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かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ こころ(心)の貧しい人の幸い(마음이 가난한 사람들의 행복)/ マタイ5:3(마5:3)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ こころ(心)の貧しい人の幸い(마음이 가난한 사람들의 행복) マタイ5:3(마5:3) 心の貧しい人の幸い マタイによる福音書 第5章3節   1.幸いの教え(3~12節) 幸いになるための条件 「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者」(文語訳聖書) 「あなたがたは幸いだ」という主イエスの宣言 2.「貧しい」とは 完全に無一物であることを表わす言葉。生活に余裕がなくて苦しい、という貧しさを表わす言葉は別にある。ここで用いられている言葉は、全く何も持っていない、乞食をして、物乞いをして生きるしかない、という意味。 3.心の貧しさ  「心において貧しい」とは  自分の心の中には、寄り頼むべきもの、支えや誇りとなるものは何一つない、ということ。私たちは、心の豊かさを求めている。たとえ生活は貧しくても、心は豊かでありたい、と思っている。ところが、「心の貧しい人々」というのは、そのような心の豊かさを失っている人のこと。 自分の中に、自分を支える拠り所となる心の豊かさを全く持っていない者のこと。そういう者が幸いだ、という宣言。 4.間違った理解 教会の歴史においてしばしば、「心の貧しい」とは「謙遜な、へりくだった」という意味だ、という解釈がなされてきた。しかしそれは間違い。「謙遜」は、「貧しい」という言葉の意味とは違う。 さらに謙遜はそれ自体が一つの美徳になり、自分を支える拠り所、誇り、心の豊かさとなる。自分の謙遜さを誇る、ということも起る。あるいは、心の貧しさということについて、これは世間で言われる悪口としての「あの人は心の貧しい人だ」ということとは違う、と説明しようとすることがある。世間で「あの人は心が貧しい」と言われる時、その意味は、心が狭い、親切でない、愛がない、人を受け入れる度量がない、気持ちに余裕がない、という意味。このみ言葉の「心の貧しい」はこれとは違うと主張する時、私たちは「心の貧しい」ということを、欠点としてではなく、「謙遜」のような一つのよい資質として考えようとしている。 しかし「心の貧しさ」とは、よい資質を持っていることではない。むしろそういう良さがないこと、誇り得るような、拠り所とすることができるような、まさに心の豊かさが何もないことが「心の貧しさ」。だから「心の貧しい者」というのはやはり、心が狭い、愛がない、度量がない、気持ちに余裕がない人だと言える。 5.ルカによる福音書との比較  「貧しい人々は、幸いである」(ルカによる福音書6章20節) ルカの方が主イエスがお語りになった形であり、マタイがそこに「心の」をつけ加えて、この教えを精神的なものへと変質させ、この教えの強烈さをやわらげ、そこそこに富んでいる、豊かな人々のつまずきを取り除こうとした、と説明されることがある。しかしその読み方は浅薄。そこには、「貧しい人々は」と言うよりも、「心の貧しい人々は」と言った方がつまずきがなくなるという前提があるが、それは間違い。「貧しい人々は幸いだ」というのなら、私たちだって大金持ちに比べれば貧しいのだからその分幸いだとも言える。自分は貧しくても心豊かに生きていると誇りをもって言うこともできる。しかし「心の貧しい人々は幸いである」と言われたら、そんなことは言えなくなる。自分はそこそこに貧しい、と安心することもできなくなるし、財布の中はともかく、心だけは豊かだという自負も打ち砕かれてしまう。「心の貧しい人は」の方が、ずっと強烈な、容易には受け入れ難い教え。 6.心の貧しさは幸いではない  「心が貧しい」ことは、幸いであり得ない私たち人間の現実。私たちは、自分は貧しくても心は豊かだ、と思いたいが、現実には、私たちの心は、豊かでも広くもなく、愛に富んでもいない、人を、特に自分と意見や考え、感覚が違う人を受け入れる度量もない、自分の思いに反することを、まずは冷静に受け止め、相手の考えや状況をよく理解して、思い遣りをもって対話していくような心の余裕もない、すぐにイライラとし、かっとなり、八つ当たりし、人を責めることに熱心になっていく、要するに、私たちはまことに心の貧しい者。それは決して幸いなことではない。 そのような心の貧しさのゆえに、様々な問題が、争いが、困難が起って来る。 7.主イエスの宣言  このような私たちの現実の中に、「心の貧しい人々は、幸いである」という主イエスのお言葉が響く。 それは「このように見方を変えれば幸いだと言える」ということではない。主イエスが「幸いである」と言われるのは、心の貧しい者である私たちに、主イエスを通して、神様が与えて下さるものがあるから。 「天の国はその人たちのものである」これが幸いの理由。 8.神様のご支配  天の国=神の国  「国」とは王国、支配という意味  天の国=神のご支配 天の国=私たちの救い 「天の国は近づいた」が主イエスの伝道第一声 その天の国が与えられることが、心の貧しい人の幸い。 