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いまし(戒)めは縛りか? 愛か?(징계는 속박인가, 사랑인가?)/ 出エジプト記 20:3-11(출20:3-11)/ 2016-08-18
いまし(戒)めは縛りか? 愛か?(징계는 속박인가, 사랑인가?) 出エジプト記 20:3-11(출20:3-11) ○ 題目: 戒めは縛りか?愛か? ○ 本文: 出エジプト記20章3~11節(新改訳) ○ 導入:アメリカが真実をいった日(The Day America Told The Truth)と言う本では、今現在の米国社会は昔の西部開拓時代より悪くて、荒くて堕落していると指摘しています。道徳的な面でどんな一致した見解もなく、皆各自自分なりの十戒を有していると指摘します。全部恣意的にこれが正しいと考えて生きると言う事です。 例を挙げてみるなら、アメリカ人の中の77%は、“自分がなぜ安息日を守らなければならないのか分からない。”と言う事です。安息日を守る必要を感じないと言う事です。74%は、“自分は金持ちには罪悪感がないので物を盗む事が出来る。相手は金持ちだから。”と。 64%の人々は、“自分は他人に深刻な被害を及ぼさない限りいつでも嘘をつく。”また、56%の人々は、“私は自ら節制する事が可能と考え飲酒運転も出来る。”と。特に、飲酒運転して事故を起こした人々を調査すると100人中100人が、“自分はまさか事故を起こすはずが無い。”と思っていたと言うのです。 また、53%は、“自分は浮気をするだろう。事実自分の妻も、自分の夫も機会があればその様にするはずなのにそれが何か?”と考えていると言います。 これが現在のアメリカの人々が持っている考えと言うものです。勿論、これがアメリカ人の全てではないですが、アメリカの縮図を示している様です。聖書が神様の御言葉だと考えて、神様の霊感で記録された御言葉、そしてその中で神様の御言葉が自分に臨まなければならないと考えながらも、実際具体的な神様の御言葉に関しては、信じないで生きる面が米国社会に広まっていると言う事です。 神様は人間の心に入れた律法である“良心”をくれました。ある人々には、この良心が基準になりますがその良心が停止する時があるのです。 ○ 本題:さて、神様はアメリカと言う国を通して、私達に警告を与えています。確かにここは日本でありアメリカではありません。しかし、この様な事柄はかつて大リバイバルを経験したヨーロッパも、アメリカの姿を予知するかの様に、霊的に荒廃してしまい久しいです。 また、その次に韓国をはじめ、日本にもそれは伝染してくる可能性が高いと言う事です。それは、今迄のキリスト教の歴史を紐解くなら見えてくる事でもあります。神様はその様な意味からも、十戒を与えて下さっているのです。十戒の中で二つの部分に分けた時の神様との関係について見ていきます。 ○ ポイントの第一番目は、「十戒は愛の現われである」と言う事です。先程も言及した通り、十戒は大きく分けて二つに分ける事が出来ます。それは、第一戒から、第四戒です。それは、私達人間と神様との関係の中で、守る様にと定められました。 そして、五戒から十戒は私達人間同士の中で、守る様にと定められました。これを見ても分かる様に、私達人間と神様との関係が何よりも大切なので、最初の四戒はその様に定められました。しかし、五戒から十戒は私達人間関係の中での掟なので、神様は私達人間がお互いに良い関係を築ける様に、一つの指針を示して下さったのです。 つまり、私達の国でも「憲法」がある様に、国が国として成り立っていく為には「秩序」がとても大切になって来ます。それを神様が制定されて十戒の中の五戒から十戒まで定められたのです。もし、神様が私達人間を創造主のおもちゃ及びロボットとして造られたのであれば、五戒から十戒は無くても良いのです。 しかし、神様はご自分が造られた民達が無秩序の中でカオスの様な生き方をする事を望まれませんでした。だからこそ、神様は私達人間にまず神様との関係を大事にされた上で、次に私達人間同士の関係もないがしろにされず、戒めを制定されたのです。 そこには、神様の私達に対する大きな愛の中で、ご配慮が現されているのです。それを抑えた上で、今日の御言葉を再確認していきたいものです。 ○ ポイントの第二番目は、「神様の愛から離れると堕落する」と言う事です。さて、第一戒は3節に記録されています。“あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。”と。 これも、神様の愛から出ています。もし、神様が愛故にこのご命令を語っておられないと仮定するならば、そもそも神様は私達人間を造りはしなかったのです。もし、神様が違う目的で造られたのであれば、私達に「自由意志」と言うものを与えられなかったはずです。しかし、現実に与えて下さいました。 また、第二戒の4~6節を見ると、次の様な御言葉が記録されています。“あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。”と。 偶像は何も他の神々に頭を下げて仕えるだけではありません。目に見える物、目に見えない物を問わずに神様よりも優先し、それに仕えるならそれも偶像にいくらでもなり得るのです。更に第三戒に関しては、本文の7節にそれが記録されています。“あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。”と。 これは、神様が聖書の中で色々な名前の表現の仕方を記録しているのですが、それを通して神様の属性と、神性を現わしておられるのです。それ故に、その御名を私達は純粋に、また真実な祈りと賛美、感謝で、その御名に相応しく栄光をお返しする事が大切であると言う事です。 勿論、私達はその偉大な神様の子ども達として、地上での旅路を歩ませて頂いている存在です。つまり、子どもが父に対して何でも願う様に、神様にお頼りするのは喜ばれる事ですが、そうではない動機からむやみやたらに神様の御名を唱える事は神様を冒涜してしまう事を警告しています。 さて、これらの第一戒から第四戒までの戒めは、神様の愛に留まるなら何の問題もないのですが、一旦、それが薄れてくるととことんまで戒めを守らなくなるのです。いや、守れなくなると言った方が正しいのかもしれません。いずれにしても、もし私達が神様の愛に留まるのであれば、私達を造られ愛して下さっているお方の喜ばれる歩みになるはずです。 そして、逆にそこから遠のいてしまうなら、どこまでも遠ざかってしまいます。ノアの時代のあの洪水も、結局は神様の愛から離れて行った人間の行き着いた姿を現しているのです。創世記6章11~12節を見ると、次の様な御言葉が記録されています。“地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。”と。 正に、この様な様子を呈して行く様になる可能性が高いのです。では、少なくても私達はその様な二の舞にならない様にする為に、次のポイントを見てみましょう。 ○ ポイントの第三番目は、「十戒を通して神様の愛に立ち返る」と言う事です。本文の8~11節までが、第四戒になります。まず本文の8節で、次の様な御言葉が記録されています。“安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。”と。 さて、これは現在の新約時代を生かされている私達にとっては、イエス様のご復活を記念する日曜日に再制定されています。そして、週の初めの日曜日にこの様に集まって共同礼拝を捧げているのです。それ故に、神様は本文の9節で次の様に命じておられます。“六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。”と。 これに関しては議論が分かれる所です。今の現代社会で、これを遵守しようと思うならばかなりの損害を被る人が出て来るでしょう。仕事や家事、または病気など、様々な要因を挙げるとこれを処方化する事が困難になって来ます。 それで、今はそれを議論する時間ではないので、ただ神様が制定された理由についてだけ触れていきたいと思います。本文の10節でも、次の様に更に強調します。“しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も──”と。 そして、その根拠になるのが今日の本文の最後の11節に、次の様に記録されています。“それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。”と。 以前にも何度か触れて来ましたが、神様はなぜ六日も掛けて天地創造をされたのでしょうか。そんなに時間を掛けなくても、お言葉一つで一瞬にしてお造りになる事が出来るお方です。しかし、神様は敢えて六日掛けて天地創造を成し遂げられました。 また、七日目には休まれたのですが、それもわざわざ休まれる必要があったのでしょうか。それは取りも直さず、私達に安息が必要であり、その安息日に神様を賛美し礼拝し、崇める事で私達の霊肉共に安息を味わう事が出来、一週間の始まりが礼拝から始められると言う祝福に預かるのです。 それらの事を通して、私達は再度神様の愛を確認しつつ、また新しい週に力と満たしを受ける事が出来るのです。それを味わう事で、更に主への賛美と感謝、礼拝が豊かになって行く体験をされる皆様と私になる事が出来る様、イエスキリストの御名によって祝福致します。
いまし(戒)めは縛りか? 愛か?(징계는 속박인가, 사랑인가?)/ 出エジプト記 20:3-11(출20:3-11)/ 2016-08-18
いまし(戒)めは縛りか? 愛か?(징계는 속박인가, 사랑인가?) 出エジプト記 20:3-11(출20:3-11) ○ 題目: 戒めは縛りか?愛か? ○ 本文: 出エジプト記20章3~11節(新改訳) ○ 導入:アメリカが真実をいった日(The Day America Told The Truth)と言う本では、今現在の米国社会は昔の西部開拓時代より悪くて、荒くて堕落していると指摘しています。道徳的な面でどんな一致した見解もなく、皆各自自分なりの十戒を有していると指摘します。全部恣意的にこれが正しいと考えて生きると言う事です。 例を挙げてみるなら、アメリカ人の中の77%は、“自分がなぜ安息日を守らなければならないのか分からない。”と言う事です。安息日を守る必要を感じないと言う事です。74%は、“自分は金持ちには罪悪感がないので物を盗む事が出来る。相手は金持ちだから。”と。 64%の人々は、“自分は他人に深刻な被害を及ぼさない限りいつでも嘘をつく。”また、56%の人々は、“私は自ら節制する事が可能と考え飲酒運転も出来る。”と。特に、飲酒運転して事故を起こした人々を調査すると100人中100人が、“自分はまさか事故を起こすはずが無い。”と思っていたと言うのです。 また、53%は、“自分は浮気をするだろう。事実自分の妻も、自分の夫も機会があればその様にするはずなのにそれが何か?”と考えていると言います。 これが現在のアメリカの人々が持っている考えと言うものです。勿論、これがアメリカ人の全てではないですが、アメリカの縮図を示している様です。聖書が神様の御言葉だと考えて、神様の霊感で記録された御言葉、そしてその中で神様の御言葉が自分に臨まなければならないと考えながらも、実際具体的な神様の御言葉に関しては、信じないで生きる面が米国社会に広まっていると言う事です。 神様は人間の心に入れた律法である“良心”をくれました。ある人々には、この良心が基準になりますがその良心が停止する時があるのです。 ○ 本題:さて、神様はアメリカと言う国を通して、私達に警告を与えています。確かにここは日本でありアメリカではありません。