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かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ こころ(心)の貧しい人の幸い(마음이 가난한 사람들의 행복)/ マタイ5:3(마5:3)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ こころ(心)の貧しい人の幸い(마음이 가난한 사람들의 행복) マタイ5:3(마5:3) 心の貧しい人の幸い マタイによる福音書 第5章3節   1.幸いの教え(3~12節) 幸いになるための条件 「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者」(文語訳聖書) 「あなたがたは幸いだ」という主イエスの宣言 2.「貧しい」とは 完全に無一物であることを表わす言葉。生活に余裕がなくて苦しい、という貧しさを表わす言葉は別にある。ここで用いられている言葉は、全く何も持っていない、乞食をして、物乞いをして生きるしかない、という意味。 3.心の貧しさ  「心において貧しい」とは  自分の心の中には、寄り頼むべきもの、支えや誇りとなるものは何一つない、ということ。私たちは、心の豊かさを求めている。たとえ生活は貧しくても、心は豊かでありたい、と思っている。ところが、「心の貧しい人々」というのは、そのような心の豊かさを失っている人のこと。 自分の中に、自分を支える拠り所となる心の豊かさを全く持っていない者のこと。そういう者が幸いだ、という宣言。 4.間違った理解 教会の歴史においてしばしば、「心の貧しい」とは「謙遜な、へりくだった」という意味だ、という解釈がなされてきた。しかしそれは間違い。「謙遜」は、「貧しい」という言葉の意味とは違う。 さらに謙遜はそれ自体が一つの美徳になり、自分を支える拠り所、誇り、心の豊かさとなる。自分の謙遜さを誇る、ということも起る。あるいは、心の貧しさということについて、これは世間で言われる悪口としての「あの人は心の貧しい人だ」ということとは違う、と説明しようとすることがある。世間で「あの人は心が貧しい」と言われる時、その意味は、心が狭い、親切でない、愛がない、人を受け入れる度量がない、気持ちに余裕がない、という意味。このみ言葉の「心の貧しい」はこれとは違うと主張する時、私たちは「心の貧しい」ということを、欠点としてではなく、「謙遜」のような一つのよい資質として考えようとしている。 しかし「心の貧しさ」とは、よい資質を持っていることではない。むしろそういう良さがないこと、誇り得るような、拠り所とすることができるような、まさに心の豊かさが何もないことが「心の貧しさ」。だから「心の貧しい者」というのはやはり、心が狭い、愛がない、度量がない、気持ちに余裕がない人だと言える。 5.ルカによる福音書との比較  「貧しい人々は、幸いである」(ルカによる福音書6章20節) ルカの方が主イエスがお語りになった形であり、マタイがそこに「心の」をつけ加えて、この教えを精神的なものへと変質させ、この教えの強烈さをやわらげ、そこそこに富んでいる、豊かな人々のつまずきを取り除こうとした、と説明されることがある。しかしその読み方は浅薄。そこには、「貧しい人々は」と言うよりも、「心の貧しい人々は」と言った方がつまずきがなくなるという前提があるが、それは間違い。「貧しい人々は幸いだ」というのなら、私たちだって大金持ちに比べれば貧しいのだからその分幸いだとも言える。自分は貧しくても心豊かに生きていると誇りをもって言うこともできる。しかし「心の貧しい人々は幸いである」と言われたら、そんなことは言えなくなる。自分はそこそこに貧しい、と安心することもできなくなるし、財布の中はともかく、心だけは豊かだという自負も打ち砕かれてしまう。「心の貧しい人は」の方が、ずっと強烈な、容易には受け入れ難い教え。 6.心の貧しさは幸いではない  「心が貧しい」ことは、幸いであり得ない私たち人間の現実。