どうして心の貧しい人にそれが与えられるのか、それは、心の貧しさという良い資質に対するご褒美としてではない。心の貧しい人ほど、それを本当に必要としているから。自分の心の中に、拠り所となるもの、誇るべきものを何も持たない、豊かさがない、愛がない、度量も狭い、そういう者は、神様の救いに寄り頼むしかない。天の国を求めるしかない。 神様は、そのように天の国を本当に必要としている者たちに、深い憐れみと恵みによってそれを与えて下さる。そこに心の貧しい人の幸いがある。 9.天の国はどのようにしてその人たちのものとなるのか。  神の独り子主イエス・キリストによって。主イエスが、心の貧しい者である私たちのために、人となり、私たちの心の貧しさを、言い替えれば罪を、全てご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さった、このことによって、私たちの罪は赦された。 心の貧しい者である私たちを、主イエス・キリストが背負って下さった。そして「あなたは幸いだ、喜びなさい」と言って下さった。 「あなたはもう、自分の中に豊かさを持とうとしなくてよい。自分の心を豊かにすることに必死にならなくてよい。そういう豊かさが自分の中にないと生きていけないということはもうない。あなたがどんなに貧しい者であっても、誇るべきものを、これだけは人に負けないと自負できるようなものを何も持っていなくても、私はあなたを愛する。あなたを背負い、支えている。だからあなたは幸いなのだ。大いに喜んで、安心して生きていってよいのだ。」 10.私たちに求められていること  この教えが私たちに求めているのは、主イエスからこの幸いをいただいて、喜んで生きること。  心の貧しい人になろうと努力せよ、と求められているのではない。私たちはもともと心の貧しい者。そのことを認めて、その私たちに、主イエスが、十字架の死と復活によって天の国を、神様の恵みのご支配を、救いを与えて下さる、その恵みに寄り頼み、感謝して、喜んで生きる、それが私たちの信仰による生活の基本。 その幸いの中でこそ、私たちの貧しい心は次第に広げられていき、豊かにされていき、愛や思い遣りの心、人を受け入れる度量が与えられていく。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ こころ(心)の貧しい人の幸い(마음이 가난한 사람들의 행복)/ マタイ5:3(마5:3)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ こころ(心)の貧しい人の幸い(마음이 가난한 사람들의 행복) マタイ5:3(마5:3) 心の貧しい人の幸い マタイによる福音書 第5章3節   1.幸いの教え(3~12節) 幸いになるための条件 「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者」(文語訳聖書) 「あなたがたは幸いだ」という主イエスの宣言 2.「貧しい」とは 完全に無一物であることを表わす言葉。生活に余裕がなくて苦しい、という貧しさを表わす言葉は別にある。ここで用いられている言葉は、全く何も持っていない、乞食をして、物乞いをして生きるしかない、という意味。 3.心の貧しさ  「心において貧しい」とは  自分の心の中には、寄り頼むべきもの、支えや誇りとなるものは何一つない、ということ。私たちは、心の豊かさを求めている。たとえ生活は貧しくても、心は豊かでありたい、と思っている。ところが、「心の貧しい人々」というのは、そのような心の豊かさを失っている人のこと。 自分の中に、自分を支える拠り所となる心の豊かさを全く持っていない者のこと。そういう者が幸いだ、という宣言。 4.間違った理解 教会の歴史においてしばしば、「心の貧しい」とは「謙遜な、へりくだった」という意味だ、という解釈がなされてきた。しかしそれは間違い。「謙遜」は、「貧しい」という言葉の意味とは違う。 さらに謙遜はそれ自体が一つの美徳になり、自分を支える拠り所、誇り、心の豊かさとなる。自分の謙遜さを誇る、ということも起る。あるいは、心の貧しさということについて、これは世間で言われる悪口としての「あの人は心の貧しい人だ」ということとは違う、と説明しようとすることがある。世間で「あの人は心が貧しい」と言われる時、その意味は、心が狭い、親切でない、愛がない、人を受け入れる度量がない、気持ちに余裕がない、という意味。このみ言葉の「心の貧しい」はこれとは違うと主張する時、私たちは「心の貧しい」ということを、欠点としてではなく、「謙遜」のような一つのよい資質として考えようとしている。 しかし「心の貧しさ」とは、よい資質を持っていることではない。むしろそういう良さがないこと、誇り得るような、拠り所とすることができるような、まさに心の豊かさが何もないことが「心の貧しさ」。だから「心の貧しい者」というのはやはり、心が狭い、愛がない、度量がない、気持ちに余裕がない人だと言える。 5.ルカによる福音書との比較  「貧しい人々は、幸いである」(ルカによる福音書6章20節) ルカの方が主イエスがお語りになった形であり、マタイがそこに「心の」をつけ加えて、この教えを精神的なものへと変質させ、この教えの強烈さをやわらげ、そこそこに富んでいる、豊かな人々のつまずきを取り除こうとした、と説明されることがある。しかしその読み方は浅薄。そこには、「貧しい人々は」と言うよりも、「心の貧しい人々は」と言った方がつまずきがなくなるという前提があるが、それは間違い。