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1対850(1:850)/ 信仰の戦いに勝利(믿음의 싸움에 승리)/ 王上18:16-24(왕상18:16-24)/ 大嶋博道牧師(오오시마 히로미찌 목사)/ 日本フリーメソジスト神戸ひよどり台教会)/ 207-03-11
1対850(1:850)/ 信仰の戦いに勝利(믿음의 싸움에 승리) 王上18:16-24(왕상18:16-24) 2007/03/11(日) 「1対850」信仰の戦いに勝利 大嶋博道牧師 聖日礼拝 (聖書)列王記上18:16~24  序 論:  まず、説教題の「1対850」について説明します。 ここで「1」とは天地万物を作られた真の神を信じている預言者エリヤの事を指し、そして「850」とは16章23節以下に出てくるアハブ王とイゼベラ王妃に仕えていたにせ預言者たちの事です。  アハブはまれに見る罪深い王であり、イゼベルは異教の国ツロフェニキヤから嫁いできた王妃で、彼女は自分の国の偶像をイスラエルに持ち込み、450人のバアルの預言者と400人のアシェラの預言者を召し抱えていたのです。ある日、エリヤは勇敢にもこれらのにせ預言者に信仰の戦いを挑み、その熱心な神への信仰によって勝利します。 本 論: この事を知った上で私たちの信仰が生きた信仰生活となるためにはどうしたら良いかを学びます。 その①はみ声に従う、と言う事です。徹底的に神のみ声に聞き従うと言う事です。18章18節にあるようにはっきりと神様のみ声に従う事が大切です。 ②30節にあるように神の祭壇を立て直す、と言う事です。エリヤが850人と戦うために主の祭壇を立て直したようにあなたの生活の基礎である信仰の祭壇を立て直して欲しいのです。見えざる神がおられる証として、臨在の証として、感謝のしるしとして、そして献身のしるしとして日々、神の祭壇を築く事が大切です。 ③偶像がいかに虚しいかと言う事を知る事です。(27節)何かあった時に目に見えるものに頼るのは私たちの常ですが、大切な事はそれらを絶対視しないと言う事です。唯一の神に全てをおゆだねすると言う事が大切です(イザヤ46章1~4節) ④徹底的に(34~35節にあるように)神に拠り頼む事、三度も祭壇に水をかけても尚、神の火が点火するとエリヤは信じていたように徹底した神信仰が大切です。 ⑤最後に信仰の道を生涯歩み続けると言う事です。テモテⅡの4章6~7節に「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。」とあるように信仰の道を生涯を通して戦い抜くと言う事です。これらのことをとおして私たちの信仰の戦いは勝利に導かれるのです。 1対850、あなたはどちらの側につきますか?エリヤと共に真の神に向き合って生きたいものです。
12の証の石碑を立てて(12개의 돌 비석을 세우고)/ 出エジプト24:3-8(출24:3-8), マタイ19:23-30(마19:23-30)/ 滝谷良一牧師(타끼야 료오이찌 목사)/ Japanese Christian Church of Philadelphia(미국 필라델피아일본인교회)/ 献堂12周年記念礼ৢ
12の証の石碑を立てて(12개의 돌 비석을 세우고) 出エジプト24:3-8(출24:3-8),マタイ19:23-30(마19:23-30) 北米 Japanese Christian Church of Philadelphia 牧師 はじめに:   献堂12周年記念礼拝にお招きをいただき、心から感謝致しております。御教会が益々、主の御導きの元に成長することを祈っております。 序 論: 聖書の中には特徴のある数字が出てきます。例えば「3=イエスの三日目の甦り」、「7=天地創造」「40=荒野の旅、断食など」、そして今朝のメッセージに登場する「12=イスラエルの部族、イエスの弟子など」であります。御教会の12周年は誠に聖書的です。  出エジプト24:4によると、モーセは神と民との契約の締結にあたり、「12の石の柱」をイスラエルの12部族のために建てました。これは神との契約を守るというイスラエルの民の誓いのしるしでした。創世記の31章で、ヤコブは舅のラバンとの間に契約を結んだとき、石塚を築いてそれを記念碑としました。これも契約を守る誓いのしるしだったのです。  かつて旧約の人々は動物の生け贄を献げて神との和解のしるしとしましたが、新約においてはイエス・キリストご自身が十字架上にいのちを犠牲にされることによって、神と人間との間の契約の仲保者になられました。ですから、私たちは動物の生け贄ではなく、イエス・キリストをとおして信仰によって神と和解することが出来るのです。(ヘブル8:6,9:11~12,9:15参照) 本 論: さて、教会は新しい霊的なイスラエルです。 実は教会こそ「12の石碑の柱」なのです。それは、神がイエス・キリストにおいて私たちとかわされた「契約」のしるしであります。  ペトロの手紙一2:4~5によりますと、①イエス・キリストは「ただ一度(ハパックス)」人類の罪を贖うために十字架に架かられました。このお方こそ「生きた尊い石」なのです。(2:4) ②私たちもこのお方のところに来て留まることによって生きた石として用いられたいものです。そして ③聖なる祭司として神に喜ばれる者とされましょう。  私たちは近隣の人、病気の人、苦しんでいる人のために神に執り成す「祭司」であることを心に刻みたいと思います。また、家族や隣人や職場の人々の祝福の存在になりたいものです。 まとめ:  私たちは選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民として信仰生活を送りたいと思います。献堂12周年を迎えた神戸ひよどり台教会は「12の証の石碑」です。そこに連なる主にある信徒たちも「証のための存在」です。 日々、「証の石碑」を立て続けましょう。祝福を心からお祈り致します。
12人の弟子たち(12명의 제자들)/ マルコ3:13-19(막3:13-19)/ 林利行牧師/ 日本フリーメソジスト豊中穂積教会/ 2008-06-29
12人の弟子たち(12명의 제자들) マルコによる福音書 3:13-19(막3:13-19) 「さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。こうして、この十二人をお立てになった。そしてシモンにペテロという名をつけ、またゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、彼らにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。つぎにアンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それからイスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。」 マルコによる福音書3章13節~19節  羊の下に我を置くと義という漢字になるように、私たちの義は、イエスの元に我をおくことです。また、固まるという漢字を使うように、一人一人がかたくなで頑固な個人なのです。人間は誰でも自己中心的で、個人というかたくなさを持っています。  たとえ気が合うと言っても、その合う部分は一部分でしかありません。その一部分が崩れたら、関係は悪くなってしまうのです。私たちは互いに相手に耳を傾け、その人が何を言いたいのかを聞かなくてはいけません。自分を捨て、相手のことを考える必要があります。そこに一致が生まれるというのが一般論です。しかし、クリスチャンはどう一致するのでしょうか。  イエスのお立てになった12人の弟子はそれぞれ個性の強い人たちでした。「個」が強い人たちだったのです。彼らが互いに違かったように、私たちもお互い違う人同士なのです。ではどうやってキリストにある一致が生まれるのでしょうか。  ピリピ2章5節から8節には、「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。」とあります。  イエス・キリストは神様のことを述べ伝えただけではありません。口で神様のことを語るのは簡単です。しかしイエスは神の言葉を語った通り生きたのです。神の言葉に身をもって従い、神の言葉に生きたのです。この「神の言葉に生きる」というイエスの思いをお互いに生かすところに一致が生まれるのです。  その神の言葉に生きたイエスは、ひたすら他の人に集中しました。普通、神ならば、王座に座って人々に一方的に話すはずです。しかしイエスは神の座をかなぐり捨て、僕の形をとられたのです。その当時、僕と奴隷は等しいものでした。僕とは相手中心に生きるものです。イエスは、そのように相手中心に生き、また十字架にいたるまで従順であられました。  神なら神らしく、神々しく生きるべきであるという考えを裏切ったイエス・キリストを、多くの人が誤解したのです。しかし、弱い人々に手を差し伸べ続けるイエスを見て、ある少数の人がそのイエスの歩みに神の本質を見ました。  その数少ない一人、ローマの百卒長はイエスの歩み、また死を目のあたりにして、「まことにこの人は神の子であった」と告白したのです。ほとんどの人が神様を遠く大きい存在と見、天にも昇るような高い存在だと信じています。たしかに私たちは恐れをもって神様に近付かなくてはなりません。しかしイエスのかかった十字架が、私たちに神の存在を身近に感じさせるのです。私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかられたイエス様に私たちが近付くのではありません。イエス様が私たちに近付いてくださるのです。  ヨハネによる福音書1章1節には、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあります。この言葉はイエスを表します。イエスのなされたこと、生きられたこと、またその歩み全てが、イエスが神の子であったことを証しているのです。このイエスを、私たちは主と呼んでいるのです。  私たちはこの神の言葉を受けました。それはイエスと共に歩んでいることです。このイエスのように、他の人のために生きようと、試みていきたいです。特に弱い人、世に見捨てられている人に、手を伸ばしていきたい。キリストと共に。  私たちは聖書を開きます。その中で御言葉が示されたなら、その御言葉に少しずつ歩んでいきましょう。それがクリスチャンの歩みなのです。私たちは弱いです。しかし神の立場をかなぐり捨てられたイエスのように、私たちも御言葉に生きていこうではありませんか。
1人の人によって(한 사람에 의하여)/ ロ-マ5:12-21(롬5:12-21)/ 畑中康雄 勧士(하따나까 야스오 권사)/ 日本フリーメソジスト神戸ひよどり台教会)/ 2005-03-13
1人の人によって(한 사람에 의하여) ロ-マ5:12-21(롬5:12-21) 2005/03/13(日) 「1人の人によって」(聖書)ロ-マ5章12~21節 畑中康雄勧士 ●私たち人間は救われなければならない程の罪人なのでしょうか。私は何の罪も犯してはいないと言われる方が大勢おられるのではないでしょうか。 このことについては創世記1章27節に神様は「神に似せて人間を創られた」とあります。神に似せた存在~ご自分にかたどった者として、「罪なき者」として「神は人を祝福され」ました。 ところがこの「人間」が「この善悪の知識の木らは、決して食べてはならない」と神が命じられていた「その木の実」を食べてしまいます。つまり罪を犯してしまいます。 ●今日のみ言葉のロマ書5章12節に「1人の人によって罪が世に入り…死は全ての人に及んだ」とあるように、そしてまた創世記3章15節に「私は敵意を置く」とまで神様が言われたように「1人の人によって罪が世に入った」のです。 ですから、キリスト教では「人間が罪を犯したから人は罪人であるとは考えず、人は元々罪人だから罪を犯す」と考えます。 ●さて、今度は「イエス・キリストと言う1人の人を通して全ての人が救われる」ように神はひとり子イエスをこの世につかわされました。 今日のみ言葉にあるように「神の恵みと1人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊に注がれた」のです。私たちは良い行いをするから罪から救われるのではありません。ただ神を信じるその信仰によって私たちは無条件で救われるのです。この救い主イエスは、神の身分でありながら神と等しい者である事に固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分となってこの世に来てくださいました。 ●ロマ5章15節にある「1人の罪によって、多くの人が死ぬ事になった」そしてロマ5章14節に「アダムの違反と同じ様な罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配してしまった」と言う事を理解しないと「神の恵みで1人の人イエスの恵みの賜物が多くの人に注がれる」(15節)と言うことが理解出来ないのです。 ●さて、このようにして、1人の人によって罪人となった人間は、救われなければならない存在となっていたのですが、イエス・キリストの誕生、そして私たち全ての人間の罪の贖いとしての十字架の死、そして主イエスの復活と言う神の恵みのご計画の中で私たちは「救いを得・永遠の命を得る」事が出来るのです。それは「1人の人の正しい行為によって、全ての人が義とされて命を得ることになった」と5章18節にある通りです。
3人の弟子が見た天国(세 사람의 제자가 본 천국)/ マタイ17:10-13(마17:10-13)/ 2007-03-08
3人の弟子が見た天国 マタイ17:10-13 イエスはご自分の十字架の死と復活について予告した。また、イエスに従うために弟子達に自分の十字架を負うように覚悟を求めた。17章では、弟子達への祝福として、山の上の変貌により天国の姿を見せた。弟子達が、迫害と困難にも希望をもって従うことを教えた。          I栄光に輝くイエスキリストがおられる (1)17:1「それから6日たって、イエスはペテロとヤコブ、その兄弟のヨハネの3人だけをつれて高い山に導いて行かれた」。3人の弟子たちは、弟子の中で特にイエスに近い弟子である。会堂管理者の娘が死んだときその癒しの場にいたのも三人の弟子(マルコ5:37)。イエスがゲッセマネの園で祈った時も、この3人は園の中までイエスとともに入った。今回もこの3人に天国を見せた。 (2)申命記19:15「2人、または3人の証言」で真実が確認された。この3人は、天国の姿を他の弟子たちや教会に証言するため。他の弟子たちに見せないのは、イエスを政治的な革命を推進する運動に広げないため。やがてペテロは、変貌の山の出来事を証言して手紙に書いている。「私たちがそのご威光の目撃者である」(IIペテロ1:16-)。 (3)この高い山がどの山かは不明である。ペテロが信仰告白したピリポカイザリヤの南方で、カペナウムに近い山であろう。目的は「祈るために山に登られた」(ルカ9:28)。 (4)「太陽のように輝き、衣は光のように白くなった」。光り輝くイエスの姿は、神の栄光を表している。イエスが地上に来られた30年間は、「仕える者の姿をとった」(ピリピ2:7-7)。しかし、ここでは、本来の神の栄光に戻られた。 (5)パウロがダマスコに行く時にイエスが現われた。「天からの光が彼を巡り照らした」(使徒9:3-5)。イエスは天から光として現われた。ヨハネがパトモス島で見たキリストの姿も「頭と髪の毛は白い羊毛のように、また雪のように白く、・・・・足は炉で精錬された光輝く真鍮のようであり・・・顔は強く照り輝く太陽のようであった」(黙1:13-16)。3人の弟子は、天国のイエスの栄光の姿を見た。 II モーセとエリヤがイエスと話し合う (1)3節「モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っていた」。モーセもエリヤも共に、山で神と親しく交わった経験がある。①モーセは、シナイ山で律法の板を受けた。その時シナイ山は主の栄光がとどまった(出24:16)。②エリヤは、ホレブ山で神とであった(I列王19:12)。 (2)モーセは既に死んだ人の代表、エリヤは死なないで天に移された人の代表。天国には既に死んだ聖徒と、今生きていて主が来られて死ぬことなく天国に行く聖徒で構成されている。この世をさった二人は、今も生きていてイエスと直接話をしている。すなわち、世をさった信者は、今も天国で生きていてイエスと話をしている。我々もやがて天国でイエスと会い、何時までも交わるのである。 (3)なぜ、アブラハム、ダビデ、イザヤではなかったのか。モーセとエリヤは律法と予言者の2区分を代表する人物。モーセは、イスラエルをエジプトの奴隷から救い出した指導者。彼を通して律法とモーセ5書を記録した。彼はイスラエル民族を国家として組織し、宗教の土台を据えた最大の指導者。 (4)エリヤは、大胆で勇気ある予言者。旧約聖書の中の最も偉大な予言者。彼は、死をみることなく、「竜巻に乗って天に上って行った」(II王2:11)。旧約聖書の最後のマラキ書では、メシヤの再臨の前に現われるのがエリヤであると予言がある。 (5)彼らが話したのは、ルカ9:31「イエスがエルサレムで遂げようとしているご最期について」。ここの「ご最期」とは、ギリシャ語、「エキソダス(脱出)」。エキソダスは、モーセがイスラエル人を導いて奴隷から脱出させた記録。それと同様に、イエスのご最後が「脱出」というのは、最後の十字架の死により、罪の奴隷である人々を罪から救い出す意味。 (6)弟子たちは、最初は眠たかった。しかし、変貌のイエスと二人の人の姿を見て、「この二人がイエスと別れようとした時(ルカ9:33)、ペテロがはっきりと目がさめた。そしていった。「もし、よろしければ私がここに三つの幕屋を作ります。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」(4節)。 (7)時期は10月、仮庵の祭りの頃=人々は先祖が荒野で40日間生活した不便を思いだして、仮庵を作って7日間生活した。それで、ペテロは、幕屋を作る提案をした。いつまでも、イエスが地上で、彼らと共に残ることを願った。 (8)イエスは地上では、「枕するところも無い」が、やがて天国へ帰る。イエスに住む家を建てるのは、イエスの任務と神の計画への大きな攻撃である。16:21で、イエスが苦しみを受けて、殺され、三日目によみがえると予告したとき、ペテロが「そんなことがあなたに起こるはずはありません」と言った。それと同じく、神の救いの計画への妨害。 III  神から直接声を聞く (1)5節「雲の中から、これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と父なる神が語られた。父なる神がイエスのことを「愛する子」と2回呼ばれた。最初は、バプテスマのヨハネから洗礼を受けた時。天から父なる神の声が「これは、私の愛する子。わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3;17)とした。罪のないイエスが、罪人と同じ低くなって洗礼を受けた。この姿を神が喜ばれた。 (2)今回は、罪がないイエスが、神の民を罪からの救うために、苦しんで、十字架にかかって死ぬ覚悟をされた。それで、神は、「愛する子」と呼ばれた。同様に、我々が、自ら低くして、謙遜になって主に仕えている時、神は「愛する子」として見つめてくださる。 (3) そして、神は「彼の言うことを聞きなさい」と言われた。 今は、聖書の言葉を通して神の語る言葉を聴くが、やがて天国では直接神の声を聞くのである。「聞きなさい」と言われるように、今は、聖書による神の教え、イエスの言葉に従うのである。 ◆結論 弟子達の見たイエスの変貌は、復活のイエスの体の予告であり、われれ信者に起こる救いの完成した姿である。我々も、やがてイエスのように、栄光の体に変わる。その時、現在の痛みやすい体が変わり、苦しみや死の無い、光り輝く栄光の体を着せられる祝福をえる。それまで、イエスが教えたように、「自分の十字架を負って従う」、祝福がある。
あ(荒)れ野で叫ぶ声」 西脇衛士勧士2008/11/09(日) 「
2008/11/09(日) 「荒れ野で叫ぶ声」 西脇衛士勧士 信徒礼拝 (聖書)マタイ3:1~12,ヨハネ1:29~30 序 論: 今朝は新約聖書に最初に登場する預言者、バプテスマのヨハネの声に聞いてみたい。彼はイエス・キリストの先駆者として“荒野で叫ぶ声”となった。彼は預言者イザヤによって預言された人である。その彼が最初に語った言葉は「悔い改めよ。神の国が近づいた。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」である。この時代、ローマ帝国の圧政に苦しむユダヤでは、メシヤを待ち望む多くの人々がいた。  彼らの多くはヨハネのメッセージを聞き、神の国の近いことを知り、悔い改めのバプテスマを受けにヨルダン川にやってきた。彼の使命はメシヤが来られ事(神の国が来る)、主の道を整えさせることであり、そのために悔い改めを民衆に語った。そしてこの世に来られたメシヤ(裁き主であり、救い主)を紹介した。 本 論:  1,神の国の到来―  イエス様の来臨によって神の国はこの世に来たのである。私達は今、神のご支配(神が王である)の中に生かされています。その神の恵みに生かされています。私たちは神様の手の中にあるのですから、全ての重荷を神様に委ねていくときに安らぎがあるのです。律法によって恵みを得ようとした旧約の時代は過ぎたのです。「見よ今は恵みの時、見よ今は救いの日です。」(コリント二6:2) 2,悔い改めを迫った―  当時のユダヤ民族はメシヤ待望の信仰はあったが、過去に於いて彼らは幾世代にわたって神を裏切り続けた大きな罪があった。当時、皇帝礼拝がありローマに組みする人も大勢いたのではないだろうか。私達は今、パリサイ人が言う律法から解放され恵みの中に生かされています。がこの世に同調する信仰生活はないだろうか。 私達は日々、悔い改めるべきものを悔い改めているだろうか。主イエスから目を離す生活ではなく、悔い改めて、主に向かって歩む生活へと方向転換したいものです。 3,主の道を整え― 悔い改める事を教えられるために、心に主をお迎えするために、心を整える祈りとデイボーションの時が必要ではないでしょうか。ヨハネは最後にこの世に神の国をもたらせるイエス・キリストを「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と紹介している。 律法からの解放者、神の豊かな恵みを与えてくださるお方、私達の罪の悔い改めを受け入れて下さるお方、そのために贖罪の子羊となって下さった方。ヨハネはい聖書は「この方(人となって下さった神・イエス)を見よ」、と叫んでいます。 結 論: イエス様を日々心にお迎えする   「私は愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ、悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう」(黙示録3:19-20) 信仰生活とは日々主を心にお迎えし、主と共に歩む(みことばに養われる生活)ことではないでしょうか。主イエス・キリストを私の心に、家庭にお迎えするとき、そこに神の国の平安とやすらぎが訪れます。今朝もう一度、主を心にお迎えするために、荒野で叫ぶヨハネの声を聞き、従いましょう。
