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内村鑑三/ 2016-03-30
内村鑑三 内村鑑三 67歳の内村鑑三(1928年5月) 人物情報 生誕 1861年3月23日 武蔵国江戸小石川 死没 1930年3月28日(満69歳没) 東京府豊多摩郡淀橋町柏木 出身校 東京英語学校 札幌農学校(農学士) 米国・アマースト大学(理学士) 配偶者 浅田タケ(離婚) 横浜加寿子(死別) 岡田静子 両親 父:内村宜之 母:ヤソ 子供 浅田ノブ 内村ルツ子 内村祐之 学問 特筆すべき概念 無教会主義 テンプレートを表示 日本独自の教会主義 無教会主義 関連記事 人物 内村鑑三 静子・ルツ子 祐之・美代子 南原繁・矢内原忠雄 畔上賢造・坂田祐 斎藤宗次郎・塚本虎二 中村勝己・高谷道男 藤井武・鈴木弼美 関根正雄 歴史 札幌バンド(1877-1881)・不敬事件(1891) 東京独立雑誌(1898-1900)・夏期講談会(1900-1902) 聖書之研究(1900-1930)・モアブ婦人会(1913-) 角筈聖書研究会(1902-1930)・教友会(1905-1918) 今井館(1906-)・柏会(1909-1916) 白雨会(1911-1918)柏木兄弟団(1918-1921) 再臨運動(1918-1919)・洗足会(1923-) 著作 基督信徒の慰(1893)・求安録(1893) 余は如何にして基督信徒となりし乎(1895) その他 基督教独立学園高等学校 日本プロテスタントの三大源流 札幌バンド 人物 W・S・クラーク M・C・ハリス 大島正健 佐藤昌介 伊藤一隆 内村鑑三 新渡戸稲造 森本厚吉 宮部金吾 広井勇 歴史 札幌農学校 札幌独立教会 無教会主義 三大源流 熊本バンド・横浜バンド キリスト教 ポータル 内村 鑑三(うちむら かんぞう、万延2年2月13日(1861年3月23日)- 昭和5年(1930年)3月28日)は、日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。「代表的日本人」の著者でもある。 目次 [非表示] 1 生涯 1.1 幼少期 1.2 札幌農学校時代 1.3 アメリカ留学時代 1.4 教員時代 1.5 不敬事件 1.6 加寿子の死 1.7 静子との再婚 1.8 新聞記者時代 1.9 『聖書之研究』時代 1.10 足尾銅山鉱毒問題 1.11 非戦論 1.12 教友会の結成 1.13 社会主義批判 1.14 柏木時代 1.15 再臨運動時代 1.16 晩年 2 年譜 3 著作 4 参考文献 5 関連項目 5.1 人物 5.2 思想 5.3 その他 6 脚注 7 外部リンク 生涯[編集] 幼少期[編集] 万延2年(1861年)、高崎藩士・内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川の武士長屋に生まれる。三度自己を鑑みるという意味で父が「鑑三」と名付けたと言われる[1]。 慶応2年(1866年)頃、鑑三が5歳の時に、宜之は意見の不一致で高崎に謹慎を命じられ、家族で高崎に移った。幼少期より、父から儒学を学ぶ。 明治4年(1871年)の廃藩置県により、高崎藩知事の大河内輝声は罷免された。父も県小参事を免ぜられ隠居した。高崎で白井という人より手習いを受けた後、大河内輝声の創立した英学校に入り、小泉という教師より初めて英語を教えられ、英語に勤しむようになった。 明治6年(1873年)に単身で上京して、有馬学校英語科に入学した。この時の同級生に後の日本銀行総裁の三島弥太郎がいる。有馬学校で1年学んだ後、東京外国語学校の下等第四級に編入した。この時の同級生に、末松謙澄、天野為之、佐藤昌介らがいた。後の首相・加藤高明は一級に在籍していた。この学校で教師のM・M・スコットより、グループメソッドという新しい英語教育を受けた。在学中、一年だけ病気のために休学し、杉田玄端から治療を受けた。一年遅れたことにより、新渡戸稲造、宮部金吾と同級になる。この三人は終生にわたって親交を結ぶことになった。その頃初めて英文講読で『旧約聖書』の聖書物語に触れた。 札幌農学校時代[編集] 明治10年(1877年)4月に東京英語学校は東京大学予備門と改称されて、東京英語学校を終了すれば東京大学への進学が認められることになった。しかし、内村が入学して3年後の明治9年(1876年)、北海道開拓に携わる技術者を養成する目的で札幌農学校が創立された。内村は、北海道開拓使の役人の演説と官費生の特典に心を動かされて、経済上の理由もあり、札幌農学校への入学を決意する[2]。 札幌へ旅立つ前に、東京の芝で1ヶ月の合宿をした。その時、東京大学予備門時代の同級・新渡戸稲造、宮部金吾、岩崎行親らと立行社というグループを結成した。 内村鑑三らが第三学年の時の札幌農学校の校舎、一番手前が寄宿舎 新渡戸稲造、宮部金吾と共に札幌農学校時代 内村と藤田九三郎の設計により1883年に竣工した札幌独立教会 内村ら第二期生が入学する前までに、農学校に教頭として在校していたウィリアム・スミス・クラークら、お雇い外国人の強い感化力によって第一期生は既にキリスト教に改宗していた。初めはキリスト教への改宗を迫る上級生に反抗していた内村も、新渡戸稲造と宮部金吾が署名したことがきっかけで、ついにほとんど強制的に立行社の岩崎行親と同じ日に「イエスを信ずる者の契約」なる文書に署名させられる。内村はヨナタンというクリスチャンネームを自ら付けた。当時札幌には教会がなかったので、彼らは牧師の役を交代で務めた。そうして毎日曜日の礼拝を学内で開き、水曜日には祈祷会を開いていた。改宗することによって、若い内村は神社を見るたびに頭を下げずに済むようになったことを喜んだ。 明治11年(1878年)6月2日には、アメリカ・メソジスト教会のM.C.ハリスから洗礼を受ける。洗礼を受けた若いキリスト者達は、日曜日には自分達で集会(「小さな教会」と内村は呼ぶ)を開き、幼いながらも真摯な気持ちで信仰と取り組んだ。そして、メソジスト教会から独立した自分達の教会を持つことを目標とするようになる。その学生の集団を札幌バンドという。 在学中、内村は水産学を専攻し明治14年(1881年)7月、札幌農学校を農学士として首席で卒業した。卒業の際、新渡戸、宮部、内村の3人は札幌の公園で将来を二つのJのために捧げることを誓い合った。卒業後、宮部は札幌農学校で教鞭を取るために東京大学に行き、新渡戸も農学校で教鞭を取ることになったが、内村は北海道開拓使民事局勧業課に勤め、水産を担当した。勤務の傍ら、札幌に教会を立て、それを独立させることに奔走した。翌年に南2条西6丁目の古い家屋を購入して、札幌基督教会(札幌独立キリスト教会)を創立する。また、明治14年(1881年1)0月に結成された札幌YMCAの副会長になった。 弟三回全国基督信徒大親睦会、前から二列目左から五人目が内村鑑三 明治15年(1882年)に開拓使が廃止されると、札幌県御用係になり、漁業調査と水産学の研究を行った。ほどなく伝道者になるために県に辞職願を提出した。同年6月に辞職願は受理された。その後、津田仙の学農社農学校の教師になり、12月からは農商務省の役人として水産課に勤め、日本産魚類目録の作成に従事した。同月の第三回全国キリスト信徒親睦会には、札幌教会代表で有名な演説を行った。 明治16年(1883年)夏に安中教会を訪問した時に知り合った浅田タケと、両親の反対を押し切って明治17年(1884年)3月28日に結婚した。しかし、半年後には破局して離婚した。原因はタケの異性関係の疑惑とも言われている[3][4]。 アメリカ留学時代[編集] 浅田タケとの結婚が破局した後、両親と友人の勧めにしたがって、明治17年(1884年)に私費でアメリカに渡り、11月24日にサンフランシスコに到着する。拝金主義、人種差別の流布したキリスト教国の現実を知って幻滅する。渡米後に何のあても持っていなかった内村は、メリマン・ハリス夫人によりミデヤの叔父の家を紹介された。ペンシルベニア州フィラデルフィア郊外のエルウィンの養護施設を尋ねた時に、医師である院長のI.N.カーリンと出会い、そこの知的障害児養護学校で看護人として勤務することになる。 1885年(明治18年)6月にカーリンはワシントンD.C.の全米慈善矯正会議に出席する際に内村を同行した。ワシントンで大統領グロバー・クリーブランドに面会している。ワシントン滞在中に終生の友である、D・C・ベルと出会った。 この時期、札幌農学校同期の新渡戸稲造また、佐伯理一郎とともにフィラデルフィア近郊の親日的クエーカー教徒のウィスター・モリスと親交を持つ。 この頃、日本にいた浅田タケは4月15日、女児ノブを出産した。タケはそのことで手紙で復縁を迫った。タケに洗礼を授けた新島襄も内村に説得したがきっぱりと断った。 アマースト大学 内村はペンシルベニア大学で医学と生物学を学び医者になる道を考えていた。カーリン夫人はユニテリアンでハーヴァード大学で学ぶことを勧めたが、米国滞在中の新島襄の勧めで、9月に新島の母校でもあるマサチューセッツ州アマーストのアマースト大学に選科生として3年に編入し、新島の恩師J・H・シーリーの下で伝道者になる道を選んだ。 在学中、アマースト大学の総長であり牧師でもあるシーリーによる感化を受け、宗教的回心を経験した。1887年(明治20年)に同大学を卒業し、Bachelor of Science(理学士)の学位を受ける。続けてシーリーの勧めで、コネチカット州のハートフォード神学校(英語版)に入学するが、神学教育に失望し、1888年(明治21年)1月まで学業を続けたが退学。神学の学位は得ないまま、5月に帰国。 教員時代[編集] 在米中に新潟県の北越学館への教頭としての招聘が一度あったが内村は断り、帰国後に新島襄の仲介で契約が成立し、明治21年(1888年)6月6日に館主・加藤勝弥と約定書を交わした。新島によると独立心の強い内村は新潟行きに難色を示し、正教頭ではなく、仮教頭で赴任した[5]。 北越学館で1年間勤務した。北越学館ではエレミヤ書を講義し、土曜日には講演会を開き、ルターについて講義した。就任一ヶ月後に、宣教師の運営方針に反発する見解を表明、宣教師たちも内村の下で働くことを拒否し辞職を通告して、学生を巻き込んでの学館紛争になった。調停のために、新島襄は横井時雄を派遣するが、効果はなく。