「貧しい人々は幸いだ」というのなら、私たちだって大金持ちに比べれば貧しいのだからその分幸いだとも言える。自分は貧しくても心豊かに生きていると誇りをもって言うこともできる。しかし「心の貧しい人々は幸いである」と言われたら、そんなことは言えなくなる。自分はそこそこに貧しい、と安心することもできなくなるし、財布の中はともかく、心だけは豊かだという自負も打ち砕かれてしまう。「心の貧しい人は」の方が、ずっと強烈な、容易には受け入れ難い教え。 6.心の貧しさは幸いではない  「心が貧しい」ことは、幸いであり得ない私たち人間の現実。私たちは、自分は貧しくても心は豊かだ、と思いたいが、現実には、私たちの心は、豊かでも広くもなく、愛に富んでもいない、人を、特に自分と意見や考え、感覚が違う人を受け入れる度量もない、自分の思いに反することを、まずは冷静に受け止め、相手の考えや状況をよく理解して、思い遣りをもって対話していくような心の余裕もない、すぐにイライラとし、かっとなり、八つ当たりし、人を責めることに熱心になっていく、要するに、私たちはまことに心の貧しい者。それは決して幸いなことではない。 そのような心の貧しさのゆえに、様々な問題が、争いが、困難が起って来る。 7.主イエスの宣言  このような私たちの現実の中に、「心の貧しい人々は、幸いである」という主イエスのお言葉が響く。 それは「このように見方を変えれば幸いだと言える」ということではない。主イエスが「幸いである」と言われるのは、心の貧しい者である私たちに、主イエスを通して、神様が与えて下さるものがあるから。 「天の国はその人たちのものである」これが幸いの理由。 8.神様のご支配  天の国=神の国  「国」とは王国、支配という意味  天の国=神のご支配 天の国=私たちの救い 「天の国は近づいた」が主イエスの伝道第一声 その天の国が与えられることが、心の貧しい人の幸い。 どうして心の貧しい人にそれが与えられるのか、それは、心の貧しさという良い資質に対するご褒美としてではない。心の貧しい人ほど、それを本当に必要としているから。自分の心の中に、拠り所となるもの、誇るべきものを何も持たない、豊かさがない、愛がない、度量も狭い、そういう者は、神様の救いに寄り頼むしかない。天の国を求めるしかない。 神様は、そのように天の国を本当に必要としている者たちに、深い憐れみと恵みによってそれを与えて下さる。そこに心の貧しい人の幸いがある。 9.天の国はどのようにしてその人たちのものとなるのか。  神の独り子主イエス・キリストによって。主イエスが、心の貧しい者である私たちのために、人となり、私たちの心の貧しさを、言い替えれば罪を、全てご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さった、このことによって、私たちの罪は赦された。 心の貧しい者である私たちを、主イエス・キリストが背負って下さった。そして「あなたは幸いだ、喜びなさい」と言って下さった。 「あなたはもう、自分の中に豊かさを持とうとしなくてよい。自分の心を豊かにすることに必死にならなくてよい。そういう豊かさが自分の中にないと生きていけないということはもうない。あなたがどんなに貧しい者であっても、誇るべきものを、これだけは人に負けないと自負できるようなものを何も持っていなくても、私はあなたを愛する。あなたを背負い、支えている。だからあなたは幸いなのだ。大いに喜んで、安心して生きていってよいのだ。」 10.私たちに求められていること  この教えが私たちに求めているのは、主イエスからこの幸いをいただいて、喜んで生きること。  心の貧しい人になろうと努力せよ、と求められているのではない。私たちはもともと心の貧しい者。そのことを認めて、その私たちに、主イエスが、十字架の死と復活によって天の国を、神様の恵みのご支配を、救いを与えて下さる、その恵みに寄り頼み、感謝して、喜んで生きる、それが私たちの信仰による生活の基本。 その幸いの中でこそ、私たちの貧しい心は次第に広げられていき、豊かにされていき、愛や思い遣りの心、人を受け入れる度量が与えられていく。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 平和を実現する人々の幸い(평화를 실현하는 사람들의 행복)/ マタイ5:9(마5:9)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 平和を実現する人々の幸い(평화를 실현하는 사람들의 행복) マタイ5:9(마5:9) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 平和を実現する人々の幸い マタイによる福音書 第5章9節   1.「平和を実現する」ことの難しさ 「平和を好む」ではなく、「平和を実現する」(口語訳聖書では「平和をつくり出す」)人の幸いを主イエスは語られた。 争いを避けているだけでは平和を実現することはできない。しかし争うことによって平和が実現できるわけでもない。 個人の関係のみでなく、国と国、民族と民族の間の平和はどうしたら実現できるか。 国権の発動たる戦争を放棄し、軍隊を持たないことを謳った平和憲法(9条)によって平和が実現しているのか? 2.