あ(荒)れ野にて/ 2012年7月1日・主日礼拝説教 
2012年7月1日・主日礼拝説教  ◆ 「荒れ野にて」  牧師 藤掛順一 ・ 旧約聖書: イザヤ書第11章6-10節 ・ 新約聖書: マルコによる福音書第1章12―13節 ・ 讃美歌:6、284、492 すぐに  6月の第一主日以来ひさしぶりに、マルコによる福音書に戻り、読み進めていきたいと思います。本日の箇所である1章12節のはじめに、「それから」とあります。ここは以前の口語訳聖書では「それからすぐに」となっていました。こちらの方が原文に忠実な訳です。原文には「すぐに」という言葉があるのです。実はこの言葉は、マルコ福音書にしばしば出てくる特徴的な言葉です。この後の16節以下には四人の漁師たちが主イエスの最初の弟子になったことが語られていきますが、その18節と20節に「すぐに」という言葉があります。29節も「すぐに」と始まっています。42節に「たちまち」とあるのも、原文では同じ「すぐに」という言葉です。また既に読んだ10節にも「水の中から上がるとすぐ」とありました。今あげた箇所は原文においてはみんな同じであって、直訳すれば「そしてすぐに」という言い方になっています。第1章だけで六度、この言葉が語られているわけです。この後にもしばしばこの言葉が用いられていて、マルコによる福音書は「すぐに」「すぐに」とどんどん先を急ぐような語り方になっています。この福音書を書いた人はよっぽどせっかちな人だったんだろうなあ、などと冗談を言いたくなります。マルコがこのような書き方をしていることの意味はおいおい考えて行きたいと思いますが、先ずは、本日の12節に、新共同訳には現れていませんが、マルコに特徴的な「すぐに」という言葉があることを指摘しておきたいと思います。そしてそのことは本日の箇所において見過ごしにすべきでない大事な意味を持っていると思うのです。 荒れ野に追いやられた  「すぐに」というのは、その前に語られていることとこれから語っていくことを結びつける言葉です。前に語られていることから時を移さずにすぐに、これから語ることが起った、と言っているわけです。本日の箇所の前に語られていたのは、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったことでした。先ほど指摘したように「するとすぐに」、天から・霊・が、鳩のように主イエスに降って来て、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたのです。主イエスが洗礼を受けたことと、「あなたはわたしの愛する子だ」という父なる神様の宣言を聞いたこととがこのように密接に結びつけられています。その出来事の後すぐに起ったことが本日の箇所に語られているのです。すぐに何が起ったのでしょうか。それは、「・霊・はイエスを荒れ野に送り出した」ということでした。洗礼を受け、ご自分が神の愛する子であるというみ言葉をお聞きになった主イエスは、すぐに、・霊・によって荒れ野へと送り出されたのです。「送り出した」という訳は原文の言葉とニュアンスが違います。口語訳聖書ではここは「御霊がイエスを荒れ野に追いやった」となっていました。「追いやった」の方が原文の意味に近いのです。「送り出した」というと、「行ってらっしゃい、気をつけて」という感じですが、そうではなくて、主イエスは・霊・つまり聖霊によって、荒れ野へと追いやられたのです。有無を言わせず無理矢理に行かされてしまったのです。荒れ野というのは、人間が生きることのできない、耕して作物を得ることもできない、人間の一切の営みを拒む厳しい、不毛な場所です。そのような場所へと主イエスは追いやられた。そのことが、洗礼を受け、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神様の声を聞いた後すぐに起ったのです。 荒れ野を生きる私たち  主イエスを荒れ野へと追いやったのは・霊・、つまり聖霊です。ということは神様ご自身が愛する子である主イエスを荒れ野へと追いやったのです。「あなたはわたしの愛する子」なんて言っておいてすぐにそれは、ちょっとひどいんじゃないか、と私たちは思います。けれどもこのことこそまさに、私たちが体験しているこの世の現実なのではないでしょうか。私たちも、洗礼を受け、主イエス・キリストの救いにあずかり、神様を信じて生きる者として歩み出します。独り子主イエスを信じることによって神様が私たちにも、「あなたは私の愛する子だよ」と宣言して下さり、神の子として新しく生まれ変わらせて下さるのです。その恵みを受けて私たちは信仰者として歩み出すのですが、そこで「すぐに」体験していくのは、荒れ野のようなこの世の厳しい現実です。洗礼を受ければ悲しみや苦しみがなくなってハッピーな日々が送れる、なんていうことはありません。私たちを取り巻く現実は相変わらず厳しいのです。信仰者も、世間の人々と違う世界を生きているわけではありません。現在のこの社会のいろいろな困難な現実の中で私たちも生きていくのです。社会保障と税の一体改革の一環として消費税を上げる法案が衆議院で可決されました。小沢一郎はそれに反対して民主党を飛び出そうとしています。増税反対を掲げれば国民がこぞって賛成し、支持してくれると踏んだのでしょうが、彼を支持する声はあまり聞かれません。そこにはいろいろな理由があるでしょうが、一つには、この国の社会保障の危機を皆が実感しており、そのためには消費税を上げることも仕方がないという思いが強くなっているからでしょう。一億総中流なんて言っていた時代は完全に過去のものとなり、貧困が広がり、セーフティーネットが崩壊してきています。産業が空洞化して、若い人たちの雇用不安が深刻になり、また年配の人々も年金が減っていくという不安の中にあります。この社会の状況はまさに、人が生き生きと生きることを阻害する、不毛な荒れ野の様相を呈してきているのです。そこにさらに、東日本大震災とそれに伴う原発事故が追い打ちをかけています。その及ぼす直接間接の影響、苦しみ、悲しみはこの先何年続いていくのか、見当もつきません。私たちは今そういう社会を、日々苦労しつつ、出口の見えない閉塞感の中で、先行きへの不安をかかえて生きているのです。 信仰ゆえの荒れ野  しかしそれだけではありません。洗礼を受け、主イエスを信じる信仰者となって生きていこうとする時、私たちはある意味で荒れ野へと追いやられるような体験をするのです。この社会には、私たちが主イエスを信じ、神様を礼拝しつつ生きることを妨げる力が渦巻いています。日曜日の午前中のこの時間、教会に来て礼拝をするということ一つにも、いろいろな戦いが伴います。日本人の一般的な感覚からすれば、日曜日に毎週教会の礼拝に集うなどということはよっぽど変わった異常な行動に見えますから、そのことを職場や学校や家庭における周囲の人々に理解してもらうのは大変です。特定の宗教にのめり込むことは危険だ、という感覚が、特にオウム事件以降日本にはありますから、「あまり深入りしない方がいいよ」などという好意ある忠告をしてくれる人たちもいるわけです。あるいはキリスト教に対するあからさまな敵意を持って、「ああいう一神教が宗教対立や戦争の元凶だ」などと言う人たちもいます。私たちはそういう宗教的状況の中を生きていくわけで、洗礼を受けたとたんに、そういう荒れ野を歩むことになるのです。それは洗礼を受け、神様の愛のみ言葉を聞き、信仰者として生き始めたことによって追いやられる荒れ野です。主イエスが洗礼を受け、「あなたはわたしの愛する子」というみ言葉を聞いてすぐに、聖霊によって荒れ野へと追いやられたことは、私たち自身のそのような体験と重なると言えるのです。 誘惑を受けた主イエス  「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」と13節にあります。荒れ野に追いやられた主イエスは、サタンの誘惑にさらされたのです。誘惑というのは、本来あるべき姿を失わせ、進むべき道から逸れさせようとすることです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というみ言葉を聞き、父なる神の独り子として、み心に適う救いのみ業を行うために歩み出した主イエスを、サタン、悪魔は誘惑し、救い主としての歩みを妨げ、間違った道へと歩ませようとしたのです。マタイとルカ福音書には、主イエスがサタンから受けた誘惑の内容を語っています。三つの誘惑を受け、それを退けたことが語られているのです。しかし最初に書かれた福音書であるマルコには、誘惑の内容は語られていません。ただ「サタンから誘惑を受けられた」とあるだけです。なぜマルコにはその内容が語られていないのか。マルコはその話を知らなかったのか、ということを巡って学者の間にも議論があります。しかし、「誘惑を受けた」ということだけが伝わっていて、その内容は知らなかったというのは不自然です。マルコも、三つの誘惑の内容は知っていたのだと思うのです。しかし敢えてそれを書かなかったのです。なぜでしょうか。マタイ、ルカが語っている三つの誘惑は、順序は違う所がありますが、「あなたが神の子なら、石をパンに変えて人々に食べさせればよいではないか」ということと、「神殿の屋根から飛び下りて、天使が支えてくれることを人々に示せ」ということと、「サタンを拝めばこの世の全ての繁栄を与えよう」ということです。これらは三つとも、主イエスが神の子、まことの神であられることを前提とした誘惑です。私たちに、例えば「石をパンに変えろ」などと言われても、それは誘惑にも何にもならないわけです。つまりこの三つは、主イエスならではの、主イエスにおいてのみ成り立つ誘惑です。それゆえにマルコは、その内容を知りつつも、敢えて書かなかったのではないでしょうか。マルコがここで語ろうとしているのは、主イエスが荒れ野でサタンから誘惑を受けたということであり、それは洗礼を受けた者の誰もが、しかも信仰者として歩み出してすぐに体験するのと同じことだったのだ、ということなのです。そのようにマルコは、主イエスの歩みを私たちの信仰の歩みと重ね合わせようとしているのです。 誘惑にさらされている私たち  主イエスが荒れ野でサタンから誘惑を受けられたように、私たちも、荒れ野のようなこの世を歩む中で様々な誘惑を受けます。主イエスを信じ、神様の愛を受けて神の子として生きていこうとしている私たちの歩みを妨げ、そこから逸らせようとする様々な力が私たちの周囲に働いているのです。先ほど申しましたような、周囲の人々の無理解や敵意にさらされることがあります。しかし本当の問題は、そういうことの中で私たち自身の心の中に、信仰に対する疑問や疑いが生じてくることです。主イエス・キリストを信じて生きることがとても変った、異常なこととして受け止められてしまう状況の中で、「自分はやっぱりおかしなことをしているのだろうか」と思ってしまうこともあるでしょう。キリスト教へのいろいろな批判的コメントに触れて、それに影響されてしまうこともあるでしょう。あるいは、東日本大震災における津波のような自然災害を見て、神様がおられるなら、しかも私たちを愛していて下さるなら、どうしてこんなことが起るのか、という問いによって、神様の存在や愛が信じられなくなる、ということもあるでしょう。さらには、教会における人間関係によって傷ついてしまい、同じ信仰に生きているはずの人の姿につまずいてしまう、ということも起ります。そういう意味では教会の外が荒れ野なのではなくて、教会そのものが荒れ野のように感じられてしまうこともあるのです。それらの全てが、私たちを主イエス・キリストへの信仰から、神様の愛を信じることから引き離し、信仰者として生きることを妨げようとする誘惑です。私たちは日々そういう誘惑にさらされているのです。主イエスが荒れ野に追いやられ、そこでサタンから誘惑を受けられた、というマルコ福音書の記述は、主イエスの歩みを私たちのそのような現実に重ね合わせています。主イエスご自身が、洗礼を受けて歩み出してすぐに、このような誘惑を体験なさったのです。そしてここには、マタイやルカのように、主イエスがサタンの誘惑を明確に退けてそれに打ち勝ったことは語られていません。「誘惑を受けられた」とだけ語られているのです。それはやはり主イエスの歩みと私たちの歩みとを重ね合わせるためだと言えるでしょう。私たちは誘惑を明確に退け勝利することなどできません。私たちは、いつも誘惑にさらされながら、サタンの攻撃を受けながら歩んでいくのです。マルコ福音書は、主イエスのご生涯もそうだったということを語ろうとしているのではないでしょうか。サタンの誘惑は、この後もずっと、十字架の死に至るまで、主イエスのご生涯において繰り返されていったのです。そのようにして主イエスは、私たちが今味わっているのと同じ歩みを体験して下さったのです。 四十日  主イエスは四十日間荒れ野に留まり、誘惑を受けたとあります。四十という数は、聖書において大事な場面に出てきます。主イエスは復活して四十日にわたって弟子たちにお姿を現されました。また旧約聖書には、エジプトを出たイスラエルの民が、約束の地カナンに入る前に四十年間荒れ野を旅しなければならなかったとも語られています。また預言者エリヤが、自分を殺そうとしているアハブ王とその妃イゼベルとから逃れて、四十日四十夜歩き続けて神の山ホレブに着き、そこで神様の声を聞いたという話もあります。いずれの箇所においても、神様による救いの歴史において新しい局面が開かれ、救いのみ業が進展していく印として、四十日あるいは四十年という時が用いられているのです。主イエスが四十日間荒れ野に留まり、サタンの誘惑をお受けになったことにおいても、神様による救いのみ業が新しく進展しようとしていると言うことができるでしょう。このことによって、どのような新しい局面が開かれようとしているのか、それを語っているのが13節後半の「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」という所だと思います。 野獣の中で  主イエスは荒れ野において野獣と一緒におられた。このことによってマルコは何を語ろうとしているのでしょうか。荒れ野は人間の住める場所ではありません。そこにいるのは野獣であり、そういう意味でも荒れ野は人間にとって危険極まりない所です。荒れ野に四十日とどまったというのは、その間主イエスはそのような危険にさらされておられた、ということです。しかし、天使たちが仕えていたので、その危険から守られていた。「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」という翻訳は、そういう解釈に基づいています。確かにそういう意味が一方にあると言えるでしょう。特に、主イエスの荒れ野に追いやられたことを私たちの信仰の歩みと重ね合わせて捉えるなら、そういう意味が大事になってきます。私たちも、荒れ野のようなこの世を歩む中で、誘惑と共に野獣の危険にさらされています。信仰をもって生きようとする私たちに野獣のように襲いかかろうとするいろいろなものがあって、私たちを恐怖に陥れるのです。人間もまた時として野獣のようになり、襲いかかって来ることがあります。そのような時、私たちは恐しくなって立ちすくみ、逃げ出したくなります。洗礼を受けたがゆえに、信仰者となったがゆえにこんな恐しい目に遭うのなら、いっそのことやめてしまいたいと思うのです。そのような恐怖を私たちは自分の力で克服することはできません。神様が共にいて支えて下さらなければ持ちこたえることはできないのです。そのために、神様は天使を遣わして下さる、主イエスが天使の守りと支えの中で荒れ野の四十日を歩まれたように、私たちの荒れ野の歩みにおいても、神様が共にいて守り支えて下さるのだ、マルコはそのことを語っていると言えるのです。 救いの完成の先取り  しかしそれだけではありません。ここは、野獣と一緒にいるという危険の中にあったが天使たちが仕えていたので守られた、というのとは違う意味にも読めるのです。その根拠となるのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第11章6節以下です。そこをもう一度読んでみます。「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共 に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く」。最後の10節に、「その日が来れば」とあります。「その日」とは、神様の救いが実現する日です。ここは、神様による救いの完成の日に実現することを語っているのです。その時には、狼や豹や若獅子という野獣が、小羊や子山羊や子牛と共におり、小さな子供がそれらを導く、牛と熊が一緒に草を食べ、獅子も牛も共に干し草を食べる、乳飲み子は毒蛇の穴に遊び、幼子は蝮の巣に手を入れるが、何の害を受けることもなく、皆が共に平和に生きるようになるのです。主イエスが荒れ野において野獣と一緒におられたというのは、このイザヤ書の預言の成就であると考えることができます。つまり主イエスは荒れ野において、野獣の危険にさらされていたが天使によって守られていたのではなくて、野獣たちと平和の内に共におられるという、神様の救いの完成において実現する恵みを先取りしておられたのです。天使たちが仕えていたというのも、その救いの完成を示すもう一つの印なのです。  ということは、マルコはここで、主イエスが洗礼を受けてすぐに聖霊によって荒れ野へと追いやられ、そこでサタンの誘惑を受けたことを語ることによって、洗礼を受け主イエスを信じる信仰者として荒れ野のようなこの世を、様々な誘惑にさらされつつ生きていく私たちの姿と主イエスのお姿を重ね合わせ、私たちの信仰の歩みに主イエスが共にいて下さることを語っていると同時に、主イエスはその荒れ野の四十日のサタンによる誘惑の中で、神様による救いの完成において与えられるまことの平安を先取りし、野獣との間にも平和を実現しておられたことを語っているのです。それは、主イエスによって、荒れ野がもはや荒れ野ではなくなり、「わたしの聖なる山」となり、そこでは「何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる」ということが実現する、という約束です。主イエスによって、神様による救いのみ業がそのように新しく進展し、荒れ野のようなこの世を生きている私たちに新しい展望が開かれ、希望が与えられていることを、マルコ福音書は示そうとしているのです。 聖餐にあずかりつつ  勿論、主イエスが荒れ野において野獣と一緒におられ、天使たちが仕えていたということだけによって、神様による救いのみ業が進展し、新しい展望が開かれたわけではありません。この箇所は、主イエスによって実現する救いにおける平安、平和を先取りしているのであって、その実現は、この福音書がこれから語っていく主イエスのご生涯の全体によって、なかんずく十字架の死と復活とによって与えられるのです。私たちと同じように荒れ野へと追いやられ、サタンの誘惑をお受けになった主イエスは、私たちが荒れ野のようなこの世で体験する苦しみや悲しみ、誘惑に負けてしまう弱さや罪の全てを背負って十字架にかかって死んで下さり、それらの全てから私たちを解放し、復活によって新しい命の先駆けとなって下さいました。主イエスの十字架と復活によってこそ、神様の救いのみ業は進展し、私たちの歩みに新しい展望が開かれたのです。これからあずかる聖餐は、主イエスの十字架と復活によって実現した神様の救いの恵みを、この世の荒れ野を生きている私たちが体をもって味わい、それによって養われ、支えられ、世の終わりの救いの完成において与えられる恵みを先取りして味わいつつ生きるために主イエスが与えて下さったものです。洗礼を受け、信仰者として生きていく私たちは、そのことによってかえって荒れ野へと追いやられることを体験します。しかし洗礼を受けた私たちは聖餐にあずかることができます。聖餐において主イエス・キリストの十字架と復活による救いの恵みにあずかり、約束されている救いの完成を先取りして味わいつつ生きる私たちは、荒れ野のようなこの世において、共にいて下さる主イエスの守りの中で、野獣とも一緒に、しかも天使たちに仕えてもらいつつ生きることを体験していくことができるのです。
あ(荒)れ野に響く歓喜の歌」大嶋博道牧師2009/03/15(日) 「