成瀬仁蔵は内村と激しく対立して、意見書を著し辞職を迫った。孤立した内村は赴任後わずか4ヶ月で辞職した。 詳細は「北越学館事件」を参照 戦いに敗れて東京に戻った内村は植村正久の一番町教会(現、日本基督教団富士見町教会)で説教したり、東洋英和学校、明治女学校、水産伝習所などで教鞭を執る。東洋英和学校では山路愛山が内村の「万国史」の教えを受けた。明治22年(1889年)7月31日に旧高崎藩士の横浜恕の娘・かずと結婚した。 不敬事件[編集] 詳細は「内村鑑三不敬事件」を参照 明治23年(1890年)から、植村正久の一番町教会の長老・木村駿吉の推薦により、第一高等中学校の嘱託教員となった。 明治24年(1891年)1月9日、講堂で挙行された教育勅語奉読式において、教員と生徒は順番に教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して、「奉拝」することが求められた。内村は舎監という教頭に次ぐ地位のため、「奉拝」は三番目だったが、最敬礼をせずに降壇した。このことが同僚・生徒などによって非難され社会問題化する。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけなのだが、それが不敬事件とされた。事態の悪化に驚いた木下校長は、敬礼は信仰とは別の問題であると述べて、改めて内村に敬礼を依頼した。内村はそれに同意したが、悪性の流感にかかっていたので、代わりに木下駿吉が行った。 しかし、マスコミが大きく取り上げて「内村鑑三の不敬事件」として全国に喧伝され、事件はキリスト教と国体の問題へ進展した。内村は流感で病床にあり意識不明だったが、2月に本人に知らない間に、内村の名前で弁明書が数紙に掲載されたり、1月31日には本人の名前で辞職願いが出されて、2月3日付けで依願解嘱された。これがいわゆる「内村鑑三不敬事件」あるいは「第一高等中学校不敬事件」である。 加寿子の死[編集] 妻かずは、夫に代わって抗議者を引き受けたが、流感で倒れてしまった。かずは2ヶ月の病臥の後に、4月19日に死去した。 不敬事件と伴侶の死で憔悴しきった内村は札幌に行き、新渡戸稲造と宮部金吾の元で1ヶ月すごした後、帰京した。そして、本郷教会の横井時雄が内村を支え、教会でエレミヤ書の講義をさせたり、『基督教新聞』に執筆の場を与えたりした。明治25年(1892年)1月より、横井時雄の世話で、日本組合基督教会の京橋の講義所の説教者になった。その後、組合教会の総会にも出席している。不敬事件で教員の道を閉ざされた内村は伝道者の道を本格的に歩み始めた。同年の夏に、千葉県君津郡竹岡村に滞在した。一ヶ月間熱心に伝道して、8月25日に天羽キリスト教会(竹岡美以教会)が設立されることになった。 千葉から帰るとすぐに、泰西学館、高等英学校(現:桃山学院高等学校)、熊本英学校、名古屋英和学校(現:名古屋高等学校)と教壇に立ち、一時期は京都にも住んだ。 静子との再婚[編集] 明治25年(1892年)のクリスマスに京都の旧岡崎藩士で判事の岡田透の娘・静子と結婚した。この頃、帝国大学文科大学教授の井上哲次郎によって「不敬事件」の論争が再燃した。明治26年(1893年)になると、井上の所論をめぐりキリスト教会はもとより、仏教界、思想界、学会、教育界、ジャーナリズム界で大論争が巻き起こった。内村は井上の記す「不敬事件」に事実誤認を指摘して反論したが、国家主義的な時流により、世論は井上に味方した。 この流浪・窮乏の時代とも呼べる時期に、内村は、『基督信徒の慰』、『求安録』、『余は如何にして基督信徒となりし乎』( How I Became a Christian) を初め、多くの著作・論説を発表した。 熊本英学校時代の内村と妻静子 明治26年(1893年)4月に熊本英学校の教師として赴任し7月まで務め、その後は京都に住んだ。京都に帰る途中で、須磨で開かれたキリスト教青年会第6回夏季学校に講師として出席した。横井時雄と共に講演し、内村は日本教会論を語った。この論は、翌年2月に発行された『基督信徒の慰』にも記されている。 京都では、便利堂の中村弥左衛門と弥二郎が経済的に内村を支えた。明治27年(1894年)の箱根でのキリスト教青年会第7回夏季学校では「後世への最大遺物」を行う。これが、便利堂によって明治30年(1897年)に刊行されている。森敦はこの本を非常に愛読していたという。 不遇だった京都時代を助けたのは徳富蘇峰だった。蘇峰のおかげで、『国民之友』に文を発表し生活を支え、文名を上げることができた。『国民之友』の編集の国木田独歩も、内村に感銘を受けた一人である。明治29年(1896年)に妻を亡くした時に、アメリカ行きを思い立ち、内村に手紙で相談している。 新聞記者時代[編集] 明治30年(1897年)に黒岩涙香が名古屋にいる内村を訪ねて朝報社への入社を懇請した。内村はためらいつつも黒岩の説得に答えて朝報社に入社した。同社発行の新聞『萬朝報』英文欄主筆となった。一高時代の教え子山県五十雄らと共に、通算二百数十篇の文章を書いた。この文章は外国人系新聞からマークされ、松井広吉ら日本人にも愛読された。同年3月16日には、英文欄にて足尾銅山の鉱毒問題を取り上げた。 翌明治31年(1898年)5月22日には黒岩の熱心な慰留にもかかわらず朝報社を退社した。そして、同年6月10日より、山県悌三郎を社主として、『東京独立雑誌』を創刊し主筆となりジャーナリストとして独立した。坂井義三郎、佐藤迷羊、西川光二郎、佐伯好郎、中村諦梁らが編集者になり、大島正健、松村介石、留岡幸助、元田作之進、田岡嶺雲、山県五十雄、駒井権之助らが寄稿した。内村の論評に対して、高山樗牛が雑誌『太陽』で公開質問状を発表した。 明治32年(1899年)6月、女子独立学校の校長に就任したことで、角筈の敷地内に居を移し、東京独立雑誌の発行所も角筈に移った。しかし、明治33年(1900年)7月5日に内村の問題により突如、廃刊されることになり、同社は解散した。その後旧社員は『東京評論』を創刊して、深刻な敵対関係になった。 『聖書之研究』時代[編集] 明治35年(1902年)夏に角筈で行われた第三回夏期講談会の集合写真、前から二列目中央が内村鑑三 『東京独立雑誌』の廃刊直後に、すでに誌上で参加募集していた第一回夏期講談会を、旧社員らの反対にもかかわらず、自分の責任により独立女子学校で行った。内村を始め、留岡幸助、松村介石、大島正健らが講師になった。小山内薫、青山士、荻原碌山、井口喜源治、西沢勇志智、倉橋惣三、武藤長蔵、森本慶三、小林洋吉らが参加した。参加者により、上田や小諸に独立倶楽部が結成されると、各地で伝道を始めた。内村は8月に群馬県を訪れて、上田を拠点にキリスト教の伝道活動をしようとしたが断念し、同年10月より、日本で最初の聖書雑誌である『聖書之研究』を創刊した。聖書之研究は内村の死まで続けられたライフワークになった。聖書之研究を創刊する一ヶ月前9月より、生活のために万朝報の客員として復帰し、今度は日本語の文章を寄稿した。『聖書之研究』創刊号で生徒を募集して10月に聖書研究所を発足させる。この時期から自宅において聖書の講義を始め、志賀直哉や小山内薫らが聴講に訪れる。それらは、25人定員の角筈聖書研究会になる。その中の、熱心な12名は角筈12人組と呼ばれた。明治34年(1901年)3月には『聖書之研究』の読者の交通機関を目的に月刊の『無教会』を発刊した。 足尾銅山鉱毒問題[編集] 明治34年(1901年)4月21日に、栃木県足利の友愛義団に招かれて、巌本善治、木下尚江と共に講演した。翌日4月22日に、木下尚江と共に、初めて足尾を訪れた。足尾の鉱毒の被害を激しさを知って驚いた内村は、帰京すると『万朝報』に記事を書いた。これが、『鉱毒地遊記』である。その中で、鉱毒問題の原因を経営者・古河市兵衛の起こした人災であると言った。 5月21日には、東京神田の東京キリスト教青年会館で津田仙を座長にして足尾鉱毒問題の『同情者』の会が開かれ、田中正造が説明をした。その結果、鉱毒調査有志会が結成され内村と巌本善治が調査員に選ばれた。6月21日より、有志会の調査が、内村を主査、田中正造が案内役として始まった。そして、11月に調査会の弟一回報告が内村、巌本善治、田中弘之、高木政勝の連名で出された。 1901年10月に札幌を訪れた内村鑑三 また、7月20日に内村は黒岩涙香、堺利彦、幸徳秋水、天城安政、円城寺清、斯波貞吉、山県五十雄らが発起人なり社会改良を目的とする理想団を結成した。夏には、第二回夏期講談会が開かれ、巌本善治が講師になり、小山内薫、志賀直哉、倉橋惣三、浅野猶三郎、斎藤宗次郎に加えて、足尾鉱毒被害地の田中正造の片腕の永島与八らが出席した。 11月1日には東京キリスト教青年会館で足尾鉱毒演説会に、内村は巌本善治、安部磯雄、木下尚江、島田三郎と共に出席した。内村は、鉱毒問題が色慾問題であることを説いた。11月29日には桐生教会の訪問途中で佐野駅で降りて、被害地を再び訪問する。12月10日には田中正造の明治天皇直訴事件が起こり、そのような中で12月12日に再び東京キリスト教青年会館で巌本、黒岩、幸徳伝次郎(秋水)、佐治実然、三宅雄二郎らと足尾鉱毒演説会を開いた。内村は古河市兵衛にポーコを加えよと叫んだ。12月27日には、田村直臣を委員長、安部磯雄を監督委員として、約800人の学生によって鉱毒被害視察旅行が行われ、内村、木下らも同行した。 しかし、明治35年(1902年)になると、4月2日の鉱毒問題解決演説会に出席した以外は、運動への参加が消極的になり、聖書研究へ沈潜していくことになる。3月10日の理想団晩餐会の席上でも、社会の改良法をめぐり、「内村が個人、安倍が社会と個人」と発言し、安倍磯雄との違いを述べた。 非戦論[編集] 1905年1月、日露戦争中の内村の父宜之と息子祐之 日清戦争は支持していた内村だったが[6]、その戦争が内外にもたらした影響を痛感して平和主義に傾き、日露戦争開戦前にはキリスト者の立場から非戦論を主張するようになる。6月24日に東京帝国大学の戸水寛人ら7人の教授が開戦を唱える建議書を提出し、それが公表されると、6月10日には『戦争廃止論』を萬朝報に発表した。萬朝報も当初は非戦論が社論であったが、明治36年(1903年)10月8日、世論の主戦論への傾きを受けて同紙も主戦論に転じると、内村は幸徳秋水、堺枯川と共に萬朝報を離れることとなった。 