神の子主イエスの実現した平和  「その人たちは神の子と呼ばれる」  平和を実現する者は「神の子」  神の子イエス・キリストは、平和を実現する方として来られた。  主イエスはどのようにして平和を実現なさるのか。  エフェソの信徒への手紙第2章14~16節 「敵意という隔ての壁」が平和を妨げている。主イエス・キリストはその十字架の死において敵意を滅ぼし、平和を実現して下さった。人間の敵意は罪から生まれる。罪の根本には神に対する敵意がある。神に対する敵意は、人に対しても向けられていく。神と人とに対する私たちの敵意、罪が平和を妨げている。キリストの十字架は、その私たちの罪、敵意を、主イエスがご自分の身に引き受けて下さったということ。私たちの、神と隣人に対する敵意、罪が、独り子イエス・キリストに全てふりかかり、主イエスを苦しめ、殺した。その苦しみと死を主イエスが引き受けて下さったことによって、神は私たちの敵意を乗り越え、平和を宣言して下さった。これは神の一方的宣言。今も私たちはなお神と隣人に対する敵意、罪に生きている。けれども神は、その敵意はイエス・キリストの十字架によってもう滅ぼされた、我々は和解し、敵意はもう存在しないという「平和の福音を告げ知らせ」て下さっている。 これが、主イエス・キリストによって実現された平和。 私たちは、争い、対立において、その争いを避けるか、あるいは争いに身を投じてその中で自分の主張を通すか、あるいは相手の主張との折り合いをつけるか、という仕方で平和を実現しようとする。しかし主イエスは、相手の敵意をご自分の身に引き受け、それによって死なれた。つまり敗北された。その敗北の中で、敵を憎み怨むのではなく、赦した。そして、もう敵意は滅ぼされた、もうここには敵意はないと宣言された。 キリストの復活は、人々の敵意を引き受けて死なれた主イエスの死を、父なる神が、私たちと神との和解のための死、私たちの罪を赦し、敵意を滅ぼすための死として認め、和解と平和と永遠の命を宣言して下さったということ。神と私たちとの間に、敵意はもう存在しない、存在するのは神が与えて下さる復活の命、死に勝利する恵みなのだということが、キリストの復活において明らかにされている。私たちは、主イエスの復活の記念日、小さなイースターである毎週日曜日の礼拝において、キリストが私たちの平和を実現して下さったという神の宣言を新たに聞きつつ生きる。 「平和を実現する人々は幸いである」という教えは、そのような私たちの歩みにおいてこそ意味と力を持っている。 3.平和を実現する者として  私たちは、主イエス・キリストによって神が与えて下さった平和の中で、その主イエスに従うことによって、争いに満ちたこの世界に平和を実現する者として生きる。その私たちの歩みは、争いを避けるのでも、争いに勝利し、あるいは妥協するのでもなく、敵意を引き受け、赦すことによって敵意を乗り越えるという歩みになる。 一人のアメリカの黒人の少女が、「イエス・キリストを信じたことによってあなたは何を得たか」という問いに対して、一言、「キリストは、私の父を殺した人をゆるすことができるようにしてくださいました」と語った(ウィリアム・バークレー『山上の説教に学ぶ』)。 アメリカ公民権運動におけるマーティン・ルーサー・キング牧師の言葉。「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようになりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。どんなに良心的に考えても、私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない。なぜなら、悪への非協力は、善への協力と同じほどの道徳的義務だからである。だから、私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。つらいことだが、それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。真夜中に、頭巾をかぶったあなたがたの暴漢を私たちの共同体に送り、私たちをその辺の道端に引きずり出し、ぶん殴って半殺しにしたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。国中に情報屋を回し、私たち黒人は文化的にもその他の面でも人種統合にふさわしくない、と人々に思わせたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。つまり、私たちの勝利は二重の勝利なのだ、ということをあなたがたの心と良心に強く訴えたいのである」。(コレッタ・スコット・キング編『キング牧師の言葉』) 「あなたがたをも勝ち取る」とは、友として勝ち取るということ。今黒人を差別し、暴力によって抑えつけようとしている白人たちと黒人との間に、平和が実現するということ。そのことを、「苦しむ能力、苦しみに耐える能力」によって実現していくのだというこの言葉は、まことに「平和を実現する者」の言葉。彼がこのように語ることができたのは、主イエス・キリストが、十字架の死によって、人々の敵意、罪をご自身の身に受け、死んで下さることによって敵意を滅ぼして下さったことを知っているから。そして彼が、いつの日か私たちは必ず勝利する、と確信をもって語ることができたのは、父なる神が主イエスを死者の中から復活させ、死の力に勝利しておられることを知っているから。