私たちは、自分は貧しくても心は豊かだ、と思いたいが、現実には、私たちの心は、豊かでも広くもなく、愛に富んでもいない、人を、特に自分と意見や考え、感覚が違う人を受け入れる度量もない、自分の思いに反することを、まずは冷静に受け止め、相手の考えや状況をよく理解して、思い遣りをもって対話していくような心の余裕もない、すぐにイライラとし、かっとなり、八つ当たりし、人を責めることに熱心になっていく、要するに、私たちはまことに心の貧しい者。それは決して幸いなことではない。 そのような心の貧しさのゆえに、様々な問題が、争いが、困難が起って来る。 7.主イエスの宣言  このような私たちの現実の中に、「心の貧しい人々は、幸いである」という主イエスのお言葉が響く。 それは「このように見方を変えれば幸いだと言える」ということではない。主イエスが「幸いである」と言われるのは、心の貧しい者である私たちに、主イエスを通して、神様が与えて下さるものがあるから。 「天の国はその人たちのものである」これが幸いの理由。 8.神様のご支配  天の国=神の国  「国」とは王国、支配という意味  天の国=神のご支配 天の国=私たちの救い 「天の国は近づいた」が主イエスの伝道第一声 その天の国が与えられることが、心の貧しい人の幸い。 どうして心の貧しい人にそれが与えられるのか、それは、心の貧しさという良い資質に対するご褒美としてではない。心の貧しい人ほど、それを本当に必要としているから。自分の心の中に、拠り所となるもの、誇るべきものを何も持たない、豊かさがない、愛がない、度量も狭い、そういう者は、神様の救いに寄り頼むしかない。天の国を求めるしかない。 神様は、そのように天の国を本当に必要としている者たちに、深い憐れみと恵みによってそれを与えて下さる。そこに心の貧しい人の幸いがある。 9.天の国はどのようにしてその人たちのものとなるのか。  神の独り子主イエス・キリストによって。主イエスが、心の貧しい者である私たちのために、人となり、私たちの心の貧しさを、言い替えれば罪を、全てご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さった、このことによって、私たちの罪は赦された。 心の貧しい者である私たちを、主イエス・キリストが背負って下さった。そして「あなたは幸いだ、喜びなさい」と言って下さった。 「あなたはもう、自分の中に豊かさを持とうとしなくてよい。自分の心を豊かにすることに必死にならなくてよい。そういう豊かさが自分の中にないと生きていけないということはもうない。あなたがどんなに貧しい者であっても、誇るべきものを、これだけは人に負けないと自負できるようなものを何も持っていなくても、私はあなたを愛する。あなたを背負い、支えている。だからあなたは幸いなのだ。大いに喜んで、安心して生きていってよいのだ。」 10.私たちに求められていること  この教えが私たちに求めているのは、主イエスからこの幸いをいただいて、喜んで生きること。  心の貧しい人になろうと努力せよ、と求められているのではない。私たちはもともと心の貧しい者。そのことを認めて、その私たちに、主イエスが、十字架の死と復活によって天の国を、神様の恵みのご支配を、救いを与えて下さる、その恵みに寄り頼み、感謝して、喜んで生きる、それが私たちの信仰による生活の基本。 その幸いの中でこそ、私たちの貧しい心は次第に広げられていき、豊かにされていき、愛や思い遣りの心、人を受け入れる度量が与えられていく。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
ヨハネの第一の手紙講解(岩住賢)(01)(요한일서강해(이와즈미 켄)(01))/ 聞き、見て、触れる(듣고 보고 만졌다)/ 1ヨハネ1:1-4(요일1:1-4), エゼキエル11:19-20(겔11:19-20)/ いわずみ けん(岩住賢)伝道師(横浜指路教会)/ 2013-04-07