萬朝報退社後も、『聖書之研究』を通じて非戦論を掲げていたが、明治37年(1904年)2月には日露開戦にいたった。戦争中は、日本メソジスト教会の本多庸一や日本組合教会の小崎弘道らキリスト教の多数派が主戦論に傾いて積極的に戦争に協力したが、非戦論は内村や柏木義円などのきわめて少数であった。内村はキリスト者の間でも孤立していたものの、明治37年(1904年)のクリスマスを迎えた内村が、クリスマスは平和主義者の日であって「主戦論者はこの日を守る資格を有せず」と述べたことについては、中里介山が内村の言葉に拍手喝采を送り、半年後に『新希望』(『聖書之研究』の改題)に「予が懺悔」という文を寄せている。 なお、戦争反対を強く訴えた内村だったが、彼の元に「徴兵拒否をしたい」と相談に来た青年に対しては、「家族のためにも兵役には行った方がいい」と発言した。弟子の斎藤宗次郎が、内村に影響されて本気で非戦論を唱え、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をした時には、内村がわざわざ岩手県花巻の斎藤のもとを訪れ、説得して翻意させている。この言動は「キリストが他人の罪のために死の十字架についたのと同じ原理によって戦場に行く」ことを信者に対して求める、無教会平和主義者の教理(「戦争自体に直面したときの無抵抗」)に基づいている。内村は「一人のキリスト教平和主義者の戦場での死は不信仰者の死よりもはるかに価値のある犠牲として神に受け入れられる。神の意志に従わなければ、他人を自分の代りに戦場に向かわせる兵役拒否者は臆病である」と述べて、弟子に兵役を避けないよう呼びかけた。また、「悪が善の行為によってのみ克服されるから、戦争は他人の罪の犠牲として平和主義者が自らの命をささげることによってのみ克服される」と論じた。そして内村は「神は天においてあなたを待っている、あなたの死は無駄ではなかった」という言葉を戦死者の弟子に捧げるとともに、若きキリスト教兵役者へは、個人の救いとしての「身体の復活」と社会の救いとしての「キリストの再臨」の信仰に固く立つよう勧めた。 以上の内村の非戦論思想における、「戦争政策への反対」と「戦争自体に直面したときの無抵抗」という二重表現は、あらゆる暴力と破壊に対する抗議を表明すると同時に、「不義の戦争時において兵役を受容する」という行動原理を明確にした。 教友会の結成[編集] 1904年11月に精神障害を患っていた母親が死去する。すると、弟の達三郎が、母親を死に至らしめたのは内村であると責め始め、母親の葬儀では内村に妨害と侮辱を加えた。この争いは、『東京パック』の北沢楽天の風刺画で取り上げられ、兄弟間の骨肉の争いは世間に知られることになった。 この騒動をきっかけに、内村は自身の肉親よりもキリスト者との交流を求めるようになり、角筈聖書研究会が再開され、聖書之研究の読者組織である教友会の結成を呼びかけるようになった。東京の角筈に最初の教友会が設立され、新潟の柏崎、大鹿、三条、長野県では上田、小諸、東穂高、千葉県では鳴浜、栃木県では宇都宮、岩手県では花巻に結成された。そして明治39年(1906年)の夏には、新潟県柏崎で夏期懇談会を開き、明治40年(1907年)に夏には千葉県鳴浜で同じ懇談会を開催して、全国から教友が参加した。 社会主義批判[編集] また、教友会の結成が進み始めた頃より、内村は社会主義者に距離を置くようになった。明治40年(1907年)2月には『基督教と社会主義』を小型の「角筈パムフレット」として刊行し、キリスト者と社会主義者との差を明確にした。明治41年(1908年)には社会主義者福田英子の聖書研究会への出席を拒絶している。 内村は年を経るごとに、社会主義をさらに明確に批判していくようになり、大正4年(1915年)には、『聖書之研究』にて「社会主義は愛の精神ではない。これは一階級が他の階級に抱く敵愾の精神である。社会主義に由って国と国とは戦はざるに至るべけれども、階級と階級との間の争闘は絶えない。社会主義に由って戦争はその区域を変へるまでである」と主張した。 内村はキリスト者の立場から、他階級への抑圧を繰り返す社会主義の本質的欺瞞を指摘するとともに、後の社会主義思想の退潮を予言する、厳しい批判の言葉を残しているが、これらの言論をロシア革命以前から発していたことは注目に値する。そして内村の社会主義批判の姿勢は、矢内原忠雄ら内村の後継者の一部にも引き継がれることとなった[7]。 柏木時代[編集] 今井館の前に立つ内村鑑三 柏会の集合写真、前列中央が内村鑑三 1910年頃の内村家 明治40年(1907年)11月、内村一家は角筈から淀橋町の柏木に移った。内村の感化された実業家の今井樟太郎の未亡人ノブの寄付により同年末に内村の活動のための建物を建設し、それが今井館と呼ばれるようになり、無教会主義キリスト教の本拠になった。明治41年(1908年)6月に『聖書之研究』第百号の祝いを兼ねて、今井館の開会式を行った。 明治42年(1909年)秋には、第一高等学校の校長・新渡戸稲造のもとで読書会グループを形成していた学生たちが、新渡戸の推薦状をもって、内村の弟子に入門した。この一団は内村によって柏会と命名された。10月29日に第一回明の会合を行った。岩永裕吉、金井清、川西実三、黒崎幸吉、沢田廉三、膳桂之助、高木八尺、田中耕太郎、田島道治、塚本虎二、鶴見祐輔、前田多門、三谷隆正、森戸辰男、藤井武らがメンバーになった。柏会が結成された二年後の明治43年(1911年)秋に『聖書之研究』で、読者であれば誰でも聖書研究会に出席しても良いと広告された。そして、同年10月1日に矢内原忠雄と坂田祐らが出席した。矢内原は柏会に入し、坂田は南原繁と別の会を作り、明治45年(1912年)1月30日に、白雨会として発足した。 明治44年(1911年)の春頃より、女学校を卒業した娘のルツ子が原因不明の病のために病床に就くことになった。東洋宣教会の教師・笹尾鉄三郎に信仰の導きを依頼した。内村は看病で聖書研究の準備ができなかった、その頃に『デンマルク国の話』が語られ、学生たちに感化を与えた。内村夫妻の不眠不休の看病にもかかわらず、明治45年(1912年)1月12日にルツ子は18歳で夭折した。 柏会は大正5年(1916年)10月に解散して、藤井武、黒岩幸吉、塚本虎二、江原万里、金沢常雄、矢内原忠雄、三谷隆正、三谷隆信、前田多門らが、純信仰的集団のエマオ会を創設した。 これらの会は、大正7年(1918年)から内村が再臨運動を始めると発展解消して、同年9月15日に内村以下82名からなる柏木兄弟団になった。しかし、その4ヶ月後には、門下の医者によりサマリヤ会ができ、大正12年(1923年)12月には足洗会という愛の交わりの集会が生まれた。これは、内村の死後も続き戦後「霊交会」という名前になり長く続くことになる。 再臨運動時代[編集] 詳細は「再臨運動」を参照 中田重治、木村清松らと再臨運動を始めた頃、1918年頃 明治45年(1912年)の娘ルツ子の病死とアメリカ在住のアメリカ人の友人ベルの手紙での感化によって、内村の再臨信仰は形成された。大正6年(1917年)に宗教改革四百年記念講演会が成功に終わったことに励まされ、無教会の特徴である閉鎖的な集会の方針を変えて、大々的な集会を開催する方針になった。大正7年(1918年)より再臨運動を開始した。内村は再臨信仰において一致できるならば誰とでも協力したが、その一人が日本ホーリネス教会の監督中田重治である。もともと中田の設立したホーリネス教会は、主要教理の四重の福音の一つとして再臨を強調していた。 中田と内村は同じ柏木に住んでいた、それまで交流がなかったが、近所で発生した火災をきっかけに交流を持つようになる。互いに再臨信仰への使命も持っていることを知り、急速に接近して協力するようになった。それに、組合教会の巡回伝道者の木村清松と話し合い再臨運動を始めることになった。さらに、アメリカ留学から帰国したばかりの平出慶一、武本喜代蔵、自由メソジストの河辺貞吉、聖公会の藤本寿作らなどが加わり、超教派の運動として、再臨運動は展開された。運動は、当初東京や関西を中心に再臨講演会をもっていたが、後に北海道から岡山にまで及び、多くの聴衆が出席した。各地の教会に熱烈な信仰復興が起こり、キリスト教界に大きな影響を与えたが、大正8年(1919年)6月には海老名弾正らを中心に基督再臨反対演説会が開かれるなど、キリスト教会内部での反対運動も大きかった。キリスト教界に賛否両論の議論を生んだ運動は、明確な決着を見ずに、ほぼ2年で終息した。しかし、内村は生涯復活信仰を捨てなかった。 晩年[編集] 大正11年(1922年)10月世界伝道協賛会を創設して、世界の伝道事業に貢献する組織を作った。協賛会は毎月一回開かれて、世界の伝道のために祈り、献金が捧げられた。そして、同年暮れには、中国、台湾、南洋諸島の伝道を援助するために送金された。 大正12年(1923年)7月7日に、自分の後継者と期待していた元弟子の有島武郎が、人妻の波多野秋子と心中した。これを聞いた内村は『萬朝報』に「背教者としての有島武郎氏」という文章を載せた。死の原因を「コスミック・ソロー(宇宙の苦悶)」であるとのべ、激しい怒りを表明した。同年9月1日の関東大震災では長野県沓掛に滞在中で震災を逃れたが、2日に帰京した。内村の家族には被害がなかった。しかし、かれが心血を注いで福音を語った「霊的戦闘のアリーナ」であった衛生会講堂を失った。 1924年6月15日の内村の聖書講演会 大正13年(1924年)、同年に米国で可決された、排日法案に反対するために、絶交状態にあった徳富蘇峰と和解して、『国民新聞』に何度も排日反対の分を掲載した。また、植村正久や小崎弘道ら教会指導者と「対米問題」について議論を重ねた。 大正15年(1926年)には、内村聖書研究会からアルベルト・シュヴァイツァーに送金された。昭和2年(1927年)には、シュヴァイツァー後援会を設けて、事業を積極的に支援した。 札幌農学校の仲間とハリスの墓参 昭和3年(1928年)6月2日の受洗50周年記念に同期生の新渡戸稲造、広井勇、一期生の伊藤一隆、大島正健らと一緒に青山墓地のハリスの墓参りをした。同年7月から9月にかけて、北海道帝国大学の教授として札幌に赴任していた祐之一家と共に札幌伝道を行った。無牧になっていたメソジスト派の札幌独立キリスト教会で説教をし、伝道を助けた[8]。 伝道を終了するにあたって同教会の教務顧問に就任した。この頃から内村は体調を崩し始めた。 