彼は、平和を実現する神の子イエス・キリストを信じ、その主イエスに従っていくことによって、平和を実現する神の子として生きた。私たちもこの信仰を受け継ぎ、平和を実現して下さる主イエスの後に従っていく。その時私たちも、平和を実現する神の子らのはしくれに加わることができる。平和を実現する者たちの幸いに生きることができる。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 心の清い人々の幸い(마음이 깨끗한 사람들의 행복)/ マタイ5:8(마5:8)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 心の清い人々の幸い(마음이 깨끗한 사람들의 행복) マタイ5:8(마5:8) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 心の清い人々の幸い マタイによる福音書 第5章8節   1.信仰とは、心の清い人になろうと努力すること? 私のような汚れた不純な人間は神様を見ることなどできない。だから少しでも心の清い人になるために教会の礼拝に通い、聖書を読み、祈っている…。 2.「清い」とは  「清いもの」と「汚れたもの」とを区別することが、旧約聖書の重大な関心事の一つ。 それは神様のみ前に出るため。 日本でも、神事に携わる人は斎戒沐浴して身を清める。水で洗うのは象徴的行為。心の中の汚れをおとさないで、ただ体の表面だけを洗い清めても意味はない(マタイ23章25、6節)。 神様のみ前に出ることのできる清さは、心の清さ。(詩編24編) 3.悔い改め  私たちは、自分がとても神様のみ前に出ることのできない、汚れた、罪深い者であることを覚えずにはおれない。それゆえに私たちは、神様を礼拝する最初に、罪を告白し、赦しと憐れみを求めなければならない、つまり悔い改めなければならない。 悔い改めの詩編の代表的なもの=詩編第51編 自分の罪、汚れに本当に気づき、おののく時に、私たちはこのように祈るしかない。身勝手と言われようが、虫が好いと言われようが、神様の憐れみにすがるしかない。それが悔い改め。その悔い改めによってこそ私たちは神様のみ前に出て、礼拝をすることができる。 4.主イエスの求める清さ  ルカによる福音書第18章9節以下(ファリサイ派の人と徴税人の祈り)。 義とされて家に帰った=「心の清い者」と認められたのは徴税人だった。 ファリサイ派の人が見つめているのは自分の姿。彼は目を天に向けてはいても、神ではなく自分自身を見、また隣にいる徴税人と自分を比較している。 徴税人は、ただひたすら神を見つめている。罪人である自分の姿を嘆き悲しみつつ、その自分からは目を離して、ただ神様の憐れみを求めている。そのことによって彼は、義とされ、心の清い者と認められた。 心の清い人とは、自分の姿から目を離し、神様を見つめ、神様の憐れみを求める人。神様から目を離し、自分がどれだけ良い者であるか、人と比べてどうであるか、を見つめるようになる時、私たちの心は、誇り、高ぶり、プライド、嫉み、うらみ、卑屈な思いなどの汚れで満たされていく。 5.その人たちは神を見る  神をこそ見つめている人は、神を見ることができる。 自分の姿を鏡に写して、ここがまだ汚れている、あそこをもっと清くしなければ、と言っているのをやめて、神様をこそ見つめ、神様の憐れみを願い求めるところでこそ、あなたがたは神様を見ることができる、神様と出会うことができる。何の汚れも罪もない、清い純粋な心になることによって神を見るのではない。むしろ罪や汚れの中にいる者が、その中から、神の憐れみと赦しをひたすら求めて祈る所で、神を見ることができる。 神の憐れみと赦しは主イエス・キリストによって、その十字架の死と復活によって与えられる。 自分の罪や汚れの中から、神の憐れみと赦しを祈り求めるとは、主イエス・キリストをこそ見つめ、よりすがっていくこと。主イエス・キリストの十字架の死と復活においてこそ、神はご自身を示して下さる。主イエス・キリストにおいてこそ、私たちの罪の赦しのために十字架かかって死んで下さった神を見ることができる。ただひたすら主イエス・キリストの十字架を見つめていく者こそが心の清い人。神はその人にご自身を示し、その恵みをはっきりと見せて下さる。 6.世の終わりに この世を生きる私たちは、神を肉体の目で見ることはできない。私たちは、信仰の目によって神を見る。 しかしいつまでもそうなのではない。今は隠されている真理(神のご支配、キリストによる救い)が顕わになる時が来る。それはキリストの再臨による世の終わりの時。その時私たちははっきりと神を見ることができる。 コリントの信徒への手紙一第13章12節 「その人たちは神を見る」という幸いの約束は、世の終わりに成就完成する。 「今は一部しか知らない」、しかし「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(口語訳「わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」)。 7.良い循環  世の終わりに、私たちは神を、その恵みを、はっきりと、完全に知る者となる。けれどもその前に、今既に、神は私たちのことを完全に知っておられる。神が私たちの全て(罪も汚れも)を完全に知っておられ、なお愛し、赦していて下さるから、私たちは自分の罪や汚れや弱さから目を離して、神を見つめていくことができる。