ヨハネの第一の手紙講解(岩住賢)(01)(요한일서강해(이와즈미 켄)(01))/ 聞き、見て、触れる(듣고 보고 만졌다) 1ヨハネ1:1-4(요일1:1-4), エゼキエル11:19-20(겔11:19-20) 2013年4月7日・夕礼拝説教  ◆ 「聞き、見て、触れる」  伝道師 岩住賢 ・ 旧約聖書: エゼキエル書 第11章19-20節 ・ 新約聖書: ヨハネの手紙一 第1章1-4節   ・ 讃美歌:351、458、73 今ヨハネの手紙一、1章1節から4節の御言葉をわたしたちは聴きました。この1節から4節は、この手紙全体が何のために書かれているのか、また何を書いてあるか、そのことを初めに明らかにしているところであります。 では何のためか、何ついて書かれているのかというと、それは一節の最後のところですが、「命の言について──」これをヨハネは伝えたかったのです。命の言というのは、これは神様の言葉であります。神様の言葉をなぜ「命の言」と言うかというと、実は、その神様の言葉こそ私たちに「命」を与えるものだからであります。旧約聖書の申命記に「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」という言葉があります。そのように、人が生きる、人が人として生きるということのためには、神様の言葉を聞くということが、どうしても必要になります。 しかし、私たちはどうか?私たちも神様の御言葉を聞きたいと思って一生懸命願っているけれども、「あ、いま神様の言葉を聞こえた」そのようには、簡単には聞けません。聖書を見るとアブラハムとか、イサクとか、ヤコブとか、信仰の先達が神様の言葉を聞いたということが書いてある。そこでは神様の言葉は、天から突然声が聞こえる。どうも旧約聖書の話の中では、アブラハムにしても、モーセにしてもそのように言葉を聞いております。わたしたちもそういう経験をすることができるのかと期待をしておりますけれども、大体わたしたちにはそのような経験はありません。そこで私たちは神様の言葉を聞いてないのだろうか、ということを悩み始めます。それではいったいどうしたら、私は神様の言葉を聞くことができるだろうかということが、わたしたちの問題になってくるのです。ここでヨハネは、命の言を聞くにとどまらず、また見た、触れたとも言っています。では言葉を見る、触れるとはまた、いったいなんなのでしょうか。これらの悩みに聖書は、答えております。それはヨハネによる福音書の1章の14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」という言葉であります。この「言」というのは、もちろん神様の言です。どうしたら、いったい神様の言葉を聞くこと、見ること、触れることができるだろうか、思い悩んでおります私たちに、その神様の御言葉が、肉体をとって私たちの目の前に現れたのだ、ということをヨハネは私たちに告げております。肉体を取るということはつまり人となるということです。 では人となられた神様の御言葉とは一体誰なのであるかというと。それは主イエス・キリストです。福音書でヨハネは「わたしたちはその栄光を見た」といっておりますが、ヨハネは肉体をとった主イエス・キリストを栄光としてその目で見たのです。そのことをこのヨハネ手紙一の冒頭でも同じように言っております。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――」とヨハネは言っております。命の言というところを、主イエス・キリストに置き換えてみるとはっきりとします。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、主イエス・キリストについて。――この主イエス・キリストは現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――」命の言であられる主イエス・キリストのことを私はあなたがたにお伝えするというのが、ヨハネの言っていることです。ではヨハネはいつ主イエス・キリストに出会って、見て、聞き、触れたのか。ヨハネが主イエス・キリストに出会ったのは、日常生活をしていた時です。その時、イエスという方がヨハネの元に来られて「わたしについてきなさい」と言われました。ヨハネはその方の話、その肉声を彼自身の耳で聞ききました。主イエス・キリストはいろいろと話してくださったのです。また、その御顔、その御姿、なさることを、彼はその目で見た。そうしているうちに、この方はいったいどなただろうか、弟子たちが主イエス・キリストの御業を見て「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言って驚いているところがあります。改めて、いったいこの方はどなただろうか、思いを込めて見直した、そういう経験もありました。