2009/03/15(日) 「荒れ野に響く歓喜の歌」大嶋博道牧師 聖日礼拝 (聖書)出エジプト15:19~21 序 論: 聖書の中には幾つかの「賛歌」が記されている。 ①ハンナの賛歌(祈り)―サムエル一2:1~11 ②マリアの賛歌―ルカ1:46~55 ③ミリアムの賛歌―出エジプト15:20~21  最初に出エジプト15:21のミリアムの賛歌の内容を見ておきましょう。 ①まず、歌うよう促している―「主に向かって歌え」 ②その理由が書かれている―「主は大いなる威光を現した」 ③賛美の内容―主はエジプトの強力な軍隊の馬と乗り手を海に滅ぼされた。 本 論:  私たちの「賛美」とは何かを改めて、この出エジプト記15章から学びたい。 (1)賛美とは「荒れ野」の真っ直中で響く祈りである。 賛美は、私たちが荒れ野の真っ直中に置かれたとき、試練や苦しみの中にいるとき、思い悩む時にこそなされるものです。力を失い、かすかな声で賛美しているうちに、神の臨在を感じ、神様がおられるのだから、もう一度初めからやり直そうという元気をいただきます。モーセとイスラエルの民は荒れ野で、危機の真っ直中で神のみわざを経験して歌ったのである。 (2)賛美は神への信仰告白の歌である。  賛美は神のみわざに対する信頼と期待である。イスラエルの民の信仰はまさに「信頼」と期待」であった。賛美とは、「私は、神さまをこういうお方だと信じています」という信仰告白と同じです。だから、今を主に信頼し、未来を主に期待して心の底から歌いたいものである。 (3)賛美は感謝と喜びの歌である。 ♪「感謝と喜びを」のプレイズにあるように、私たちは感謝と喜びを賛美としてささげたいものです。エフェソ5:18~19に「むしろ御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、・・・」とある。パウロの賛美のあり方が紹介されている。 まとめ:  生涯の終わりの日まで「ハレルヤ」を歌い続けたい。人生の荒れ野に響く賛美こそ、本当の生きた賛美なのである。 賛美によって、神による深い希望、慰め、導きが与えられる。  一週一週、真剣な礼拝、賛美に満ちた礼拝を、一つずつ丁寧に捧げていくこと。その積み重ねが、神様と私たちとを深くつないでいくのである。  私たちは、自分の条件に左右されず、喜びの時も、悲しみの時も、神様へ賛美をささげて行こう。喜びの時も、希望が消えかかりそうな時も、賛美のある礼拝をささげられる神の民となって行こう。
あ(荒)れ野に響く歓喜の歌」大嶋博道牧師2009/03/15(日) 「
2009/03/15(日) 「荒れ野に響く歓喜の歌」大嶋博道牧師 聖日礼拝 (聖書)出エジプト15:19~21 序 論: 聖書の中には幾つかの「賛歌」が記されている。 ①ハンナの賛歌(祈り)―サムエル一2:1~11 ②マリアの賛歌―ルカ1:46~55 ③ミリアムの賛歌―出エジプト15:20~21  最初に出エジプト15:21のミリアムの賛歌の内容を見ておきましょう。 ①まず、歌うよう促している―「主に向かって歌え」 ②その理由が書かれている―「主は大いなる威光を現した」 ③賛美の内容―主はエジプトの強力な軍隊の馬と乗り手を海に滅ぼされた。 本 論:  私たちの「賛美」とは何かを改めて、この出エジプト記15章から学びたい。 (1)賛美とは「荒れ野」の真っ直中で響く祈りである。 賛美は、私たちが荒れ野の真っ直中に置かれたとき、試練や苦しみの中にいるとき、思い悩む時にこそなされるものです。力を失い、かすかな声で賛美しているうちに、神の臨在を感じ、神様がおられるのだから、もう一度初めからやり直そうという元気をいただきます。モーセとイスラエルの民は荒れ野で、危機の真っ直中で神のみわざを経験して歌ったのである。 (2)賛美は神への信仰告白の歌である。  賛美は神のみわざに対する信頼と期待である。イスラエルの民の信仰はまさに「信頼」と期待」であった。賛美とは、「私は、神さまをこういうお方だと信じています」という信仰告白と同じです。だから、今を主に信頼し、未来を主に期待して心の底から歌いたいものである。 (3)賛美は感謝と喜びの歌である。 ♪「感謝と喜びを」のプレイズにあるように、私たちは感謝と喜びを賛美としてささげたいものです。エフェソ5:18~19に「むしろ御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、・・・」とある。パウロの賛美のあり方が紹介されている。 まとめ:  生涯の終わりの日まで「ハレルヤ」を歌い続けたい。人生の荒れ野に響く賛美こそ、本当の生きた賛美なのである。 賛美によって、神による深い希望、慰め、導きが与えられる。  一週一週、真剣な礼拝、賛美に満ちた礼拝を、一つずつ丁寧に捧げていくこと。その積み重ねが、神様と私たちとを深くつないでいくのである。  私たちは、自分の条件に左右されず、喜びの時も、悲しみの時も、神様へ賛美をささげて行こう。喜びの時も、希望が消えかかりそうな時も、賛美のある礼拝をささげられる神の民となって行こう。
あ(荒)れ野よ、喜び躍れ/ 2005/08/07(日) 「荒れ野よ、喜び躍れ」 大嶋博道牧師
2005/08/07(日) 「荒れ野よ、喜び躍れ」 大嶋博道牧師  総員礼拝説教   (聖書) イザヤ35:1~10  序 論: キリスト教は「回復の宗教」と言われています。 「回復」とは一度失ったものを取り戻すことであり、壊れたものを元のとおりにすることを意味します。 今朝、開きましたイザヤ書35章はまさにその象徴的な箇所であります。 35:1「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ」「砂漠よ、喜び、花を咲かせよ、野ばらの花を一面に咲かせよ」 35:6「荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」 これは、神の約束です。神はイスラエルの民に、素晴らしい未来を約束しておられます。それは「救い」の約束です。  荒れ野は人が住むことが出来ない不毛の地、死のにおいのする所です。その荒れ野、荒れ地に花が咲き、砂漠に水がわき出て、川が流れる―これは、まさに神がなされる奇跡です。これがキリスト教と言ってもいいでしょう。 ある聖書注解者はこの奇跡を「革命的変化」と呼びました。 本 論:  預言者イザヤが生きた時代は暗い時代、希望がもてない時代でした。BC740年ごろのこと、隣国アッシリアが強大な力をもって諸国を制覇している時代で、イスラエルの民はその力の前に怯えていました。 政治の腐敗、社会の混乱、その中にあって人々は拠り所を失い、絶望が支配し、深い悲しみと不安と失望と焦りとが支配していました。 21世紀に生きる私たちも在る意味では暗黒の時代、希望がもてない時代を生きているのかも知れません。 私たちの存在は「荒れ野」であり「荒れ地」そのものです。 そのような私たちに聖書は「喜び躍るようになる」と、約束しています。 喜び躍るとはどういうことでしょうか? (1)主の栄光とその輝きを見ること-神の重々しい臨在とそのみ業を体験すること (2)神の救いを体験すること-捨てられた民が赦され、再び回復し、神の愛の中に招き入れられること。 (3)勝ち得て余りのある人生を体験すること(ローマ8:37) まとめ:  「荒れ野」であり「荒れ地」である私たちが、このような神の祝福にあずかることが出来るという聖書の約束に堅く立って信仰生活を続けたいと思います。
ああ主の熱きひとみ」大嶋博道牧師2008/03/09(日) 「
2008/03/09(日) 「ああ主の熱きひとみ」大嶋博道牧師 聖日礼拝(聖書)ルカ22:54~62 序 論:  今日のメッセージの中心は、イエス様を3度も知らないと否認したペトロに向けられたイエス様の「ひとみ」に込められたメッセージは何だったのか?であります。まず、裁判までの経緯を見ておきましょう。 (1)最後の晩餐の時にイエス様は弟子達の裏切りを予告。(ルカ22:31~) (2)ペトロは「主よ、あなたとご一緒なら、牢に入っても死んでも良いと覚悟しています。」 と、自分の信仰の決意を語った。(ルカ22:33) (3)イエス様は「あなたは鶏がなくまでに3度私を知らないと言う」予告された。  やがて、イエス様はゲッセマネで捕らえられ、大祭司カヤパの官邸で略式の裁判を受けます。ペトロはヨハネの介添えで官邸の中庭に恐る恐る入り込み、裁判の成り行きを見守ります。  その時、そこにいた人々から「お前もイエスの仲間だ」と問いつめられて3度も「イエスを知らない」と否認したのです。その時、朝を告げる鶏が鳴きます。  ルカだけが「主は振り向いてペトロを見つめられた」(ルカ22:61) (The Lord Jesus turned and looked straight at Peter.)と、記しています。 本 論: このイエスの「ひとみ」に込められたメッセージを考えてみたい。それは決してペトロを侮辱し、責め立て、裁くものではなく、 (1)最後まで従いきることができないペトロの弱さと不信仰を深く憐れむと共に、 (2)そのペトロを赦し、励まし、支えるまなざしではないでしょうか。  この主の赦しのまなざしが、後でペトロを立ち直らせます。そしてもう一度主の弟子として立たせていくのです。彼はペンテコステ(聖霊降臨日)の直後から、初代教会の使徒や信徒たちのリーダーとして立ち上がります。  やがて、主の赦しの十字架を悟ったペトロは、「キリストは十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたは癒されました」(1ペトロ2章24節)と、書き記すに至ったのです。 まとめ: わたしたちも主につき従う信仰の歩みの中で時に失敗し、過ちを犯し、挫折する時があります。しかし主イエスはそのような私たちを憐れみ、励ましていかなる状況の中においても信仰者として立たせて下さるのです。この「主の熱きひとみ」に見守られながら、ひたすら謙虚に主に従って行きましょまう。
あい(愛)がなければ(사랑이 없으면)/ 2007年12月2日・主日礼拝説教 
2007年12月2日・主日礼拝説教  ◆ 「愛がなければ」  牧師 藤掛順一 ・ 旧約聖書; ヨナ書 第4章1-11節 ・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第13章1-7節 ・ 讃美歌; 231、237、481   愛と平和  本日より、アドベント、待降節に入りました。アドベントとは、「到来」という意味です。2000年前のクリスマスにこの世にお生まれになった主イエス・キリストの第一の到来を覚えると共に、世の終わりにもう一度来られる、主イエスの第二の到来、再臨に備えていく信仰を養っていく時です。  今年のアドベントの礼拝において、どの聖書箇所からみ言葉に聞こうかと考えました。昨年は、「平和」というテーマを掲げて、それに関係する箇所を選びました。今年も、教会の正面に、「クリスマスに平和の祈りを」と書かれたバナーを掲げました。平和を祈る思いは今年も同じです。しかし今年は、礼拝においてコリントの信徒への手紙一を連続して読んで参りまして、ちょうどその第13章にさしかかろうとしています。この第13章は「愛の賛歌」とも呼ばれており、愛について集中的に語られている箇所です。そこで、本日のアドベント第一主日と来週の第二主日には、この13章を読むことにしました。厳密に言うと、まだ12章の終わりのところ、27節以下が残っているのですが、そこは新年に回すことにして、私の思いの中では、今年のクリスマスのテーマを、「愛と平和」としたいと思っております。 もっと大きな賜物―愛  さてコリントの信徒への手紙一の第13章は、ここだけでも、例えば結婚式などでよく読まれます。この部分は、文体が他の所とは違っていて、詩のような形で書かれています。新共同訳はそのことを意識して訳しています。12章や14章は「~なのです」という文体であるのに対して、13章は、例えば1節「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」、こういうのを「体言止め」というのですが、詩的な響きを生み出す文体です。また、2節「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」。このように、「~です」とか「~である」という説明の文章とは違う仕方で訳されているのです。そういう文体の相違から、この13章は、もともとは手紙の一部として書かれたものではなくて、独立した、愛についての詩だったのではないか、とも考えられています。それをパウロがここに引用したのかもしれないのです。  しかしそうだったとしても、この13章がここに、つまり12章と14章の間に置かれていることには、大きな意味があります。つまりこの「愛の賛歌」は、コリントの信徒への手紙一の文脈の中にしっかりと位置づけられているのです。そのことが、12章とのつながりに表れています。本日は13章1節からを読んでいただきましたが、段落の区切りは13章からではなく、12章31節の後半からになっています。聖書の章や節は後から便宜的につけられたものですから、章の切れ目を段落の切れ目にしなければならないことはありません。パウロが「ここから第13章」と書いたわけではないのです。むしろ話は切れ目なくつながっています。12章で語ってきたのは、霊的な賜物、聖霊の賜物についてでした。教会の兄弟姉妹一人一人に、それぞれ違った賜物が聖霊によって与えられている、それらがあいまって、一つの「キリストの体」としての教会が成り立っているのだ、ということが語られてきたのです。そして後に回してしまった27節以下には、教会には様々な賜物の違いによっていろいろな務めに立てられている人がいる、ということが語られています。それを受けて31節前半には「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と言われているのです。様々な務めを果たすための賜物よりももっと大きな賜物がある、それをこそ熱心に求めなさい、と言っているのです。その「もっと大きな賜物」こそ「愛」です。他のどの賜物にも増して熱心に求められるべき愛という賜物のことが、31節後半の「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」という言葉に導かれて語られていくのです。 最高の道―愛  ところでこの31節後半に、「最高の道」と言われていることに注目したいと思います。「最高の賜物」を教えます、ではなくて、最高の「道」と言われているのです。ここにすでに、愛というものが、いくつもある他の賜物の中での最高のものではないことが示されています。愛は、他の賜物と並ぶ一つの賜物ではなくて、「道」なのです。道というのは、そこを通ってこそ目的地に行けるものです。どんなにすばらしい賜物を持っていても、この道を通らなければ目的地には行けない、つまり、その賜物が生かされず、実りを生むことができないのです。13章1~3節が語っているのはそのことです。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」。それぞれの節に、「愛がなければ」とあります。これは直訳すれば「わたしが愛を持っていなければ」という言葉です。愛を持っていなければ、どんなに優れた、よい賜物を持っていても、それらは何の役にも立たない、と言われているのです。 異言  1節には「人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも」とあります。異言というのは、新共同訳聖書の後ろの付録にある用語解説によれば、「一般の人には理解しにくい信仰表白の言葉」です。霊的な興奮状態になって、言葉にならない音声を発する、それが、信仰を言い表し、神様を賛美する言葉として位置づけられ、それを語ることができるのは神様からの特別な賜物によると考えられていたのです。「人々の異言、天使たちの異言」と二種類に分けられているのは、異言が人間の心から出たものであろうと、天使から与えられたものであろうと、ということでしょう。当時、異言を「天使たちの言葉」と呼ぶことがあったようです。天使たちの世界では、人間の言葉とは違う、人間には理解できない言葉が語られている、異言を語る者はその天使たちの言葉を語っているのだ、と考えられていたのです。しかし、そのような特別な信仰的な言葉を語る賜物を持っているとしても、愛がなければ、その言葉は「騒がしいどら、やかましいシンバル」と同じだ、つまり、ガンガンとうるさく耳障りなだけで、何も伝わって来ないし、不快感を与えるだけなのです。  このことが最初に取り上げられていることからも、コリント教会において異言がいかに大きな問題だったかがわかります。コリント教会では、異言を語る賜物が非常に重んじられ、もてはやされていました。そのため教会の集会、礼拝において、我先に異言を語り始めるようなことが起り、礼拝が混乱するということが起っていたのです。そのことは、この後の14章に詳しく語られていきます。そこでパウロは、みんなが異言を語っているところに初めて来た人は、「この人たちは気が変だ」と思うだろうと言っています。つまり異言によっては、新しく来た人に、大事なことが何も伝わらないのです。異言は、それを語っている人だけの、独りよがりの言葉です。他の人のために語られる言葉ではありません。パウロが「愛がなければ」と言っているのはそのことです。パウロは、異言が神様の賜物であることを認めています。しかしその賜物をどう用いるか、その道において、愛がなければ、それはただやかましいだけの、不快な騒音にしかならないのです。 預言、知識、信仰  2節には、預言する賜物、あるいはあらゆる神秘とあらゆる知識に通じているという賜物、さらには、山を動かすほどの完全な信仰のことが語られています。預言というのは、未来を言い当てることではなくて、異言と対照的に、人に分かる言葉で信仰を語り、福音を宣べ伝える言葉です。今日私たちが使う言葉としては、「説教」や「奨励」に当たると考えればよいでしょう。そしてこれも14章の先取りになりますが、パウロは、異言と預言とでは預言の方により重きを置いています。人々の信仰を養い、教会を建て上げていくのは異言よりも預言だと言っているのです。また、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じているというのも、信仰における隠された真理や深い知識を知っており、それを人々に語り伝える賜物を持っているということです。そして「山を動かすほどの完全な信仰」、これは、主イエスが、「信じて疑わずに、山に向かって海に入れと命じたらその通りになる」とおっしゃったことから来ています。何の疑いもない、一点の曇りもない信仰です。これらは、独りよがりの異言とは違って、信仰における最も尊い、すばらしい賜物であると言うことができます。しかしパウロはそれらも、「愛がなければ」無に等しいと言うのです。それらの賜物も、愛という道を通って用いられるのでなければ、本当に良い実を結ばないのです。 自己犠牲  3節には、さらに驚くべきことが語られています。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも」。全財産を貧しい人々のために使い尽くす、などということは、私たちにはほとんど出来ないことです。しかし中にはそのような生涯を送る人もいます。古くはシュヴァイツァーとか、最近ではマザー・テレサとか、もっと無名の人でも、そのように生きている人は確かにいます。そういう人たちのことを私たちは、すばらしい愛の人と尊敬し、感嘆するのです。しかしパウロは、そのような自己犠牲の行為すらも「愛がない」ものであり得ると言うのです。「誇ろうとしてわが身を死に引き渡す」というところは、口語訳聖書では「自分のからだを焼かれるために渡しても」となっていました。この違いは元になっている写本の違いです。「誇ろうとして」となっている写本と、「焼かれるために」となっている写本とがあるのです。「誇ろうとして」という読み方は、すばらしい愛の行為と見えることの背後に潜む人間の誇りの思いをえぐり出しています。私たちは、良いことをしようとします。それは純粋な善意や道徳心、また信仰から出ることですが、その良いことをしていく中で、私たちの心には、自分の良い行いを誇る思いが生まれます。自分はあの人よりも良いことをしている、自分の方があの人より立派だ、と思って喜ぶ思いがどうしても起こってきます。そしてその誇りを満足させるために、ますます良いことに励むということになるのです。そのような誇りのためにわが身を死に引き渡すことすらも人間はします。それは決して悪いことではありません。人間誇りを失ったらおしまいだ、とも言えるのです。しかしそれは愛によることかというと、そうではない。そこでは、他者を愛することよりも、自分の誇りが第一となっているとも言えるのです。  パウロはこのように、愛こそが、あらゆる賜物が本当に生かされる道だと言っています。また、一見この上もない愛の行為と思われることが、実は愛なしになされることがあり得ることを指摘しています。そこに、愛の重要さと、また難しさがあると言えるでしょう。かくも重要であり、かくも難しい愛とは、それではどのようなものなのでしょうか。そのことが、4~7節に語られているのです。 愛は忍耐強い  愛とは何かという問いに対して、皆さんはどう答えるでしょうか。そこでまず真っ先に出てくるのはどんな言葉でしょうか。その答えと、パウロがここで語っていることを比較してみると面白いと思います。パウロはまず真っ先に「愛は忍耐強い」と言っています。口語訳聖書では「寛容である」でした。「忍耐強い」と言うと、「努力してこつこつと」というような意味にもなりますが、この場合にはむしろ「寛容である」ことです。もとの言葉の意味は、感情を爆発させるまでに長い時間をかける、というようなことで、要するに、短気でないこと、相手に対してすぐに怒らないことです。忍耐強いという訳はそこで生きてきます。つまり、相手に対する怒りを忍耐強くがまんすることです。次の「情け深い」もそれとつながります。自分に対して悪を行う者に対して情け深くあること、それが愛の第一の内容だとパウロは言っているのです。これは、愛とは何かという問いへの私たちの答えとはずいぶん違うのではないでしょうか。私たちは、愛とは相手を思いやることだとか、親切にすることだというように、相手に対して積極的に何かをすることを第一に考えます。しかしパウロは、むしろ相手のことを忍耐すること、寛容な思いを持つことこそ愛だと言うのです。これは考えようによっては、ずいぶん消極的な話だとも思えるかもしれません。しかし私たちは、積極的に人を愛そうとして、その思いが相手に届かずに挫折し、そこに逆に憎しみが生まれたりするということを常々体験しているのではないでしょうか。そのようになるのは、私たちの積極的な愛が、自分勝手な、独りよがりの愛になっているからです。本当に相手を愛するためには、先ず相手を受け入れることが第一なのです。そのためには忍耐が、寛容が、情け深さが必要なのです。私たちはこのことをもっと意識しなければならないのではないでしょうか。 