内村の既存の教会に協力的な行動に対して反発した塚本虎二らと、無教会主義の考えにおいて対立するようになった。昭和4年(1929年)暮れに、塚本らとの対立は激化して、分離することになった。これが原因で、内村はさらに病状を悪化させた。最晩年に師事したのが、大塚久雄であった。 昭和5年(1930年)1月20日に、柏木の聖書講堂で「パウロの武士道」について述べたのが公の場に出た最後であった。3月26日の内村の古希感謝祝賀会には本人は出席できず、長男祐之が挨拶した。翌々日、3月28日朝に「非常に調和がとれて居るがこれでよいのか」との言葉を最後に昏睡状態に陥り、午前8時51分に家族に見守られて死去した[9]。 4月6日に内村の遺言により、内村聖書研究会は解散式を行い、「聖書之研究」は第357号をもって廃刊になった。 年譜[編集] 内村鑑三の墓。\\\"I for Japan, Japan for the World, The World for Christ, And All for God.\\\" と刻まれている。 夭折した娘ルツ子 万延2年(1861年) - 上州高崎藩士内村宜之の長男として江戸に生まれる。 明治6年(1873年) - 東京の有馬学校入学 明治7年(1874年) - 東京外国語学校入学 明治10年(1877年) - 札幌農学校入学、「イエスを信ずる者の誓約」に署名 明治11年(1878年) - 受洗、洗礼名「ヨナタン」 明治14年(1881年) - 首席で農学校卒業、卒業演説「漁業も学術の一つなり」。開拓使御用掛となる。 明治15年(1882年) - 父・宜之受洗礼。札幌独立教会設立。 明治17年(1884年) 3月28日、浅田タケと結婚(7ヶ月後破婚)。 11月、渡米。 明治18年(1885年) - エルウィン白知院にて看護人として働く。新島襄の紹介によりマサチューセッツ州アマースト大学に入る。 明治19年(1886年) - 学長シーリーの人格と信仰の影響を受けて、キリストの贖罪の信仰を得る。 明治20年(1887年) - アマースト大学卒業。ハートフォード神学校入学。 明治21年(1888年) - ハートフォード神学校を退学し、帰国する。新潟の北越学館に赴任。12月に宣教師らと衝突して、辞職、帰京。 明治22年(1889年) - 東洋英和学校、東京水産伝習所、明治女学校に教える。 7月31日、横浜加寿子と結婚。 明治23年(1890年) - 9月に第一高等中学校嘱託職員になる。 明治24年(1891年) 1月9日、不敬事件。 4月19日、妻加寿子が病死。 明治25年(1892年) - 大阪の泰西学館に赴任。 12月23日、岡田シズと結婚 明治26年(1893年) - 著作活動を始める。処女作は『基督信徒のなぐさめ』。同書で「無教会」という言葉を初めて使った。泰西学館辞任。熊本英学校赴任。8月すぐに辞任して京都に住む。 明治30年(1897年) - 「万朝報」の英文欄主筆になる。 明治34年(1901年) - 「無教会」を創刊。黒岩涙香らと「理想団」を作り、社会改良運動を行う。 明治35年(1902年) - 角筈聖書研究会を自宅で始める。 明治36年(1903年) - 日露非開戦論、戦争絶対反対論を「萬朝報」「聖書之研究」で発表。萬朝報客員を辞す。 明治40年(1907年) 4月13日、父宜之が死去する。 11月、角筈より柏木に移転 明治45年(1912年) - 長女ルツ子が病になり信仰の導きを笹尾鉄三郎に委ねる。1月12日ルツ子が死去する。ルツ子の死を通して復活信仰を得る。 大正7年(1918年) - 中田重治、木村清松らと共に、再臨運動を始める。 昭和5年(1930年) - 3月28日死去、遺言により「聖書之研究」は廃刊、内村鑑三聖書研究会解散。 著作[編集] 1923年頃、内村鑑三とその著作 How I Became a Christian 邦訳: 『余は如何にして基督信徒となりし乎』(岩波文庫 ISBN 4003311922 ほか) Representative Men of Japan(『代表的日本人』 岩波文庫のちワイド版)1908年 - Japan and Japanese(1894年)の改訂版 ヘルマン・ヘッセの父であるヨハネス・ヘッセは、上記『余は如何にして……』を1905年に、また本書を1908年に初めてドイツ語訳した人物として知られている。なおこの独訳本は、シュトゥットガルトのD.グンデルト社という出版社から刊行されたが、同社代表であったグンデルトはヨハネスの義兄弟にあたり、その息子のW.グンデルトは1906年に内村を慕って来日し、のちにドイツの日本学に多大な貢献をもたらす研究者となったことが知られている。[10] 『基督信徒のなぐさめ』 - 1893年の内村鑑三の処女作。「無教会」という言葉が初めて使われた作品である。岩波文庫(1976年、ISBN 4003311914)。 『求安録』 - 警醒社・福音社(1893年8月)。のち、岩波文庫(1939年、ISBN 4003311973)。 『地人論』 - 初め『地理学考』の書名で刊行(警醒社、1894年5月)。第2版(1897年2月)で『地人論』と改題[11]。のち、岩波文庫(1942年、ISBN 4003311906)。 『後世への最大遺物』 - 1894年7月のキリスト教徒夏期学校での講演をまとめたもの。1897年、便利堂より刊行。のち、岩波文庫(『後世への最大遺物・デンマルク国の話』、1976年、ISBN 4003311949)。 『デンマルク国の話』 - 1911年の今井館での講演をまとめたもの。副題は「信仰と樹木とをもって国を救いし話」。同年の「聖書之研究」第136号に掲載。のち、岩波文庫(『後世への最大遺物・デンマルク国の話』、1976年、ISBN 4003311949)。 『内村鑑三所感集』 鈴木俊郎編 岩波文庫 『キリスト教問答』 講談社学術文庫 『内村鑑三/岡倉天心』 新学社:近代浪漫派文庫、2004年 西郷隆盛(鈴木範久訳)、ダンテとゲーテ、余が非戦論者となりし由来、歓喜と希望、所感十年を収む。 『内村鑑三全集』全40巻 岩波書店、1984年完結 参考文献[編集] 内村鑑三 「日清戦争の義」『内村鑑三集』 河上徹太郎 編、筑摩書房〈明治文学全集 第39〉、1977年(原著1967年)、308-311頁。ISBN 978-4-480-10339-0。 内村祐之 「父の臨終の記」『内村鑑三日記書簡全集』第4巻(日記 第4)、教文館、2006年2月(原著1965年)。ISBN 978-4-7642-0253-5。 鈴木範久 『内村鑑三』 岩波書店〈岩波新書 黄版 287〉、1984年12月。ISBN 4-00-420287-6。 鈴木範久 「解説」『代表的日本人』 岩波書店〈岩波文庫 青119-3〉、1995年7月。ISBN 4-00-331193-0。 関根正雄 『内村鑑三』 清水書院〈Century books 人と思想 25〉、1967年。ISBN 978-4-389-41025-4。、新装版1978年、2014年。 森有正 『内村鑑三』 講談社〈講談社学術文庫 64〉、1976年。ISBN 978-4-06-158064-0。 関連項目[編集] 人物[編集] ウィキメディア・コモンズには、内村鑑三に関連するカテゴリがあります。 内村美代子 - 内村祐之の妻。『余は如何にしてキリスト信徒となりしか』の翻訳(角川文庫)や、鑑三選集の編纂、『晩年の父内村鑑三』(教文館)の著作を行った。 内村祐之 - 内村鑑三の長男。精神科医、東京帝国大学医学部教授。第3代日本プロ野球コミッショナー。 小原信 亀井俊介 南原繁 - 政治学者。第15代東京大学総長。東京帝国大学に入学後、内村鑑三の弟子となり、無教会主義キリスト教の熱心な信者となった。 新渡戸稲造及び内村鑑三の門下生 正宗白鳥 矢内原忠雄 - 経済学者・植民政策学者。第16代東京大学総長。旧制第一高等学校に在学中、内村鑑三主催の聖書研究会に入門し、キリスト教信仰を深めた。 山本一太 - 政治家、参議院議員。遠い親戚にあたる[12]。 思想[編集] 非戦論 二つのJ 良心的兵役拒否 その他[編集] アルベルト・シュヴァイツァー 石の教会・内村鑑三記念堂 基督教独立学園高等学校 - 門下生の鈴木弼美らによって創設。 脚注[編集] 1.^ 関根(1967)、6頁 2.^ 後に「なぜ帝大に入らなかったのか」という質問に対して、内村は「金がなかったから」と答えたという。関根(1967)、17頁 3.^ 関根(1967)、25頁 4.^ “内村鑑三の離婚”. ケベル先生のブログ. 2013年3月21日閲覧。 5.^ 北越学館で、1年間の契約と共に、内村は伝道活動に携わらないことが約定書で決められていた。北越学館のキリスト教のみを教え、日本のことを教えない点と、外国伝道会社の援助を得ることによって自主独立が損なわれている点について、信仰上の束縛を内村は嫌ったと思われる。鈴木(1984)、43頁 6.^ 「吾人は信ず、日清戦争は吾人にとりては実に義戦なりと」内村(1977)、308-311頁、(初出:内村鑑三「日清戦争の義」、『国民之友』、民友社、1894年9月。) 7.^ 「矢内原にとって、キリスト教的観点に立てば唯物史観は偽キリストであり、矢内原がマルクス主義と対決してキリスト教弁護論を体系的に展開したのは、偽キリストからキリストを峻別するとともに、その挑戦に応じて現世同化したキリスト教を改革純化するためであった」(岡崎滋樹「矢内原忠雄研究の系譜-戦後日本における言説-」、『社会システム研究』第24号(2012年3月)所収、立命館大学) 8.^ メソジスト教会で洗礼を受けたが、1891年の不敬事件で除籍された。しかし、1900年以来内村は日本メソジスト教会の教会員に復籍していた。 9.^ 臨終の様子は祐之の「父の臨終の記」に克明に記録されている。内村(2006) 10.^ 鈴木(1995)、196-197頁 11.^ 第2版の冒頭に、親友の勧誘に従って改題した旨が書かれている。 第二版に附する自序 余は久しく本書の改題に躊躇せり、然れども二三親友の勸誘に從ひ、竟に先哲アーノルド、ギヨー氏の著書に做ひ、其名を籍りて此書に附するに至れり、勿論彼の優此の劣は余の言を待ずして明かなり。 — 内村鑑三、『地人論』訂正版、1897年 12.^ [http://ichita.blog.so-net.ne.jp/2014-06-10-1 偉大なる上州人、内村鑑三のDNA:その1 2014年6月10日 外部リンク[編集] 鈴木範久『内村鑑三』[リンク切れ] - Yahoo!百科事典 朝日日本歴史人物事典『内村鑑三』 - コトバンク 内村鑑三記念文庫 - 国際基督教大学図書館: 文庫目録およびデジタルアーカイブ 今井館教友会 - 無教会関連の情報サービスを提供するNPO法人 内村鑑三 | 近代日本人の肖像 - 国立国会図書館: 近代デジタルライブラリー 内村鑑三:作家別作品リスト - 青空文庫 典拠管理 ­WorldCat · ­VIAF: 55527367 · ­LCCN: n83154215 · ­ISNI: 0000 0000 8134 7794 · ­GND: 118763369 · ­SUDOC: 074703471 · ­BnF: cb15052593k (data) · ­NLA: 35560172 · ­NDL: 00089512 カテゴリ: 内村鑑三 札幌バンド アマースト大学出身の人物 日本の思想家 無教会 日本のキリスト教指導者 萬朝報の人物 日本のプロテスタントの信者 日本の地理学者 戦前日本の牧師 メソジスト派の牧師 日本の聖書学者 開拓使の人物 日清戦争の人物 武蔵国の人物 幕末高崎藩の人物 1861年生 1930年没