それだけでなくて「この手でさわった」とヨハネは言います。主イエス・キリストがユダの裏切りを予告なさった夜に、主イエス・キリストの胸に寄りかかって「それはだれのことですか」と尋ねたのはヨハネです。そういう目で見て、この手でさわることができた御方が、実は、命を与える神様だということを後に知った時の、弟子たちの衝撃はどのようなものだったのでしょうか。「私は、神様にこの手でさわっていたのだ」とその驚きと感動がこの短い言葉の中に表れております。私たちはそういう驚くべきメッセージをここで聞いています。 しかしここで気付かされることがあります。2000年前に、実際に主イエス・キリストを見、その肉声を聞き、触れたことのあるすべての人が、弟子たちのように主イエス・キリストの御言葉に聞き従ったのか、というと実はそうではありません。実際、主を十字架にその手で架けた人物、主イエス・キリストを陥れようと問答を仕掛けた律法学者やファリサイ派の人たち、その人達も主イエス・キリストを見、その声を聞き、時には触れたことのある人たちです。その者たちは、主を肉眼で見たが、その時にすぐにその主の御言葉を受け入れて、従うということはありませんでした。ですからここから、わたしたちは、直接主を見たり、そのお言葉を直接聞いたりすることができれば、すぐさま「わたしは命の言を聞いた」と自覚するというわけではないのだ、とわたしたちは気付かされます。弟子たちも初めから主イエス・キリストの言葉を命の言だと自覚していたのではありません。弟子たちも最初は主イエス・キリストの言葉は「先生の権威あるお言葉」、「風や湖を従わせることのできる不思議なお言葉」、だったのです。そう理解していたのです。この弟子たちが「主イエス・キリストは命の言である」と気付くのは十字架と復活の出来事の後のことです。十字架の出来事以前の弟子たちは、「イエスが生ける神の子、救い主である」ということを告白していましたけれども、実際にはどれほど主イエス・キリストに従えていたかというと、主イエス・キリストがエルサレムで無実の罪で逮捕されるその時には、弟子たちは主イエス・キリストの下から逃げ出す、また一番弟子ペトロは三度も主イエス・キリストのことなど「知らない」と否む。このようなものでした。なぜ聞き、見て、触れることのできた人たちが、命の言である主イエス・キリストを拒否してしまったのか。それは人の持つ、そしてわたしたちにもある罪の故です。神様などわたしとは無関係である。神様を信じ従うのでなく、自分の信念に従う。神様中心でなく自分中心となる。その罪の中での人の耳は、神様の言葉も都合のいいように聞く耳になっていたり、そもそも聞くことすらも拒否する耳であったりするのです。罪とは神様をいらないと人間の側から神様との関係を切ることなのです。命を与える神様の言葉を拒否するということは、自ら命を絶っているということに等しいのです。 しかし、主イエス・キリストは弟子たちが主を拒絶している時でも、弟子たちが言葉を理解できない時も、弟子たちの信仰が揺れ動いてぶれている時も、彼らをお見捨てにならないで、むしろ言であるかたの方から弟子たちに近づいてきてくださったのです。このことは弟子たちのみならならずわたしたちにも同じなのです。   しかも、命であられるその方が、人の罪のために十字架に架かって死に、わたしたちの罪と死を代わりに受けてくださり、死ぬべきはずのわたしたちを生かしてくださいました。そして三日目に復活され、死に打ち勝つ御姿をわたしたちに示してくださいました。悔い改めてその主イエス・キリストの信じるものは、死ぬことのない永遠の主の命に与ることがゆるされました。弟子たちはその復活された主イエス・キリストに出会って、既に主が語られていたこと、主イエス・キリストがわたしたちを罪の中から救うメシアであることを理解しました。そして主イエス・キリストが命の言である、わたしたちを死から生へと変えてくださる方であると知るようになった。 しかし、ここで最後に大きな問いが残ります。それは、なるほど、ペテロやヨハネ、そういう主イエス・キリストの弟子たちは、主イエス・キリストの肉声を聞き、その御姿を見、手でその御体をさわり、復活された主イエス・キリストと出会った。けれども、2000年の時を隔てた、今この日本に住んでいる私たちはいったいどうなるのか、「イエス様を見ることはできないじゃないか」と思ってしまいます。