ねたまない  その後のところでパウロが並べていることは、皆、「~しない」という否定的な言葉です。愛するとは、何かをすることであるよりも、何かをしないことだというのです。先ず「ねたまない」ことです。この言葉のもとの意味は「求めない」です。それは、人の持っているものを求めない、欲しがらないということで、だから「ねたまない」と訳せるのです。人が持っているものを自分も欲しいと思う、子どもの喧嘩もそこから始まることが多いのです。愛を破壊するのはこの「求める」思いです。「求めない。そうすれば」で始まる言葉を集めた詩集が今ベストセラーになっている、というニュースを見ました。現代の私たちは、いろいろなものを求め過ぎることによって不平不満に満たされてしまっている、という意識が多くの人々の中にあるということでしょう。しかし「求めない」ことは、自分の現状に満足し、足ることを知るための極意であるのみでなく、人を愛することにおいて欠かすことのできない道だと聖書は教えているのです。 自慢せず、高ぶらない  次の「自慢せず、高ぶらない」は今の「ねたまない」の裏返しだと言うことができます。自分の持っているものを誇り、自慢し、人を見下す思いは、ねたみと裏表の関係にあります。「自慢したい」と思っている人ほど、人の持っているものをねたむ思いが強いのです。ねたみの思いというのは、自慢したい、誇りたいという思いから生まれるのです。そういう思いに捕えられていると、自分より良いものを持っている人が皆、自慢している、誇っているように思えて、憎らしくなるのです。 礼を失せず  次に「礼を失せず」とあります。口語訳では「不作法をしない」でした。礼儀とか作法というものを、形式的で愛がないことと考える向きもあります。もう少し広く考えると、社会におけるルールや、団体における決まり、規則のようなものまでそこに含めることができるでしょう。「規則ではそうかもしれないが、そこは愛をもって曲げてこうした方がよいのではないか」というような言い方が、特に教会においてはよく起こります。けれどもそれは本当の愛のあり方ではありません。決められている秩序やルールを守ることこそが、人を愛することです。そうでないと、自分勝手な思いを人に押しつけることになります。また、相手の行動が、決められた秩序やルールの中でなされるようにしてあげることこそが、その人を愛することです。そうでなければその人のしていることは、たとえ動機は純粋であっても、ルール違反になり、人々に理解されなくなってしまうのです。愛するということが、ただ感情的な共感や支持ではなく、礼節をわきまえることと結びつかなければならないというこの指摘は重要なことだと思います。 自分の利益を求めず  「自分の利益を求めず」とあります。「利益」という言葉は原文にはないのであって、直訳すれば「自分自身に属するものを求めない」となります。人のものを求め、欲しがることが「ねたみ」でしたが、これは、自分自身に属するもの、つまり自分の当然の権利や自由を求めない、それに固執しない、他者のためにそれを放棄するということです。パウロは8章において、偶像に供えられた肉を食べることについて、それを食べる自由が信仰によって与えられているが、それによって弱い兄弟をつまずかせることがあるならば、その自由を放棄する、と言っています。9章でも、伝道者が教会によってその生活を支えられることは当然の権利だが、自分は福音の前進を少しでも妨げることがないように、その権利を放棄する、と語りました。自分の権利に固執し、たとえ当然の権利であっても、それにしがみついている間は、人を本当に愛することはできないのです。相手のために自分の当然の権利や自由をも放棄するところに、愛するということは成り立つのです。 いらだたず、恨みを抱かない  「いらだたず、恨みを抱かない」は、先程の忍耐強いと同じように、人に対する怒り、恨みの思いを制御することです。ところでこの「恨みを抱かない」という言葉は、「人に悪をかぶせない」と訳すこともできます。そうするとこれは、「人の悪を数え立てない、人のことを悪くとらない」ということになります。そしてそれは、次の「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」ということともつながります。これは「自分が不義を行ってそれを喜ぶことをしない」という意味であるよりも、人の不義を喜ばない、というふうに読んだ方が文脈に合うように思います。人の不義、罪を喜ぶ、それは、人を批判し、攻撃することを喜ぶこと、また、人が罪を犯しているのを見て、自分がその人よりも優位に立ったように感じて喜ぶことです。そのように、人の不義、つまり欠点や弱点、悪い所を見つけ出して喜ぶのではなくて、人の中に真実を、つまり良い所、長所をこそ見出してそれを喜ぶ、それが愛するということなのです。 愛は意志的なもの  7節の「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」は、4節以下のまとめであると言えます。愛とは、どのような時にも、信じることやめず、希望を失わず、忍耐をもって愛し続けることなのです。ここに示されている愛の姿は、私たちが感覚的に、情緒的に抱いている「愛」のイメージとはかなり違っていると言わなければならないでしょう。本当の愛とは、感情的な、気分的な、情緒的な、一時のものではないのです。むしろ、強い意志と決意を伴う、持続的な心のあり方なのです。 主イエス・キリストの到来によって  パウロはこのような愛を、人間の追い求めるべき単なる理想として掲げているのではありません。このような愛を目指しましょう、という理想を語っているだけなら、この教えは私たちの現実に対して何の力も持たない虚しい言葉になってしまうでしょう。パウロはそんなことを語っているのではありません。パウロも、そして私たちも、この愛に生きた方を、具体的に知っているのです。それは主イエス・キリストです。ここに並べられていることはその一つ一つが、主イエス・キリストが私たちを愛するゆえにして下さったことです。主イエス・キリストは、神様に背く罪人である私たちに対してどこまでも忍耐強くあられ、神の子としてのご自分の自由や権利を捨てて、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。パウロも私たちも、この主イエス・キリストにおける神様の具体的な、肉を裂き、血を流す愛の中で生かされているのです。 アドベントに  本日共に読まれる旧約聖書の箇所として、ヨナ書の第4章を選びました。ここにも、神様の忍耐強い愛が描かれています。神様の命令で、罪の中にある町ニネベの滅亡を預言したヨナは、神様がその町の人々の悔い改めによって町を滅ぼすことを思い止まられたことに文句を言っています。自分の面目が丸つぶれだと怒っているのです。しかし神様はそのようなヨナに、ニネベの町の人々を惜しむご自身のみ心を懇ろに教えようとしておられます。ヨナが、主の忍耐強い愛を知って、その愛に生きる者となることを願っておられるのです。  主イエス・キリストのご降誕に備えるアドベントの時を歩む私たちに、神様は同じ願いをもって臨んでおられます。独り子主イエスの到来は、神様が、どのような時にも信じることやめず、希望を失わず、忍耐をもって私たちを愛し続けて下さっていることの現れなのです。その愛に応えて、まことに欠けの多い者ですが、主イエスの示して下さった愛に生きていくことこそ、主イエスの到来に備える信仰です。そのように歩む中でこそ、私たちそれぞれに与えられている様々な賜物は、私たちを本当に生かし、また人をも生かすものとなっていくのです。
あい(愛)するあなたへ(사랑하는 당신에게)/ 2013年11月3日・夕礼拝説教 
2013年11月3日・夕礼拝説教  ◆ 「愛するあなたへ」  伝道師 岩住賢 ・ 旧約聖書:詩編 第34編9-15節 ・ 新約聖書:ヨハネの手紙三 第1章1-15節   ・ 讃美歌:11、507、77 「愛するガイオへ。」と書かれている、この手紙は、いまわたしたちに渡されています。長老ヨハネが、ガイオという一人に宛てた手紙ですが、いまわたしたちに、宛名をかえて渡されています。神様が今「愛するあなたへ」と宛名をかえて、いまわたしたちにこの手紙が渡されました。ですから、この手紙を神様からのわたしたち一人一人への、個人的な手紙として読んでいきたいと思います。神様は、今日わたしたち、直接伝えたいことがおありになっています。それは、一つは、あなたがたが「受け入れるもの」となって、福音の伝道のために生きて欲しいということ。そして2つ目は、あなたがたは「受け入れることのできないもの」になってはならないということ。そして最後に、神様がわたしたちに直接あって、「親しく話し合いたい」と思ってくださっているということです。 このヨハネの手紙三は、長老ヨハネからガイオという人に宛てられた個人的な手紙です。ヨハネの手紙二は、「選ばれた婦人」と「その子どもたち」と書いて、ある特定の教会に手紙をおくっていましたが、ヨハネの第三の手紙は複数の人が目を通すような手紙ではなく、完全にガイオだけに読んで欲しいという手紙でした。このガイオという人がどこの人だったのかはよく分かりっておりません。新約聖書には、ここに出てくるガイオの他に、3人のガイオが出てきますが、ガイオというのは当時の多く使われる名前の一つですから、それらが同じ人とは言えません。おそらく違うとでしょう。この手紙のガイオは、おそらく長老ヨハネから信仰の指導を受けた人であり、ヨハネが責任を持っていた教会の一つを任されていた人ではないかと思います。このガイオを、長老ヨハネがどれほど愛し信頼していたかは、1節、3~4節を見れば分かります。「長老のわたしから、愛するガイオへ。わたしは、あなたを真に愛しています。」「兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、わたしは非常に喜んでいます。実際、あなたは真理に歩んでいるのです。自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。」 ここで「真理に歩んでいる」と繰り返されておりますが、これはガイオが主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストと共に生き、主イエス・キリストに生かされている者として、ふさわしい歩みをしているということでしょう。それは具体的にはどういうことであったかと申しますと、巡回伝道者と呼ばれていた人を、ガイオはいつも喜んで迎え、受け入れて、これを丁寧にもてなし、愛の業に励んでいたということなのです。 当時のキリスト教会は、まだ教会としての制度が整っておりませんでした。おそらく、それぞれの教会には、その教会の群れを指導する人が立てられていたと思います。ガイオもそのような役割を担っていたのです。しかし、当時の生まれたばかりのキリストの教会には、巡回伝道者と呼ばれている人が、各教会を巡り、主の日の礼拝で説教をしたり、集会を開いたりしていたようなのです。巡回伝道者とは、集会から集会へと旅をし、神様の言葉であるイエス様を述べ伝える人であり、また非キリスト教徒のために、集会を開きイエス様のことを伝え、証しすることが任務でありました。それが7節に書いてあり「キリストの御名のために旅に出た人」という言葉で表現されています。キリストの御名を宣べ伝えるため、それはキリストご自身を伝えるためということです。ですから、その巡回伝道者を迎えて泊めたり、食事の世話をしたりすることが、教会に責任を持つ人のとても大切な務めだったのです。ガイオは、その務めをとても良く果たしていたようなのです。3節の「兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、わたしは非常に喜んでいます。実際、あなたは真理に歩んでいるのです。」というのは、巡回伝道者のような人が「ガイオの所で大変世話になった」という報告を長老ヨハネにし、それをヨハネも大変喜んでいるということなのです。そして、5節の「よそから来た人たち」というのは、巡回伝道者を指していわれています。  ヨハネは、8節で「だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです。」と告げます。ガイオ自身は伝道のために、巡回伝道者のように外に出掛けることはしません。しかし、巡回伝道者を助け支えるというあり方で、主の福音伝道のために共に働く者となっています。神様に選ばれ立てられた者を支えるというあり方で、神様の御業に仕えていた。わたしたちも、そのような者として召されているのだと思います。伝道者を受け入れること、これは、わたしたち一人一人にも当てはまります。ここを読むときに、わたしたちはガイオのように、伝道するものを受け入れることが大事であるということを、この聖書箇所から読み取ることができます。今の教会にあてはめると、牧師や伝道師を、支えることが大事であると、連想してこの箇所を受け止めると思います。ですが、時にわたしたちは、伝道のことは特別にたてられた伝道者に任せておいていいのだという心になるときがあります。わたしたちは、支える側で、伝道には参加できないと、伝道することと、それを支えることを二つにわけてしまうことがあります。しかし、それらは、実際、二つにわけることのできないものです。わたしたち一人一人が「キリストの御名のために旅をしている者」です。だからといって、すべての信仰者が、外にでて色々な集会を開いて、そこで説教をしなければならないということではありません。わたしたちは、福音伝道を担う一人として、伝道の旅に出ている一人です。その旅のメンバー全員が、説教しか語ることができないのならば、その旅団は旅を続けることができなくなるでしょう。旅団の中には、食事の準備をするもの、旅の行き先を見据えて計画を立てるもの、荷物を運ぶもの、疲れているものに配慮するもの、祈るものなど、様々な人が必要となります。そのようなすべての働きによって、福音伝道が進んでいくのです。ガイオは、この巡回伝道者を暖かく迎え入れるということで、福音伝道に寄与していたのです。神様は、わたしたちのために、たくさんの伝道者をこれまでに備えてくださいました。そして今も備えてくださっています。そして、そのものたちから、神様の御言葉との出会いを与えられました。しかし今度は、わたしたち自身が、愛する者たちのために、伝道するものして働くことも求められているということを、忘れてはならないのです。わたしたちは、いままで、たくさんの御言葉と恵みを、かつて伝道していた方たちと、今伝道している方たちを通して、神様から頂いてきました。そのわたしたちに対して、神様は、「今度は宣べ伝えるものとなって、共に伝道の旅に出よう、共に働こう」とこの手紙を通して、誘ってくださっています。それがこの手紙で、神様がわたしたちに個人的に伝えたいことの一つであります。 2つ目の神様がわたしたちにこの手紙を通して伝えたいことは、ガイオという人の特徴と、ディオトレフェスという人の特徴からわかります。ガイオの特徴は、「よく受け入れるもの」であったということです。彼は、巡回伝道者を受け入れていました。彼はまた、兄弟姉妹を受け入れるものであったことが五節にかかれています。五節「愛する者よ、あなたは、兄弟たち、それも、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くしています。」とあるとおりです。ガイオは、受け入れることができる人でありました。この手紙の五節から八節で、長老ヨハネは、そのガイオの特徴を書いておりますし、そのガイオの働きに感謝し、喜んでいることが書かれています。続く九節と一〇節でディオトレフェスという人のことが、批判的に書かれています。ディオトレフェスという人は、ガイオと同じ教会に属しており、またガイオと同様に指導的な立場にいたものであったと考えられています。しかし、九節に「指導者になりたがっている」ということが書かれているように、指導するようなことをしていたが、実際、教会では、指導者とは認められていない人であったことがわかります。そのディオトレフェスという人の特徴は、ガイオとは対照的に「受け入れないもの」であったということです。9節に「わたしたちを受け入れません」とあるように、ディオトレフェスは長老ヨハネたちを受け入れておりませんでした。それは、ヨハネがガイオや、ディオトレフェスが所属する教会にお願いの手紙を書いたが、その言葉を受け入れなかったということが、9節冒頭に書かれています。その注意の内容はというと、5~7節に登場した巡回伝道者をそちらの教会で受け入れて欲しいということだと考えられております。ですから11節で登場するデメトリオという、巡回伝道者を、再度長老ヨハネは紹介して、受け入れ欲しいと書いております。ディオトレフェスは、当時、地域の複数の教会を指導する長老の願いと言葉を、拒否しました。彼が拒否し受け入れなかったのは、ヨハネの言葉だけでなく、実際にやって来た巡回伝道者を拒絶しておりました。10節の後ろから二行目のところで、「兄弟たちを受け入れず」と書かれているのが、その巡回伝道者のことです。彼は、巡回伝道者のみならず、巡回伝道者を受け入れようとする教会の人たちの働きを邪魔し、教会から追い出していたようです。彼か、教会の外の兄弟姉妹だけでなく、教会の内にいる兄弟姉妹をも受け入れることができませんでした。なぜ彼が、そのように受け入れることができなくなっているのか。その一つの理由は、9節の「指導者になりたがっている」ということにあります。彼は、指導者になりたいけれども、それをゆるしてもらっていない。そのように自分を認めてくれていない、長老ヨハネを妬み、ヨハネを受け入れませんでした。では、彼を指導者にすれば、解決するじゃないかと、考える人もおられると思います。しかし、それはだめなのです。実は彼は指導者になれないから、他の人を受け入れることができないのではないのです。本当の問題は、彼が指導者になっていない、自分を受け入れることができていないことです。その問題の根っこには、さらなる問題があります。それは「神様を受け入れようとしていない」ということです。彼は、今の自分の立場に不満がありました。自分は人の上に立ちたい、指導するのはわたしであるのにと、心が不満でいっぱいになっています。そのような、指導者じゃない自分を受け入れることができない、理由には、神様の選びを見失っているからだと言えると思います。わたしたちも、そうですが、今自分が立っている場所や仕事というのが、どなたから与えられたものなのかを見失っていることがあります。その立場や仕事を与えてくださるのは神様です。自分がその仕事をしている時に、うまくいっている時はいいのですが、うまくいかなくなると突然仕事に対して不満を持ったり、なんで自分はこんな仕事をしているのだろうかと意味が、見出さえなくなったりすることが起こります。その時、わたしたちはその立場や仕事を与えてくださった神様のことを忘れています。この立場や仕事をする意味はわからないけれども、神様が、わたしがその立場や仕事につくことを選んで下さったのだ。神様が仕事をする意味を知っていて下さるということが見えていれば、わたしたちは自分の立場や仕事を不満に思うことありません。それは、全部神様が決めてくださっているということを思い込んで、我慢しているだけなのでは、考える方がおられると思いますが、そうではないのです。神様が仕事や立場を選んでいてくださっているということが、神様がしかるべきときに、仕事を変えて下さる、立場を変えて下さるということにも、ゆだねられるからです。ディオトレフェスは、指導者になりたがっていました。その彼が、神様のことを見えていれば、「わたしは指導者なりたい。神様がしかるべきときにわたしを指導者にして下さる時を待ち望みます。ですが、すべてはあなたの計画に沿っておこなってください。もしわたしが指導者になれなくても、あなたが選んで下さった道であれば喜んで進みます」という祈りと、考えになっていたはずです。彼はそうはなっていなかった。神様に祈ったり、神様のことを思ったりするのではなく、彼はヨハネに「悪意に満ちた言葉でそしり」、そして、兄弟姉妹を教会から追い出すということをしてしまっていたのです。その彼の状態を、ヨハネは11節で、「神を見たことのない人です」と一言で、表現しています。彼は、神様を見たことがないと言われています。わたしたちも時に、ディオトレフェスのようになってしまうことがあります。神様のことを知っているのに、時に神様を忘れてしまって、見失ってしまって、自分のことばかり見てしまうことがあります。そのような時は、善い時はいいのですが、悪い時、わたしたちは隣人もそして、自分も受け入れることができなくなってくるのです。すべてにおいて受け入れることができなくなっていると、その心の苦しさから、隣の人を傷つけたり、追い出したり、自分を傷つけたりします。神様は、今日のわたしたちに、11節にあるように「愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください。」とこの手紙を通して、願っておられます。悪いこととは、神様を見失うことです。そして、善いこととは、ガイオがしていたように、神様を見つめ、神様を受け入れ、兄弟姉妹を見つめ、兄弟姉妹を受け入れることです。神様は、わたしを見つめて欲しいと願っておられます。わたしたちは自分のことを、受け入れることができなりますが、神様は、わたしたちのことを誰よりも受け入れてくださっています。すべての人が自分を認めていなくても、すべての人が自分見捨てたとしても、神様はわたしたちを「愛するあなた」と呼んで、認め、受け入れてくださっています。その愛は、自分の子である、イエス様を十字架に欠け、血を流させて、犠牲とするほどです。そうまでして、わたしたちを受け入れ、愛してくださったのです。その愛を見つめて欲しいと神様は願っておられます。これが、この手紙の二つ目の神様の伝えたいことです。3つ目は、この手紙の最後の部分の13節から15節の部分に書かれています。神様が、今日最後にわたしたちに伝えたいことは、神様がわたしたちと「親しく話し合いたい」と思われているということです。これは、先週ともに読みました、ヨハネの手紙二の最後の部分と同じです。わたしたちが神様と親しく話し合う場所は、この礼拝であると先週申し上げました。手紙では、送り手側には、読み手の反応がわからないということがあるけれども、会って話すことができれば、その語り手は聞き手の反応見ることができ、共に悲しむこともできれば、共に喜ぶことができます。