しかし、この様な事柄はかつて大リバイバルを経験したヨーロッパも、アメリカの姿を予知するかの様に、霊的に荒廃してしまい久しいです。 また、その次に韓国をはじめ、日本にもそれは伝染してくる可能性が高いと言う事です。それは、今迄のキリスト教の歴史を紐解くなら見えてくる事でもあります。神様はその様な意味からも、十戒を与えて下さっているのです。十戒の中で二つの部分に分けた時の神様との関係について見ていきます。 ○ ポイントの第一番目は、「十戒は愛の現われである」と言う事です。先程も言及した通り、十戒は大きく分けて二つに分ける事が出来ます。それは、第一戒から、第四戒です。それは、私達人間と神様との関係の中で、守る様にと定められました。 そして、五戒から十戒は私達人間同士の中で、守る様にと定められました。これを見ても分かる様に、私達人間と神様との関係が何よりも大切なので、最初の四戒はその様に定められました。しかし、五戒から十戒は私達人間関係の中での掟なので、神様は私達人間がお互いに良い関係を築ける様に、一つの指針を示して下さったのです。 つまり、私達の国でも「憲法」がある様に、国が国として成り立っていく為には「秩序」がとても大切になって来ます。それを神様が制定されて十戒の中の五戒から十戒まで定められたのです。もし、神様が私達人間を創造主のおもちゃ及びロボットとして造られたのであれば、五戒から十戒は無くても良いのです。 しかし、神様はご自分が造られた民達が無秩序の中でカオスの様な生き方をする事を望まれませんでした。だからこそ、神様は私達人間にまず神様との関係を大事にされた上で、次に私達人間同士の関係もないがしろにされず、戒めを制定されたのです。 そこには、神様の私達に対する大きな愛の中で、ご配慮が現されているのです。それを抑えた上で、今日の御言葉を再確認していきたいものです。 ○ ポイントの第二番目は、「神様の愛から離れると堕落する」と言う事です。さて、第一戒は3節に記録されています。“あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。”と。 これも、神様の愛から出ています。もし、神様が愛故にこのご命令を語っておられないと仮定するならば、そもそも神様は私達人間を造りはしなかったのです。もし、神様が違う目的で造られたのであれば、私達に「自由意志」と言うものを与えられなかったはずです。しかし、現実に与えて下さいました。 また、第二戒の4~6節を見ると、次の様な御言葉が記録されています。“あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。”と。 偶像は何も他の神々に頭を下げて仕えるだけではありません。目に見える物、目に見えない物を問わずに神様よりも優先し、それに仕えるならそれも偶像にいくらでもなり得るのです。更に第三戒に関しては、本文の7節にそれが記録されています。“あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。”と。 これは、神様が聖書の中で色々な名前の表現の仕方を記録しているのですが、それを通して神様の属性と、神性を現わしておられるのです。それ故に、その御名を私達は純粋に、また真実な祈りと賛美、感謝で、その御名に相応しく栄光をお返しする事が大切であると言う事です。 勿論、私達はその偉大な神様の子ども達として、地上での旅路を歩ませて頂いている存在です。つまり、子どもが父に対して何でも願う様に、神様にお頼りするのは喜ばれる事ですが、そうではない動機からむやみやたらに神様の御名を唱える事は神様を冒涜してしまう事を警告しています。 さて、これらの第一戒から第四戒までの戒めは、神様の愛に留まるなら何の問題もないのですが、一旦、それが薄れてくるととことんまで戒めを守らなくなるのです。いや、守れなくなると言った方が正しいのかもしれません。いずれにしても、もし私達が神様の愛に留まるのであれば、私達を造られ愛して下さっているお方の喜ばれる歩みになるはずです。 そして、逆にそこから遠のいてしまうなら、どこまでも遠ざかってしまいます。ノアの時代のあの洪水も、結局は神様の愛から離れて行った人間の行き着いた姿を現しているのです。創世記6章11~12節を見ると、次の様な御言葉が記録されています。“地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。”と。 正に、この様な様子を呈して行く様になる可能性が高いのです。では、少なくても私達はその様な二の舞にならない様にする為に、次のポイントを見てみましょう。 ○ ポイントの第三番目は、「十戒を通して神様の愛に立ち返る」と言う事です。本文の8~11節までが、第四戒になります。まず本文の8節で、次の様な御言葉が記録されています。“安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。”と。 さて、これは現在の新約時代を生かされている私達にとっては、イエス様のご復活を記念する日曜日に再制定されています。そして、週の初めの日曜日にこの様に集まって共同礼拝を捧げているのです。それ故に、神様は本文の9節で次の様に命じておられます。“六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。”と。 これに関しては議論が分かれる所です。今の現代社会で、これを遵守しようと思うならばかなりの損害を被る人が出て来るでしょう。仕事や家事、または病気など、様々な要因を挙げるとこれを処方化する事が困難になって来ます。 それで、今はそれを議論する時間ではないので、ただ神様が制定された理由についてだけ触れていきたいと思います。本文の10節でも、次の様に更に強調します。“しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も──”と。 そして、その根拠になるのが今日の本文の最後の11節に、次の様に記録されています。“それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。”と。 以前にも何度か触れて来ましたが、神様はなぜ六日も掛けて天地創造をされたのでしょうか。そんなに時間を掛けなくても、お言葉一つで一瞬にしてお造りになる事が出来るお方です。しかし、神様は敢えて六日掛けて天地創造を成し遂げられました。 また、七日目には休まれたのですが、それもわざわざ休まれる必要があったのでしょうか。それは取りも直さず、私達に安息が必要であり、その安息日に神様を賛美し礼拝し、崇める事で私達の霊肉共に安息を味わう事が出来、一週間の始まりが礼拝から始められると言う祝福に預かるのです。 それらの事を通して、私達は再度神様の愛を確認しつつ、また新しい週に力と満たしを受ける事が出来るのです。それを味わう事で、更に主への賛美と感謝、礼拝が豊かになって行く体験をされる皆様と私になる事が出来る様、イエスキリストの御名によって祝福致します。
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 憐れみ深い人々の幸い(긍휼히 여기는 사람들의 행복)/ マタイ5:7(마5:7)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 憐れみ深い人々の幸い(긍휼히 여기는 사람들의 행복) マタイ5:7(마5:7) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 憐れみ深い人々の幸い マタイによる福音書 第5章7節   1.「情けは人のためならず」? 日本の諺に「情けは人のためならず」というのがある。 私たちは主イエスのこの教えをそれと同じと理解し、「この教えは既に知っている」と思っているのではないか? この諺における「情け」と、主イエスの言われる「憐れみ」は同じなのか? 「憐れみ深い」についての聖書の教え マタイ福音書25章31節以下 「憐れみ深い人々」とは、思うだけでなく具体的な行動ができる人。自分の周囲にいる、自分が助けるべき「最も小さい人の一人」に気づく感性を持っている人。隣人を見出し、隣人となることができる人。 ルカによる福音書第10章25節以下(「善いサマリア人」の話) 隣人になるとは、敵意を乗り越えること。「最も小さい者」とはしばしば自分の敵のこと。 「憐れみ深い者」=敵をも愛する人(5章44節)。 これらの教えから、主イエスが教えている「憐れみ」は、「情けは人のためならず」の「情け」をはるかに越えたものであることがわかる。私たちは、自分は「憐れみ深さ」からはるかに遠いと言わざるを得ない。そのことを知ることによってこそ、私たちはこの教えの前に本当に立つことができる。「情けは人のためならず」と同じに受け止め、「それは知っている」と思っている間は、この教えを本当に聞くことができない。 「幸いの教え」はどれも、私たちがもともと知っていることではない。 主イエスはこれらの教えによって、私たちの生活の中に、私たちの知らない新しい、本当の幸いを造り出そうとしておられる。 2.神の憐れみ  この教えが与えようとしている「幸い」は、「その人たちは憐れみを受ける」という幸い。 それは人からの憐れみでなく、神の憐れみ。 神の憐れみとはどのようなものか? 詩編第89編 「主の慈しみ」(2節)=「憐れみ」 「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び、わたしの僕ダビデに誓った。あなたの子孫をとこしえに立て、あなたの王座を代々に備える、と」(4、5節)。 主の慈しみとは、お選びになった者(ここではダビデとその子孫)と契約を結び、それをどこまでも守って下さること。 31~33節…ダビデの子孫である王たちの罪とそれに対する神の罰 「それでもなお、わたしは慈しみを彼から取り去らず、わたしの真実をむなしくすることはない。契約を破ることをせず、わたしの唇から出た言葉を変えることはない」 (34、5節) 主なる神が、人間との間に結んだ契約をどこまでも守り、人間の裏切りに対して怒りはするし罰を与えるが、契約を破棄することなく、どこまでもそれに忠実であって下さる。これが神の慈しみ=憐れみ。この神の憐れみは、主イエス・キリストによって私たちに与えられている。キリストの十字架の死によって、神は私たちと新しい契約を結んで下さった。その契約において、私たちは罪を赦され、神の恵みの下に生きる新しい命を与えられている。私たちは主イエスが求めておられる憐れみからほど遠い者だが、既にこのような憐れみを受けている。 3.憐れみを受けた者として  7節の教えは、「憐れみ深い者となりなさい、そうすればあなたがたは神の憐れみを受けることができ、幸いになることができる」ということではない。私たちはキリストによって神の憐れみを既に受けているがゆえに、憐れみ深い者となることができるし、そのために努力することができる、ということ。 18章21節以下(「仲間を赦さない家来のたとえ」) 「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(33節)。 私たちは自分では決して償うことができない罪(負債)を、キリストの十字架の死によって赦して(帳消しにして)いただいた。借金を帳消しにする時に、貸していた者は損害を引き受ける。神が私たちの罪を赦すために引き受けて下さった損害が、独り子主イエス・キリストの十字架の死。そこに神の深い憐れみがある。その憐れみを受けた私たちが、自分に百デナリオンの負債(罪)のある人を赦すこと、それが、私たちが「憐れみ深い者」となること。百デナリオンは決して小さい額ではない。人を赦し、憐れみ深い者であろうとすることは、苦しみと損害を伴う。