確かに、私たちは自分自身の目で主イエス・キリストの御姿を見、主イエス・キリストの肉声を聞き、その御体に触れることはできません。 では一体どうすれば、今を生きるわたしたちは神様の言葉、命の言に出会うことができるのか。実は2000年後のこの私たちとは同じ立場にある人達がいます。その人達はこのヨハネの手紙一の手紙の受け取った人たちです。ヨハネは主イエス・キリストを見ることのできなかった人たち、その人たちにこの手紙を書いております。「あなたたちはイエス様を見たからいいでしょうけれども、私たちは見ておりません」この手紙を受け取った人たちは皆そういう人です。そういうことから言えば、この手紙の受取人である当時の教会の人たちと同じです。そういう主イエス・キリストを見たことのない人たちに向かって、ヨハネが主イエス・キリストのことをあなたがたに書き送る。そこでヨハネは自らの言葉をもって、復活の主の福音、命の言をこの人たちに伝えようとしているのです。「あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」私たちが神様の言葉を聞き、神様の御言葉にお答えをするという、そういう交わりを与えられていると同じように、あなたがたもそうなる、そのために私はこの手紙を書いている。ヨハネは教会の人たちに向かって手紙を書いています。そこで重要なことが三節にいわれています。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」主イエス・キリストを見た、神様にさわった、それはただ、不思議な神秘な経験をするということではなくて、その神様との深い交わりを与えられるということです。神様の御言葉を聞き、それにお答えをする、そういう神様との交わりに入れられる、弟子たちはそういう恵みに与りました。 「交わり」というものは、いつも言葉がかけられ、それにお答えをするという、そういう生きた関係というものがないと、その交わりの「命」というものは続かない。人間の体は、これは生まれた時から生き続けていますけれども、いつも呼吸をしています、いつも脈を打っています。信仰者の集まりである教会というものは、ただそこに黙って動かず存在しているというのでなくて、生きています。その生きている生命を保っていくために、いつも呼吸をし、脈打たなければならない、これが信仰者の営み、また教会の営みであります。そのために私はこの手紙を書くというのです。人間というものは一度聞いて、信じて「分かった」と言って、それでそのまま生命がつながっていくかというとそうではない。どうしたら、生き生きとした生命を持つことができるか、これがわたしたちにとっての大切な問題です。  主イエス・キリストは神の御子であって、私たちの救い主である。私たちの罪を贖うために十字架にかかってくださった。主イエス・キリストは復活をなさった。私たちの罪は赦された。死ぬものから生きるものへと変えられる。この命の言を礼拝において、わたしたちが聞いている。実は、この今語られている説教を通して、神様が私たち一人一人に語りかけておられるのです。私たちはアブラハムが神様の言葉を直接聞いたというところを読むと、「いいなあ」と思います。それで「私たちはそんな風には聞けない」と思っているのですけれども、そうではありません。聖書の言葉そのものが、また礼拝の説教を通して、わたしたちは神様の語りかけを聞いています。わたしたちは説教で神様の言葉を聞く、そして生きている主イエス・キリストと出会います。しかしわたしたちは、時にそのみ言葉を聞くことができなくなることがあります。大変な試練の中にある時、悩み苦しみの中にある時、病の中にある時、わたしたちは苦しみの囲いの中にいて一人耳を手で塞ぎ、座り込んでしまう。その時私たちは主の言葉を聞くことができなくなる。しかしその苦しみの囲いの中に主は見える姿で私たちの目の前に現れてくださいます。今日わたしたちの与る聖餐は、まさに見える主の体と血です。そしてわたしたちは聖餐において主の肉と血に触れることができます。これが見える神の言葉としての聖餐です。主イエス・キリストが、今肉眼で主を見ることのできないわたしたちのために備えて下さいました。神様は、この礼拝を私たちに備えてくださいました。