そのように神様は、わたしたちと共に悲しみ、共に喜びたいと願っておられます。そのために、この礼拝が用意されました。説教で神様が今わたしたちに伝えたいことを、語ってくださり、わたしたちが、感謝し讃美、祈りをもって応答していく。その話しあい、語り合いの場がこの礼拝です。今日の礼拝には聖餐式があります。そこに神様がわたしたちに対して示してくださっている「親しさ」が表れています。礼拝において、神様は食卓の席を用意してくだっている、それが、聖餐です。その食卓にわたしたちは招かれて、神様と親しく食事をさせていただきます。パンを食べ、わたしたちは神様に常に体と魂とを養われていることを知らされます。また、イエス様がわたしたちの救いのために、十字架上で自らの肉を神様との和解の献げ物としてくださった、その尊き御業を思い出しながら、パンを頂きます。また、わたしたちはその聖餐の食卓の席で、ぶどう酒、ぶどう液にあずかりながら、今もなお渇いている自分の魂を潤してくだっていることを感謝することができます。またわたしたちはぶどう酒、ぶどう液にあずかりながら、イエス様がわたしたちのために十字架上で血を流され、神様とわたしたちの間に新しい契約を打ち立ててくださり、わたしたちが死で終わることなく、復活し永遠の生命にあずかるものとしてくださった喜びを噛みしめることができます。この食卓には、喜びが満ち溢れています。神様がこの食卓の席で、わたしたちのことをどれほど愛してくださっているかを言葉で語ってくださり、またパンとぶどう酒を通しても教えて下さる。わたしたちはそのことに感謝して、目の前におられる神様に祈り、讃美の歌を歌います。このような親しい交わり、親しい語り合いが行われているのがこの礼拝です。そして神様はわたしたちとこのように親しく交わり、親しい語り合うことを望まれておられます。わたしたちは今日のここに神様に招かれて来ています。そして、今、神様は「あなたは、兄弟姉妹を受け入れるものとなり、共に伝道の旅に出ようと」と誘ってくださっています。そして、わたしたちが、「神様を見たことのない人」のようになり、神様も、兄弟姉妹も、自分をも、受け入れることができなくなることがあるが、自分が神様に「愛され、赦され、受け入れられた」ということを思い出し、もう一度「受け入れるもの」となることを、神様は願っておられます。そしてなによりも、神様はわたしたちと会って「親しく話し合いたい」と思ってくださっており、この礼拝を用意してくださいました。そして今日、喜びの聖餐の食卓を神様が整えてくださいました。今日与えられたこの手紙は、わたしたち宛の、神様からのこの食卓への招待状でもあります。ですが、この食卓に与るのは、神様からの愛を受け入れ、罪を悔い改め、神様への信仰を告白し、洗礼をうけたものだけです。信仰を告白し、洗礼を受けることが、わたしたちが神様からの招待への返事となります。神様は待っておられます。神様はわたしたちと「親しく話し合うことができる日」を心待ちにされておられます。わたしたちも今、そしていつまでも、神様と「親しく話し合いたい」願っています。その願いに神様は応えてくださり、いつまでも話しあうことの出来る礼拝を神様は用意して下さいました。また神様は今日この場でわたしたちと出会ってくださいました。そしてまたその喜びを共に分かち合うことのできる兄弟姉妹をわたしたちに与えてくださいました。「愛するあなた」とわたしたちに呼びかけてくださって、聖餐の食卓へ招いてくださいました。感謝いたしましょう。そして、今度はわたしたちが、神様に「愛するあなた」と祈り、告白し、神様と親しく話しあいながら、歩んでまいりましょう。
あい(愛)する者の祈り/ 2008年9月28日・夕礼拝説教
2008年9月28日・夕礼拝説教 ◆ 「愛する者の祈り」  伝道師 嶋田恵悟 ・ 旧約聖書: 詩編 第111編1-10節 ・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙 第1章1-11節 ・ 讃美歌 : 10、461 はじめに  「愛する者の祈り」との題を掲げました。本日お読みした箇所で、パウロは、フィリピ教会の人々を愛しつつ、教会を覚えて祈りを捧げています。愛に生きると言うのはキリスト者にとって極めて大切なことです。教会生活において、私たちは聖書の教えの中心は、神を愛することと、自分自身を愛するように隣人を愛することだと、繰り返し聞かされています。教会に集う者にとって、愛に促されて、教会や隣人を覚えて祈りを捧げることは、大切な努めであると言って良いでしょう。私たちは、愛すると言うと、大抵、夫婦や男女の間の恋愛関係のような特別な関係を先ず思い浮かべますが、ここでは、そのような狭い意味ではなく、広く隣人との良い関係を結ぶことであると言うことが出来るでしょう。夫婦の間の愛、恋人間の愛、親子間の愛、友人間の愛等、人々との間に関係が結ばれる時、そこに愛すると言う関係が生まれます。繰り返し語られ、当たり前のことのように聞いていることですが、これは、私たちにとって、決して簡単なことでは無いと言って良いでしょう。私たちは、愛に生きると言うことに欠け多い者だからです。  様々な、人と人との関係の中で、私たちは、裏切られ、絶望することがあります。更に、自分自身についても、周囲の人々と本当に良い関係が結べているかを省みる時、愛の破れを覚えずにはいられないのではないでしょうか。周囲の人から愛されたいと思っている反面、自分が他人のことを愛すると言うことについては、あまり真剣に考えないと言うのが、私たちの現実です。そして、隣人に裏切られた経験や、愛から遠く離れた自分自身を規準にして、そもそも、人間は、愛に生き得ないのだと考えてしまうことすらあるでしょう。自分が把握する人間の愛の破れが、自分が隣人を愛する愛も、隣人が自分に寄せる愛も、信じることが出来ないと言う状況を生み、しばしば、人間の愛に幻滅すると言うことも起こるのです。私たちは愛すると言う関係を結ぼうとしては、その破れを経験し、それでも尚、愛を求め続けるのかもしれません。そのような私たち人間が、真の愛に生きるとはどのようなことでしょうか。ここで、パウロの姿を通して、聖書が語る一つの答えを示されていきたいと思います。 教会の交わりの中での愛  パウロは1章の3節以下で、フィリピ教会の人々について、彼らが、福音にあずかっているが故に、喜びをもって祈っていると語った後、7節で次のように語っています。「わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは当然です。というのは、監禁されるときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです」。ここで大切なことは、教会の交わりとは、一つのキリストの救いの恵みに共にあずかることに基づいていると言うことです。つまり、ここでは、一般的に語られる愛ではなく、教会の交わりの中での愛が見つめられているのです。キリストの恵みにあずかっていない所で語られる愛と、この恵みにあずかっている者たちの中での愛は異なります。私たちがしばしば語る一般的な愛は、私たちの内側から生まれ出てくるものですが、教会の交わりにおいて語られる愛は、外から来るものが根拠になっているのです。私たちの外側から来る神様の救いの恵みに共にあずかることから始まる愛なのです。そのことを8節でパウロは、はっきりと次のように語ります。「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます」。パウロは、教会を愛することについて、「わたしの愛の心で」とは語りません。「キリスト・イエスの愛の心で」と語っているのです。パウロが教会の人々を愛しているのは、パウロ自身の愛によってではないのです。キリスト・イエスに愛された者として、その愛を持って教会を愛しているのです。 愛するよりも裁く者となる  なぜ私たちは、自分自身の愛に破れを覚えずにはいられないのでしょうか。私たちの内側から出る愛は、自分が愛を向ける対象に、愛するに足る何かがある時に愛の対象となるからです。その対象が、美しさや、優秀さ、高潔さと言った、好ましいものを持ち合わせいる時に、その対象に愛を向けるのです。そのような意味で、美徳を目指す愛と言うことが出来るでしょう。更に、私たちは、自分の内側から生み出される愛で愛する時、そのことに何かしらの見返りを求めます。ですから、私たちの内側から出てくる愛は、隣人を、無条件に愛すると言うことが出来ません。私たち人間は誰しも、罪人であり欠けのある者だからです。誰にでも、自分に合う人とそうでない人がいるでしょう。又、一人の人物であっても、その人の受け入れられる部分とそうでない部分があったりするのです。そして、自分自身の愛のみで生きる時、必ず生まれるのは、周囲の人々を自分の思いに従って裁くと言う態度です。愛すべきこととは異なる、隣人の姿に直面する時、その隣人と良い関係を結ぶことが出来なくなってしまうことがあるのです。又、自分が愛をもって関係を結ぼうとしても、それが裏切られる時に、その人と敵対してしまうのです。  しかし、ここで注意をしたいことは、私たちが隣人を裁く時に、その隣人の姿の中に自分自身の罪の姿を見つめていると言う側面があると言うことです。周りの人々を愛し、受け入れることが出来ない時、大抵、そのような隣人の罪の姿が自分自身にも当てはまるからなのです。つまり、隣人の姿に嫌悪感を覚え、それを裁く時は、実にしばしば、自分自身の内に秘めた嫌な部分を、周囲の人々の振る舞いの中に見出す時であったり、心の中に密かに持っている願望や欲望を自分の信念で自制している時に、隣人が、そのことを何のためらいもなく、欲望のままに行っている姿を見る時だったりするのです。そのような時、私たちは、周囲の人々を受け入れ愛することよりも、拒絶し裁いてしまうのです。そのような意味で、私たちが隣人を愛することに破れを覚えると言うことは、自分自身の罪とも密接に関係しているのです。私たちは、自分も罪人でありながら、どこかで、自己弁護しています。隣人の姿と自分自身を比較して、自分の方がまだ良いと思ったりするのです。そのような自己弁護こそ、人間の自分を愛する自己愛と言って良いかもしれません。「自分を愛する」と言う時、自分が好きか嫌いかと言うことが問題なのではありません。自分をも支配する罪や弱さを、他人の姿の中に見出し、それを裁くことによって自分を守ろうとすることなのです。 罪を担う愛  そのような人間の愛に生きる私たちに、キリストの愛が示されているのです。キリストの救いの恵みにあずかる時、私たちの罪を担って下さった方がいることを知らされます。このキリストの愛は、十字架に示された神の愛です。主イエスは、私たち人間のために御自身を献げて下さいました。そこでの愛は、罪人のために自らの命を献げる、自己犠牲の愛です。しかも、そこでキリストが命を投げ出す程に愛した対象は、決して、立派でも、美しくもないのです。キリストが私たち人間を愛して下さったと言うことは、人間の愛を規準に考えればとうてい愛せないような者を愛し、そのために命を捨てて下さったと言うことなのです。そこには、罪を忍耐する愛が示されています。それは、何か素晴らしいものを求める愛ではなく、罪を担う愛なのです。このキリストの愛を知らされ、神さまの救いにあずかった者は、自分を救った愛によって、隣人を愛するものとされます。何よりも先ず、自分自身の罪の赦しを知らされ、そして、その同じ愛で隣人の罪も担われていることを知らされるからです。そのことを知らされる中で、私たちの隣人との関係は変えられて行きます。この世を歩む限り、私たちは依然として不完全な中にいます。そこでは、人間の罪の現実があるのです。しかし、自分の罪も隣人の罪も、キリストによって担われていると言うことを知らされるのであれば、私たち自身も、罪赦された者として、お互いの罪を担い、忍耐しつつ歩む者とされるのです。自分を愛するように、隣人をも愛する者とされるのです。自らの罪が赦され、担われていると言うことを経験していない限り、私たちは隣人と良い関係を結ぶことが出来ません。この恵みにあずかることのない所では、隣人の姿の中に自らの罪を見、隣人を裁くことを通して自己弁護する歩みが生まれるからです。しかし、罪人に過ぎない自分を赦し、担って下さる方を知らされる時、私たちは、心から愛に生きる者とされます。たとえ、隣人の罪、欠けや弱さに直面しても、その罪や弱さは、自分自身も持っているものであり、それは、既に、同じ愛によって担われていることを知らされるからです。人間の愛によって関係を結ぼうとする時、自己弁護のために裁くものでしかなかった隣人の欠けや罪の姿は、神の愛による赦しに生かされる時、自分自身の欠けや罪の大きさと、神の恵み深さを知らせてくれるものとなるのです。そこからお互いに罪を担い合うことによって愛し合う関係が生まれます。共に、救いの恵みにあずかった者として互いに愛し合う歩みが生まれていくのです。 キリストを見つめ続ける歩み  ここで語られていることは、私たちが自分の力で成し遂げることではありません。私たちは、ともすると、この愛について、不十分な愛に生きている私たちに、より高い次元での愛が示されていて、そこに到達することが求められていると感じてしまうかもしれません。確かに、キリストの愛を示された人が、その姿に倣って行こうとするのは大切です。しかし、それは自分の力、自分の努力で、人間の愛の限界を乗り越えて行こうと言うことではありません。パウロが語る、「キリスト・イエスの愛の心」と言うのは、「わたしの愛の心」の延長にあるものではありません。ですから、それは私たちが到達するものではなく、キリストの救いにあずかっていると言うことが自然と生み出していくことなのです。  ですから、私たちは、自分の振るまいや、自分の努力を見つめて、自分は、よりよく愛に生きていると言うことを示すことは出来ません。更に、ここまでのことが出来れば、自分は愛に生きることにおいて合格ラインに達していると言うように確認することは出来ないのです。そのような成果や、効果を目に見える形で確認しようとする態度の背後には、やはり、自分の力で何かを成し遂げようとする思いがあるのかもしれません。私たちに出来るのは、ただ、キリストを見つめ、その恵みにあずかる者とされていくことなのです。それは、繰り返し御言葉に聞いて行く歩みと言うことが出来るでしょう。キリストが私を、そして私の周囲の人々を愛して下さったと言うことをのみ繰り返し見つめていくのです。キリストが愛によって救って下さっていると言う恵みに思いを向け続ける。その時、そこから、自ずと、キリストの愛に生かされる歩みが、結果として生まれてくのです。つまり愛に生きる歩みとは、私たち自身の罪や欠けの中で、キリストの愛を知らされ、それに生かされていくことに他ならないのです。 神が証しして下さる  そのことは、8節の後半で、パウロがフィリピ教会の一同を、どれほど思っているかは「神が証ししてくださいます」と語っていることに示されています。パウロが生きている愛を証しするのは、パウロ自身ではないのです。私たちは人間の内側から生まれる愛によって誰かを愛する時に、そのことを証ししようとします。言葉や態度で表現することがあるでしょう。その人のために尽くしたり、その人に贈り物を贈ることもあるでしょう。様々な方法を考え、そのことに心を砕くのです。愛に生きることに不十分な人間が、自らの愛を証明することほど難しいことも無いと言えるかも知れません。しかし、ここでパウロは、パウロが教会を愛しているという時の愛は、パウロではなく、神が証明して下さっていると言うのです。つまり、キリストを十字架にかけて罪を赦すと言う形で私たちを救い出して下さり、その救いにパウロがあずかっていると言うことのみが、パウロが教会を愛していることを証ししているのです。キリストの救いにあずかった者同士の間では、神の愛に生かされているが故に、自ら愛を証しする必要はないのです。 パウロの祈り  私たちが、自分自身の内側から生まれる愛ではなく神様から来る愛に生きる時、私たちは為すべき不可欠なことは祈りです。私たちが、キリストの愛を深く知らされ、それに生きることが出来るように祈り求めることが大切なのです。だからこそ、パウロは教会への愛を語ったすぐ後に、9~10節で、次のように語るのです。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に自由なこと見分けられるように」。ここで、パウロは、教会の人々の愛が増し加わることを祈っています。そして、そのことが実現されるために「知る力と見抜く力を身につけて」と祈っているのです。ここで私たちの間でキリスト・イエスの愛が豊になるために、ある認識力が求められているのです。それは、単純に知識を得ると言うようなことではなく、主が、私たちに臨んで下さり、私たちの信仰の目が開かれ、主イエスの救いが自分自身のものとなると言うことです。このような祈りは、人間の愛のみを問題にするならば、不可解な祈りとなるでしょう。人間の愛は、認識力とは異なった心の中からわき出てくる感情の営みであると考えるからです。しかし、外から来る救いに基づくキリスト・イエスの愛が豊になるためには、その救いの恵みを知らされていくことがなくてはならないのです。だから、信仰者は、知る力が与えられるように祈りつつ歩むのです。その時に、キリストの救いを深く知らされつつ、愛が生まれていくからです。更に、パウロは、愛が豊になって、その結果、「本当に重要なことを見分けられるように」と語ります。愛が豊になることによって、更に、重要なことが見分けられるようになると言うのです。これも、パウロが、自分自身の愛を問題にしていたならば全く異なったものとなっていたでしょう。おそらく、教会の人々の愛が豊になり、そのことによって、パウロが、教会の人々を愛したように、教会の人々も豊な愛でパウロ自身のことを愛するようにと祈ったのではないでしょうか。しかし、パウロは自分が愛されることを願っているのではないのです。むしろ本当に重要なことを見極めるようにと言うのです。私たちの愛は、しばしば、わたしたちを盲目にさせ、重要なことが見分けられないという事態を生み出します。しかし、キリスト・イエスの救いの恵みから始まって豊にされた愛は、私たちに何が重要なことなのかを弁える者とさせるのです。 重要なこと  ここで語られている「重要なこと」とは、今、教会を救いの恵みが捉えており、神様の救いが完成する世の終わりに至るまで、その恵みが更に増し加わって行くと言うことです。神様が恵みの御支配をこの世で始めて下さり、それを終わりまで導いて下さると言うことです。1章の5節には、パウロが喜んで祈っているのは「最初の日から今日まで、福音にあずかっているから」だとありました。パウロは、最初の日、即ち、教会の人々がキリストの救いにあずかった日から今まで、教会の人々と共に、福音にあずかり、救いの恵みの中で祈りを捧げていることを喜んでいます。そして、これからも、その恵みの中を歩めるようにと願っているのです。そのために祈りつつ、愛に生きる者でありたいと願っているのです。この重要なことが忘れられる時、教会を、キリスト・イエスの愛ではなく、人間の愛によって結ばれた共同体にしてしまうことが起こります。そこでは、互いの罪を担い合うと言うことがなされなくなって行きます。人間の罪の現実を裁き合うことすら起こるのです。パウロは、教会の中で事実、神の愛が豊に生きられ、そのことによる交わりが深まっていくことを通して、一層、教会がキリストの救いの御支配に目を向け、希望を抱いて将来に向かって行くことを求めているのです。10節で、続けてパウロは、次のように語っています。「そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の身をあふれるほど受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」。ここでは終わりの日のことが語られています。キリストの日、主が再び来て下さり、救いを完成させて下さる時に、私たちを本当に義とするのは、私たちがどれだけ人間の愛で人々を愛したかと言うことではなく、「キリストの救い」です。教会は、この世にあって、この救いの恵みにあずかりながら歩むことを通して、終わりの日の救いを待ち望むのです。 祈りと讃美に満ちて  そして、その救いに生きられる時、真に神の栄光と誉れとをたたえるということが生まれます。   愛に生き得ない、自分たちの内側にある愛に破れを覚える私たちが、神の愛によって救われていくのだと言うことが受けとめられる時に、自分自身を讃えようとするのではなく、神さまへの心からの讃美が捧げられます。私たちは絶えず、キリスト・イエスの愛を示されていかなくてはなりません。わたしはキリストの救いの恵みにあずかっている。そのことのみが、自分の内にある愛の破れを経験する者を、真の愛に生かす唯一の可能性です。そのために、主イエス・キリストによって成し遂げられた救いの出来事を深く知ることが出来るように日々御言葉を示され、その救いを深く知ることが出来るように祈る者でありたいと思います。そのようにして、キリスト・イエスの愛に生かされる時、私たちの教会は、互いの罪を赦し合い、弱さを担い合うことを通して、神を誉め称える歩みを進めていくのです。
あい(愛)する者は叱られる(사랑하는 자는 꾸짖음을 당한다)/ 箴言3:11-12(잠3:11-12)/ 綾康輔 伝道師/ 2006-07-20