教会学校
イエスさまは子どもが大好きでした。 だから、子どもたちもイエスさまが大好き。イエスさまのお話は心がワクワクします。永遠の命とか、復活とか、むづかしいことばもあるけど、イエスさまが一緒にいてくださるのがうれしい、それだけで、いい・・・! 教会学校は子どもの教会。イエスさまの愛がいっぱいです。 ★教会学校・時間割 午前8時40分頃~  受付 午前9時00分~ 9時40分  教会学校・礼拝 午前9時40分~10時10分  分級 ・第1日曜日にはお誕生会をします。 ・礼拝後、讃美歌練習をしています。 ★教会学校のクラスわけ 幼稚科 小学1・2年 小学3・4年 小学5 ・6年 中学1年 中学2 ・3年 高校生 ★教会学校・カレンダー
旧日本軍が11歳から子持ちの母親まで慰安婦に強制動員=韓国/ 2013-11-08
旧日本軍が11歳から子持ちの母親まで慰安婦に強制動員=韓国   韓国の民主党イン・ジェグン議員は、旧日本軍が11歳から赤ちゃんを持つ母親まで従軍慰安婦として強制動員したことを確認した。複数の韓国メディアが報じた。   国会女性家族委員会所属の民主党イン・ジェグン議員は、「対日抗争期強制動員犠牲者支援委員会」が提出した資料を基に、被害者243人の証言実態を分析した結果、1945年の敗戦間近まで強制動員が継続して行われたことを明らかにした。   強制動員は16-18歳を中心に行われ、11歳から28歳までと幅広い年齢層であり、この中には、赤ちゃんを持つ母親もいたという。   また、強制動員の時期は、1930年の1人を皮切りに、1943年までに81.9%、1944-45年の間に12.7%、把握不可が5.3%となった。   特に、日中戦争が勃発した1937年から第2次世界大戦の真っ最中の1944年までに85%の206人が動員されるなど、戦争中に強制動員が集中したという。   一方で、同議員は今回の調査結果について、慰安婦被害者の証言だけに頼って出した結論であり、女性部による歴史的検証と研究の努力が不足しているとも指摘したという。(編集担当:李信恵・山口幸治)
横浜開港と宣教師たちー伝道とミッション・スクール
◆ 『横浜開港と宣教師たちー伝道とミッション・スクール』  ◆横浜プロテスタント史研究会編 ◆ 有隣堂 ◆ 216頁/本体;1,050円   ■来年は横浜開港150周年、そしてヘボン、S・R・ブラウンなどの宣教師が横浜に来て150年になる。横浜プロテスタント史研究会では、開港150年という記念すべき時を迎えるにあたり、日頃の研究成果を書物を通して市民に訴えたいと考えて、横浜が開港されてやってきた宣教師の足跡をまとめてみた。  本書では11人のアメリカの宣教師を取り上げている。彼等は聖書を翻訳し、和英辞書を編纂し、教会を建て、英語を教え、また学校を創立し、西洋文化の伝達者としてさまざまな文化を日本にもたらし、日本人に多大な影響を及ぼした。宣教医ヘボンは和英語林集成を作成し、横浜指路教会を設立、S・R・ブラウンはヘボン等と共同訳の聖書を翻訳し、J・H・バラは日本人教会としては、日本で一番古い教会である海岸教会を設立し、N・ブランはバプテスト教会を設立し、また日本で最初の新約聖書を出版し、A・A・ベンネットは今日の関東学院の前身となる神学校を設立した。このように男性宣教師たちは聖書の翻訳と教会の設立に勢力を注いだのに対し、女性宣教師たちは女子教育に大きな貢献をした。M・E・キダーはフェリス女学院を創立、M・P・プライン、L・H・ピアソン、L・N・クロスビーの3人は現在の横浜共立学園を設立、またC・A・カンヴァースは二代目校長として捜真学院の基礎を築き、O・ハジスも今日の横浜英和学院の基礎固めをなした。  こうして宣教師たちは日本伝道に邁進して帰国する者、長く滞在し横浜の土となって横浜外国人墓地に眠る者もいる。本書は横浜プロテスタント史研究会のそれぞれの専門家により最近の研究を踏まえて叙述し、読み応えのある本となっている。値段も手ごろなうえ、どなたでも気軽に手にとって読める本なので、是非読んでいただきたい。(この本の編纂人 岡部一興より)   (2008年11月、長老 岡部一興)
絵本からの贈り物」*
◆ 絵本からの贈りもの ◆ 長山篤子著 ◆ 日本基督教団出版局 ◆ 178頁/本体;1500円   ■ 今回は少しソフトな本を紹介しようと思います。  以前、「子供に読んであげる絵本って何がいいのかなあ」と聞かれたことがありました。神学生の頃の私は何も答えることができませんでした。本屋に探しに行きました。しかし、そこにはたくさんの絵本があり、何がいいのかわからず、戸惑ったことを覚えています。しかも、キリスト者として安心して読んであげることができる本は何だろう、そうした悩みに出会うこともあるのではないでしょうか。そうした時に、参考にしていただければと思い紹介します。  この本はもともと『こころの友』で連載されているものをまとめたものです。三歳から六歳までのそれぞれの段階にあわせ選べるように、分類されています。一つの絵本を巡り、具体的なエピソードとあらすじが記されており、立ち読みせずともすぐ買いに行けるのではないかと思います。確かに絵本は幼児の読む本かも知れません。ですが、疲れた時に童心に返って絵本を読んでみるのも、時にはいいのではないでしょうか。 (2001年6月24日、指路・第230号、伝道師 清野久貴)
青(あお)い珊瑚礁(さんごしょう)(푸른 산호초)/ 松田聖子(まつだ せいこ)
青(あお)い 珊瑚礁(さんごしょう) 아오이 상고쇼오 푸른 산호초 松田聖子(まつだ せいこ) 마쯔다 세이꼬 강영래 번역 姜永來 飜譯 ああ、私(わたし)の 恋(こい)は 南(みなみ)の 風(かぜ)に 乗(の)って 走(はし)るわ。 아아, 와따시노 코이와 미나미노 카제니 놋떼 하시루와. 아아, 나의 사랑은 남쪽 바람을 타고 달려요. ああ、青(あお)い 風(かぜ) 切(き)って走(はし)れ あの 島(しま)へ。 아아, 아오이 카제 킷떼 하시레 아노 시마에. 아아, 푸른 바람 가르며 달려요 그 섬으로. あなたと 逢(あ)う たびに すべてを 忘(わす)れて しまうの。 아나따또 아우 타비니 스베떼오 와스레떼 시마우노. 그대와 만날 때마다 모든 것을 잊어 버려요. はしゃいだ 私(わたし)は リトル ガール。 하샤이다 와따시와 리또루 가루. 들뜬 나는 리틀 걸. 熱(あつ)い 胸(むね) 聞(き)こえるでしょう。 아쯔이 무네 키꼬에루데쇼오. 뜨거운 가슴 들리나요. 素肌(すはだ)に キラキラ 珊瑚礁(さんごしょう)。 스하다니 키라키라 상고쇼오. 맨살에 반짝이는 산호초. 二人(ふたり)っきりで 流(なが)されても いいの。あなたが 好(す)き! 후따릭끼리데 나가사레떼모 이이노. 아나따가 스끼. 우리 둘이서만 떠내려가도 좋아요. 그대가 좋아요. ああ、私(わたし)の 恋(こい)は 南(みなみ)の 風(かぜ)に 乗(の)って 走(はし)るわ。 아아, 와따시노 코이와 미나미노 카제니 놋떼 하시루와. 아아, 나의 사랑은 남쪽 바람을 타고 달려요. ああ、青(あお)い 風(かぜ) 切(き)って走(はし)れ あの 島(しま)へ。 아아, 아오이 카제 킷떼 하시레 아노 시마에. 아아, 푸른 바람 가르며 달려요 그 섬으로. ああ、私(わたし)の 恋(こい)は 南(みなみ)の 風(かぜ)に 乗(の)って 走(はし)るわ。 아아, 와따시노 코이와 미나미노 카제니 놋떼 하시루와. 아아, 나의 사랑은 남쪽 바람을 타고 달려요. ああ、青(あお)い 風(かぜ) 切(き)って走(はし)れ あの 島(しま)へ。 아아, 아오이 카제 킷떼 하시레 아노 시마에. 아아, 푸른 바람 가르며 달려요 그 섬으로. 涙(なみだ)が こぼるの。やさしい目(め) して 見(み)ないで。 나미다가 코보루노. 야사시이 메 시떼 미나이데. 눈물이 흐르네요. 다정한 눈으로 보지 말이요. うつむいて さげた リトル ローズ 우쯔무이떼 사게따 리또루 로즈. 부끄러워 고개 숙인 작은 장미 はなびら 触(ふ)れて ほしいの。 하나비라 후레떼 호시이노. 꽃잎 만져 보아요. なぎさは 恋(こい)の モス グリーン 나기사와 코이노 모스 그린. 바닷가는 사랑의 이끼 초록색. 二人(ふたり)の ほおが 近(ちか)づいて いくのよ。あなたが 好(す)き! 후따리노 호오가 치까즈이떼 이꾸노요. 아나따가 스끼! 우리 둘의 볼이 가가워져 가네요. 그대가 좋아요. ああ、私(わたし)の 恋(こい)は 南(みなみ)の 風(かぜ)に 乗(の)って 走(はし)るわ。 아아, 와따시노 코아와 미나미노 카제니 놋떼 하시루와. 아아, 나의 사랑은 남쪽 바람을 타고 달려요. ああ、青(あお)い 風(かぜ) 切(き)って走(はし)れ あの 島(しま)へ。 아아, 아오이 카제 킷떼 하시레 아노 시마에. 아아, 푸른 바람 가르며 달려요 그 섬으로.