今わたしたちはこの礼拝において神様の御前にいます。肉体をとって来られた神の言。目で見、手でさわることのできたあの言が、今この説教を通して私たちに語りかけてくださっています。そして見、触ることの出来る御言葉を聖餐として与えてくださっています。この礼拝で御言葉を聞き、聖餐にあずかり、賛美をし、神様を讃え、わたしたちの身を主に捧げる、これが私たちの応答であり、交わりです。 このことが起こるためにヨハネはこの手紙を書きました。この手紙を通して、主イエス・キリストが、神様が、礼拝を通して私たちに語りかけてくださる。今教会の中でその御方が生きて働き、私たち一人一人に語りかけてくださっている、このことが大変な喜びなのです。そして最後にヨハネは「これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである」と言っております。神様が言葉を語り、神様の言葉を聞く、そういう交わりの中で本当に信仰生活の喜びというものがあります。そのような恵みをわたしたちは与えられています。そうした恵みに与っていることを自覚して、また新しく感謝をもって信仰生活を続けたいと思います。 岩住賢伝道師(横浜指路教会)
인생의 두 가지 길(じんせい(人生)の二つの道)/ マタイ 7:13-27(마7:13-27)/ 김수미 목사/ 한일대역설교/ 2012-12-09
인생의 두 가지 길(じんせい(人生)の二つの道) マタイ 7:13-27(마7:13-27) 오늘 본문에서 예수님께서는 우리의 인생에 두 가지 문과 두 가지 길이 있다고 말씀하십니다. 큰 문과 넓은 길이 있고, 좁은 문과 협착한 길이 있다고 하십니다. 그런데 큰 문과 넓은 길은 찾는 사람들이 많지만 멸망으로 인도하는 문과 길이고, 좁은 문과 협착한 길은 찾는 사람이 적지만 생명으로 인도하는 문과 길이라고 하십니다. 그래서 좁은 문으로 들어가고 협착한 길을 가라고 가르치십니다. 今日の本文でイエス様は私たちの人生に二種類の門と二種類の道があるとおっしゃいます。大きな門と広い道があって、狭い門と狭窄な道があるといいます。ところで大きな門と広い道は探す人々が多いが、滅亡に引き渡す門と道で、狭い門と狭窄な道は探す人が少ないけれど生命に引き渡す門と道だといいます。それで狭い門に入って狭窄な道を行けと教えます。 (요10:9) 내가 문이니 누구든지 나로 말미암아 들어가면 구원을 받고 또는 들어가며 나오며 꼴을 얻으리라. わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。 (요14:6) 내가 곧 길이요 진리요 생명이니 나로 말미암지 않고는 아버지께로 올 자가 없느니라. イエスは彼に言われた。「わたしが 道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり、父のみもとに来ることはありません。 생명으로 인도하는 그 문과 길은 곧 예수 그리스도이십니다. 이렇게 놀라운 축복의 길과 문이 넓고 크면 좋을 텐데, 작고 협착하다고 성경은 말씀하고 있는 것입니다. 生命に引き渡すその門と道はまもなくイエス キリストでいらっしゃいます。 このように驚くべき祝福の道と門が広くて大きければ良いはずなのに、小さくて狭窄だと聖書はおっしゃっているのです。 좁은 문, 좁은 길이 무슨 의미일까요? 한 마디로 말하면 하나님과 교회와 이웃을 위해 희생하고 헌신하며 사는 삶이라는 것입니다. 狭い門、狭い道は何の意味でしょうか? 一言で話せば神様と教会と隣のために犠牲にして献身して生きる人生というものです。 넓은 문은 1) 문이 크고 2) 길이 넓고 3) 인기가 있어 들어가는 사람이 많으나 4) 그러나 멸망으로 끝납니다. 좁은 문은 1) 문이 좁고 협착하고 2) 빈 몸으로 들어가야 하고 3) 혼자 가는 외로운 길이고 4) 인기가 없는 문이나 5)그러나 생명으로 통합니다. 그런데 안타까운 사실은 우리 교인들이 본인의 삶을 돌아보려고 하지 않고 나 자신이 어떻게 살고 있던 그것은 문제가 아니고, 내가 교회에 다니고 있고, 예수 믿고 있기 때문에 나는 당연히 좁은 문으로 들어갔다고 착각을 하고 있는 것입니다. 