愛する者は叱られる 箴言3:11-12 ○題目:愛する者は叱られる ○本文:箴言3章11-12節 ○導入:叱責は親として必ず行使しなければならない、重要な権利であると同時に責任でもあります。しかしこの叱責にも、ある方法と基準がなければなりません。子供に叱責をする時は、何よりも時期が適切でなければなりません。 一番良い方法は、子供自らが悟るように機会と時間を与える事です。時には子供の方から親に告白する事ができるまで、待ってあげる知恵が必要です。その様になれば自分を信じて待ってくれた親に対して、ありがたさと信頼を感じるようになるでしょう。 親が介入して咎めて、訓戒しなければならない時には話をしなければなりません。しかし長ったらしく說教調で述べる事は適切ではない事です。ここで重要な事は、感情をコントロ-ルする事です。感情をあらわにした反應は、子供達に拒絶感を持つようにします。 叱責の基本原則と基準は、何と言っても聖書です。叱責は親の個人的な基準や評価によってではなく、聖書的な見解と観点で行われなければなりません。やむを得ず叩かなければならない時には、直接手を出さずに棒のような道具を使った方が良いです。 子供の誤った行ないの服を脫がせる事を願うのなら、叱責する說教や冷淡な指摘よりは暖かい愛の表現がもっと效果的でありす。押し付けようとすればする程、直そうと思うよりは縮こまるようになります。叱責が必要な時ごとに、何が本当に子供を変化させる事ができるかを深く考えなければなりません。 ○本論:今の話しのように、私達が子供たちを訓戒する様に、神様は私達をも訓戒なさいます。そして、それを正しく受け止める時に、神様の御心のままに私達に有益となるのです。しかし、それを正しく受け止める事が出来ずに、心を頑なにしてしまうと恵みが恵みではなくなってしまいます。 先ほどの話しの中にあった様に、親として適切な言葉と態度で子供を訓戒するのは、とても難しい事です。私自身、頭では分かっていてもうまく出来ないでいるのが現実であります。しかし、私達の霊のお父様である神様は、完璧に私達を訓戒して私達が正しい道に歩むようにされます。 今日で箴言からの学びは最後になりました。箴言自体はまだ長い書簡なので、また今度の機会に学ぶ事に致しますが、今日の本文から私達が如何に神様に愛されているか、また神様の訓戒がどれだけ私達にとって有意義か、私達がどんな姿勢を持たなければならないかを学んで行きたいと思います。 ○ポイントの第一番目は、「主のなされる事に100%信頼し付いて行く必要がある」という事であります。本文の11節には、次のような御言葉が書いてあります。「わが子よ。主の叱責をないがしろにするな。その叱責をいとうな。」と。 ここでは、またまたソロモンは箴言の讀み手に対して、「わが子よ」という言葉で注意を促しています。父親が子に訓戒する様にです。ここでは、主の諭しを拒む事を戒めています。なぜ、この様な勧めをしなければならなかったのでしょうか。なぜなら、主の諭しは時には銳い劍の様に心を刺し通すからです。 しかし、この諭しの裏側には主の大きな配慮があっての事であります。また主の叱責も同様に、私達にとっては痛い事であり、避けて通りたいものであります。私達はその様なところから、もっと安定した波風の立たないところを求めるかもしれません。 私達の救いの為に、その命を投げ出されたイエス様も十字架にかかられる前には、避けたいと言う思いがありました。しかし、イエス様でさえも自分の意のままではなく、父なる神様の御心にお従いになられたのです。それは正に私達に対するお手本でもあったのです。 私達が神様の御心のうちを歩む事は、神様を喜ばせるもっとも基本的であり、かつ重要な事であります。しかし、そこに私達の側で神様の御心に対して全くの信頼を寄せる必要があります。神様のなさる事に対して疑いがあるなら、それは神様を喜ばす事はできないのであります。 神様は不信仰を最も忌み嫌われるものの一つとして受け取られるからです。私達がこの神様の諭しと叱責を通して、更に神様の願われている自分に造り変えられる事を願っておられます。その神様の御心を成すという意味でも、これらのマイナスと思える事からプラスに変えられる主の御業を体験しようではありませんか。 ○ポイントの第二番目は、「神様も私達を息子娘として見て下さる」という事であります。本文の12節前半部分には、次のような御言葉が書いてあります。「父がかわいがる子をしかるように、」と。 日本の慣用句の中に、「かわいい子には旅をさせろ」という言葉があります。それは、本来は「子供がかわいいなら、甘やかさないで辛い経験をさせよ」というシビアな意味です。そして、それは日本での親達にあって子育ての根底に流れている物であります。よって、多くの家庭では成人したら独立させます。 勿論、その家庭每に違いはありますが、基本的にこの思想は変わらないようです。それは、自分の子供がたくましく育って欲しいと言う願いから来るものであります。しかし、その中でもある家庭では子供を可愛がる余り、過保護に育てる場合があります。 可愛いからと言って、子供の好き放題にさせて、しつけをしないでいる家庭がそれです。そして、その様な家庭で育った子供は、大人になってから多くの場合は、非行に走ってしまうと言うのが現実です。結局はその親が、適切な時に適切なしつけをしなかったが為に起きた問題と言えるでしょう。 だからこそ、子供にはきちんとしつけをする必要があります。もちろん、感情的にただ怒りをぶつけるのではありません。そして、しつけを通して子供が学ぶ事をしなければ、それは間違っていると言う事を教えなければなりません。 それを怠っていると、子供はしつけをないがしろにしてしまうのです。そうなると、子供は自分の好き放題にしてしまいます。また、しつけは母親がするより父親がする方が良いのです。この御言葉も、「父がかわいがる子を叱るように」と書いてあります。「母がかわいがる子を叱るように」とは書いていません。 父親がその役割をきちんとする必要があると言う事です。神様はそれと同じように、父として子供である私達を叱責なさいます。それは、神様が私達を本当の息子、娘として見て下さっているからであります。それゆえ、私達が少しょう辛い道を通ったとしても、そこを通らせると言うのです。 それが、正に神様の私達に対する親心であります。私達は成長するに従って、親の心を少しずつ分かるようになります。そして、親が自分をどの様に育ててくれたのかを考えるようになります。神様も私達をそのように育てて下さる事を知るようになるのです。私達は神様の子供達だからです。 ○ポイントの第三番目は、「主は私達に大きな痛みに合わせないように小さな痛みを与えられる」という事であります。本文の12節後半部分には、次のような御言葉が書いてあります。「主は愛する者をしかる。」と。 ソロモンはここで、叱責を与える理由として結論付けているのは、「主が私達を愛しておられるから」であると言っています。これは、先ほどのポイントと同様な事ですが、やはり、それら全ての動機は神様の私達に対する愛の現われなのであります。 たとえば、子供が生まれてからある程度の年になるまで、規定の予防接種というものを受けさせます。この前、私の二番目の息子も、満1歲を過ぎたので水痘ともう一つの予防接種を一度に受けさせました。そして、その注射がひどく合わなかったのか、その後何週間かは体調が良くありませんでした。 そして、この様な考えを持ちました。「なんでこんな小さな子供に、痛い思いをさせなければならないのか。もう少し大きくなってからでもいいではないか。」と。しかし、それは淺はかな考えなのです。もし、その予防接種を受けさせなければ、水痘や、もっと大きな病気にかかってしまう危険性があるからです。 しかし、それら大きな病気にかかる前に、小さな痛みを与える事で大きな痛みを防ぐ事が出来るのであります。勿論、子供にとって注射も大きな痛みに感じて、泣き喚いてその場から逃れようと必死になるのではありますが、それは、大きな病気の痛みに比べれば大した事ではありません。 同様に神様も私達が、大きな痛みに会う前に小さな痛みを与えられる事があります。そして、それは、その時にはとても痛いもののように思えますが、神様から見るならば子供に注射を与えるようなものなのです。神様は私達がそのまま放って置くと大きな痛みになってしまうのを予めご存知であります。 ですから、私達がその大きな痛みを経験する前に、その弱い部分を直そうとされます。あるいは、間違いを正そうとされます。それら全てのご配慮は、神様の愛から来ているものなのです。神様の愛によって私達は、盲目から目が開かれたものとして歩む事が出来るのです。 更に、神様は私達の中で修理、修繕が必要な部分をすべて知っておられるお方であります。私達が気が付いていない部分に至るまでも、神様はご存知なのであります。神様が私達をお造りになられたからです。私達は、この神様に全てを委ねて歩めば良いのです。 私達自身以上に私達を知っておられる神様の叱責があった時には、少し痛い時があるかも知れませんが、放っておいたらもっと大きな痛みがあると言う事を悟らなければなりません。私達が、神様のお喜びになられる器と変えられるように、聖霊様の力を頂いて歩みましょう。
あい(愛)せない、キリストをさがす(사랑할 수 없는 그리스도를 찾는다) / ヨハネ17:1-3(요17:1-3), ローマ4:25(롬4:25)
愛せない、キリストをさがす(사랑할 수 없는 그리스도를 찾는다) ヨハネ17:1-3(요17:1-3), ローマ4:25(롬4:25) 2004年4月18日 日本キリスト教団中村栄光教会 主日礼拝説教 【愛せない、キリストをさがす】 中村栄光教会牧師 北川一明 新約聖書①【ヨハネ福音書 第17章1~3節】 新約聖書②【ローマの信徒への手紙 第4章25節】 25 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。 【愛せない、キリストをさがす】 北川一明 Ⅰ.  私どもは、それぞれ自分が仕合わせになろうとしています。仕合わせになりたくないひとは、ありません。他のひとよりも、まず自分です。自分が仕合わせになりたい、です。  愛する者には、仕合わせになってほしい……、自分以上に仕合わせになってほしいということも、あるかもしれません。でも・それは、自分が愛しているから、自分の仕合わせの中の、相手の仕合わせです。その相手を、もしも愛せなくなったならば。自分以上に仕合わせになってほしい、なんては思いません。  私どもは、自分が仕合わせになりたい……と。それを一番に願っています。  それは、必ずしも悪いことでは、ありません。キリスト教からみても、やはり、悪いこととは言えないと思います。  自分が、必ず仕合わせになろう……と。そういう強い志と意欲がないと。大きな問題に突き当たった時に、何も出来ません。だらしのない、半端な態度をとるようになります。  「大きな問題に突き当たった」ということは……。今までのやり方じゃぁ駄目だということです。そういう時、必ず仕合わせになろうという覚悟があれば。今までのやり方を捨てて、自分が変わることも出来るかもしれません。  けれども、きちんと自分を律して。今までのものを捨ててでも仕合わせを掴もう……と。そういう覚悟が出来ないならば。大きな問題を乗り切れるはずがありません。ぐずぐず半端なことをやって、何にも変わらないから、不幸なままで。それで幸いなひとを羨んで、不平不満を言って、ひとの足を引っ張って……って。そうやって、自分の命を汚します。それでは、仕合わせにも、なれませんし。余所様にも御迷惑です。  きちんと、「自分が仕合わせになろう」……と。その志と意欲を正しく持ち続けることは、大事です。イエスさまは、「求めなさい、そうすれば与えられる(マタイ7:7)」と言われました。自分の仕合わせを、真面目にきちんと求めるのは、「悪い」どころか、その逆です。善いことです。自分の仕合わせを真面目に考えない方が、よっぽど悪いことです。  ただ……自分の仕合わせ「だけ」を考えるのは、やっぱり良くないんでしょうと思います。  われわれ、ひとりぼっちじゃぁ、仕合わせにはなれません。どんな人間嫌いの変わり者でも、ひとは、ひとと共に生きるように出来ています。誰でも、人間である以上、親から生まれてきた……他人から生まれてきたんですから。誰でも他人との関わりの中で生きています。  そんな人間が、本気で仕合わせになろうと志したら。ひとりぼっちでは居れません。ひととの関係の中で、仕合わせにならなくっちゃぁ、仕合わせには、なれません。  イエス・キリストは「わたしたちが義とされるために復活させられた(ローマ4:25)」と。聖書をお読みしました。「義」とは、「正しい」という意味です。キリストが復活したのは、われわれが「正しいもの」とされるためなんだそうですが……。  正しさが、自分を仕合わせにしないのならば。正しくったって、意味がありません。  正しさが、大事なのは。人間の仕合わせが、ひととの関係の中での仕合わせだからです。ひととの関係の中で生きている以上、私どもは、互いに正しくなくっては、仕合わせになれません。だから、われわれは、正しくなくっちゃぁ、いけない。  二人以上の人間がいたら。お互いに正しくなくっちゃぁ、少なくとも、どっちかは、不幸です。ですから、私どもは、正しい必要が、ある。自分の仕合わせのために、正しい必要がある。われわれは、義を求めているのです。 Ⅱ.  「正しさ」を、そういう風に、互いを仕合わせにするためと考えた時……。「正しさ」とは……「義」とは、「道徳」じゃぁ、ありません。「義」とは、「愛」です。  私は、仕合わせになりたい。そんな私は、他のひとと、共に生きている。だから、私も相手も、正しくなくっちゃぁ、いけない。……そういう時に。「道徳」とは、「悪さをしない」ことでしょうか。他人も自分も、お互いに「悪さをしない」、「悪いことをしない」っていうことでしょうか。  それならば。正しさは、ひとを仕合わせには、しません。  他人と暮らしていて、お互いに、悪いことを絶対にしない……と。そのために、いちばん確実なやりかたは、「何にもしない」ことです。でも、それじゃぁ他人と一緒に生きていることには、なりません。  教会やクリスチャンが、しばしば陥る過ちは……。ひとの躓きにならないように、と。慎重になり過ぎて、何にもしなくなることです。様々な配慮をするのは良いことでしょうけど。ひとさまに御迷惑をおかけしない、そのためにいちばん確実な方法は、この世に生まれて来ないことです。それじゃぁ神さまがお造りになった生き方から、かえって離れてしまっています。  ひとと一緒に生きるというのは。こっちは、ひとに対して働きかけるし。また、ひとからの働きかけを受け取ることです。  そんな中で。互いに働きかけ合う中での「正しさ」とは、「悪くない」っていうことじゃぁ、ない。「悪いことをしない」なんて・ことじゃぁ、ない。ひとに対して働きかけて、それが相手にとって良いことになる……って。そういうことですから。「正しさ」とは、「愛」でしょうと思います。  ひとに対して働きかけてこその正義です。  けれども、それをやり出しますと……。ひとに対して働きかけを始めると、われわれは、たちまち混乱します。  みんな、それぞれ違うひとですから、違った感覚を持っています。互いに良かれと思ってやることが、互いに不愉快な、とんだ傍迷惑なことにも、なります。  「他者」とは、感覚が違う、価値観が違う、生き物です。気心が知れている、何から何までツーカーの関係なんて、他人じゃぁありません。身内です。生まれも育ちも違う異質なものが、「他者」です。違って、妙で、不安定で、据わりの悪い相手こそ、自分じゃぁない、共に生きる相手です。  ですが、違うから……。感覚も違うし、価値観も違うから。相手は、こっちの期待通りには動いてくれません。こっちが厭なことをやりますし。こっちが良かれと思ってやったことは、誤解して、曲解して、悪くとって文句を言ってきます。相手は、ですから・いつも、「正しくない」んです。  それで私ども、ひとと一緒に「正しい」こと、「正しくある」ことを、じきに諦めます。  私ども、自己犠牲の精神に富んだクリスチャンといたしましては……。相手が正しくないのは、しょうがない。相手はどうにもならないんだから、と。傷付けられても自分は傷付けるのはやめよう、とかと思いながら……ある部分で、相手と、本気で向き合うことを諦めてしまいます。  でも、それは……隣のひとと一緒にいて、それで正しくあることを諦めるのですから。ひととの関係の中で仕合わせになることを、諦めているんです。その相手のことは捨てて、ひとりぼっちで仕合わせであろうとしているのならば。ひとは、ひとりぼっちでは仕合わせでないのですから。仕合わせを捨てているんです。自分で気付かずに、不幸を選んでいるんです。  だって……ひとと一緒に生きて、初めて仕合わせです。違う人間と一緒に居て、それで自分も活かされるし、相手も活かされる……って。そういう状態で、初めて本当に人間として隣り人と生きているっていうことです。  それなのに。ひとは正しくない、いくら言っても分からない。ひとと一緒に「正しくある」ことなんて、どうせ無理だ……と。ひとと一緒の正しさを諦めるのですから……。私ども、仕合わせを、捨てているんです。それじゃぁいけない……。  正しさとは、感覚も価値観も違うひとと一緒に居て、それで、調和していることです。その正しさが、自分を仕合わせにしてくれるのです。  感覚も、価値観も違う、異質なものを受け入れて、その相手と調和するのは。それが、愛でしょう。ですから、私どもには、「愛」が、必要なんです。自分のために、自分が仕合わせになるために、こちらが愛の豊かな人間になることが、必要なんです。  そうすると、いつも矛盾に感じることがあります;  自分が仕合わせになるために、自分が相手を愛することが必要だ……と、思うのですが。ですが、「愛」なんですから。「自分のため」に愛しているうちは、愛じゃぁ、ないだろうと思います。「愛」は、自分のためじゃぁなくなることです。  そういった神さまみたいな立派な愛を身につけないと、自分が仕合わせにはなれません。けれども、「自分が仕合わせになれないから」、「都合が悪いから」って。それが動機で愛そうとしても。それは所詮は愛じゃぁ、ありません。  イエスさまは「汝の敵を愛せ」と、聖書のどこか(マタイ5:44)でおっしゃってました。「のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ(ルカ6:28)」なんて、ほとんど無茶をおっしゃいましたけど。感覚も価値観も違うひとと一緒に居て、それで、そのひとと調和する……って。それが、ほんとうに生き生きと生きる、凄いことです。自分が、善く変わっている。聖なるものに変わっていることです。  その、感覚も価値観も違うひとと一緒に居て、それで、そのひとと調和する……っていうのは。すなわち「仇を愛し、憎む者を善くし、詛ふ者を祝し、辱しむる者のために祈る(同27、28)」って。ほとんど、そういうことです。  愛とは、愛せない者を愛することです。いろいろな愛がありましょうが。自分のことを、本当に仕合わせにする、正しい愛とは。愛せない敵を愛する愛です。 Ⅲ.  そんな愛は、世の中には、あり得ないようにも思えます。  ですけど、神さまが、まず私どもをそういう愛で愛してくださったから。……って、それが本当にこの世に起こっていることだから。今、私ども。そもそもこんな話しが出来ているんだと思うのです。  自分を「のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ」なんて、そんな篦棒な話しが通じるのは、ここが教会だからです。私どもひとりひとりは、神さまから愛されて、神に捉えられて。「詛ふ者を祝し、辱しむる者のために祈る」っていう話しが。自分には無理みたいでも、それが目指すべき本物なんだということが……分からない訳では無い……ところまでは、導かれていると思うのです。  神は、私どもが不幸になることを望んでおられるのではなくて。私どもが、仕合わせに生きることを、望んでおられます。  一方で、神さまの方は、完全なんですから。人間的な言い方をするならば。神さまは、ご自身は「仕合わせ」であるはずです。  それは、キリストさまで分かります。  ひとが仕合わせであるには。ひとりぼっちでなく。同じ考えの身内ばっかり集めて自己満足に陥っているのでもなく。感覚も違う、価値観も違う、どう考えても正しくないと思える相手と一緒に生きて。それで調和している。そんな正しさが必要です。  「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され(ローマ4:25)」て、それで神さまが私どもを赦してくださったっていうのは。つまり、そういうことです。  全然、どうしようもない。神さまの側から見たら、どう考えても正しくない私どもと一緒に生きる生き方を、神さまは、選んでくださったのです。そのために、御子を十字架に渡したのです。  それを、お話しとして聞いているだけでなくて。私どもは、神の霊に導かれてますから。「詛ふ者を祝し、辱しむる者のために祈れ」っていう言葉が、全くの戯言(たわごと)とも、思えない……。  こっちには出来なくっても。神さまは、私どもに対して、やってくださった。だから、出来ないながらも。本当は、そうなんだろうなぁ……って、思わざるを得ません。それが出来たら、自分の命をいちばん豊かに使って生きれるし。本当は、そうだったら、仕合わせ……なんだろうに……なァ……と。  別に、聖人君子になりたい訳じゃぁ、ありません。ただ自分が仕合わせになりたいだけなのに。導かれて……。どうしても、そういう尊い生き方を、考えないではいられない。この、自分勝手な罪人が、キリストさまの、尊い生き方に、憧れさせられてしまうのです。  敵を愛さなくっちゃぁ、いけません。  そんなの「無理だよ」と……。「キリスト教の言うことなんて、所詮は理想論だよ」と言うひとも、あります。無理なら、やんなくて良いですけど。それは、「私が仕合わせになるなんて、無理だよ」と。「私の仕合わせなんて、所詮は理想論だよ」と。そう言っているのと、一緒です。  きちんと自分を律して、努力して、自分の仕合わせを掴もう……と。そういう志と意欲を持たないならば、絶対に、仕合わせにはなれません。だらしなく手を抜いていて仕合わせになれる程、世の中、甘いとは思えません。  けれども……。イエスさまをお手本にして、精一杯に努力をしても。神さまのようにひとを愛することは、やっぱり出来ません。  神さまは、ご自身と違う、罪深い人間を、受け入れて、愛してくださった……と、言われます。神さまが完全なおかただから。完全な愛で、こっちが正しくないままで、愛してくださったと言われます。  そうだとしたら。神さまに、せっかく受け入れていただいたのですが。私どもが変わって、新しく正しくなったから受け入れられたわけじゃぁ、ありません。今、このままで受け入れられたのですから。前と同じ自分です。前出来なかったことは、今だって、できません。  クリスチャンになって、正しさに、前より余計に憧れるようになったかもしれませんけど。その憧れに手が届かないのは一緒です。  私どもの、もともとのこころの内側には。私どもを仕合わせにする神の愛は、入っていない……みたいなのです。 Ⅳ.  そんな私どもが「義とされるために」、キリストさまは、「復活させられたのです(ローマ4:25)」って。