「情けは人のためならず(=それは結局は自分のためだ)」などと思っていたらそれはできない。どう廻り廻っても自分のためになりそうもない、損失を受けることにしかならない、という場面において、私たちの憐れみ深さが問われている。そこでなお憐れみ深い者として生きることは、主イエスによって神の大きな憐れみをいただいていることを知り、その憐れみに応えて生きようとする所でこそ可能となる。 逆に私たちが人に対して憐れみ深くなろうとしないならば、それは神が御子の十字架の死によって与えて下さった憐れみを無にすることになる。 4.憐れみ深い人々の幸い  憐れみ深い人が憐れみを受け、幸いになるのではない。神の憐れみを受けている幸いな者が、憐れみ深くあろうとすることができる。それが信仰における順序。それならなぜ主イエスは「憐れみを受けている人々は幸いである、その人たちは憐れみ深くあるであろう」と言わないのか。 マタイ18章においても、あのたとえ話の前に、「あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」というみ言葉がある。 七の七十倍までも(徹底的に)兄弟の罪を赦す、憐れみ深い者であれ、とまず命じられている。あなたがたは憐れみを受けている者なのだから、という根拠はその後で示される。それと同じように、私たちは、「憐れみ深い人々は幸いである」という主のお言葉に従って、人の自分に対する百デナリオンの罪を赦そうと努力していく。そのことの中でこそ、主イエス・キリストによる神の憐れみ(一万タラントンの赦し)を本当に知ることができる。憐れみにほど遠い者であることをいつも思い知らされていく私たちだが、主イエスにおける神の憐れみを知らされているがゆえに、なお憐れみ深い者であろうとすることができる。そこに、私たちの幸いがある。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 義に飢え渇く人々の幸い(의에 주리고 목마른 사람들의 행복)/ マタイ5:6(마5:6)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 義に飢え渇く人々の幸い(의에 주리고 목마른 사람들의 행복) マタイ5:6(마5:6) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 義に飢え渇く人々の幸い マタイによる福音書 第5章6節 1.マタイの教えは抽象的? 「今飢えている人々は幸いである。あなたがたは満たされる。」 (ルカ福音書6章21節)  ルカの具体的な教えが、マタイでは「義に」という精神的、抽象的な教えに変えられている  ←「義に飢え渇く」などというのは、生活に余裕がある者のぜいたくな飢え渇きだ  →自分はまだ義に飢え渇いているような余裕はない。 2.ルカの教えの意味 「今飢えている人々は」 =今この世において「あなたがたは満たされる」 =神の国においては、満ち足りることができる。 =「金持ちとラザロ」の話(ルカ福音書16章)  主イエスは、飢えている人々の具体的空腹を満たそうとはしていない(荒れ野の誘惑)。 この世の不公平、不平等が、そのままで終ることはない、飢えに苦しんだ者には、神の国において満ち足りる喜びが与えられ、それによって神の正しさ、正義が貫かれる。本当の飢えは、食物の乏しさよりも、神の正義が貫かれず、神が自分の苦しみを無視している、という絶望。主イエスは人々のその絶望に目をとめ、神はあなたがたの苦しみを見ておられ、神の国においてあなたがたをねぎらい、飢えを満たして下さるのだ、と語られた。それがルカにおけるこの教えの意味。 3.私たちは義に飢え渇いている  「義に飢え渇く」のは、生活に余裕のある人のみが覚える、精神的、抽象的な、贅沢な飢え渇きではない。私たちの具体的な生活における、深刻な飢え渇き。私たちはこの世の人生において、神の正しさ、正義はどこにあるのか、自分の苦しみをちゃんと見ておられる神がおられるのか、という問いを感じる。それが義に対する飢え渇き。私たちは様々な苦しみの中で、常に、神の義、神の正しさが貫かれ、実現することに飢え渇いている。  詩編42編参照 「お前の神はどこにいる」という嘲笑による渇き 「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、嘆きつつ歩くのか」という渇き 4.この社会、世界において義に飢え渇く 「義に飢え渇く」は、自分の人生における自分のための義に飢え渇くのみではなく、この世界に存在する不正義、不平等に目を向け、義に飢え渇いている隣人のことを思い、そこでなすべき正義を行なっていくことをも意味している。(「金持ちとラザロ」の話) 5.その人たちは満たされる  義への飢え渇きは、私たちの苦しみ悲しみが解決することによって満たされるのではない。 神の義は、独り子イエス・キリストの十字架の死において貫かれている。 まことの神であられる方が、私たちの罪の赦しのために、苦しみを受け、命を捨てて下さった。神の正しさはそこに貫かれている。そのことによって私たちは救われた。もしも神の正しさが、人間に正しさを求め、正しい者のみを救い、悪い者を滅ぼすという形で貫かれたとしたら、私たちは救われない。そこでは、神の正しさが貫かれると、私たちが滅ぼされることになる。神の正しさが貫かれ、なおそこで罪人である私たちが救われるためには、独り子主イエスが、十字架の苦しみと死とを引き受けなければなかった。神の独り子が、私たちのために、私たちに代わって滅ぼされて下さったことによって、神の正しさは私たちを滅ぼすものではなく、救うものとなった。神の義はこのようにして貫かれた。 主イエスによって貫かれ、満たされた義は、神の恵みであり、私たちの救いである。 6.主イエスに従うことの中で  主イエス・キリストにおいて神の義、正しさが貫かれていることと、私たちの苦しみにおける義への飢え渇きが満たされることの間には、なお大きな隔たりがある。この隔たりは何によって乗り越えられるのか。 この説教は、弟子たち、即ち主イエスに従っている人々に向かって語られている。主イエスに従い、主イエスと共に歩むことにおいてこそ、その隔たりは乗り越えられる。私たちは、苦しみの中で、義に飢え渇きつつ、主イエスの十字架の苦しみと死とを見つめつつ主イエスに従う。その時、自分の傍らに、自分のために苦しんで下さった主イエスがいて下さることを示される。そこでこそ、主イエスの苦しみと死において貫かれている神の義を実感することができる。苦しみは相変わらず苦しみであり、義への飢え渇きは続いているが、それは絶望に陥ることのない、満たされた飢え渇きとなる。 ルカ福音書は、今飢えている人が、神の国において満たされるという、終りの日の希望を語っていた。マタイは、むしろそれが今のこの世の歩みにおいて現実となることを見つめている。それは主イエス・キリストが、その十字架の苦しみと死とによって、私たちの苦しみ悲しみを担って下さることにおいて実現する。そのことを私たちは、主イエスに従うことの中で、体験する。こうして、私たちの義への飢え渇きは、この世において確かに満たされる。 7.義に飢え渇く人々は幸いである  主イエス・キリストの苦しみと死とによって神の義がこの世に貫かれていることを知っているからこそ、私たちは、自分のためにも、またこの世界においても、飢え渇くように義を求めていくことができる。この信仰を失い、神の正義がこの世で貫かれることはないと思ってしまう時、そこには絶望が支配する。絶望が支配するところには「どうせ正義が貫かれることはないのだから、せいぜい自分の好きなことをして生きよう。正義を貫こうとしても骨折り損のくたびれ儲けだ」という気楽な思いが生まれる。 このような思いが蔓延し、人々がもはや義に飢え渇くことをせず、楽しく楽なことだけを追い求めるようになるとしたら、その社会は絶望に支配されているということ。義を追い求めるにはエネルギーがいる。それはつらいことでもあり、損をするようなことでもある。そのような中で私たちは、楽な方に流され、義を求めることをやめてしまう。 主イエスはそういう私たちに、「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる」と語りかけておられる。 それは、「私の十字架と復活において、この世には確かに神の義が貫かれている。だからあなたがたは、どんな時にも絶望せずに、義に飢え渇く者となることができるのだ。そこにあなたがたの幸いがあるのだ」ということ。 この社会に義が完全に達成されることはない。それが与えられるのは神の国においてであり、この世においては、義への飢え渇きが続く。しかし私たちは、主イエス・キリストにおいて神が義を貫いて下さり、同時に私たちを救って下さったことを知っている。その恵みに支えられて、義に飢え渇く者であり続けることができる。 そこに私たちの幸いがある。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
せんきょう(宣教)する神の栄光教会(선교하는 주님의영광교회)/ 行13:1-3(행13:1-3)/ カンヨハネ(姜永來、カンヨンレ)牧師(강영래 목사)(仁川 神の栄光教会)/ 일한대역설교/ 2011-07-17
宣教する神の栄光教会 行13:1-3 私は明日から中国宣教に発ちます。明日の朝仁川(インチョン)空港で8時30分の飛行機で昔満州の奉天、今の中国の沈陽に発ちます。聖靈が私をそちらへ導いて下さるのを真に感謝申し上げます。 私が牧師になる前に、ずっと前に、もう15年前にビジョンで見ました。私が執事であった時に教会に早天祈祷をしに行って祈っていたんですが、私が目をとじていたのに、目の前に何かが見えるのでした。人々がたくさん集まっていました。講壇に中国の人が誰かを紹介しました。“センジャイ ジャンウェハンムース ライ チャンダオ(現在姜約翰牧師来講道)”(もうカンヨハネ牧師様が出てきて説教します。) ところで、講壇に出てきて中国語で説教する牧師様の顔を見ると、それは私の顔ではないでしょうか。その時、私の名前はカン・ヨンレでした。確かにカンヨハネ牧師様が出てこられるといったが、そちらでは私の名前がカンヨハネ、中国語でジャンウェハンだったのです。 もう明日になれば、15年前に私が確かに見たそのビジョンが実際に成り立つ日が近づいてきているのです。何の考えもないまま生きていた私に神様がその夢を見るようにして、15年が過ぎた今日、その夢をかなえて下さる神様に、私を細心に導いておられる聖靈様に心より感謝申し上げます。聖靈様、今後のすべてのことを聖靈様に任せるから、聖靈様が親しく導いて下さい。アーメン。 その夢のとおり、遠くない内に中国に、ションドルンヤオチャオフェイ(神的栄耀教会:神の栄光教会)が建てられるだろうと信じます。私を呼ばれた神様がその仕事をしろとおっしゃったので、神様が全部責任を負ってくださることであるから、私は神様がさせることだけすれば良いのです。心配することがありません。なぜなら神様が全部成し遂げて下さることを確かに信じるからです。 私たちは使徒行伝の御言葉を調べなければなりません。私たちが2000年前の使徒の時の姿を調べるのは一つの過ぎ去った教会の話を調べることで終わりません。使徒行伝は聖靈が教会と使徒らをつかんでどのように福音伝播をするわざをしたかというのを調べることなのに、初代教会と使徒らに臨まれた同一な生きておられて働く聖靈が今日私たちにも充満に臨んでおられるのを信じて、聖霊の引導について福音を伝えることをしようとする目的なのです。 使徒行伝1:8は使徒行伝全体を導く御言葉です。また、この御言葉は今私たちを導く御言葉です。やはり私たちも使徒行伝の延長にあって、使徒行伝の人物なのです。 