神をまっすぐに見つめる清い心をもって生きることができる。自分自身を見つめるならば、私たちは決して清い者ではない。外面的にはともかく、心において清い者であることのできる人は一人もいない。しかしそのような私たちを、主イエスが、十字架の苦しみと死、そして復活の恵みによって招いて下さり、神様をまっすぐに見つめ「罪人の私を憐れんでください」と祈る清い心を造り出し、与えて下さる。 神様がこの主イエス・キリストの恵みによって招いていて下さるから、私たちは悔い改めることができる。 神様をまっすぐに見つめ、憐れみと赦しを祈り願うことができる。 そこで私たちは神を見る。私たちのために十字架の苦しみと死とを引き受けて下さった恵みの神を見る。主イエス・キリストによる神の招きによって、自分自身から目を離し、神の憐れみと赦しを求めていく者が、主イエス・キリストにおいて恵みの神を見る。そのことによってますます、神の招きを確信し、ますますまっすぐに神を見つめる者となっていく。そういう良い循環の中に身を置くことこそ、心の清い者の幸いである。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 心の清い人々の幸い(마음이 깨끗한 사람들의 행복)/ マタイ5:8(마5:8)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 心の清い人々の幸い(마음이 깨끗한 사람들의 행복) マタイ5:8(마5:8) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 心の清い人々の幸い マタイによる福音書 第5章8節   1.信仰とは、心の清い人になろうと努力すること? 私のような汚れた不純な人間は神様を見ることなどできない。だから少しでも心の清い人になるために教会の礼拝に通い、聖書を読み、祈っている…。 2.「清い」とは  「清いもの」と「汚れたもの」とを区別することが、旧約聖書の重大な関心事の一つ。 それは神様のみ前に出るため。 日本でも、神事に携わる人は斎戒沐浴して身を清める。水で洗うのは象徴的行為。心の中の汚れをおとさないで、ただ体の表面だけを洗い清めても意味はない(マタイ23章25、6節)。 神様のみ前に出ることのできる清さは、心の清さ。(詩編24編) 3.悔い改め  私たちは、自分がとても神様のみ前に出ることのできない、汚れた、罪深い者であることを覚えずにはおれない。それゆえに私たちは、神様を礼拝する最初に、罪を告白し、赦しと憐れみを求めなければならない、つまり悔い改めなければならない。 悔い改めの詩編の代表的なもの=詩編第51編 自分の罪、汚れに本当に気づき、おののく時に、私たちはこのように祈るしかない。身勝手と言われようが、虫が好いと言われようが、神様の憐れみにすがるしかない。それが悔い改め。その悔い改めによってこそ私たちは神様のみ前に出て、礼拝をすることができる。 4.主イエスの求める清さ  ルカによる福音書第18章9節以下(ファリサイ派の人と徴税人の祈り)。 義とされて家に帰った=「心の清い者」と認められたのは徴税人だった。 ファリサイ派の人が見つめているのは自分の姿。彼は目を天に向けてはいても、神ではなく自分自身を見、また隣にいる徴税人と自分を比較している。 徴税人は、ただひたすら神を見つめている。罪人である自分の姿を嘆き悲しみつつ、その自分からは目を離して、ただ神様の憐れみを求めている。そのことによって彼は、義とされ、心の清い者と認められた。 心の清い人とは、自分の姿から目を離し、神様を見つめ、神様の憐れみを求める人。神様から目を離し、自分がどれだけ良い者であるか、人と比べてどうであるか、を見つめるようになる時、私たちの心は、誇り、高ぶり、プライド、嫉み、うらみ、卑屈な思いなどの汚れで満たされていく。 5.その人たちは神を見る  神をこそ見つめている人は、神を見ることができる。 自分の姿を鏡に写して、ここがまだ汚れている、あそこをもっと清くしなければ、と言っているのをやめて、神様をこそ見つめ、神様の憐れみを願い求めるところでこそ、あなたがたは神様を見ることができる、神様と出会うことができる。何の汚れも罪もない、清い純粋な心になることによって神を見るのではない。むしろ罪や汚れの中にいる者が、その中から、神の憐れみと赦しをひたすら求めて祈る所で、神を見ることができる。 神の憐れみと赦しは主イエス・キリストによって、その十字架の死と復活によって与えられる。 自分の罪や汚れの中から、神の憐れみと赦しを祈り求めるとは、主イエス・キリストをこそ見つめ、よりすがっていくこと。主イエス・キリストの十字架の死と復活においてこそ、神はご自身を示して下さる。主イエス・キリストにおいてこそ、私たちの罪の赦しのために十字架かかって死んで下さった神を見ることができる。ただひたすら主イエス・キリストの十字架を見つめていく者こそが心の清い人。神はその人にご自身を示し、その恵みをはっきりと見せて下さる。 6.世の終わりに この世を生きる私たちは、神を肉体の目で見ることはできない。私たちは、信仰の目によって神を見る。 しかしいつまでもそうなのではない。今は隠されている真理(神のご支配、キリストによる救い)が顕わになる時が来る。それはキリストの再臨による世の終わりの時。その時私たちははっきりと神を見ることができる。 