広い門は、1) 門が大きくて 2) 道が広い 3) 人気があって入る人が多い 4) しかし滅亡で終わります。 狭い門は、1) 門が狭くて狭窄だ 2) 手ぶらに入ってこそ 3) 一人で行く孤独な道 4) 人気がない 門 5) しかし生命に通じます。 ところで残念な事実は、私たちの教会の信者が本人の人生を顧ようとはしないで、私自身がどのように暮らしていたそれは問題でなくて、私が教会に通っていて、イエス信じているので、私は当然狭い門に入ったと錯覚をしているのです。 (마16:24) 누구든지 나를 따라오려거든 자기를 부인하고 자기 십자가를 지고 나를 따를 것이니라. それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 이번에는 눈에 보이는 화려한 길을 한번 볼까요? 今回は目に見える派手な道を一度見ましょうか? (15절) 거짓 선지자들을 삼가라 양의 옷을 입고 너희에게 나아오나 속에는 노략질하는 이리라 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。 왜 이 말씀을 하셨습니까? 거짓 선지자들은 신자들을 넓은 문으로 인도한다는 것입니다. 즉 멸망의 길로 인도한다는 것입니다. なぜこの話をしましたか? 偽り預言者は信者を広い文に引き渡すということです。 すなわち滅亡の道に引き渡すということです。 에덴동산에서 아담과 하와를 유혹했던 열매를 보시기 바랍니다. 작고 초라한 열매가 아닙니다. 보암직도 하고 먹음직도 하고 지혜롭게 할 만큼 탐스럽기도 하였다고 했습니다. エデンの園ででアダムとイヴを誘惑した実をご覧になってください。 小さくてみすぼらしい実ではありません。 食べるのに良く、目に慕わしく、賢くする程見事だったといいました。 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも 好ましかった。 사망의 열매는 생명의 열매에 비해 오히려 더 겉모습이 요란했던 것입니다. 버섯도 독버섯이 더 예쁘고 먹음직스럽지 않습니까? 死亡の実は生命の実に比べてかえってさらに外見が見事でした。 キノコも毒きのこがさらに可愛くて美味しそうではないですか? 롯이 소돔을 선택할 때도 그랬습니다. 겉보기에 그 땅은 문화가 잘 발달된 애굽과 같았고 아름다운 에덴동산 같았습니다. 반면에 아브라함이 선택한 헤브론은 황량한 황무지처럼 보였습니다. 그러나 롯은 망했고 아브라함은 갈수록 더 존귀하게 되었습니다. ロトがソドムを選択する時もそうでした。見かけにはその土地は文化がよく発達したエジプトと同じだったし、美しいエデンの園のようでした。反面アブラハムが選択したヘブロンは荒涼な荒れ地のように見えました。しかしロトは滅びたし、アブラハムはますますさらに尊くなりました。 (21절) 나더러 주여 주여 하는 자마다 천국에 다 들어갈 것이 아니요 다만 하늘에 계신 내 아버지의 뜻대로 행하는 자라야 들어가리라 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられる わたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 좁은 길을 가는 것이 하나님의 뜻을 행하는 것입니다. 우리가 십자가를 지고 주님을 좇는 삶을 사는 것은 입으로만 주여 주여 하는 삶이 아니라는 것입니다. 그럼 십자가를 지고 주님을 좇는 삶은 어떤 삶인가요? 狭い道を行くことが神様の意を行うのです。 私たちが十字架を背負って神様を追う生活を送るのは口だけで主よ、主よとという人生ではないというのです。 それでは十字架を背負って神様を追う人生はどんな人生でしょうか? 1) 자신의 것을 버리는 것입니다. 1) 自身のことを捨てるのです。 나의 아집과 고집, 이기심과 자존심, 욕심과 욕망과 질투와 시기와 미움과 분노를 버리지 않으면 나 외에 다른 것이 보이지도 들리지도 않게 됩니다. 