A씨 50대
教会ではどのような人が、どのような活動をしているのでしょうか? 教会に来ることになったきっかけは? 何人かの教会員にインタビューしました! ■教会員Aさん (女性・50代) Q1: 受洗されたのはいつ頃ですか? 1996(12年前)のイースターです。 Q2: キリスト教との出会いについて教えてください。 子供の頃から身近にキリスト教関係の方がおられ、自然にキリスト教と接していました。 Q3: 受洗のきっかけについて教えてください。 子供の頃からキリスト教に接していたはずなのに、なぜか成人してからは教会から足が遠のいていました。ひとつ年上のいとこが病を得て、それを知った後すぐに他界しました。病院に見舞っても何も力になってあげられなく、言葉もかけてあげられなかったことが悔やまれてなりません。もう少し早くキリストに捉えられていたら・・・と思ったことがきっかけかと思います。 Q4: 現在の教会生活について教えてください。 教会では、主日礼拝に出席できるように、スケジュールを調整しています。求道者会になるべく出席するようにしています。 Q5: 今後の信仰の歩みについて、一言お願いします! 神様のことなど、まだまだ分かっていません。毎週の主日礼拝に出席することで少しずつ歩んでいければと思います。
B
< 教会の各活動トップへ戻る 教会ではどのような人が、どのような活動をしているのでしょうか? 教会に来ることになったきっかけは? 何人かの教会員にインタビューしました! ■教会員Bさん (女性・50代) Q1: 受洗されたのはいつ頃ですか? 40代のとき Q2: キリスト教との出会いについて教えてください。 中学1年のとき Q3: 受洗のきっかけについて教えてください。 何回か教会に通ってきた頃、突然に受洗したくなりました。それもクリスマスに。その時は、まだ礼拝に出ていただけで、教会の方と交わりのときを持っていなかったので、すぐに受洗といっても受け入れてもらえませんでした。それで余計、求道者会へ積極的に参加するようになり、その当時色々な方に支えてもらっていたこともあって、感謝の気持ちを持って生活したくなりました。 Q4: 現在の教会生活について教えてください。 仕事をしているので、時間の取れるときに少しでも奉仕できたら、と思います。 Q5: 今後の信仰の歩みについて、一言お願いします! 終生、求道者でありたいと思う。
C
< 教会の各活動トップへ戻る 教会ではどのような人が、どのような活動をしているのでしょうか? 教会に来ることになったきっかけは? 何人かの教会員にインタビューしました! ■教会員Cさん (女性・70代) Q1: 受洗されたのはいつ頃ですか? 19才の頃 Q2: キリスト教との出会いについて教えてください。 キリスト教精神に基づく中・高一貫教育の学校に学んで。 Q3: 受洗のきっかけについて教えてください。 高校卒業を前に、すでに多くの学友が受洗、しばらくして未受洗礼の私にも「一陣の風が吹き込みました」。キリストの十字架の尊さをとりとめなく洩らしたとき、その時その場で招きへの決心を与えられたのです。訥々(とつとつ)と吐露したのを、村田牧師が忍耐強く聞いて下さったお姿が印象に残っています。 Q4: 現在の教会生活について教えてください。 主日ごとの礼拝で、聖書のみ言葉の糧に養われつつ、伝道委員では、主にあっての交わりに教会の枝としての働きを促されます。 Q5: 今後の信仰の歩みについて、一言お願いします! 復活の主を信じて終わりの日まで、与えられている道を踏みしめて参りたいと祈り願います。
D
< 教会の各活動トップへ戻る 教会ではどのような人が、どのような活動をしているのでしょうか? 教会に来ることになったきっかけは? 何人かの教会員にインタビューしました! ■教会員Dさん (男性・50代) Q1: 受洗されたのはいつ頃ですか? 1994年クリスマスです。父が入院手術直後に大阪に転勤となり家族で転居しました。その後に父の病状が悪化・再発した頃でした。 Q2: キリスト教との出会いについて教えてください。 学生の頃、一度だけ実家近くの関東学院の宣教師宅の聖書研究に出席したことがあります。就職・結婚し、先に受洗した妻と子を車で教会まで送り迎えする中で、教会に対してひかれつつ一方で反発しつつ7年間をすごしました。はじめの数年間は、礼拝が終わるのを駐車した車の中で本(キリスト教の本!)を読みつつ待っていました。自分の頑なさはわかってはいましたが、次の一歩を踏み出せずにいました。 Q3: 受洗のきっかけについて教えてください。 教会、信仰に対して正面から向かいあう前に、まずある程度勉強し知識も確かなものとし納得してからと考えていました。ところが父の再発で、自分ではどうしようもない切羽詰った状況のなかに置かれて何とかしてほしい、助けて欲しいという頃合に、牧師、妻そして子が一歩踏み出すように背中を「そっと」押してくれて信仰に入る「決心」ができたような気がします。受洗はバプテスト教会の浸礼で授かりました。 Q4: 現在の教会生活について教えてください。 主日礼拝にとにかく集中したい。自分の中に少しづつみ言葉を蓄えたい。求道中の方とともにハイデルベルク信仰問答を通して教理の基本も学び続けています。「カテキズムの暗記学習は、失われた息子の帰郷に似ている。そこでまずなされるべきは決心である。『ここをたち、父のところへ行こう』ルカ15:18、R.ボーレン Q5: 今後の信仰の歩みについて、一言お願いします! どうぞ、私があなたから離れてしまうことがないようにお導きください。あなただけを見上げて、御心に沿った働きをすることができるようにしてください、と祈りつつ歩めますように願っています。
E
< 教会の各活動トップへ戻る 教会ではどのような人が、どのような活動をしているのでしょうか? 教会に来ることになったきっかけは? 何人かの教会員にインタビューしました! ■教会員Eさん (女性・30代) Q1: 受洗されたのはいつ頃ですか? 2007年のクリスマス Q2: キリスト教との出会いについて教えてください。 友達にクリスチャンが多かったので(キリスト教主義の学校ではなかったのに)、熱心に教会に通うのってどうしてなんだろうな、と思っていました。また、マザーテレサのことを知ったときに、その活動に感動してマザーのことを紹介した本を何冊か読みましたが、マザーが「私ではなく、神様がなさったことです」と心から思っている様子なのが理解できず、こんな人をつくり上げるキリスト教ってどんな教えなんだろう、と興味を持ちました。 Q3: 受洗のきっかけについて教えてください。 キリスト教に触れるきっかけは幾つもありましたが、「信仰を持つ」ということがさっぱり分からず、「私には絶対無理」と感じていました。 自分は、健康にも家族にも友人にも仕事にもそこそこ恵まれているのに、時々どうしようもなく漠然とした不安に駆られることがありました。その不安が、仕事に行き詰った時に耐えられないくらい強くなり、転職で解決しようと考えたのですが、自分に向いていると思える仕事に転職でき、充実感を感じることが出来ても、その漠然とした不安から解放されていないことに気づきました。ふと「教会へ行って洗礼を受けよう。そうしたら大丈夫。」と教会なんて行ったこともなかったのに、そう思っていました。 その週末に、教会へ行きました。 Q4: 現在の教会生活について教えてください。 日曜日は朝10時半~12時頃の礼拝にでて、その後、委員会の奉仕をしたり、教会の方とお話をしたりして過ごし、なるべく夕方18時~19時の夕礼拝にも出ているので、ほとんど教会で過ごしています。朝の礼拝では250人くらいの様々な方と共に、神様の救いに感謝し、み言葉を聞きます。 悩んでいることをお祈りしておくと、礼拝で答えやヒントが頂けたと思うこともしばしばあります。いつも道を示して下さる神様が、傍らに居てくださる安心感があります。 Q5: 今後の信仰の歩みについて、一言お願いします! 洗礼を受けたとき、私が顔も名前も知らない方たちが、「あなたのことを祈っていましたよ。」と声をかけて下さいました。今まで味わったことのない喜び、感動でした。自分勝手な思いを押し付けるような祈りではなく、神様の恵みと導きを願う祈りとともに歩んで行きたいと願っています。
G・W・ノックス書簡集」*