コリントの信徒への手紙一第13章12節 「その人たちは神を見る」という幸いの約束は、世の終わりに成就完成する。 「今は一部しか知らない」、しかし「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(口語訳「わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」)。 7.良い循環  世の終わりに、私たちは神を、その恵みを、はっきりと、完全に知る者となる。けれどもその前に、今既に、神は私たちのことを完全に知っておられる。神が私たちの全て(罪も汚れも)を完全に知っておられ、なお愛し、赦していて下さるから、私たちは自分の罪や汚れや弱さから目を離して、神を見つめていくことができる。神をまっすぐに見つめる清い心をもって生きることができる。自分自身を見つめるならば、私たちは決して清い者ではない。外面的にはともかく、心において清い者であることのできる人は一人もいない。しかしそのような私たちを、主イエスが、十字架の苦しみと死、そして復活の恵みによって招いて下さり、神様をまっすぐに見つめ「罪人の私を憐れんでください」と祈る清い心を造り出し、与えて下さる。 神様がこの主イエス・キリストの恵みによって招いていて下さるから、私たちは悔い改めることができる。 神様をまっすぐに見つめ、憐れみと赦しを祈り願うことができる。 そこで私たちは神を見る。私たちのために十字架の苦しみと死とを引き受けて下さった恵みの神を見る。主イエス・キリストによる神の招きによって、自分自身から目を離し、神の憐れみと赦しを求めていく者が、主イエス・キリストにおいて恵みの神を見る。そのことによってますます、神の招きを確信し、ますますまっすぐに神を見つめる者となっていく。そういう良い循環の中に身を置くことこそ、心の清い者の幸いである。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 心の清い人々の幸い(마음이 깨끗한 사람들의 행복)/ マタイ5:8(마5:8)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 心の清い人々の幸い(마음이 깨끗한 사람들의 행복) マタイ5:8(마5:8) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 心の清い人々の幸い マタイによる福音書 第5章8節   1.信仰とは、心の清い人になろうと努力すること? 私のような汚れた不純な人間は神様を見ることなどできない。だから少しでも心の清い人になるために教会の礼拝に通い、聖書を読み、祈っている…。 2.「清い」とは  「清いもの」と「汚れたもの」とを区別することが、旧約聖書の重大な関心事の一つ。 それは神様のみ前に出るため。 日本でも、神事に携わる人は斎戒沐浴して身を清める。水で洗うのは象徴的行為。心の中の汚れをおとさないで、ただ体の表面だけを洗い清めても意味はない(マタイ23章25、6節)。 神様のみ前に出ることのできる清さは、心の清さ。(詩編24編) 3.悔い改め  私たちは、自分がとても神様のみ前に出ることのできない、汚れた、罪深い者であることを覚えずにはおれない。それゆえに私たちは、神様を礼拝する最初に、罪を告白し、赦しと憐れみを求めなければならない、つまり悔い改めなければならない。 悔い改めの詩編の代表的なもの=詩編第51編 自分の罪、汚れに本当に気づき、おののく時に、私たちはこのように祈るしかない。身勝手と言われようが、虫が好いと言われようが、神様の憐れみにすがるしかない。それが悔い改め。その悔い改めによってこそ私たちは神様のみ前に出て、礼拝をすることができる。 4.主イエスの求める清さ  ルカによる福音書第18章9節以下(ファリサイ派の人と徴税人の祈り)。 義とされて家に帰った=「心の清い者」と認められたのは徴税人だった。 ファリサイ派の人が見つめているのは自分の姿。彼は目を天に向けてはいても、神ではなく自分自身を見、また隣にいる徴税人と自分を比較している。 徴税人は、ただひたすら神を見つめている。罪人である自分の姿を嘆き悲しみつつ、その自分からは目を離して、ただ神様の憐れみを求めている。そのことによって彼は、義とされ、心の清い者と認められた。 心の清い人とは、自分の姿から目を離し、神様を見つめ、神様の憐れみを求める人。神様から目を離し、自分がどれだけ良い者であるか、人と比べてどうであるか、を見つめるようになる時、私たちの心は、誇り、高ぶり、プライド、嫉み、うらみ、卑屈な思いなどの汚れで満たされていく。 5.その人たちは神を見る  神をこそ見つめている人は、神を見ることができる。 自分の姿を鏡に写して、ここがまだ汚れている、あそこをもっと清くしなければ、と言っているのをやめて、神様をこそ見つめ、神様の憐れみを願い求めるところでこそ、あなたがたは神様を見ることができる、神様と出会うことができる。何の汚れも罪もない、清い純粋な心になることによって神を見るのではない。むしろ罪や汚れの中にいる者が、その中から、神の憐れみと赦しをひたすら求めて祈る所で、神を見ることができる。 神の憐れみと赦しは主イエス・キリストによって、その十字架の死と復活によって与えられる。 自分の罪や汚れの中から、神の憐れみと赦しを祈り求めるとは、主イエス・キリストをこそ見つめ、よりすがっていくこと。