使徒行伝1-7章はエルサレム教会の姿を説明しています。 聖靈充満を受けたエルサレム教会がどのように過ごしてきましたか? その教会は御言葉と祈祷と傳道することを力を使いました。愛があふれたし、奉仕がありました。彼による神様の驚くべき奇跡のみわざがあった教会です。この教会に毎日数を加える復興がありました。元気な教会は必ず成長することを習いました。今日私たちの教会にもエルサレム教会の復興する姿があることを祈願します。 しかし聖靈はエルサレムにだけ集まっていて散らないエルサレム教会に圧迫という道具を使ってサマリアまで福音を伝えるようにしました。 使徒行伝8-12章は、福音がエルサレムにきたが、この福音がエルサレムにだけ留まっていなかったことを見せます。 圧迫でエルサレムとユダヤとサマリアと地の果てまで福音が伝播されました。エルサレムに来た福音はユダヤ全体とサマリアに拡張されたのです。 福音の性質がそうなのです。私を救援したこの福音は、私にきて私で終わるようになるそんな福音ではありません。福音は私たちにきたが、私たちに制限されません。福音を受けた人はじっとしていられません。 キリスト人はキリストによって生き返った人で、キリストによって生きる人です。彼が真にキリストによって生き返ったのを知って、キリストで毎日を生きる人なら、身ごもった女性がお腹の子をいつかは産むしかないように、自分の中に生じた新しい生命であるキリストを伝播する人になることしかないのです。苦難があるといってもその苦難のために詰まらないのです。 福音はエルサレムにだけ制限されなかったのです。圧迫と苦難のために散ったキリスト人がユダヤとサマリアへ前進することになったし、すべての異邦人らにこの福音は流れることになりました。 それが8-12章の御言葉です。ピリポがサマリアを伝道して聖靈が彼の上に臨むことになりました。これにエルサレム教会はペテロとヨハネを送って聖靈の歴史であることを確認することになります。サマリアとユダヤの土地にも福音が伝えられたのです。 特にローマの百人隊長のコルネリウスとユダヤ人の使徒ペテロは、会うことのできない人たちでしたが、会ったのです。聖靈の強権的な恵みの中で起きた事件です。 躍動的に働く福音の進行は私たちの固定観念を破らせます。まったく会うことのできない人たちに会うのです。まったく起こられないことを可能にさせる福音の能力です。 どんなに詰まった壁をも壊すようになるのが福音のみわざだということを信じます。 聖靈のはたらきは会うことのできない人々に会うようにするのです。 みなさんもこういう聖靈のみわざを体験できるようお願いします。会うことのできない人に会うようになり、できない仕事ができるようになります。 日曜学校の教師をしてみるとこのような、可能にする聖靈のはたらきを体験することになるだろうと思います。 私にはできないが、神様には不可能がありません。私たちは不可能な壁にぶつかるが、私の中にいらっしゃるキリストの中には無限の能力があります。 何よりも大きい奇跡のはたらきはパウロの回心です。 使徒行伝9章に現れた徹底した律法主義者で、教会を反対して迫害したサウルという青年の回心は一個人の回心事件ですが、これもまた、神様が異邦人宣教のために起こされた驚くべきみわざです。パウロにだけ起こったことだと知ってはいけません。 今日もそうです。私を救援させられた聖靈が私を呼んでたてて私ではできない仕事をするようにします。 したがって福音を伝えながらこの福音をまったく受け入れないでかえって反対して圧迫する人に会っても失望したりあきらめないようお願いします。ここに神様の逆説的な真理があるということを信じて下さい。反対者を倒して福音伝者に作る神様でいらっしゃいます。ただし私たちにこの信頼があるかということが問題です。 パウロを変化させた福音はパウロにだけ留まらなかったです。彼をご使用になった聖靈が彼を通じて福音を全世界にさく烈させる仕事をしました。 救贖史的生活を送って下さい。 皆さん、イエスを信じて救援を得たのを信じますか。この恵みを感謝するところで留まってはいけません。もう神様は私を通じて光栄を受けられようとされるのです。 神様が私を救援されるということには神様のみむねがあるということを信じて下さい。私を今日も世の中に置きながら様々の恵みを施されるのは、神様が私たちに要求する期待と目的があります。それが何でしょうか? 今日読んだ本文の13-28章に現れる、福音が地の果てまで伝播されるその開始を見せる御言葉なのです。今までペテロを通じてエルサレムを中心にして働いた聖靈がパウロを通じて民族と国家、すべての文化の壁を越えてはたらくことを見せます。 異邦人らに向かった宣教の歴史がここに記録されています。そのような意味で、アンテオケ教会という、たててからいくらも経たない小さい教会がパウロとバルナバを宣教師として派遣させる場面を記録した今日読んだこの本文は、宣教の本質がどうなのかを知らせています。 宣教は何ですか?宣教を知っていなければなりません。情熱だけ持ってはなりません。聖書に帰らなければなりません。 2000年の宣教歴史で正しい宣教をどのようにするのかは、この本文の御言葉を教科書とみなすべきです。 使徒行伝13章 1. さて、アンテオケにある敎會には、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデ の乳兄弟マナエン、およびサウロなどの預言者や敎師がいた。 2. 一同が主に礼拝をささげ、斷食をしていると、聖靈が「さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に當らせなさい」と告げた。 3. そこで一同は、斷食と祈りとをして、手をふたりの上においた後、出發させた。(口語譯) アンテオケ教会に預言者らと教師たちがいると、まもなくバルナバとニゲルというシメオンとクレネ人ルキオと分封王ヘロデの乳兄弟マナエンとおよびサウルがいました。2週間を仕えて斷食する時に聖靈が、私が呼んでさせることのためにバルナバとサウルを別にたてなさいというと、このために教会が斷食して祈って二人に按手して送るのです。 私たちはこのお言葉で何を一番最初に発見することになりますか? アンテオケ教会が宣教を始めたんだなという事実を悟る人もいますが、今日のお言葉は布教の主体が聖霊だということを見せます。宣教の主体は神様、すなわち聖霊だということを信じてください。 決してある一人の人間が宣教の主体者になることはできません。 2週を仕えて断食する時に聖靈がいわく、私が呼んでさせることのためにバルナバとサウルを別にたてなさいといったんですね。 誰がおっしゃったことですか? “聖靈がいわく” “私が呼んだバルナバとサウル” “私がさせる仕事をするために” “お前らが別にたてなさい” アンテオケ教会は1節で見た通り霊的指導者がいました。彼らは教師と預言者の役割をしました。彼らが断食して祈る時に聖様がおっしゃいました。 宣教を命じられた方は聖靈様でいらっしゃいます。 世の中には使命者が多いです。使命者という話は命令を敬ってお手伝いする人です。 お手伝いをする人の種類が多いです。 しかし誰の命令に従うのかということは、使命者からとても重要です。 事務室でお手伝いをする人を昔は給仕といいました。学校を守る人の小使もありました。 しかし同じ小使でも国で大統領が外国に送った給仕を大使といいます。給仕も小使も大使もみんなお手伝いをする人ですだが、誰が送ったのか、誰の命令により動くかというのは、使命者にとって、その使命を成し遂げるのに重要なのです。 福音宣教をすることは容易なことではありません。 苦難と逆境が待ちます。しかし神様である聖靈が命じられたことという認識をする時は使命を耐えられるために生命を出しておくことになります。 パウロが話した通り(行20:24)、私の走って行く道と主イエスに受けた使命、すなわち神様の恵みの福音を証拠する仕事を終えようとするということには私の生命を少しも尊いものに感じないのです。自分の生命を尊いのと思いません。生命は尊いのです。しかし使命者には使命が生命よりさらに尊いのです。 また申し上げます。私たちの教会の幹事が宣教師に出て行かなければならない時がちかついましたが、宣教現場が昨日と今日が違います。宣教師がどんな困難を経験するべきかは誰あも知りません。このようだから私たちは祈るべきです。 神様である聖靈がおっしゃいます。神様が言い付けました。 宣教は神様の関心事です。 教会は神様の聖靈が命じられた宣教をしなければなりません。これが真の教会です。 また、聖靈が宣教する人を呼んだとおっしゃいました。 宣教使命者は聖靈が呼ばれた人です。 エレミに(エレミヤ1:5)、「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを 聖別し、あなたを 立てて万國の預言者とした。」とおっしゃったように、パウロを呼ばれる時から神様が彼を異邦人の使徒で使えようとして呼んだことをおっしゃいました。 皆さん福音傳道と宣教は救援された者ならば誰でもしなければならない使命です。 私たちを王のような祭司長だとぺテロはいいます。広い意味で見る時は私たちがみな祭司長で宣教者になるべきです。 しかし誰でもしなければならないが、誰もがするのではありません。 特別にたてるということをすべきです。 神様が旧約のイスラエルがみんな祭司長国家だといいましたが、その中で特別に預言者を呼ばれたし、イエス様が輩中で弟子らを呼んで弟子らを養育して使徒に送られたように、神様が呼ぶ第2次天の命令という特別に呼ばれるということがあります。この呼ばれるということのために生命を出しておいて忠誠をつくす使命があるのです。 アンテオ教会には預言者らと教師たちがいました。 “さて、アンテオケにある敎會には、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、およびサウロなどの預言者や敎師がいた。”のです。しかし聖靈はこれらをみな呼ばれはしなくて、“バルナバとサウルを別にたてなさい”といいました。 聖靈の命令された、その宣教命令を成し遂げるために聖靈が別にたてろというひとがいます。そうではなくてはこのことを耐えられません。 牧師もそうです。 教会の中に多くの教師たちと職分者などがあるが、それでも福音を伝える専任使役者などでたてるということを受けるのは区別して別にたてられた者です。信じて下さい。 今日韓国教会の困難は牧師が、別にたてるということを受けた者というこの認識がなくなったところが問題です。だから使命感を持って、くださった職分を耐えられることができなくて聖徒がこれを認めないところから牧場の危機、教会の危機がきたのです。 この責任は聖徒の皆さんにあります。 子供らの中にも信仰的に人格を整えた子供らに対して神様の呼ばれるということがあっても、献身するように両親が許さないために、失敗が多くて過ちが多い人でも神様が呼んで使っていますが、こうするから教会の使役に副作用が多いのです。 だから勉強がよくできないから神学校に送ろうという考えは今はしないでください。神学大学校に入って勉強するのもそんなに容易ではありません。しかし勉強が上手だったらとその人が牧師になろうとしますか? まず神様の呼ばれるということが先行するべきです。牧会をすればするほどこの天の命令の重要性をさらに感じます。 私たちの教会の教友の皆さんがみんな福音の献身者になられることを祈願します。しかし聖靈が命じられた命令のために、聖靈の呼んだことを受けて献身して下さい。 献身者は聖書を見ても格別に聖書が見えます。 マタイによる福音書28章に神様は命じられました。行きなさい。すべての種族に行けとの命令が他の人はまあまあに聞こえるが、神様が呼ばれた者はこの命令がすぐに神様が自分に直接命じられる命令で急に強く聞こえるようになる人々です。