그렇게 되면 세상을 읽을 수 없게 됩니다. 세상도 볼 수 없는데 하나님인들 보일 리가 없는 것은 당연합니다. 결국 자기주장만 하게 되고 친구도 다 떠나게 되고 남는 것은 영원한 죽음밖에 없다는 것을 깨달아야 합니다. 私の我執と意地、利己心と自尊心、欲と欲望と嫉妬と猜忌と憎しみと怒りを捨てなければ私の外に違うものが見ることも聞こえることもできなくなります。そうなれば世の中を読むことができなくなります。世の中も見ることができないのに神様も見えるはずがないのは当然です。結局自己主張だけいうことになって友達もみな離れることになって残るものは永遠の死しかないということを悟らなければなりません。 2) 아버지의 뜻을 아는 것입니다. 2) お父さんの意を分かるのです。 (22절) 그 날에 많은 사람이 나더러 이르되 주여 주여 우리가 주의 이름으로 선지자 노릇 하며 주의 이름으로 귀신을 쫓아내며 주의 이름으로 많은 권능을 행하지 아니하였나이까 하리니 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 (23절) 그 때에 내가 그들에게 밝히 말하되 내가 너희를 도무지 알지 못하니 불법을 행하는 자들아 내게서 떠나가라 하리라. しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者どもよ、わたしから離れて行け。』 예수님은 하늘의 메시지를 여기저기 예언하고 간증하고 돌아다니는 선지자가 되고, 귀신들린 사람들을 고치고 사람들의 병을 낫게 하는 능력을 행하는 사람이 되는 것이 목적이 아니라는 것입니다. 하나님의 뜻이 무엇인지. 하나님의 속성이 무엇인지. 하나님의 원하시는 것이 무엇인지를 깊이 아는 자가 되어야 한다는 것입니다. イエス様は天のメッセージをあちこち予言して証をして歩き回る預言者になり、物の怪に取りつかれた人々を直して人々の病気を良くなるようにする能力を行う人になることが目的でないというです。 神様の意が何か。神様の属性が何か。神様の希望されることが何なのかを深く分かる者にならなければならないということです。 3) 말씀을 그대로 실천하는 것입니다. 3) お言葉をそのまま実践するのです。 교회는 다니지만, 예배는 참석하고 말씀은 듣지만, 그것이 자신의 삶과 연결되지 못합니다. 때문에 정작 중요한 결심이나 선택의 순간에는 주님의 말씀과 가르침이 아니라 자신의 판단과 세상의 기준을 따라갑니다. 중요한 선택과 결정의 순간에도 하나님의 말씀대로 행하지 않습니다. 그리고 결과가 자신이 원하는 대로 되지 않을 때 쉽게 좌절하고 절망합니다. 바로 이것이 예수님의 말씀을 듣지만 행하지 않는 사람들의 모습이며 결과입니다. 教会は通うが、礼拝は参加してお言葉は聞くが、それが自身の人生と連結されません。 だから本来重要な決心や選択の瞬間には神様のお言葉と教えでなく自身の判断と世の中の基準について行きます。 重要な選択と決定の瞬間にも神様のお言葉のとおり行いません。 そして結果が自身が願い次第ならない時簡単に挫折して絶望します。 すぐにこれがイエス様のお言葉を聞くが行わない人々の姿であり結果です。 (마7:26) 나의 이 말을 듣고 행치 아니하는 자는 그 집을 모래 위에 지은 어리석은 사람 같으리니 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた 愚かな人に比べることができます。 순간의 이익과 이기적인 마음으로 소돔과 고모라 성으로 달려가는 롯과 같은 지혜 없는 자가 아닌, 좁은 길, 좁은 문임에도 불구하고 예수님만을 바라보면서 말씀 먹고 기도하고 순종하여 영원한 생명을 소유하시는 저와 여러분 되시기를 예수님의 이름으로 축원합니다. 아멘. 瞬間の利益と利己的な気持ちでソドムとゴモラ城に走って行くロトと同じ知恵のない者でない、狭い道、狭い門にもかかわらずイエス様だけを眺めてお言葉を食べて祈って従順にして永遠の生命を所有する私と皆さんになるようにイエス様の御名で祈願します。アーメン。