使徒パウロは、教えています。  全然正しくない私どもが、それでも赦されるために。キリストさまは、私どもの代わりに死に渡されて、死刑になりました。私どもは、「恩赦」ってことにしていただきましたけど。無罪になっただけじゃぁない。無罪どころか、いっぺんに、いちばん正しいひとになるために、キリストさまが復活させられたのです。  何だって、どうだって、私どもは、赦されているんです。どんな風でも、神さまに愛されて受け入れられているんです。でも、だからって言って、だらしなく拗ねたまま、妬んだまま、虚勢を張ったまま生きていたら。馬鹿を見るのは、自分です。  私どもの罪は、キリストさまの十字架で、全部赦されました。絶対に天国に行けるし……。ひとのことなんか、全然愛さなくても。こころの中が、憎しみと妬みと虚栄と偽善でドロドロのままでも、神さまは厭がらないで一緒に居てくださるのかもしれません。私どもの罪は、十字架で解決済みです。  けれども……。キリストさまは、「わたしたちの罪のために死に渡され」た、だけでなく。さらに私どもが、「義とされるために復活させられたのです」。  こころの中が、憎しみと妬みでドロドロのままで、自分で自分が厭で厭でどうともならない私どもが、正しい自分になるために……。神さまは、死者の中からキリストさまを起きあがらす、奇跡を起こしたのです。  復活のキリストさまが隣りにいて、それが目で見えたなら。いっかな鈍い私らだって、憎しみや妬みや虚栄や偽善は、捨てれます。  罪と死に打ち克って、死者の中から返って来たかたが、はっきり隣にいて。私の味方だ、と。私のことを、愛している……と。こちらの胸の中に、そのかたが住まわって居る……と。はっきり見えて。隣で、はっきり、そう言ってくださったならば。  いかな鈍いアタシだって、自分に出来る善いことは、何でもやろう……と。  隣のひとが、感覚も、価値観も、てんでなってなくって。だから、こっちの期待通りには動いてくれず。こっちが厭なことをやり。こっちが良かれと思ってやったことは、頭悪過ぎで、誤解して、曲解して、悪くとって文句を言って来る。そういう正しくない困った相手だって。復活のキリストさまが、はっきり隣りにいて支えてくれていたら。そんなこと、たいした問題じゃぁありません。  こっちが出来ること。やらせてもらったら、感謝です。  そういう時って。相手のひとを、愛してます。だから、自分が仕合わせです。  けれども、自分の仕合わせのために愛したんじゃぁ、ありません。さっきの矛盾は、解消しています。先に愛して、自分の身を献げたから、結果として、仕合わせにさせられました。  そうやって先に愛せたのは。私の、モトモトの愛じゃぁ、ない。キリストさまの愛で、私が……罪なる、愛の無い私が、どうしようもない困った相手を、愛することが出来たんです。  キリストさまは、もう復活なさったのですから。私どもは、正しい人間……。神の愛を、体現する人間に、もう、既になっているのです。だから、あとは……。復活のキリストを、いつも身近に感じることが出来ていれば、全部、完成です。私どもは、何がどんな風でも、いつも仕合わせです。  復活のキリストを感じるには。絶対の条件が、あります。復活のキリストを信じる……って。このことをしなかったら。せっかくキリストさまが近付いて来てくださっても、自分で素通りさせてしまいます。  でも、条件は、それだけです。キリストさまが、死者の中から復活して、本当に生きて、側にいる。ここにいる。隣にいる。私の胸に、触れてきている……って。それを信じる気がなかったら。キリストさまが呼び掛けてくださっても、自分で耳をふさぐんでしょうと思います。 Ⅴ.  聖書を読んでいると……「悪いことではなく、善いことを見倣ってください(Ⅲヨハネ11)」……なんて書いてあるところがあります。当たり前すぎて「何じゃ、そりゃ」と……、こっちは小学生じゃァねェんだゾ、とも思うのですが……。キリスト教で言う「善いこと」を見倣って、実際にやってみたら、分かりました。  いつも出来るワケじゃぁ、ありません。いつもは、なかなか愛せません。  愛せない……けど、だから、キリストさまが生きて、側にいてくださっているのを信じて。キリストさまが感じられるのを注意しながら。怒りを我慢する、とか。実際に損する奉仕をやってみる、とか。生ける神を信じてやってみたら、その分、分かりました。  自分勝手で、やるんです。自分が仕合わせになりたいから、やるんです。だから、虚栄や偽善でやるんじゃぁ、ありません。  虚栄や偽善でやる時は、復活のキリストさまが側にいることには、注意を払っていません。ひとがどう見てくれるかに注意を払っています。ですから、復活のキリストさまが、感じられません。  そうじゃぁなくて。私が仕合わせになりたいから。神の力を見せていただきたいから。キリストをさがしながら、善いことをやったら。そういう時には、分かります。  キリストさまは、私どものそばに。共に生きてくださっているんです。  「悪いことではなく、善いことを見倣ってください」って、本当だなァ。アーメンって思います。  どうせ赦されているんだから、善いことを見倣わないで、悪いことをやっていたら。それでも赦されてて、良いんですけど。自分は、もとのままです。こころの中が、憎しみと妬みと虚栄と偽善でドロドロのままです。それでも天国に行けるのかもしれませんが、少なくとも今は、不幸です。  だけど、どうせ赦されているのに。悪いことではなく、善いことを見倣って。「献身的な奉仕」とか、そういったヤツを、ちょっと頑張ってやってみたら。今までグズグズしていたのが、馬鹿馬鹿しい。いっぺんで、仕合わせです。  求めなさい、そうすれば与えられると書いてありますが。求めたら、与えられました。  もう既に「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」から。全部、権利はこっちの側にあるんです。  信じようとしないで、不幸なままでいるのも、私どもの側の、権利です。信じていると言いながら、キリストさまを探しもしない、善いことをやろうともしないでグズグズしているのも、私どもの側の権利です。生けるキリストさまを感じたいと願って、善いことをやってみるのも、権利です。私どもが、好きな生き方を選んで良いんです。  私は、愛と、献身と、奉仕を選んで、仕合わせになりたいです。
あい(愛)に歩むこと(사랑으로 살아가는 것)/ 2013年10月13日・夕礼拝説教 
2013年10月13日・夕礼拝説教  ◆ 「愛に歩むこと」  伝道師 岩住賢 ・ 旧約聖書:詩編 第119編1-6節 ・ 新約聖書:ヨハネの手紙二 第1章1-6節   ・ 讃美歌:4、463  「愛に歩むこと」それは、愛と共に歩むということです。 「愛に歩むこと」それは、愛するという能力を持って、人と関わっていくことではありません。 「愛に歩むこと」それは、愛と呼ばれる方と共に生きるということです。 愛するということは、愛したい相手と自分の間に、愛と呼ばれる方が立ってくださらなければ実現しません。 愛と呼ばれる方と共に生きることなしには、本当に人を愛するということはできません。 愛こそが、断絶してしまった関係に橋をかけることができます。愛こそが、切れた関係を再び結び合わせることができます。愛こそが、壊れた関係を、喪失した関係を回復することができます。愛だけが、破壊され、混乱してしまった状況を治すことが出来るのです。 その愛はどこにあるのか。その愛は、神様が持っておられます。神様はその愛を惜しみなくわたしたちに、差し出されています。その愛として差し出されたのがイエス様です。神様は愛であるイエス様をわたしたちに与えてくださいました。イエス様は愛です。イエス様こそが、切れた関係を再び結び合わせることができる御方です。イエス様こそが、壊れた関係、喪失した関係を回復することができる御方です。イエス様だけが、破壊され、混乱した関係を、状況を治すことが出来る御方です。  神様はわたしたちに、愛と共に歩みなさいと、今呼びかけておられます。  先週、ヨハネの手紙一が終わり、今日からヨハネの手紙二に入りました。といっても、このヨハネの手紙二は一と比べると、文量はとても少なく、新共同訳聖書では1ページで収まってしまうとても短い手紙です。この手紙は、短いので、伝えたいことが凝縮されているというか、12節にあるのですが、「あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです。」とあるように、会って伝えたいことがあるので、この手紙では最低限のこと、しかしとても重要なことが書かれています。  この手紙は、1節にあるように、自分のことを長老と名乗っている人物によって書かれました。この手紙の作者は、長老であるヨハネと考えられています。この長老は、イエス様の直接の弟子であった使徒(ペトロ、ヤコブ)のたちの直接の弟子であったと考えられています。ですから、使徒たちと、各地に散らばっている教会との間に入って教えや証をして、教会を導いていた人であったと考えられます。  ではそのような長老ヨハネから手紙を受け取った人たちはだれなのかというと、それは1節にあるように「選ばれた婦人とその子たち」です。この手紙の冒頭で、長老が「選ばれた婦人」に対して、真に愛していますと書いていますから、さらっと読むと、この長老が想いを寄せている特定の婦人に書いたラブレターなんじゃないかと読むこともできますが、どうやらそれは違うようです。実は、この「選ばれた婦人」というのは、教会のことです。教会は、古い時代から、「キリストの花嫁」であったり、「母なる教会」というイメージをもって考えられていました。ですから、この長老は「特定の教会」に対してこの手紙を出したのです。そして、その「母なる教会」に育てられている「教会に生きる信仰者たち」のことを「その子たち」と表現していました。  ですから、この手紙の対象は、今教会に来て、礼拝をささげ御言葉を聞いて養われ育てられている、わたしたちであると言っても良いでしょう。  教会に育てられているわたしたちに対して、長老ヨハネは真に愛している、と告白してきています。わたしはここを読んで、「なんだ、急に知らない人から告白されちゃったよ」という感覚を受けました。長老ヨハネは、「真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています」と言います。この手紙の送り手以外にも、わたしたちを愛している人がいると言います。見たことも、会ったこともない人々が、「わたしを愛している」と言っている。その時、わたしたちは「なんでそんな見たことも、会ったことのない人のことを愛するなんていうことが出来るの」と思ってしまいます。長老ヨハネは、この世界のすべての人々が、あなたを愛しているとは言っていません。「真理を知っている人はすべて」と言っています。ここで言われている真理とは、ヨハネによる福音書14章で「わたしは道であり、真理であり、命である。」と語られている、イエス様のことです。ですから、長老ヨハネは「イエス様を知っている人はすべて」あなたがたを愛していますといっているのです。しかし、なぜ「イエス様を知っている人」は、そんな会ったこともない人を愛することが出来るのだろうかとわたしたちは考えてしまいます。「イエス様を知っている」とここで言われているのは、この「知っている」という言葉の意味は、ただ単に知識として、イエス様を知っているということではありません。聖書が、「知っている」という言葉を使う時に意味しているのは、その(知っている)対象と「つながっている」「関係をもっている」「交わりに生きている」ということです。ですから、イエス様を知っている人というのは、「イエス様とつながっている人」「イエス様と関係をもって、イエス様との交わり持って生きている人」のことです。イエス様とつながっている人というのは、教会で神様に対して信仰告白して洗礼を受けた人のことです。洗礼をうけるというのは、イエス様と結ばれるということです。その洗礼を受け、信仰者となったものは、イエス様と永遠に関係を持ち続けます。信仰者は礼拝においても、説教を通して神様から言葉を頂き、祈りと讃美をもって神様に応えていく、このような神様との交わりを続けるもののことです。  なぜイエス様を知っている信仰者は、会ってもないわたしたちを愛することができるのかというと、それは、彼らは、わたしたちも今イエス様との交わりに生きているものだと確信しているからです。彼らと、わたしたちの間に、イエス様が立っていておられることを知っているから、彼らはわたしたちを真に愛していると言います。彼らはイエス様を信じており、イエス様と結びつけられています。言い換えれば切れない絆でイエス様と彼らは結ばれています。彼らはわたしたちも、その絆でイエス様に結びついていると確信しているのです。ここに書かれてある「婦人」とは「特定の教会」であると申し上げました。「その子」とは教会から産み出され、育てられているものたちのことです。子どもとは信仰者のことです。教会は、イエス様を信じるものたちの群です。そこにいる人々は羊で、イエス様という羊飼いに従って歩むものたちです。信じなければ、従うことはできません。羊飼いを信じていなければ、自分で道を選び歩んでいくでしょう。教会と、教会の子どもたちというのは、自分を信じて勝手気ままに歩むのではなく、このようにイエス様を信じ、イエス様と共に歩むものたちのことです。イエス様を信じて、イエス様と共に歩んでいる人であるから、彼らはわたしたちを真に愛することができると言っています。イエス様がわたしたちと共いてくださるから、あなたがたを愛することができるのだと彼らは言っています。  今日共に聞いた御言葉の4節以下では、神様から与えられた掟のことが語られます。4節では「掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変嬉しく思いました」と書かれています。教会の人々が掟に従って、歩んでいることを聞いて、長老ヨハネは大変嬉しく思ったと手紙に書いています。この掟とは、イエス様が定められた「互いに愛し合いなさい」「神様を愛しさない」「隣人を愛しなさい」という掟のことです。  このことを聞いて、「あぁ、さっき、見ても会ってもないわたしたちを愛していると言っていた彼らは、わたしたちがイエス様を熱心に信じて、キリスト教の教えや掟を熱心に守る人だから、信頼に足る人であると確信して、だから愛することができるとか言っているんだ」と考えた人がいるのではないでしょうか。そう考えた人は、「イエス様と共に歩んでいる人というのは、キリスト教に熱心で、信心深くて、教えに従って隣の人も優しく出来る、心の優しい人々だ」と言う、考えが根底にあります。そうであるならば、わたしたちは「自分はそんなに熱心とは言えないし、隣の人も、神様のこともよく忘れてしまうから、愛される資格はない」「掟をちゃんと守れないから愛される資格はない」と考えてしまいます。  神様の掟は、「神を愛すること、隣人を愛すること」です。この二つの掟に共通していることは「愛すること」です。わたしたちは、「愛すること」が掟です。これを聞くと、「愛することって義務で、自分の意志とか関係なく、ルールとして、人を愛するってことなの」「それって本当に愛なの?」と思ってしまいます。そんなことを思っていると、クリスチャンが自分に優しくしてくれるのは、掟に従って自分に接してくれているだけなのかと思ってしまうと思います。確かにクリスチャンは、「隣人を愛すること」を掟としています。しかし、クリスチャンはその掟を、ただのルールとして考えてはいません。この掟を、破ると地獄に落ちるから、なにか神様に罰せられるからといって、この掟を守っているのではありません。クリスチャンは、この掟を守るときにとても重要なことをしなくてはなりません。それは、4節に掟に従うことと、並べて書かれてある、「真理に歩む」ことです。  先ほど、真理とは、イエス様であると申しました。「隣人と互いに愛し合うこと」という掟を守るということと、「イエス様と共に歩むこと」というのは、切っても切れない関係にあります。「イエス様と共に歩む」ということなしには、掟を守ることはできません。また、掟を守っていない状態というのは、イエス様のことを忘れて歩んでいる状態になっていると言えます。この二つの事柄は、密接不可分な事柄なのです。  愛するということは、この「隣人を愛しなさい」という掟をただ守ればいいということではありません。  イエス様の愛を受け入れイエス様を信じて、イエス様と共に生きることなしには、本当に人を愛するということは始まりません。この掟をただの良い教えとして受け取っても、そのことを実践することはできません。掟を「ただの良い教え」として受け取ってしまえば、人を愛することができなくなります。この掟を教えてくださった方の愛を受け止めることをはじめなければ、人を愛することはできません。この愛なる方と共に生きる歩みにおいて、わたしたちは隣人を愛するということ、隣人から愛されているということを学ぶのです。  「掟に従って歩むとは」掟を教えてくださった方に従って歩むということなのです。言葉を換えると、掟を教えてくださったイエス様と共に生きること。イエス様をしっかりみつめること。イエス様の言葉をしっかりと聞き、受け止めるということです。  わたしたちのことを、裏切ることなく、見捨てることなく、永遠に愛し続けてくださる方であるイエス様の、その真の愛に触れ続けること、知り続けること、拒むことなく受け止め続けること、これが重要なのです。わたしたちは、つい人を愛そうとすることに必死になり、壊れた関係を自分の力で直すことに必死になります。そして、くたびれて、途方に暮れてしまいます。そこにある間違いは、愛する力が自分に備わっていていると考えていることです。神様によって、わたしたち人は、もともとは、他者を愛することができる者として、そのような形として作られていました。それが創世記に書かれている、「神に似せて造られた」と言われていることです。神様は他者を真に愛することができる御方です。その愛することできる神様に似せて造られた人も、愛することができるものでした。 しかし、そのように創造して下さった神様から離れ、自分を中心にして生き、自分だけを愛すると生き方を選び、神様との関係が失われてしまいました。この神様との関係が失われたことによって、わたしたちは、他者を愛するという能力も、形を失ってしまいました。わたしたちは、真の愛から離れたために、愛するということ、さらには隣人と関わっていくことすらできなくなってしまいました。それなのに、わたしたちは、人を愛そうとします。自分には愛があると思って、愛そうとします。しかし、そのままで人を愛せば、そこには痛みや、苦しみ、破れしかありません。その時、わたしたちは、「自分は人の愛し方がわからないんだ」ということを知ります。人の愛し方がわからないのは、愛がわからないからです。巷には、偽りの愛も存在します。その偽りの愛に基づいて、相手を振り向かせる方法であったり、相手をコントロールする方法であったりが語られています。だからわたしたちは、ますます混乱します。何が本当の愛なのかわからなくなります。  そのようなときに聖書は、真の愛を語ります。イエス様に神様の真の愛が示されていると語ります。神様の真実の愛がイエス様において示されていると語ります。イエス様は、愛することのできなくなったわたしたちが、再び神様を愛すること、隣人を愛することができるようにするために、それは言葉を換える、神様との関係を回復するために、隣人との関係を回復するために、イエス様は御自分を「いけにえ」として、十字架に掛かり死んでくださったのです。自分だけを愛し、神様を忘れ、隣人を傷つけてしまった罪の故に、わたしたちは、愛することができなりました。神様を愛することができなくなり、神様との関係が失われました。神様との関係を失われたために、神様がわたしたちに与えてくださっていた永遠の命にも与ることができなってしまいました。永遠の命に与ることができないので、永遠に生きるものでなくなり、死ぬものとなってしました。わたしたちは、自分しか愛することできなくなる罪のために、死ぬものとなってしまいました。ではその罪はどうしたら赦されるのか。神様との関係を切ってしまうという罪、とてつもなく重いものです。わたしたちが、熱心に、神様のために働き償おうとしても、その罪に対して報いることはできません。わたしたちの持っているものすべてを捧げても、足りません。その罪に対してわたしたちがなにもできないために、わたしたちはその罪の罰として、死ななければなりませんでした。しかし、そのわたしたちの罪のために、代わりにその罪のための、代価を払って下さった方がおりました。それは、イエス様です。御自分の命を、わたしたちの罪のための代価として献げてくださいました。わたしたちが受けなくてはいけない、死の罰をも代わりに受けてくださいました。そしてわたしたちは、赦されました。  このイエス様を、この世に贈ろうと決意し、そのようにしてくださった方が、父なる神様です。わたしたちが勝手に罪を犯し、神様から離れたのに、神様はそのようなわたしたちを見捨てることなく、愛する独り子イエス様の死で、その罪を赦してくださったのです。この神様の御心に愛が示されています。そしてこの神様の御業に、愛することとはなにか、赦され、愛されるとはなにかが、示されています。わたしたちはイエス様の十字架の犠牲により赦されて、もう一度神様との関係が持てるようになりました。神様と交わることが赦されたのです。それは、神様に愛され、神様を愛することがゆるされたということです。わたしたちが、神様を愛することができるのは、イエス様が神様とわたしたちの間にいてくださっているからです。そして神様からわたしたちが愛を受けることができるのも、イエス様がわたしたちの間にいてくださって、愛をその身を通して、わたしたちにそそいでくださっているからです。ですから、わたしたちは、隣人との関係、愛するあの人との関係も、その間にイエス様が立ってくださらなければ、回復しません。そして、愛し愛されながら歩むという道も歩き始めることができません。イエス様を信じて、イエス様と共に歩むとき、人は「互いに愛し合いなさい」という掟を守ることができるようなるのです。  真の愛であられる神様との関係を、回復することなしには、わたしたちは愛がなにであるかがわからないのです。  「愛に歩むこと」それは、愛と共に歩むということです。  「愛に歩むこと」それは、愛と呼ばれる方と共に生きるということです。  イエス様は愛です。  イエス様こそが、切れた関係を再び結び合わせることができる御方です。  イエス様こそが、壊れた関係、喪失した関係を回復することができる御方です。  イエス様だけが、破壊され、混乱した関係を、状況を治すことが出来る御方です。  神様はわたしたちに、愛と共に歩みなさいと、今呼びかけておられます。