◆ 『G・W・ノックス書簡集』  ◆横浜指路教会史編纂委員会編 ◆ キリスト新聞社 ◆ 136頁/本体;1200円   ■日本は幕末ペリー来航によって開国させられ、続いてハリスと日米修好通商条約を締結、これによって神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と自由貿易が認められ開港場に居留地が設けられた。この居留地内では外国人に自由な活動が認められたので、貿易商をはじめさまざまな人々が居住するようになった。わが教会を建設したヘボンさんも1859年には神奈川の成仏寺に住み、医療活動や聖書の翻訳を行なってキリスト教を伝える準備をしていた。1873(明治6)年にキリスト教禁制の高札が撤去されると、各派の宣教師が来日し活発に伝道活動を行なうようになった。私たちの教会は、1874(明治7)年9月に宣教師ヘンリー・ルーミスのもとで居留地39番のヘボンの施療所において産声を上げた。2代目牧師のG・W・ノックスは1877(明治10)年10月に来浜、5年間在任した。ノックスは1853年8月、ペリー来航の年に生れている。アメリカのハミルトン・カレッジ卒業後、オーバン神学校を終えて来日した。ここに紹介する『G・W・ノックス書簡集』は在任した5年間にどのような活動をしたかがつぶさにわかるものである。読者の理解を深めるために沢山の注がつけられ、まえがきと解説でどのような経緯でノックスが来任し、どのような働きをしたかが分かるようになっている。  なお、わが教会の初代牧師ヘンリー・ルーミスは43年間横浜に在住、わが教会の牧師を歴任、また長くアメリカ聖書協会日本支部主幹として働いた。『宣教師ルーミスと明治日本』有隣新書(1000円)は、わが教会に在任した時にアメリカ本国に書き送った手紙を翻訳したものである。あわせて読んで頂ければ幸いである。 直接教会に来られて購入されると、著者割引になります。 なお、郵便振替も利用できます。お振込後、教会までお電話ください。 郵便振替加入者名:横浜指路教会 口座番号:00230-8-48118 『G・W・ノックス書簡集』 郵送料込み 1200円 『宣教師ルーミスと明治日本』 郵送料込み 1000円 (2006年9月、長老 岡部一興)
Ryu Siwonの桜の歌詞(류시원의 사쿠라 가사)/ 번역 강영래/ 2010-09-22
Ryu Siwonの\"桜\"の歌詞 作詞: GIFT 作曲: GIFT 桜 昔あの春風 まるで昨日の事のように 忘れないよ薄紅色出逢い桜 桜並木変わらぬ春風(かぜ)は 流れゆく時代ですら巻き戻すの 穏やかな懐かしい春風(かぜ)に 思い出す胸に咲いた幼い恋心(こい) 零れた花びらを両手に包んでは散らす 木漏れ日の中君は輝いていたね時間よ止まれ 昔あの春風 まるで昨日の事のように 忘れないよ薄紅色出逢い桜 桜並木変わらぬ春風(かぜ)は 流れゆく時代ですら巻き戻すの 穏やかな懐かしい春風(かぜ)に 思い出す胸に咲いた幼い恋心(こい) 零れた花びらを両手に包んでは散らす 木漏れ日の中君は輝いていたね時間よ止まれ 季節は巡り愛の カタチも変わってゆくけれど あの日感じた眩しい愛をもう一度 穏やかな季節も終わり 明日信じて散りゆく桜見れるでしょう 出逢いは偶然で覚らない表情(かお)の僕 偶然を運命と変えて強さを桜に誓う 昔あの春風 まるで昨日の事のように 忘れないよ薄紅色出逢い桜 桜並木変わらぬ春風(かぜ)は 流れゆく時代ですら巻き戻すの 穏やかな懐かしい春風(かぜ)に 思い出す胸に咲いた幼い恋心(こい) 零れた花びらを両手に包んでは散らす 木漏れ日の中君は輝いていたね時間よ止まれ 季節は巡り愛の カタチも変わってゆくけれど あの日感じた眩しい愛をもう一度 穏やかな季節も終わり 明日信じて散りゆく桜見れるでしょう 出逢いは偶然で覚らない表情(かお)の僕 偶然を運命と変えて強さを桜に誓う 昔あの春風 まるで昨日の事のように 忘れないよ薄紅色出逢い桜 桜並木変わらぬ春風(かぜ)は 流れゆく時代ですら巻き戻すの 穏やかな懐かしい春風(かぜ)に 思い出す胸に咲いた幼い恋心(こい) 零れた花びらを両手に包んでは散らす 木漏れ日の中君は輝いていたね時間よ止まれ 사쿠라 무까시 아노 하루카제 마루데 키노오노 코또노 요오니 와스레나이 우스구레나이이로 데아이 자꾸라 사꾸라 나미끼 카와라누 카제와 나가레유꾸 지다이데스라 마끼모도스노 오다야까나 나쯔까시이 카제니 오모이다스 무네니 사이따 오사나이 코이 코보레따 하나비라오 료오떼니 쯔쯘데 치라스 코모레비노 나까 키미와 카가야이떼 이따네 시깡요 토마레 무까시 아노 하루카제 마루데 키노오노 코또노 요오니 와스레나이 우스구레나이이로 데아이 자꾸라 사꾸라 나미끼 카와라누 카제와 나가레유꾸 지다이데스라 마끼모도스노 오다야까나 나쯔까시이 카제니 오모이다스 무네니 사이따 오사나이 코이 코보레따 하나비라오 료오떼니 쯔쯘데 치라스 코모레비노 나까 키미와 카가야이떼 이따네 지깡요 토마레 키세쯔와 메구리 아이노 카따찌모 카왓떼 유꾸케레도 아노 히 칸지따 마부시이 아이오 모오 이찌도 오다야까나 키세쯔모 오와리 아시따 신지떼 치리유꾸 사꾸라 미레루데쇼오 데아이와 구우젠데 사또라나이 카오노 보꾸 구우젱오 운메이또 카에떼 츠요사오 사꾸라니 치까우 무까시 아노 하루카제 마루데 키노오노 코또노 요오니 와스레나이 우스구레나이이로 데아이 자꾸라 사꾸라 나미끼 카와라누 카제와 나가레유꾸 지다이데스라 마끼모도스노 오다야까나 나쯔까시이 카제니 오모이다스 무네니 사이따 오사나이 코이 코보레따 하나비라오 료오떼니 쯔쯘데 치라스 코모레비노 나까 키미와 카가야이떼 이따네 지깡요 토마레 키세쯔와 메구리 아이노 카따찌모 카왓떼 유꾸케레도 아노 히 칸지따 마부시이 아이오 모오 이찌도 오다야까나 키세쯔모 오와리 아시따 신지떼 치리유꾸 사꾸라 미레루데쇼오 데아이와 구우젠데 사또라나이 카오노 보꾸 구우젱오 운메이또 카에떼 츠요사오 사꾸라니 치까우 무까시 아노 하루카제 마루데 키노오노 코또노 요오니 와스레나이 우스구레나이이로 데아이 자꾸라 사꾸라 나미끼 카와라누 카제와 나가레유꾸 지다이데스라 마끼모도스노 오다야까나 나쯔까시이 카제니 오모이다스 무네니 사이따 오사나이 코이 코보레따 하나비라오 료오떼니 쯔쯘데 치라스 코모레비노 나까 키미와 카가야이떼 이따네 지깡요 토마레 벚꽃 옛날 그 봄바람 마치 어제와 같이 잊지 않아요 연분홍색으로 만나는 벚나무 늘어선 벚나무들과 변함없는 봄바람은 흘러간 시대라도 되돌려 줄 것 같아 온화하고 그리운 봄바람에 다시 생각나는 가슴에 핀 어렸을 때의 연정 떨어진 꽃잎을 양손으로 감싸서는 흩어버리네 나무 사이로 새어드는 빛 속에 너는 빛나고 있구나 시간이여 멈춰라 옛날 그 봄바람 마치 어제와 같이 잊지 않아요 연분홍색으로 만나는 벚나무 늘어선 벚나무들과 변함없는 봄바람은 흘러간 시대라도 되돌려 줄 것 같아 온화하고 그리운 봄바람에 다시 생각나는 가슴에 핀 어렸을 때의 연정 떨어진 꽃잎을 양손으로 감싸서는 흩어버리네 나무 사이로 새어드는 빛 속에 너는 빛나고 있구나 시간이여 멈춰라 계절은 흐르고 사랑의 형태도 바뀌어 가지만 그 날 느낀 눈부신 사랑이여 다시 한번 온화한 계절도 끝나고 내일을 믿고 떨어져 흩어지는 벚꽃을 볼 수 있을 거예요 만남은 우연인 것을 깨닫지 못하는 표정의 나 우연을 운명으로 바꾸어서 강해질 것을 벚나무에 맹세하네 옛날 그 봄바람 마치 어제와 같이 잊지 않아요 연분홍색으로 만나는 벚나무 늘어선 벚나무들과 변함없는 봄바람은 흘러간 시대라도 되돌려 줄 것 같아 온화하고 그리운 봄바람에 다시 생각나는 가슴에 핀 어렸을 때의 연정 떨어진 꽃잎을 양손으로 감싸서는 흩어버리네 나무 사이로 새어드는 빛 속에 너는 빛나고 있구나 시간이여 멈춰라 계절은 흐르고 사랑의 형태도 바뀌어 가지만 그 날 느낀 눈부신 사랑이여 다시 한번 온화한 계절도 끝나고 내일을 믿고 떨어져 흩어지는 벚꽃을 볼 수 있을 거예요 만남은 우연인 것을 깨닫지 못하는 표정의 나 우연을 운명으로 바꾸어서 강해질 것을 벚나무에 맹세하네 옛날 그 봄바람 마치 어제와 같이 잊지 않아요 연분홍색으로 만나는 벚나무 늘어선 벚나무들과 변함없는 봄바람은 흘러간 시대라도 되돌려 줄 것 같아 온화하고 그리운 봄바람에 다시 생각나는 가슴에 핀 어렸을 때의 연정 떨어진 꽃잎을 양손으로 감싸서는 흩어버리네 나무 사이로 새어드는 빛 속에 너는 빛나고 있구나 시간이여 멈춰라. 강영래 목사(인천 주님의영광교회)
Welcome to Yokohama Shiloh Church.
