とは、決して幸いな、力と余裕のある人ではない。むしろ弱く貧しく力ない者が、神に従って生きようと必死になっている、しかし悪い者の方が富み栄えていくというこの世の現実の中で、押しつぶされそうになり、いっそ自分の好き勝手に生きていこうか、という苛立ちの中にある、そういう者こそがここで見つめられている。  私たちもしばしばこのような苛立ちを覚える。自分の弱さ、乏しさを嘆き、こんな自分の力では、こんな状況では、柔和になどなっておれない、なぜ神はもっと力を与えて下さらないのか、なぜもっとよい条件の下に置いて下さらないのか、とうらみつらみを言いたくなる。 主イエスはそういう私たち一人一人に、「柔和な人々は幸いである」と語りかけておられる。 4.柔和に生きることこそ幸い  詩編37編が教えているのは「柔和に生きよ」ということ。  悪事を謀る者が繁栄している現実の中でも苛立たずに、主に従う道に踏み止まれ、とこの詩は教えている。それは苛立ちまぎれに神を否定するような不信仰に走らず、しっかり自らを制御せよということ。そこにこそ神からの祝福、恵みが約束されている。  自分は貧しいから、余裕がないから、柔和になれない、と言っていたのでは救いはない。力も余裕もなく、苦しみと悲しみに翻弄され、苛立ちを覚えずにはおれない私たちが、そのような中で、沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれ、主に望みを置く、その柔和さによってこそ、私たちは信仰による幸いにあずかることができる。  柔和になれないとは、苛立ちに負けること。 そこでは、沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれるのではなく、自分が語りだし、自分の力で何とかしようとすることが起る。自分の思いに従って事を裁こうとするようになる。その裁きは、背後に苛立ちや怒りがある限り、幸いを生まない。 人を本当に救う働きは、怒りや苛立ちによってではなく、柔和さによってこそなされる。 5.真実に柔和な方、主イエス・キリスト  「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」 (11章28、29節)  主イエス・キリストは柔和で謙遜な方。苛立ちに負け、怒りに任せ、力に任せて事をなすのではなく、私たちの罪を黙って背負い、十字架の死への道を歩いて下さった。主イエスの柔和さによって、私たちの罪の赦し、救いが実現した。そして主イエスは私たちにも、この柔和さの道を歩むことを求めておられる。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」。それは決して負いきれない重い軛ではない。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」。それは主イエスが大部分を背負っていて下さるから。私たちはこの主イエスにつながって、主イエスと共にその軛を負い、柔和に生きる。  「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」(21章5節)。  「柔和な王」としてエルサレムに来られた主イエスは、その週の内に十字架につけられた。主イエスが「柔和な方」であるとは、十字架の死への道を黙って歩まれたこと。その柔和さのゆえに、私たちの救いが実現した。  真実に柔和な方である主イエス・キリストの十字架の死によって、罪の赦しの恵みを与えられた者が、主なる神のみ前に沈黙し、主に望みを置き、その恵みのみ業を待ち望みつつ生きるところに、真実の幸いが与えられる。  十字架の死に至る柔和な歩みを歩み通された主イエスは、復活して天に昇り、父なる神の右に座して、今や私たちを、この世界を、支配しておられる。つまり地を受け継いでおられる。今はまだ隠されているその主イエスのご支配を信じて生きることが私たちの信仰。  つまり私たちの信仰は、主イエスが、その柔和さによって地を受け継いでおられることを信じること。そして柔和な方である主イエスのご支配に支えられて生きること。主イエスの柔和さに支えられて、私たちもまた、様々な苦しみ悲しみがあり、悪を行う者がむしろ栄えていくようなこの世の現実の中にあっても、苛立ちに負けることなく、沈黙して主を仰ぎ、主に望みを置く柔和な者として生きることができる。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)