あい(愛)にしっかりと立つ者」大嶋博道牧師2008/07/06(日) 「
2008/07/06(日) 「愛にしっかりと立つ者」大嶋博道牧師 総員礼拝・聖餐式  エフェソ3:14~19 〔今年の教会標語に目を向けて〕 ●7月に入り、今年の後半に入りました。先ずは、今年の教会標語「愛のうちに建て上げられよう」をもう一度振り返ってみましょう。  教会はキリストの体です。この標語を実行するためには、教会の手や足を構成している私たち一人一人は信仰によってしっかりと組み合わせられる事によって教会を建て上げる事が出来ます。またこの世の生活の中でも私たちが愛のうちに建て上げられる 事によって家庭も個人も建て上げられるのです。  そのためには、日々聖書に親しみ、内面から霊的になり、礼拝を大切にし、謙遜であり、平和の絆を保ち、お互いに相手の必要に応答する事が出来るようにならなければなりません。  この標語を掲げて半年経ちましたが皆様お一人お一人は果たしてどうでしょうか。 今一度「愛にしっかりと立つ者」について学んでみたいと思います。 ●今日の聖書のみ言葉の14節以下にパウロの3つの祈りがあります。その祈りの中に「建て上げるあり方」が記されていますので、学びましょう。 ①霊の力により「内なる人」を強めると言うのがその第1です。パウロは外面の強さよりは内面の強さを大切にしています。外側をどんなに着飾ったり、整えても、内面すなわち「魂」を強めなければ、決して強いとは言えません。パウロは「見えるものは一時的であり見えないものは永遠に続く」と言ってます。(コリント二4:18) ②信仰によって心の内にキリストが住んでくださると言うのがその第2の祈りです。「内住のキリスト」となってくださいという祈りです。しかも、キリストの内住は一時的ではなく永続的に住んで下さいとの切実な祈りです。それは、私たちの心の主人公としてキリストが私の内側に宿ってくださるようにと言う祈りです。  私はかつて息子を膝の上に乗せて運転したことがあります。息子は自分でハンドルを握って右や左にハンドル操作をして楽しんでいました。彼は誇らしげに車を動かしていました。 しかし、実は私が彼のハンドルを握った手の下で、しっかりとハンドルを支え、左右に上手に操縦していたのです。 それと同じように、神様は私の人生のハンドルをしっかりと握っておられるのです。 ③私たちを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるようにと言うのが第3の祈りです。生活のすべての事柄は「愛」を基盤にし、愛を土台にしてその上にしっかりと生活を据えたいと願います。それこそが、最も祝福される、幸いな姿なのです。  この3つの祈りは、今年の教会標語を全うするために大切なものなのです。 ●最後になりますが、いったい「愛」とはどのようなものなのでしょうか? 「愛」とは次のような特徴を持っていると言えます。 ①愛は犠牲を伴います。 ②愛は傷つき痛みます。 ③愛は損を引き受けます。 ④愛は自分が大切にしているものさえも失います。 ⑤愛はひたすら耐え忍びます。 ⑥愛はひたすら待ち続けます。  今年一年の中で、一つでも「建て上げられるよう」全力を注いで信仰生活に励みましょう。祝福をお祈り致します。
あい(愛)によって/ 2006/07/09(日) 「愛によって」馬場一朗牧師
2006/07/09(日) 「愛によって」馬場一朗牧師 伝道献身者奨励礼拝 (聖書)ヨハネ一4:7~21  序 論:  私が高校3年生の時にヨハネ15章16節のみ言葉に初めて接しました。私は中学生・高校生時代を通してスポーツをしていたのですが、そのみ言葉を耳にした時は丁度将来の進路のことなどで悩みを抱えていました。  初めての礼拝は何も分からず、居心地の良いものではありませんでした。しかし、その時に「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだのだ」と言うみ言葉が聞こえてきたのです。  「わたしがあなたを選んだ」「わたしがあなたを立てた」「あなたは行け」と言うみ言葉が私の心を打ちました。そして、それからは礼拝や祈祷会にずっと出席するようになったのです。そんなある日、神様はエフェソ2章1~10節を私に語ってくださいました。 この中にはクリスチャンとしての信仰の土台が語られています。このみ言葉から幾つかのことを知ることが出来ました。 本 論: (1)罪の中に死んでいた自分を知った。  今まで的はずれ(ハマルティア)の人生を過ごしてきました。神様が求めておられるような本来、なるべき者にならなかった罪に気づかされたのです。 (2)イエス・キリストを知った。  3節には「生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」とあります。この言葉に接した時に私は今まで「自分自身の価値観の中で」生活して来ていたと言う事に気づきました。しかしこんな私をも「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくだ さり」「その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」てくださり「この愛の恵みによって私たちは救われた」(4節)と言う事を知りました。 (3)神様の恵みを知った。  実は私は3歳の時に車に轢かれて死にかけましたが何とか一命を取り留めました。 そんな私が神様に従って生きていこうとした時に本当はそんな生き方に反対だった父が「お前は一旦は死んだ身だから好きなように」と言ってくれました。私が神に従って生きる決心が出来たのにはまだ他に神様のご準備がありました。それは私がカトリック 系の幼稚園に行っていたと言う事です。神様は私に対して予めご準備をしていて下さいました。私は、人生の目的を知りました。「出かけて行け」と言うみ言葉によって私は神学校へ行くようになったのです。 (4)人生の目的を知った。  私たちは神様の作品として造られています。神様は私たちを選んでくださり、恵みを与えてくださり、出かけていって欲しいと願っておられます。あなた自身の働きを通して神様のご栄光が顕れるようにと、そのために互いに愛し合いなさいと願っておられます。 「私が任命した、行け」と命じておられます。  神様の愛によって励まされて神の作品にふさわしく歩みたいと願います。
あい(愛)に恐れなし(사랑에 두려움이 없나니)/ 2013年9月1日・夕礼拝説教 
2013年9月1日・夕礼拝説教  ◆ 「愛に恐れなし」  伝道師 岩住賢 ・ 旧約聖書:イザヤ書 第42章8-16節 ・ 新約聖書:ヨハネの手紙一 第4章13-21節   ・ 讃美歌:7、479 先週、わたしたちに与えられた御言葉で、わたしたち信仰者の内に、愛が注がれていること、そして、信仰者だけでなく、この礼拝に来ているすべての人にも、その愛は注がれていること、愛してくださる方が愛そのものであって、その愛であられる神様が愛の源、源流であることをわたしたちは聴きました。その愛は、イエス様を通してわたしたちに見えるように、聞こえるように、触ることのできるようになった。そのようになるために、神様は愛する独り子イエス様をこの世に送り、十字架にお掛けになりました。そこに愛がありました。私たちは、この愛に愛されるまでは、愛を知らなかった。愛を知るまでは、愛することもできませんでした。愛することを義務とせずに、愛されることを受け入れて、隣の人にその愛を分け与えること、その愛を証しすること、それが隣の人を愛することでであったということでした。本日与えられました御言葉は、まず、この愛の源泉に出会うための行程が書かれています。聖霊によってイエス様が証しされ、信じる信仰を与えられること、これが私たちが愛との出会いのはじまりです。  今日与えられました御言葉の13節で「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。」とヨハネはわたしたちに告げます。神様が私たちに聖霊を与えてくださったと言っています。パウロはコリントの信徒への手紙一12章3節で、「聖霊によらなければ,だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」と書いているように、私たちが「イエスは救い主である、生ける神の子である」と信仰を告白できるのは、わたしたちの目には見えない聖霊の働きがあったからなのです。信仰告白してキリスト者である人は、神様によって聖霊を注がれています。聖霊以外の働きによって、わたしたちはイエス様が救い主であると知ることも、教会に行くようにことも、洗礼を受ける決意を与えられることも起こらないからです。 聖霊は、私たちの内に注がれて、わたしの内で、イエス様が神様であること、わたしのために十字架にかかってくださったことを証しし、わたしたちにイエス様のことを知らせてくださいます。知るというのは、知識として知るという以上に、その人の存在全てを知る、人格全部を知る、言い換えて言葉を簡単にすると、その人の目に見える姿や目に見える行いだけでなくその人の思いや意志も含めてすべてを知るということです。イエス様の姿も行いも、わたしたちは今目で見ることもできませんし、さらには、イエス様がこの世におられた時、天におられる今も、何をお考えになっているかを知らせてくださるのが聖霊です。イエス様が御自分の生命を捨てて下さって私たちを赦ししてくださるほどの愛を私たちが知ることができるのも、聖霊の働きによってなのです。その聖霊は、わたしたちがそのイエス様を信じて生きていきたい、これからはイエス様とつながって生きていきたいという思いを起こさせ、信仰を与えてイエス様を信じるものと変えて下さり、洗礼へと導いてくださります。聖霊は、わたしたちにイエス様を伝え、信仰を与え、イエス様へと結ばせてくださいます。それは譬えようもないほどにとてつもなく大きなことです。それは、父なる神様と子なるイエス様と聖霊なる神様の三位一体の神様の交わりの内に、私たちも招き入れられたということです。聖霊なる神様が私たちに与えられ注がれ、私たちの内に宿られたのなら、それは私たちが父なる神様と子なるキリストと聖霊なる神様との間にある永遠の愛の交わりの中に招き入れられたということなのです。父なる神様と聖霊なる神様とは永遠の交わりの中にあるのですから、私たちの中に聖霊なる神様が宿られたのならば、私たちもまたその永遠の交わりの中に招き入れられたことになるのです。この聖霊を注がれることによって、私たちは父なる神様に向かって、イエス様と同じように「父よ」と呼ぶことが出来るようになり、そう呼ぶことを許される者とされます。これは父と子との交わり、父なる神様と子なるイエス様との交わりに、わたしたちも招かれたということです。イエス様と同じように「父よ」と呼ぶことができるこの関係が、13節で言われている「わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださる」関係で、15節で「神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」関係です。わたしたちが父なる神様とこのような関係になることを、イエス様はこの世に来てくださった時に、望んでおられ、父なる神様に祈り願いました。そのことがヨハネによる福音書17章21節以下で書かれています。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」このことが、「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。」と言われていること。すなわち、「このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。」と言われていることであり、15節で「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」と言われていることなのです。 この聖霊を注がれたということは、私たちがイエス様に出会い信仰が与えられたということなのです。私たちは、自分の信仰ということを思う時に、このことをしっかり受け止めたいと思います。 愛の源泉が父なる神様であるということを、冒頭で申し上げました。わたしたちが、聖霊を注がれ、イエス様信じ、イエス様とつながり、三位一体の神様の交わり、父と子との愛の交わりに入れられるということは、実はこの愛の源泉にわたしたちがつながったということでもあります。 この聖霊が注がれたという出来事は、このようなイメージで語ることも出来るでしょう。父と子と聖霊なる三位一体の神様は、永遠の愛の交わりにありました。この愛があふれ出し、私たちに向かって注がれた、しかしその愛はイエス様がこの世に来られるまでは、その愛の流れは地下、地面の下を流れるように、わたしたちに見えなかった。しかし、イエス様がこの世に来られたことによって、その愛が見えるようになった。地下に流れていた神様の愛の水脈が、イエス様が低くなられ、犠牲となられ、地の中のパイプとなり、そこを通って愛が地表に現れました。泉のように沸き出しました。イエス様が十字架に犠牲になって下さり愛がこの世にあふれたのです。この神様の愛の泉の水を飲むことができるようにと、神様は私たちに聖霊を送ってくださいました。わたしたちに、どこに愛の泉があるのかを教え導いてくれる、導き手として聖霊がこの世に来て下さいました。その泉の水はどこから来ているのか、その泉が湧きだすためにどのような、苦労、犠牲があったのかを教えてくださる教師が、聖霊です。また、その泉がだれのためなのか、「あなたのためですよ」と教え諭してくださるのか聖霊です。その泉まで、辿り着きその泉を飲むときには、わたしたちは、この泉の源泉を信じ、その水に与ります。これが、父と子と聖霊の愛の交わりの中に私たちを招き入れてくださるまでの道のりです。この愛の泉の水をわたしたちは飲むこと、それが私たちに愛が注がれたということです。そして、その愛を注がれた私たちもまた、その愛の交わりの中に生きる者とされたということなのです。 この神様の愛は、私たちに注がれて終わるのではありません。私たちに注がれた愛は、私たちの中からもあふれ出し、周りの者に向かって注がれていきます。神様から受けた愛が、私たちの中にだけとどまるなどということはあり得ません。わたしたちも小さな泉となるのです。自分の中だけにとどまるとすれば、その水は淀んでしまいます。その愛の水を、淀ませることなく外に向かって注ぎ出す必要があります。このことは、主イエス御自身が、ヨハネによる福音書4章14節でこう言われたことからも分かります。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」この主イエスが与える水とは生命、信仰であり、希望であり、愛です。愛は私たちの内から、外に向かってあふれ出していきます。この愛は、いろいろなものに言い換えることは出来ると思います。喜びであったり、平安であったり、祝福であったりです。その中心に父なる神様、イエス様、聖霊が、命がおられます。 わたしたちがその愛を、隣人に注ぐこと、これが、隣人を愛することの始まりです。それは先週も申し上げた通り、その愛を伝えることです。その愛を伝えるためには、その愛を味わう必要があります。その愛を味わうために、ガイドが聖霊なる神様です。聖霊なる神様なしに、その味を知ることはできません。ですから、わたしたちは聖霊なる神様を呼び求めます。そして、聖霊なる神様がわたしたちの間に内に来てくださること、願う必要があります。 わたしたちは、この愛の泉の水と出会うまで、大変な苦労をしてきたと思います。それぞれ、イエス様に出会うまでの人生を歩んできました。そしてわたしたちは、イエス様と出会い信じ、その愛を受けそして隣人に伝えることを始めるに至りました。ここまで来たのですが、わたしたちの歩みはこの愛の泉で終わりでしょうか。確かに、愛の泉で旅は終わりとも言えるのですが、もう少し厳密に考えていくとわたしたちの旅はまだ終わりでありません。それは、どこか他の泉に行くことがゴールかといえば、そうではありません。愛の泉がゴールです。しかし、愛の泉がこの世に吹き出した所も愛の泉なのですが、わたしたちは愛の泉の源泉に向かう旅を、続けます。愛の源泉である父なる神様に会うということです。父なる神様のところには、復活された後父の家に戻ったイエス様もおられます。わたしたちは、父なる神様、イエス様と顔と顔を直接あわせるために旅に出るのです。その旅のゴールが、神の国です。その旅の歩みを始めるものが、洗礼を受け、信仰告白しキリスト者となったものです。聖霊の導きにより、イエス様と出会って、父子聖霊なる神様との交わりに入ったもの、隣人を愛するものは、愛の源泉が在る所、神の国に向かって歩いています。 わたしたちは、神の国に旅をしていますが、どこにその国があるのか、いつ到着するのかはわたしたちにはわかりません。むしろわたしたちが歩いて生ける所ではなく「神の国が近づく」とイエス様は言われました。わたしたちは、旅をしていますが、神様の国は同時にわたしたちに近づいて来ています。またこの旅は、この地上を生きている時の時間のことだけを言っていません。死んだ後のことも含まれています。死んだら、終わりの時に一瞬にしてタイムスリップして神の国に入るというわけではありません。神様が計画されているしかるべき時が来たら、神の国が来ます。しかし、その然るべき時に死んでいるものも、生きているものも、眠りから起こされ、最後の審判を受けます。神様がわたしたちをお裁きになります。全能の父なる神様の御前にわたしたちは立ち、イエス様が審判されます。その日のことを思う時、私たちの中にどのような思いがわいてくるでしょうか。恐れでしょうか。喜びでしょうか。 18節に「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら,恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」とあります。「愛には恐れがない。」というこの言葉を聞くと、わたしたちは「愛があればどんな苦しみも、悩みも乗り越えて突破できる」「だから愛には恐れがない」と考えがちになりますしかし、ここで使われている言葉は、そのような意味での「愛には恐れがない」と言っているのではありません。ここでヨハネは「恐れてはならない」とか「恐れるな」と言っているのではなくて、「愛に恐れはない」と言っているのです。そして、この恐れとは、裁きの日、最後の審判における恐れです。つまり、裁きの日に神様の御前に立つ時のことを思っても、神様との愛の交わりにある者は少しも恐れる必要はないと言っているのです。それはなぜか。それは私たちが、「何一つ悪いことをしていないから」「何一つ悪いことをしなくなったから」というわけではありません。そうではなくて、神様との愛の交わりの中にあることを知る者は、主イエス・キリストを知っているから恐れはないということなのです。イエス様はわたしたちが受けるべき裁きを、十字架の死によって代わりに受けてくださいました。わたしたちはその赦しと救いを知っています。救おうとされ独り子を遣わして、十字架にかけてくださった父なる神様のわたしたちに向けられた愛も知っています。その父なる神様がわたしたちをお裁きになります。神様は神様の愛のものさしをもってわたしたちを裁かれます。その愛は、イエス様にあらわれているように、赦し憐れみをもっています。先にイエス様の犠牲により、先に無罪の判決をだされて、わたしたちは裁かれるのです。私たちは最早、自分が救われるかどうか分からないなどという所には立っていないのです。裁きの日に、神様は「無罪だ」というだけでなく「あなたに永遠の命を与える」と宣言されます。それはなぜか、その裁きをくだされる方は、私たちの父であられるからです。私たちを救うために、愛する独り子を私たちに代わって十字架の上で裁かれた方だからです。この方がどうして私たちを救ってくださらないことがあるでしょうか。もしそうなったら、主イエスの十字架を無駄にしてしまうことになる。そんなことを父なる神様はなさりません。父なる神様との愛の交わりの中に生きる者は、この裁きの日の恐れから解放されている者なのです。 「自分は裁きの日に本当に救われるのだろうか。」そういう問いを私たちは持つと思います。それは、自分は神様の救いに与るにふさわしい者ではない、そういう反省がわたしたちにあるからだと思います。自分の罪、自分の不信仰というものをちゃんと見ているが故の問いです。しかし、私たちが救われるかどうかということは、私たちに救われるほどの価値、善良さがあるかどうかで決まることではありません。そのような理解が出てくるのは、「良き人は救われるが、悪しき人は滅びる。だから良き人にならなければならない。」という、私たちの「裁きの基準」「ものさし」「ルール」があるからなのではないでしょうか。しかし、私たちが救われるかどうか、それは神様が私たちを選んで、聖霊を注ぎ、信仰を与え、神様との親しき交わりに生きる者とされたかどうかで決まっているのです。ですから、私たちは自分の姿を顧みて、恐れを抱くことはないのです。ただただ、主イエスの御業に依り頼むのです。そこに、救いがあります。  17節の「イエスのようである」といいうこととは、それは、神様に向かって「父よ」と呼ぶ者とされているということです。神の子とされているということです。これは、私たちが神の子にふさわしい者だから神の子とされたというのではありません。ただ主イエスを信じる。この聖霊なる神様に与えられた信仰によってです。実に、聖霊なる神様が与えてくださった信仰は、私たちに神の子たる身分を与えてくれました。この一点において、私たちは主イエスのような者とされているのです。このことこそ、私たちが決定的に主イエスのように変えられた所なのです。これが福音です。 この福音を携えて、わたしたちは神の国を目指します。聖霊がわたしたちの内に注がれるように祈り、聖霊に導かれて、神の国を目指しましょう。