Welcome to Yokohama Shiloh Church. ::Time to start the worship service: Every Sunday morning: 10:30AM-12:00AM Every Sunday evening: 6:00PM-7:00PM ::Address: Address: 6-85, Onoe-cho, Naka-ku, Yokohama-shi, Kanagawa-prefecture Phone: (045) 681 3804 ::Contact Us: Please feel free to contact us. We will reply to you as soon as possible. email: fujikake@yokohamashiloh.or.jp ::History: The founder of our church, James Curtis Hepburn, M.D., a medical missionary of The Presbyterian Churches of America, arrived in Yokohama with his wife on October 17 1859 (Ansei 6) to sow the good seed in Japan. At an early period, he was engaged with few interruptions in daily dispensary work, as well as in teaching English language and general academic subjects to Japanese young men. Some of those young men of his school led the enthusiasm to establish a Christian church, and our church was founded on September 13 1874 with Rev. Henry Loomis of The Presbyterian Churches of America as the first pastor. The first location of the church was at Missionary Residence No. 39 in Yokohama, then it moved to the present site, and then to Ohta Cho and Sumiyoshi Cho, and then finally it relocated to the present site in 1892. Through the efforts of Dr. Hepburn, a red brick church building was erected. The church was named "Shiloh Church" after his mother church in Milton, Pennsylvania. "Shiloh" means Messiah, the one that brings peace, in the Old Testament, and it is also the name of a sacred town in old days. The great Kanto Earthquake in September 1923 destroyed the original church building, and the present building was built soon after the Earthquake. During the World War II air raid of Yokohama on May 29 1945, all the inside of the present church building was burned down. In spite of hardships after the War, our church has been devoting itself to its mission of promulgating the Gospel, led by the Word of Christ and faith. As one of the commemorative projects of the 125th anniversary of its founding, our church installed a Mathis (Switzerland) pipe organ. Shiloh Church continues to pursue its way, fully respectful of the tradition of the Presbyterian Church, to provide the place of worship where "the Gospel of Christ is told justly and rightly, and is listened sincerely.
かみ(神)の民の信仰 旧約編(하나님의 백성 구약편)
◆ 『神の民の信仰 旧約編』  ◆ 左近淑 著 ◆ 日本キリスト教団出版局 ◆ 本体;1,800円   ■聖書を読み始めた者にとって、39巻からなる旧約聖書は浩瀚で難解なものだと思います。物語や法や詩等、文書の形態も様々であるし、それぞれの書物が書かれた時代も様々です。自分一人で読もうとしても、それらが指し示す信仰の中心を読み取ることは容易なことではありません。聖書の文言を部分的に取り出し、自分なりに解釈し、日々の生活における教訓や倫理を読み取ろうとしてしまうと、聖書が語ろうとしている信仰の中心から逸れてしまうということも起こりかねないでしょう。聖書を信仰の書物として読むのであれば、常に、聖書が語りかける信仰の中心を知らされて行くことが大切です。著者がこの書物を記すに際してもっている問題意識は、日本において聖書宗教が変質しているということです。日本人の聖書の読み方は、「二階座敷の床の間で読む」ようなものだと言っています。聖書が個人の精神的な営みを充実させるためだけに読まれてしまう傾向があるというのと言うのです。そのような読み方は、まさに聖書が語りかける信仰の中心が深く知らされていない時に起こると言って良いでしょう。本書が見つめる聖書の信仰は、「神の民の信仰」という題に明確に示されています。それは、個人の悟りのようなものではなく、この世を神の民、神様の恵みの下に集められた信仰の共同体として歩むということです。本書の全体の章立ては、「神の民の成立(出エジプト)」、「神の民の特質(十戒)」、「神の民の信仰と課題」、「律法主義化と主イエスによる新しい共同体」、となっています。旧約聖書を理解する上で鍵となる聖句を引用しつつ、時代背景を解説しながら、神の民(イスラエル)の歴史を記すことによって、神の民として歩むことの幸いを分かりやすく記しています。更には、旧約の民の歩みから、新約聖書における神の民(教会)にどのようにつながって行くのかを記すことによって、福音全体の中心をも示してくれています。旧約聖書の信仰を通して、聖書全体を貫くメッセージが示される本です。   (2009年3月、副牧師 嶋田恵悟)
きょうかい(教会)に生きる
◆ 教会に生きる (『教会生活案内』第1巻) ◆ 楠本史郎著 (日本基督教団若草教会牧師) ◆ 日本基督教団出版局 ◆ 120頁/本体;1200円   ■「私たちの神は、天上天下唯我独尊といった孤高のお方ではありません。ただお一人、天の高いところに鎮座ましまして、下界の人間どもの愚かさを冷たくあざ笑っている、そんな意地悪なお方ではありません。熱い眼差しで私たちを見つめられます。地上で悩み苦しむ人間のところにまで降ってこられ、その喜びや悩み苦しみまでも共にしてくださいます。私たちとの交わりを地上に創り出してくださいます。そのために、御子を世に送り、十字架に付けるということまでなさいました。それほどに愛と恵みに満ちあふれた神でいらっしゃいます、教会があるということが、その証しなのです」(58頁)。  この本は、教会生活案内シリーズの第一巻として書かれたもので、教会とは何か、信仰の心とはどういったものなのかが、分かりやすい言葉で説き明かされています。教会に通い始めて間もない方、教会に行ってみようかと考えている方、さらには洗礼を受けて新しく教会につながった方のさまざまな問いに答えてくれる有益な本です。そしてこの本を読んだなら、ぜひ礼拝に参加してみたい、そう思わされます。実際に生(ナマ)の礼拝を体験したくなる思いが、読者の心に与えられますように…。 (2004年2月、伝道師 矢澤励太)
きょうかい(教会)を必要としない人への福音
◆ 教会を必要としない人への福音 ◆ ウィリアム・H・ウィリモン著 ◆ 日本基督教団出版局 ◆ 208頁/2,310円(税込)   ■ 本書の原題は「生活に満足している人への福音」(The Gospel for the Person Who has Everything)です。邦題は原題を生かしつつ、さらに著者の主張を明らかにするために「教会を必要としない人への福音」となっております。  まだ、教会へ行ったことがない方や教会に馴染みの薄い方は「教会とはどんなところか、教会とはどんな人たち集まるところか?」と問いを持つのではないでしょうか。また、自分は教会に行かなくても、信仰などなくても既に充分に幸せである。「教会なしにやっていけますから」と考えられる方もおられるでしょう。  著者は、この本を通してこのような人たちへ教会は何を与えることができるか具体的にメッセージを組み立ています。教会の必要性を説き、最初に「あなたには問題があります」という罪の指摘から入る伝統的な説教スタイルの問題点を指摘しています。それに代わる新しいスタイルとは、最初に「強い人」の強さを認め、それを神からの贈り物と呼ぶことから語りかけはじめ、次に「強い人」が抱えている独特な罪を指摘し、要求し、預言者的な裁きの言葉を語るべきことを述べています。私たち人間が神に愛されている、その愛から出発する語りかけ方を強調しています。  また本当の強さ、本当の力が何であるか、信仰とは何であるか、教会の豊かさ、キリスト者の生き方などが語られています。信仰者にとっても自分の信仰が問われる本であります。また、教会とはどのような場所か興味、関心がある方にも一読頂きたいと思います。 (2009年11月29日、伝道師 宍戸ハンナ)
じゅうじか(十字架)上の七つの言葉
◆ 『十字架上の七つの言葉』  ◆加藤 常昭著 ◆ 教文館 ◆ 頁/本体;円   ■主イエス・キリストは十字架に架けられて死なれました。このことは歴史的出来事として見るならば、一人の犯罪人に対する死刑執行です。しかし、キリスト者は、信仰によって、このことを救いの出来事として受け入れています。神の子が人間の罪を贖うために自らを犠牲にされたのが十字架の出来事なのです。聖書は全体で、神様による人間を救おうとされる救いの歴史を証言しています。しかし、その中心は主イエス・キリストの十字架です。主イエスの十字架を見つめる中で、神様の救いが示されるのです。  地上を歩まれた主イエスの歩みを記しているのは聖書に収められている四つの福音書です。これらの福音書に記されている、主イエスが十字架の上で語られた言葉は全部で七つです。本書はこの七つの言葉をテーマにして、日本を代表する説教者がメッセージを語っています。七つの言葉を一つ一つ味わう中で、主イエスの十字架に、私たちを救おうとされる神様の御意志が貫かれていることを知らされます。  この本は、著者の豊かな聖書解釈に加え、カルヴァン・ルター等の宗教改革者の著作、日本を代表する説教者の説教等からも豊富な引用がなされています。又、ところどころに十字架を題材にした、絵画や彫刻の写真が挿入されています。主イエスの十字架を自らの救いの出来事として受け入れた先達の信仰によって、より豊かに主イエスの恵みが示されます。  すでに、キリストを救い主として受け入れておられる方も、まだ受け入れておられない方にも読んでいただきたい本です。共に、主イエスの十字架で語られた言葉に聞き、神様の救いの豊かさを知らされたいと思います。 (2006年11月、伝道師 嶋田恵悟)
せいれい(聖霊)と教会」
◆ 聖霊と教会-実践的教会形成論- ◆ 関川泰寛著 ◆ 教文館 ◆ 272頁/本体;2500円   ■ この本は指路教会の第1回教会研修会、また先日行われた改革長老協議会の講演の参考図書としてあげられた本である。十貫坂教会牧師であり、東京神学大学教授である関川先生が書き記したものである。  序文で、先生は、「聖霊と教会の固有の関係を理解し、その理解に立って教会形成にあたることこそ、日本の地に教会を形成していく場合のもっとも重要な鍵となる」と記している。日本における伝道不振がさけばれて久しいが、その嘆きに刺激を与えたいと願って記されたのが本書ということであろうか。  この本は大変「面白い」本である。関川先生のすぐれた神学的洞察により、聖書神学、歴史神学等多岐に渡りテーマについて言及されている。これ一冊で聖霊と教会について理解されるのではないだろうか。しかも、ただ神学的な議論をしているばかりでなく、教会の現実を踏まえ、実践的な面まで言及している。多少難しい神学的な言葉が使われているかもしれないが、考えさせられるテーマもあり、ぜひとも一読していただきたいと思う。 (2001年8月26日、指路・第231号、伝道師 清野久貴) 
だあれ、この人…山梨県ベタニヤ教会の野村基之牧師/ 2012-02-14
だあれ、この人…山梨県ベタニヤ教会の野村基之牧師 日本人牧師がソウルの在韓日本大使館の前に設置された「平和の碑」を訪れてフルートの演奏をし、ひざまずいて「慰安婦問題を謝罪した」と、韓国の多数のメディアが13日に大きく報じた。 ​ ​ ​ ​ ​微妙な問題に、牧師様として首を突っ込むのは如何なもんでしょう。 ​小さいころの感傷で放言し動き回る牧師様には感心できません。 ​牧師様廃業して町会議員様から始められては如何ですか?