多くの人々が教会の中にいますが、みんな必ず一緒に聞こえられるのではありません。特別に神様の国に対する関心があって、福音に対する熱い使命が起きるでしょう。 何のために聖靈が献身者、使命者を呼んでたてますか? 2週を仕えて断食する時に聖靈がいわく、私が呼んでさせることのためにバルナバとサウルを別にたてなさいといったんです。“私が呼んでさせることのために。”  聖靈がなぜいらっしゃいましたか? 聖靈が教会をたてて、教会が使役者などをたてるようにする理由があります。聖靈がしようと思うことがあります。それはキリストの福音宣教です。これを聖靈が主導されるのです。たてられた教会を通じて、また、使命者らを通じて成し遂げています。このために私たちにさせることがあります。 宣教は聖靈がすることです。 聖靈の命じられた通り、聖靈の仕事をするために聖靈が別にたてた人が宣教使命者です。 聖靈がしようと思う宣教の仕事をするためには、使役者の自分の意向のままにしてはならないのです。聖靈がさせられ次第動かなければなりません。 宣教は聖靈が主体者になります。 宣教の命令は聖靈の命令です。 宣教使役者は聖靈が別にたてられた者です。 宣教は聖靈のさせる仕事をすれば良いです。 この原理を宣教するという教会や宣教使役者や宣教団体が忘れてはいけません。 二番目に私達が知ることは宣教は聖靈が主体だが、それを行うのは地上の教会に命じられたのです。宣教するバルナバとパウロを別にたてろと教会に命じました。 聖靈が主体者になれば私たちの人間側からは何の仕事もしないで待てば良いでしょうか?そうではありません。聖靈がこのことを教会に任せました。 誰がこの仕事をしますか?教会がこのことをします。 教会は何ですか?神様の国民ら、キリストの使節が成し遂げた偉大な神様の子供の群れです。 教会は単に建物ではありません。 神様の民を示して教会といいます。 宣教の主体は聖靈で、宣教は教会にくれた命令です。今日宣教団体がたくさんありますが、宣教団体が分からなければならないのは、宣教は聖靈が教会に命じられたことだということです。 宣教団体は一つの教会でたてた、教会と関係を切ることはできない、教会の宣教助力団体になるべきです。今日多くの宣教団体が教会を離れて団体を作りながら聖靈がたてられた教会を無視して、何をするとしていますが、これは誤ったのです。宣教団体があるとしても、あくまでも教会と連合して宣教をするのです。宣教団体が立てられるのはこういうものです。教会が当然宣教をしなければならないが、教会もまた、色々な使命を耐えられなければならないですが、これをまともに耐えられることができないので、聖徒が自生的に宣教団体をたてて宣教を叫んで宣教をしてきました。しかし教会がする宣教がさらに多いです。その宣教団体が教会を仕えるべきです。宣教団体の仕事をする人々も自分の教会を仕えながらしてこそ、その意義があるのです。 今日私たちの現実は、多くの宣教団体らと教会がこの関係を忘却して衝突することがあるのです。教会も宣教団体らを異端視しないで、抱かなければならず、宣教団体も教会の中にあるべきです。また、宣教の実が教会をたてることです。この関係が誤れば聖靈がしろという仕事をするといいながら教会の連合を破るので結局宣教の目的を成し遂げられません。 今日の本文が宣教の開始なら、この宣教の開始もアンテオケ教会という教会に神様である聖靈がおっしゃったのです。 アンテオケ教会に預言者らと教師たちがいました。アンテオケ教会はエルサレム教会とは違うように教会の中に多様な人々がいるということを見ることができます。 バルナバ: 行4:36でキプロス出身のレビ族の人だといいます。 ニゲル: シメオンともいうニゲルは、ニグロ(皮膚が黒い)という話なのにアフリカから来たある改宗者です。 ルキオ:クレネから来たルキオは、ローマ圏から来た人です。 ヘロデの乳兄弟マナエンは、洗礼ヨハネを殺したヘロデと一緒にお母さんの乳を飲んで寝たという弟で高い権力層の人であることを話します。 このように多様な部類の人々がアンテオケ教会に集まりました。 教会は集いです。キリストの血で救贖を受けた聖徒らの集いです。なぜ聖靈が教会をたてましたか?私たちの教会の中にも多様な人々が集まっていますが、しかしこの教会は一致を成し遂げるべきです。何のためにですか?聖靈が命じられた宣教をするためです。 このように立てられたアンテオケ教会が初めてしたことは何ですか? 彼らは福音を伝えました。彼らは世の中でも真の生活を送ってキリスト人という称号を得ることになりました。その教会は日照りで苦労するエルサレム教会を助けることにしました。 このように宣教のために立てられたのが教会ですが、教会は究極的目的の宣教のために多様なことをまたしなければなりません。これが宣教団体と違った点です。 傳道して、教育して、奉仕することをしなければなりません。どれ一つでも偏ったり足りなければ円満な教会になりません。 救済するアンテオケ教会が宣教する教会の使命もよく耐えられます。私たちの教会も私たちの周辺にある貧しい人々を助けること、私たちの教会の中にある貧しい人々を助けることです。愛を持って、これを先に先行にならなければなりません。 しかし教会は救済団体ではありません。世の中に対する奉仕をするために立てられたところではありません。 アンテオケ教会は救済にだけ留まっていはできないのです。福音は救済にだけ留まりません。進んで宣教しました。 アンテオケ教会の指導者は預言者と教師だったと本文にはおっしゃいましたが、これらの三種類のことを教会の中でして、教えました。 宣教する教会になるためにです。 第一に彼らは預言者と教師の職務を引き受けました。 預言者は予言者として御言葉を宣言する役割をする人です。 神様の御言葉を予言して宣言してその時代に神様の御言葉をあたえる役割です。御言葉を教える役割です。 誰でもキリスト人はいつもどんな所でも御言葉を学び教えて宣言するべきです。 御言葉が分からなくては信仰生活はできません。 宣教使役者も、教会の一般信者使役者も御言葉が分からなければ何もできません。 それで私は、献身するという人々に最小限の神学をすることをいいます。称賛献身者になるといっても神学をしなければなりません。牧会をするといえば、より一層正統神学をしなければなりません。聖書が分からなくては私の心のままにする信仰生活になるしかありません。 それでも韓国教会に大きい教会、本当に正しく立て直した教会がそれでも牧師がすぐにできていて、その方が神学をした方々であることは感謝すべきです。 私たちのキリスト人は聖書を皆知るべきです。 世の中の勉強をするのは必要によってすることですが、聖書の御言葉を勉強するのはこれは私たちの人生全体であるためです。 聖書を分からなくては信仰生活をするといっても主観的です。 使徒の教えを受けられるよう願います。 どんな人でも御言葉を学び御言葉を教えてしなければなりません。教会だけ行ったり来たりせずに御言葉を学び御言葉を教えてしなければなりません。 御言葉は運動力があります。生きています。 御言葉がある時私たちは疲れません。孤独ではありません。疲れません。しかし御言葉がない時は疲れて、うつ病になりやすいです。御言葉を毎日教えて習って一緒にすることで蘇生力があるキリスト人になられるようお願いします。 二番目に彼らは神様に奉仕する生を生きました。 互いに奉仕します。きて礼拝だけ差し上げて行くことは、劇場式礼拝です。信仰は熱心に教会出てきて奉仕するのです。御言葉を持って熱心に奉仕すれば信仰ができます。 教会に愛情を持って献身して奉仕して下さい。ここが私の教会だという考えを持つ時に忠誠があることになります。 お客さんは恩恵受けられません。お客さんは皿洗いする必要がありません。食べ物だけ食べて、コーヒーも格好良く飲んでそのまま行けば良いです。 しかし主人は皿洗いをします。そして器を乾いた布巾できれいに磨いて入れておきます。これらは神様を仕える喜びが教会を仕える喜びがありました。それで彼らには愛情ができます。ここが私の教会だ、私が仕えることができる教会だ、忠誠できる教会を持っているということを幸せになって下さい。 三番目に彼らは祈りました。 御言葉があったし、奉仕があったし、祈祷がありました。 信仰生活は出血する闘争です。死ぬか、生きるかという戦いです。汗が血になるべく祈らなければ勝つことができない戦いの現場です。どのように聖書を読まないで、断食もしてみないで、山祈祷も一度してみなくて、夜を明かして祈祷も一度してみなくて勝利する信仰生活がありますか? 本当に信仰生活をよくするならそのような献身と闘争がいるのです。信実な奉仕、切実な祈り、それが行き過ぎれば断食しないですか? 断食は退屈ですることではありません。本当にご飯を食べることができなく、寝ることができないので、それで断食をするのです。 四回目この教会は宣教師を出しておきました。 宣教は聖靈が準備して予備された人々を通じてするのにこの教会は“バルナバとパウロを別にたてなさい”という聖靈の音声のとおりその教会の最も有力な一群の牧師だと言えるバルナバとパウロを宣教に出しておきました。アンテオケ教会が自分の教会だけを考えるならばこのようなことはできません。 私は私たちの教会聖徒が神の栄光教会に登録されたら教会を離れないで教会中心の信仰生活をすることをお願いします。それで移っても教会中心に、学校を進学しても教会中心に、結婚をしてもそのようにしたらと思います。一教会を仕えることがどれくらい重要なのかわかりません。無条件ソウルから地方に送るのは考えてみなければならない問題です。 しかしこのより尊いことに献身することを決意する人々が起きてこの教会をみな離れることになるならばそれは本当に祝福することだと考えます。 私たちの人生は献身しなければなりません。神様に献身することが人生の本質です。献身をすれば優先順位ができます。 皆さんは果たして誰に献身していますか? 一番かわいそうな人は献身する所さえない人です。 なるように生きる人、良い状態によって生きる人、良い条件与えれば付いて回る人が不幸な人です。 だから自分が献身しなければならない対象がなければなりません。 神様は今日も献身者を探します。 皆さんがどんな職業を持っていても、どんな都合にあっても、神様に献身することを決心することになるようお願いします。 献身すれば心が決定されます。献身すればこちらに行くかあちらに行くか悩まなくなります。なぜなら献身すればどこへ行かなければならないのか決定になるためです。 パウロは献身しました。ぺテロも献身した人です。 私たちも献身できるようお願いします。私の心が確定したなら、世の中が私を揺さぶることができないでしょう。 聖靈のはたらかれるということについて聖靈の命じられた宣教する神の栄光教会になるのを祈願します。アーメン。 선교하는 주님의영광교회 행13:1-3 저는 내일부터 중국 선교를 떠납니다. 내일 아침 인천공항에서 8시 30분 비행기로 옛날 만주의 봉천, 지금은 중국의 선양(沈陽)으로 떠납니다. 성령께서 저를 그곳으로 인도해 주시는 것을 참으로 감사드립니다. 제가 목사가 되기 전에 오래 전에 벌써 15년 전에 비전으로 보았습니다. 제가 집사 때에 교회에 새벽기도하러 가서 기도하고 있는데 제가 눈을 감고 있는데 눈앞에 뭐가 보이는 것이었습니다. 사람들이 많이 모여 있는데 강단에 중국 사람이 누군가를 소개했습니다. “셴자이 쟝웨한 무스 라이 쟝다오(現在姜約翰牧師來講道)”(이제 강요한 목사님이 나오셔서 설교하시겠습니다.) 그런데, 강단에 나와서 중국어로 설교하는 목사님 얼굴을 보니 아니 바로 제 얼굴이 아니겠습니까? 그 때 제 이름은 강영래였습니다. 분명히 강요한 목사님이 나오신다고 했는데 그곳에서는 제 이름이 강요한, 중국어로 쟝웨한이었습니다. 이제 내일이면 15년 전에 제가 분명히 보았던 그 비전이 실제로 이루어질 날이 다가오고 있습니다. 아무 생각 없이 살고 있던 저에게 하나님이 그 꿈을 꾸게 하시고 15년이 지난 오늘 그 꿈을 이루어 주시는 하나님께, 저를 세심하게 인도하고 계시는 성령님께 진심으로 감사를 드립니다. 성령님, 앞으로의 모든 일을 성령님께 맡기오니 성령님께서 친히 이끌어 주시옵소서. 아멘. 그 꿈대로 멀지 않아서 중국에 션더룽야오쨔오훼이(神的榮耀敎會:주님의영광교회)가 세워질 줄 믿습니다. 저를 부르신 하나님이 그 일을 하라고 하셨으니 하나님이 다 책임져 줄 것이니까 저는 하나님이 시키시는 대로만 하면 됩니다. 걱정할 것이 없습니다. 왜냐하면 하나님이 다 이루어 주실 줄을 확실히 믿기 때문입니다. 우리들은 사도행전의 말씀을 살펴보아야 합니다. 우리들이 2000년 전의 사도 때의 모습을 살펴보는 것은 하나의 지나간 교회 이야기를 살펴보는 것으로 그치지 않습니다. 사도행전은 성령께서 교회와 사도들을 붙들고 어떻게 복음 전파하는 역사를 하셨는가 하는 것을 살펴보는 것인데, 초대교회와 사도들에게 임하셨던 동일하신 살아계셔서 역사하시는 성령께서 오늘 우리에게도 충만히 임하여 계심을 믿고, 성령의 인도를 따라 복음 전하는 일을 하려하는 목적입니다. 사도행전 1:8은 사도행전 전체를 이끄는 말씀입니다. 또한 이 말씀은 지금 우리들을 이끄는 말씀이기도 합니다. 역시 우리들도 사도행전의 연장에 있고, 사도행전의 인물들입니다. 사도행전 1-7장은 예루살렘 교회의 모습을 설명하고 있습니다. 성령의 충만을 받은 예루살렘 교회가 어떻게 지내왔습니까? 그 교회는 말씀과 기도와 전도하기를 힘을 썼습니다. 사랑이 넘쳤고, 봉사가 있었습니다. 그로 인한 하나님의 놀라운 기적의 역사가 있었던 교회입니다. 이 교회가 날마다 수를 더하는 부흥이 있었습니다. 건강한 교회는 반드시 성장하는 것을 배웠습니다. 오늘 우리 교회에도 예루살렘의 부흥하는 모습이 있기를 축원합니다. 그러나 성령께서는 예루살렘에만 모여 있고 흩어지지 않는 예루살렘교회에 핍박이라는 도구를 사용하여 온 유대와 사마리아까지 복음을 전하게 했습니다. 8-12장은 복음은 예루살렘에 왔지만 이 복음은 예루살렘에만 머물러 있지 않았음을 보여주었습니다. 핍박으로 예루살렘과 온 유대와 사마리아와 땅끝까지 복음이 전파되었습니다. 예루살렘에 온 복음은 온 유대와 사마리아로 확장된 것입니다. 복음의 성질이 그러합니다. 나를 구원한 이 복음은 나에게 왔지만 나에게서 그쳐지는 복음이 아닙니다. 복음은 우리에게 왔지만 우리에게 제한되지 않습니다. 복음을 받은 사람은 가만히 있지 않습니다. 그리스도인은 그리스도로 인하여 살아난 사람이고, 그리스도로 인하여 사는 사람입니다. 그가 진정 그리스도로 인하여 살아난 것을 알고, 그리스도로 날마다 사는 사람이라면 아이를 밴 여인이 밴 아이를 낳을 수밖에 없는 것 같이 자기 속에 잉태된 새 생명 되신 그리스도를 전파하는 사람이 될 수밖에 없습니다. 고난이 일어난다고 해도 그 고난 때문에 막히지 않는 사람입니다. 복음은 예루살렘에만 제한되지 않았습니다. 핍박과 고난 때문에 흩어진 그리스도인들이 유대와 사마리아로 전진하게 되었고 모든 이방인들에게 이 복음은 흘러가게 되었습니다. 그것이 8-12장의 말씀입니다. 빌립이 사마리아를 전도하고 성령이 그들 위에 임하게 되었습니다. 이에 예루살렘 교회는 베드로와 요한을 보내고 성령의 역사임을 확인하게 됩니다. 사마리아와 유대 땅에도 복음이 전해진 것입니다. 특히 로마 백부장인 고넬료와 유대인 사도 베드로는 만날 수 없는 사람들이 만난 것입니다. 그러나 성령의 강권적인 은혜 역사 가운데 일어난 사건입니다. 역동적으로 역사하는 복음의 진행은 우리들의 고정관념을 깨게 만듭니다. 도무지 만날 수 없는 사람들이 만나는 것입니다. 도무지 일어날 수 없는 일을 가능하게 만드는 복음의 능력입니다. 어떤 막힌 벽을 헐게 하는 것이 복음의 역사임을 믿습니다. 성령의 역사는 만날 수 없는 사람들을 만나게 하는 것입니다. 이런 성령의 역사를 체험할 수 있기를 바랍니다. 만날 수 없는 사람을 만나게 하고, 할 수 없는 일을 하게 하십니다. 주일학교 반사를 해 보시면 이런 일을 가능하게 하시는 성령의 역사를 체험하게 될 것입니다. 나는 할 수 없지만 주님은 불가능이 없습니다. 우리는 불가능한 벽에 부딪치지만 내 안에 그리스도 안에서는 무한한 능력이 있습니다. 무엇보다 큰 기적의 역사는 바울의 회심입니다. 사도행전 9장에서 나타난 철저한 율법주의자요, 교회를 반대하고 박해했던 사울이라는 청년의 회심은 한 개인의 회심 사건에 불과하지만, 이것 또한 하나님께서 이방 선교를 위해서 일으키신 놀라운 역사입니다. 바울에게만 일어난 일로 아시면 안 됩니다. 오늘도 그러합니다. 나를 구원시키신 성령께서 나를 부르시고 세우셔서 나로는 할 수 없는 일을 하게 하십니다. 그러므로 복음을 전하면서 이 복음을 도무지 받아들이지 않고 오히려 반대하며 핍박하는 사람을 만나도 실망하거나 포기하지 말기 바랍니다. 여기에 하나님의 역설적인 진리가 있음을 믿으시기 바랍니다. 반대자를 거꾸러뜨려 복음전파자로 만드실 수 있는 하나님이십니다. 다만 우리들에게 이 믿음이 있느냐 하는 것이 문제입니다. 바울을 변화시킨 복음은 바울에게서 머무르지 않았습니다. 그를 사용하신 성령께서 그를 통하여 복음을 온 세계에 터뜨리는 일을 하셨습니다. 구속사적인 삶을 사시기 바랍니다. 여러분, 예수를 믿어 구원 얻으신 것을 믿으십니까? 이 은혜를 감사하는데서 머무르면 안됩니다. 이제 하나님은 나를 통하여 영광을 받으시려 하신다는 것입니다. 하나님께서 나를 구원하심에는 뜻이 있음을 믿으시기 바랍니다. 나를 오늘도 세상에 두시면서 각양의 은혜를 베푸시는 데에는 하나님이 우리에게 요구하시는 기대와 목적이 있습니다. 그것이 무엇이겠습니까? 오늘 읽은 본문은 13-28장에서 나타나는 복음이 땅 끝까지 전파되는 그 시작을 보여주는 말씀인데, 이제까지 베드로를 통하여 예루살렘을 중심해서 역사하시던 성령께서 바울을 통하여 민족과 국가, 모든 문화의 벽을 넘어서서 역사하심을 보여줍니다. 이방인들을 향한 선교의 역사가 여기에 기록이 되어 있습니다. 그런 의미에서 안디옥교회 라는 불과 세운지 얼마 안 되는 작은 교회가 바울과 바나바를 선교사로 파송시키는 장면을 기록한 오늘 읽은 이 본문은 선교의 본질이 어떤가를 알려주고 있습니다. 선교가 무엇입니까? 선교를 알고 해야 합니다. 열정만 가지고 안 됩니다. 성경으로 돌아가야 합니다. 2000년 선교역사에서 바른 선교를 어떻게 해야 하는가는 이 본문 말씀에서 교과서 삼아야합니다. 행 13:1 안디옥 교회에 선지자들과 교사들이 있으니 곧 바나바와 니게르라 하는 시므온과 구레네 사람 루기오와 분봉왕 헤롯의 젖동생 마나엔과 및 사울이라 2 주를 섬겨 금식할 때에 성령이 가라사대 내가 불러 시키는 일을 위하여 바나바와 사울을 따로 세우라 하시니 3 이에 금식하며 기도하고 두 사람에게 안수하여 보내니라 우리가 이 말씀에서 무엇을 제일 먼저 발견하게 됩니까? 안디옥교회가 선교를 시작했구나 하는 사실을 깨닫는 사람도 있겠습니다만, 오늘 말씀은 선교의 주체가 성령이심을 보여줍니다. 선교의 주체는 하나님, 곧 성령이심을 믿으시기 바랍니다. 결코 어떤 한 인간이 선교의 주체자는 될 수 없습니다. 2 주를 섬겨 금식할 때에 성령이 가라사대 내가 불러 시키는 일을 위하여 바나바와 사울을 따로 세우라 하시니 누가 말씀하신 것입니까? “성령이 가라사대” “내가 부른 바나바와 사울이다” “내가 시키는 일을 하기 위하여” “너희가 따로 세우라” 안디옥 교회는 1절에서 보인대로 영적 지도자들이 있었습니다. 그들은 교사와 선지자의 역할을 했습니다. 그들이 금식하며 기도할 때에 성령님이 말씀하셨습니다. 선교를 명하신 분은 성령님이십니다. 세상에도 사명자들이 많습니다. 사명자라는 말은 명을 받들어서 심부름하는 사람입니다. 심부름을 하는 사람의 종류가 많습니다. 그러나 누구의 명령을 따른 것인가 하는 것은 사명자에게서 중요합니다. 사무실에서 심부름을 하는 사람을 옛날에는 ‘급사’라고 했습니다. 학교를 지키는 사람 ‘소사’도 있습니다. 그러나 같은 심부름꾼이라도 나라에서 대통령이 외국에 보낸 사환을 대사라고 합니다. 급사나 소사, 대사가 다 심부름하는 사람이지만 누가 보냈는가, 누구의 명령에 따라 움직이는가 하는 것은 사명자에게 그 사명을 감당하는데 중요한 것입니다. 복음 선교를 하는 일이 쉬운 일이 아닙니다. 고난과 역경이 기다립니다. 그러나 하나님이신 성령께서 명하신 일이라는 인식을 할 때는 사명을 감당하기 위해서 생명을 내어놓게 됩니다. 바울이 말한 대로 (행 20:24) 나의 달려갈 길과 주 예수께 받은 사명 곧 하나님의 은혜의 복음 증거 하는 일을 마치려 함에는 나의 생명을 조금도 귀한 것으로 여기지 아니하노라 생명을 귀한 것으로 여기지 않습니다. 생명이 귀한 것입니다. 그러나 사명자에게는 사명이 생명보다 더 귀한 것입니다. 또 말씀드립니다. 우리 이지순 간사가 선교사로 나가야할 때가 다 되었는데, 선교현장이 어제와 오늘이 다릅니다. 선교사들이 어떤 어려움을 겪어야할지 모릅니다. 이렇기 때문에 우리들이 기도해야합니다. 하나님이신 성령께서 말씀하십니다. 주님께서 분부하셨습니다. 선교는 하나님의 관심입니다. 교회는 하나님의 성령이 명하신 선교를 해야 합니다. 이것이 진정한 교회입니다. 또한 성령께서 선교할 사람을 불렀다고 말씀하셨습니다. 선교 사명자는 성령께서 부르신 사람입니다. 예레미야에게 (렘 1:5) 내가 너를 복중에 짓기 전에 너를 알았고 네가 태에서 나오기 전에 너를 구별하였고 너를 열방의 선지자로 세웠노라 말씀하신 것 같이, 바울을 부르실 때부터 하나님께서 그를 이방인의 사도로 쓰시겠다는 부르심을 말씀했습니다. 여러분 복음 전도와 선교는 구원받은 자라면 누구라도 해야할 사명입니다. 우리를 왕 같은 제사장으로 세우신 그 넓은 의미에서 볼 때는 우리가 다 선교자가 되어야합니다. 그러나 누구라도 해야하지만 아무나 하는 것은 아닙니다. 특별히 세움을 입어야합니다. 하나님께서 구약의 이스라엘이 다 제사장 나라이지만, 특별히 선지자를 부르셨고, 예수님께서 무리들 가운데서 제자들을 부르시고 제자들을 양육해서 사도로 보내신 것 같이, 하나님께서 부르시는 제 2차 소명이라는 특별한 부르심이 있습니다. 이 부르심 때문에 생명을 내어놓고 충성 다하는 사명이 있는 것입니다. 안디옥교회에는 선지자들과 교사들이 있었습니다. “곧 바나바와 니게르라 하는 시므온과 구레네 사람 루기오와 분봉왕 헤롯의 젖동생 마나엔과 및 사울”입니다. 그러나 성령께서는 이들을 다 부르시지는 않고 “바나바와 사울을 따로 세우라”고 하셨습니다. 성령의 명령하신 그 선교명령을 이루기 위해서 성령께서 따로 세워라고 하여서 세우신 사람이어야 합니다. 그렇지 않고는 이 일을 감당하지 못합니다. 목회자도 그렇습니다. 교회 안에 많은 교사들과 직분자들이 있지만 그래도 복음을 전할 전임사역자들로 세움을 받는 것은 구별하여 따로 세우신 자입니다. 믿으시기 바랍니다. 오늘 한국교회의 어려움은 목회자가 따로 세움을 받은 자라는 이 인식이 없어진 데서 온 것입니다. 그러니 사명감을 가지고 주신 직분을 감당하지 못하고 성도들이 이를 인정하지 않는데서 목회의 위기, 교회의 위기가 온 것입니다. 이 책임은 성도 여러분들에게 있습니다. 자녀들 가운데도 신앙적으로 인격을 갖춘 자녀들에 대하여 하나님의 부르심이 있어도 헌신하도록 부모가 허락하지 않기 때문에 저 같이 실수 많고 허물 많은 사람이라도 하나님께서 불러서 쓰시는데 이러니까 교회 사역에 부작용이 많은 것입니다. 그러나 공부가 안되니까 신학교나 보내자는 생각은 이제는 안 할 것입니다. 신학대학교 들어가기가 그렇게 쉽지 않습니다. 그러나 공부만 잘한다고 그 사람이 목회자가 되겠습니까? 하나님의 부르심이 선행되어야합니다. 목회를 하면 할수록 이 소명의 중요성을 더 느낍니다. 우리 교회 교우 여러분들이 다 복음의 헌신자가 되시기를 축원합니다. 그러나 성령께서 명하신 명령 때문에, 성령의 부르심을 받고 헌신하시기 바랍니다. 헌신자는 성경을 봐도 남다르게 성경이 봐집니다. 마태복음 28장에 주님이 명하신 가라, 모든 족속에게 가라는 명령이 다른 사람들은 그저 그렇게 들리는데, 하나님이 부르신 자는 이 명령이 바로 주님께서 자기에게만 명하신 명령으로 급하게 강하게 들려지는 사람들입니다. 많은 사람들이 교회 안에 있지만, 다 꼭 같이 들려지는 것은 아닙니다. 특별히 하나님 나라에 대한 관심이 있고, 복음에 대한 뜨거운 사명이 일어날 것입니다. 무엇을 위해서 성령께서 헌신자, 사명자를 부르시고 세우십니까? 2 주를 섬겨 금식할 때에 성령이 가라사대 내가 불러 시키는 일을 위하여 바나바와 사울을 따로 세우라 하시니 “내가 불러 시키는 일을 위하여” 성령께서 왜 오셨습니까? 성령께서 교회를 세우시고, 교회가 사역자들을 세우도록 하시는 이유가 있습니다. 성령께서 하시고자 하시는 일이 있습니다. 바로 그리스도의 복음 선교입니다. 이를 성령께서 주도하시되 세우신 교회를 통해서 또 사명자들을 통해서 이루시는데 이를 위해서 우리들에게 시키는 일이 있습니다. 선교는 성령께서 하시는 일입니다. 성령의 명하신 대로 성령의 시키시는 일을 하기 위해서 성령께서 따로 세운 사람이 선교 사명자입니다. 성령께서 하시고자 하는 선교의 일을 하기 위해서는 자기 뜻대로 해서는 안 됩니다. 성령께서 시키시는 대로 움직여야 합니다. 선교는 성령께서 주체자가 됩니다. 선교의 명령은 성령의 명령입니다. 선교사역자는 성령께서 따로 세우신 자입니다. 선교는 성령의 시키시는 일을 하면 됩니다. 이 원리를 선교한다는 교회나 선교사역자나 선교단체가 잊어서는 안 됩니다. 두 번째 우리가 알 것은 선교는 성령이 주체이지만 그것을 행하는 것은 지상의 교회에게 명하신 것입니다. 선교할 바나바와 바울을 따로 세우라고 교회에게 명하셨습니다. 성령께서 주체자가 되시면 우리 인간 측에서는 아무 일을 하지 않고 기다리면 되는가 그렇지 않습니다. 성령께서 이 일을 교회에게 맡기셨습니다. 누가 이일을 합니까? 교회가 이일을 합니다. 교회는 무엇입니까? 하나님의 백성들, 그리스도의 피로 사신 지체들이 이룬 거룩한 하나님의 자녀의 무리입니다. 교회는 단지 건물이 아닙니다. 교회는 하나님의 백성을 가리켜 교회라고 합니다. 선교의 주체는 성령이시고, 선교는 교회에게 주신 명령입니다. 오늘 선교단체들이 많이 있지만 선교단체들이 알아야하는 것은 선교는 성령께서 교회에게 명하신 것이라는 것입니다. 선교단체는 하나의 교회에서 세운 교회와 관계를 끊을 수 없는 교회의 선교조력단체가 되어야합니다. 오늘 많은 선교단체들이 교회를 떠나서 단체를 만들면서 성령께서 세우신 교회를 무시하고, 무엇을 한다고 하지만 이것은 잘못된 것입니다. 선교단체가 있다고해도 어디까지나 교회와 연합해서 선교를 하는 것입니다. 선교단체가 세워지는 것은 교회가 마땅히 선교를 해야 하지만 교회는 또한 여러 가지 사명을 감당해야하는데, 이를 제대로 감당하지 못하므로 성도들이 자생적으로 선교단체를 세워서 선교를 부르짖고 선교를 해 왔습니다. 그러나 교회가 하는 선교가 더 많습니다. 그 선교단체들이 교회를 섬겨야합니다. 선교단체의 일을 하는 사람들도 자기 교회를 섬기면서 해야 바로 된 것입니다. 오늘 우리 현실은 많은 선교단체들과 교회가 이 관계를 망각해서 충돌되는 일이 있습니다. 교회도 선교단체들을 이단시 말고, 품어야하고, 선교단체도 교회 안에 있어야합니다. 또 선교의 열매가 교회를 세우는 것이 됩니다. 이 관계가 잘못되면 성령께서 하라는 일을 한다고 하면서 교회의 연합을 깨므로 결국 선교의 목적을 이루지 못합니다. 오늘 본문이 선교의 시작이라면 이 선교의 시작도 안디옥 교회라는 교회에게 하나님이신 성령께서 말씀하신 것입니다. 안디옥교회에 선지자들과 교사들이 있었습니다. 안디옥 교회는 예루살렘 교회와는 다르게 교회 안에 다양한 사람들이 있음을 볼 수 있습니다. 바나바-행4:36에 구브로 출신의 레위족이라고 합니다. 니게르라는 시몬- 니게르는 니그로(피부가 검은)이란 말인데 아프리카에서 온 한 개종자입니다. 루기오-구레네에서 온 루기오, 로마권에서 온 사람입니다. 헤롯의 젖동생 마나엔- 세례요한을 죽인 헤롯과 어머니 젖을 함께 먹고 자란 동생으로 높은 권력층의 사람임을 말합니다. 이렇게 다양한 부류의 사람들이 안디옥 교회에 모였습니다. 교회는 모임입니다. 그리스도의 피로 구속받은 성도들의 모임입니다. 왜 성령께서 교회를 세우셨습니까? 우리 교회 안에도 다양한 사람들이 모여 있는데, 그러나 이 교회는 일치를 이루어야합니다. 무엇을 위해서입니까? 성령께서 명하신 선교를 하기 위해서입니다. 이렇게 세워진 안디옥 교회가 처음으로 한 일이 무엇입니까? 그들은 복음을 전했습니다. 그들은 세상에서도 진실된 삶을 살아서 그리스도인이라는 칭호를 얻게 되었습니다. 그 교회는 가뭄으로 고생하는 예루살렘 교회를 돕는 일이었습니다. 이렇게 선교를 위해서 세워진 것이 교회이지만, 교회는 궁극적 목적인 선교를 위해서 다양한 일을 또한 해야합니다. 이것이 선교단체와 다른 점이기도 합니다. 전도하며, 교육하고, 봉사하는 일을 해야 합니다. 어느 것 하나라도 치우치거나 모자라면 원만한 교회가 되지 못합니다. 구제하는 안디옥 교회가 선교하는 교회의 사명도 잘 감당합니다. 우리 교회도 우리 주변에 있는 가난한 사람들을 돕는 일, 우리 교회 안에 있는 가난한 사람들을 돕는 일. 사랑을 가지고. 이것이 먼저 선행이 되어야 합니다. 그러나 교회는 구제단체는 아닙니다. 세상에 대한 봉사하기 위해서 세워진 곳은 아닙니다. 안디옥 교회는 구제에만 머물러 있지는 않습니다. 복음은 구제에만 머물지 않습니다. 나아가 선교했던 것입니다. 안디옥 교회의 지도자들은 선지자와 교사라고 본문에는 말씀했는데, 이들은 세 가지 일을 교회 안에서 하고, 가르쳤습니다. 선교하는 교회가 되기 위해서 입니다. 첫째로 그들은 선지자와 교사의 직무를 맡았습니다. 선지자는 예언자로 말씀을 선포하는 역할을 하는 사람입니다. 하나님의 말씀을 예언하고 선포하고 그 시대에 하나님의 말씀을 주는 역할입니다. 말씀을 가르치는 역할입니다. 누구든지 그리스도인은 언제나 어떤 곳에서든지 말씀을 배우고 가르치고 선포해야합니다. 말씀을 모르고는 신앙생활을 못합니다. 선고사역자들이든지 교회의 평신도 사역자들이든지 말씀을 모르고야 아무 것도 하지 못합니다. 그래서 저는 헌신하겠다는 사람들에게 최소한 신학을 할 것을 말합니다. 찬양 헌신자가 되겠다고 해도 신학을 해야 합니다. 목회를 하겠다고 하면 더욱 정통신학을 해야 합니다. 성경을 모르고야 제 마음대로 하는 신앙생활이 될 수밖에 없습니다. 그래도 한국교회에 큰 교회, 정말 바로 세워진 교회들이 그래도 목회자들이 바로 되어있고, 그분들이 신학을 바로 한 분들임을 감사해야합니다. 우리 그리스도인들이 성경을 다 알아야합니다. 세상 공부를 하는 것은 필요에 의해서 하는 것이지만 성경 말씀을 공부하는 것은 이는 우리 삶 전체이기 때문입니다. 성경을 모르고는 신앙생활을 한다고 해도 주관적입니다. 사도의 가르침을 받으시기를 바랍니다. 어떤 사람이든지 말씀을 배우고 말씀을 가르치고 해야 합니다. 교회만 왔다갔다 하지 말고 말씀을 배우고 말씀을 가르치고 해야 합니다. 말씀은 운동력이 있습니다. 살아있습니다. 말씀이 있을 때 우리는 지치지 않습니다. 외롭지 않습니다. 피곤하지 않습니다. 그러나 말씀이 없을 때는 지치고, 우울증에 빠지기 쉽습니다. 말씀을 날마다 가르치고 배우며 함께 함으로 생동력이 있는 그리스도인이 되시기를 바랍니다. 두 번째로 그들은 주님께 봉사하는 생을 살았습니다. 서로 봉사합니다. 와서 예배만 드리고 가는 것, 극장식 예배입니다. 신앙은 열심히 교회 나와서 봉사하는 것입니다. 말씀을 가지고 열심히 봉사하면 신앙이 생깁니다. 얌체처럼 싹 먹고, 싹가는 사람이 되지 마십시오. 그 사람은 극장 가는 거에요. 교회에 애정을 가지고 헌신하고 봉사하십시오. 여기가 내 교회라는 생각을 가질 때에 충성이 있게 됩니다. 손님은 은혜 받지 못합니다. 손님은 설거지 할 것 없습니다. 음식만 먹고 커피도 멋지게 폼 잡고 먹고 그냥 가면 됩니다. 그러나 주인은 설거지를 합니다. 그리고는 그릇을 마른 행주로 깨끗이 닦아 넣어 놓습니다. 이들은 주님을 섬기는 기쁨이 교회를 섬기는 기쁨이 있었습니다. 그래서 그들에게는 애정이 생깁니다. 여기가 내 교회다. 내가 섬길 수 있는 교회다. 충성할 수 있는 교회를 가지고 있음을 행복해하시기 바랍니다. 세 번째로 그들은 기도했습니다. 말씀이 있었고, 봉사가 있었고, 기도가 있었습니다. 신앙생활은 피나는 투쟁입니다. 죽느냐, 사느냐 하는 싸움입니다. 땀이 피가 되도록 기도하지 않으면 이길 수 없는 싸움의 현장입니다. 어떻게 성경을 읽지 않고, 금식도 해보지 않고, 산 기도도 한 번 해보지 아니하고, 밤새서 기도도 한번 해보지 아니하고 승리하는 신앙생활을 할 수 있겠습니까? 정말 신앙생활을 잘하려면 그런 헌신과 투쟁이 있는 것입니다. 신실한 봉사, 간절한 기도, 그것이 지나치면 금식하지 않습니까? 금식은 심심해서 하는 일이 아닙니다. 정말 밥을 먹을 수가 없고, 잠을 잘 수가 없습니다. 그래서 금식을 하는 것입니다. 네 번째 이 교회는 선교사를 내어놓았습니다. 선교는 성령께서 준비하시고 예비하신 사람들을 통해서 하시는데 이 교회는 “바나바와 바울을 따로 세우라”는 성령의 음성대로 그 교회의 가장 유력한 일군인 목회자라고 할 수 있는 바나바와 바울을 선교에 내어놓았습니다. 안디옥교회가 자기 교회만을 생각한다면 이런 일을 할 수 없습니다. 저는 우리 교회 성도들이 주님의영광교회에 등록되었으면 교회를 떠나지 않고 교회 중심의 신앙생활을 하기를 소원합니다. 그래서 이사를 해도 교회 중심으로, 학교를 진학해도 교회 중심으로 결혼을 해도 그렇게 했으면 합니다. 한 교회를 섬기는 것이 얼마나 중요한지 모릅니다. 무조건 서울로 지방으로 보내는 것은 생각해봐야할 문제입니다. 그러나 이 보다 더 귀한 일에 헌신하기를 작정하는 사람들이 일어나서 이 교회를 다 떠나게 된다면 그것은 정말로 축복할 일이라고 생각합니다. 우리의 인생은 헌신해야 합니다. 하나님께 헌신하는 것이 인생의 본질입니다. 헌신을 하면 우선순위가 생깁니다. 여러분은 과연 누구에게 헌신하고 있습니까? 제일 불쌍한 사람은 헌신할 곳조차 없는 사람입니다. 되는대로 사는 사람, 좋은 형편 따라 사는 사람, 좋은 조건 주면 따라 다니는 사람이 불행한 사람입니다. 그러니 자기가 헌신해야 할 대상이 있어야 합니다. 하나님은 오늘도 헌신자를 찾으십니다. 여러분이 어떤 직업을 가지고 있든지, 어떤 형편에 있든지 하나님께 헌신하기를 결심하게 되기를 바랍니다. 헌신하면 마음이 결정이 됩니다. 헌신하면 이곳에 갈까 저곳에 갈까 고민하지 않게 됩니다. 왜냐하면 헌신하면 어디로 가야 하는지 결정이 되기 때문입니다. 바울은 헌신했습니다. 베드로도 헌신한 사람입니다. 우리들도 헌신할 수 있기를 바랍니다. 내 마음이 확정되었사오니, 세상이 나를 흔들지 못할 것입니다. 성령의 역사하심을 따라 성령의 명하신 선교하는 주님의영광교회가 되길 축원합니다. 아멘. 강영래 목사(인천 주님의영광교회)
アテネの様な日本で(아테네와 같은 일본에서)/ 使徒の働き 17:22-28(행17:22-28)/ 2016-07-14
アテネの様な日本で(아테네와 같은 일본에서) 使徒の働き 17:22-28(행17:22-28) ○ 題目:アテネの様な日本で ○ 本文: 使徒の働き17章22~28節(新改訳) ○ 導入:かつてローマの人々はクリスチャンを無神論者と言ってからかったそうです。キリスト教は変わった所が一つ二つではないからと言う理由でした。何より皇帝崇拝を拒否したのが一番の理由だったのです。皇帝は神でなくただの人間だとクリスチャン達が言い張ったからです。 また、伝統的な提案と儀式を拒絶したからです。彼らは大層な宗教儀式の代わりに、家庭に集まって共に食事をし、神様の御言葉と生活を分かちあったのです。神が人間になったと主張する事からして話にならないのです。 初めから神ではなかったか、何も敢えて煩わしく人間になる必要もなかったのです。神の姿を形成化する事も否定するとすぐに舌を打ちました。目に見えないのにどの様に信じろと言うのだろうか。決定的に神がまったく神の様ではないからだ。 帝国から外れた場所の青年、それも十字架にかかった死刑囚が神であると言う話しに、彼らの開いた口が塞がらなかったのです。彼らにとってそれは神でなくただの敗北者にしか過ぎなかったのだ。間違いのない無神論者だ。 初代教会が神の形成化を拒否した事は十戒と偶像化の問題のためだ。更に重要なのは、クリスチャンは彼ら自身が見えない神の姿になろうとした事だ。自分の顔が神様の顔になって、自分の生活がイエスの御言葉の一部になって、自分の体が聖霊に宮になって、自分の存在で神様が存在すると言う、生かされている証明になる事を望んだからだ。 それなら、別に神様の姿になる必要が何であるだろうか。そうでないからしきりに何かをして踏ん張って口で埋めようとするのではないだろうか? ○ 本題:さて、当時のローマの人達にとってクリスチャン達は、とても奇異に見えた事でしょう。今の導入部分の事を通しても、それは直ぐに想像出来る内容です。ともすれば、現在の日本の中でも多くの人達は、クリスチャン達に対して同じ様な目で見ているのかもしれません。 しかし、私達はその様なこの世の流れに流されては、決して「世の光、地の塩」としての役割を果たす事は出来ません。その意味でも、今日の本文に表されているアテネの偶像に満ちた社会の中で、パウロはどの様に唯一の神様を証しして行ったのか見てみたいと思います。 ○ ポイントの第一番目は、「まず彼らを受け入れる」と言う事です。さて、アテネと言う町はどの様な町だったのでしょうか。それは、今日の本文の前の所の17章16節を見ると端的に記録されています。“さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。”と。 確かに、この世はアテネだけではなくどこに行っても偶像だらけです。私達の国、日本も偶像のオンパレードです。そして、それが文化と言う名の元に、国民の生活の中に染みついているのが現実です。そして、アテネもまた例外ではなかったのです。パウロが憤りを覚える程だったので、それは相当なものだったのでしょう。 さて、その様な中でパウロはどう言う行動を取ったのでしょうか。本文の22節です。“そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。”と。 パウロのこの第一声はアテネの人達に決して気分を害する様な言葉ではありません。むしろ、「宗教心にあつい方々」と言われるとなんだか気分が良くなる言葉です。何気ないパウロのこの言葉が、聞いているアテネの人達には、敵対心を払拭する様な言葉だったのです。 そして、更にパウロは本文の23節で、次の様に語ります。“私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。”と。 これも、アテネの人達が崇拝している対象に対して、関心を持っていると思わせる様な言い方です。この様にして、福音に反する人達に接する態度が知恵深さを求めている事を知るのです。私達は、どの様な接し方をしているでしょうか。 ○ ポイントの第二番目は、「神はかけ離れたお方ではない」と言う事です。さて、パウロはまずアテネの人達に角の立たない様な方法で接近します。しかし、アテネの人々が仕えている神々がどんなものあるのか核心に迫ります。本文の24~26節を見ると、次の様な御言葉が記録されています。“この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。”と。 さて、このパウロのメッセージを見ると、25~26節に出ている様に、「神が人を造られた」と言う事を明確に示しています。しかし、アテネの人々はアッティカと呼ばれている地名の土から出来たと信じていたのです。それを知っていたパウロは、それを覆すかの様に神が人を造られた事を宣言します。 また、神が人を造られた故に、神は人との関係性が密接である事も伝えます。27~28節を見ると、次の様な御言葉が記録されています。“これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。”と。 パウロは、ここでハッキリと人を造られた神は、遠い遠い存在のお方ではなく、私達のそばにおられるお方であり、その神の中に、私達は生き、動き、存在していると力説したのです。これは、アテネの人達の様ではなく、パウロ自身が体験した神様を証ししている姿なのです。 これは、アテネの人々にとっては大きな衝撃となった事でしょう。なぜなら、アテネの人達は偶像を崇拝しているとは言うものの、その実は何もなかったからです。その証拠に、本文の前の21節を見ると次の様な御言葉が記録されています。“アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。”と。 そうです。彼らは何か耳新しい事を話したり、聞いたりする事だけに関心事があったのです。信じる対象はある意味では何でも良かったのかもしれません。だからこそ、本文の23節の様に、「知られない神に」と言う祭壇を作っていたのです。 これは、どこかで見た事はないでしょうか。「私の家は仏教です。」と言いながら、特に何をする訳でもなく年に数度だけ、僅かな賽銭を投げ入れて家内安全、商売繁盛を願う私達日本人を思い起こすのではないでしょうか。その様な中で、パウロはアテネの人達の様な「知られない神に」ではなく、私達を造られ身近におられる神様としてアテネの人達に紹介しているのです。 ○ポイントの第三番目は、「神様の導きに委ねる」と言う事です。さて、ここまでは良かったのですが、やはり偶像に満ちているアテネは壁が厚かったのでしょう。恐らくこのアテネでは救われる人は殆ど起こされなかったのではないかと言われています。 それは、先程の様に余りにも偶像に満ちている中にあって、福音が入り込む余地がなかったのです。確かにイエス様も、マタイの福音書10章14節で、次の様に語られました。“もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。”と。 では、アテネの様な場所で、また日本の様な国の中で、人々が耳を傾けないからと言って福音を伝える事を諦めなければならないのでしょうか。決してそうではありません。それは、神様の御心に反してしまいます。つまり、耳を傾けなかったとしても私達は、言葉と言い行いと言い、福音を語る、また福音に生きる事は不可欠なのです。 正に、私達はアテネの人達が真新しい事を話し、聞くだけで満足し歩む様ではなく、福音に生きる必要があるのです。そして、大事な事は「最終的には私達のすべき事は忠実になし、結果は全て主にお委ねする」と言う姿勢です。 今回のアテネでのパウロも、語るべき事はしっかりと語りました。しかし、アテネの人達の心は頑ななままでした。面白い事に本文の後の33節を見ると、次の様な御言葉が意味深に記録されています。“こうして、パウロは彼らの中から出て行った。”と。 これは、決してアテネの人達を操っている悪霊達に負けたので尻尾を巻いて逃げたと言う意味ではありません。それは、先程も言及した様に、自分のすべき事はし終えたので後の事全ては、全知全能の主にお委ねしたパウロの信仰の姿が現されているのです。 私達は、アテネの様な日本に遣わされた働き人です。そんなん聞いてへんよ~!と言っても、救われて教会と言う共同体に加えられた事が、その事実を物語っています。私達も自分の為すべき事は忠実になし、後の事は主にお委ねするパウロの様な信仰に習っていきたいと思います。そして、聖霊様の働きがこの日本にもなされる様に、執り成しつつ前進して参りたいと思います。その為に用いられる皆様お一人お一人になる様、イエスキリストの御名によって祝福致します。