主イエス・キリストの十字架の死と復活においてこそ、神はご自身を示して下さる。主イエス・キリストにおいてこそ、私たちの罪の赦しのために十字架かかって死んで下さった神を見ることができる。ただひたすら主イエス・キリストの十字架を見つめていく者こそが心の清い人。神はその人にご自身を示し、その恵みをはっきりと見せて下さる。 6.世の終わりに この世を生きる私たちは、神を肉体の目で見ることはできない。私たちは、信仰の目によって神を見る。 しかしいつまでもそうなのではない。今は隠されている真理(神のご支配、キリストによる救い)が顕わになる時が来る。それはキリストの再臨による世の終わりの時。その時私たちははっきりと神を見ることができる。 コリントの信徒への手紙一第13章12節 「その人たちは神を見る」という幸いの約束は、世の終わりに成就完成する。 「今は一部しか知らない」、しかし「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(口語訳「わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」)。 7.良い循環  世の終わりに、私たちは神を、その恵みを、はっきりと、完全に知る者となる。けれどもその前に、今既に、神は私たちのことを完全に知っておられる。神が私たちの全て(罪も汚れも)を完全に知っておられ、なお愛し、赦していて下さるから、私たちは自分の罪や汚れや弱さから目を離して、神を見つめていくことができる。神をまっすぐに見つめる清い心をもって生きることができる。自分自身を見つめるならば、私たちは決して清い者ではない。外面的にはともかく、心において清い者であることのできる人は一人もいない。しかしそのような私たちを、主イエスが、十字架の苦しみと死、そして復活の恵みによって招いて下さり、神様をまっすぐに見つめ「罪人の私を憐れんでください」と祈る清い心を造り出し、与えて下さる。 神様がこの主イエス・キリストの恵みによって招いていて下さるから、私たちは悔い改めることができる。 神様をまっすぐに見つめ、憐れみと赦しを祈り願うことができる。 そこで私たちは神を見る。私たちのために十字架の苦しみと死とを引き受けて下さった恵みの神を見る。主イエス・キリストによる神の招きによって、自分自身から目を離し、神の憐れみと赦しを求めていく者が、主イエス・キリストにおいて恵みの神を見る。そのことによってますます、神の招きを確信し、ますますまっすぐに神を見つめる者となっていく。そういう良い循環の中に身を置くことこそ、心の清い者の幸いである。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 悲しむ人々の幸い(애통하는 사람들의 행복)/ マタイ5:4(마5:4)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 悲しむ人々の幸い(애통하는 사람들의 행복) マタイ5:4(마5:4) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 悲しむ人々の幸い マタイによる福音書 第5章4節   1.悲しんでいる人が何故幸いなのか? この言葉は以下のように読まれることが多かった。  「この悲しみとは、自分の罪を嘆き悲しむこと。つまりこの幸いは、悔い改める者の幸い。  悔い改めこそが、神様から与えられる本当の祝福、幸いへの道である。自分の罪を悲しむことは、他者の罪を悲しむことにもつながる。そこには、人の罪をただ批判し裁くのではなく、それを共に嘆き悲しむ姿勢が生まれる。そのような働きかけによって、罪を犯している者が悔い改めへと導かれていく。 またそれは、この世に起る様々な悲惨な出来事、人間の罪が引き起こす苦しみの現実を悲しむことにもつながる。戦争、難民、飢餓、災害、南北問題… これらの現実を悲しむところから、何とかしていこうとする努力が生じる。人の悲しみへの共感、同情はとても大事。人の悲しみを自分の悲しみとする感受性は、自分自身の悲しみの中で育てられる。悲しみを知っている者こそが、人の悲しみを思いやり、人と心を通わせることができる。 そういう意味で、悲しむ人々は幸いであると言うことができる。」 しかしこのように理解し、説明する時に、この言葉は私たちから遠く離れた、別の世界の事柄になってしまうのではないか。私たちは、自分の罪を嘆き悲しむよりもむしろ、いろいろと言い訳をし、人のせいにしてしまう。人の罪を悲しむよりもそれを喜び、興味の対象とし、優越感にひたっている。 また本当に悲しんでいる時には、自分のことで精一杯で、人のことをかまっている余裕などなくなる。それが私たちの現実ではないだろうか。 「悲しみはこのような意味で幸いなのだ」と説明するどのような言葉も、私たちの現実の具体的な悲しみの前では力を失い、私たちとは遠く離れた別世界の話になってしまう。 2.宣言された幸い  主イエスは、悲しむ人々はこういう意味で幸いなのだ、という説明をしてはいない。主イエスが語っているのは、悲しむ人々は幸いであるという宣言。このような悲しみならば、という限定も、このような見方をすれば、という留保もない。私たちはそれぞれが、様々な悲しみをかかえている。その私たち一人一人に対して、「悲しむ人々は、幸いである」と宣言されている。この宣言によって主イエスは、悲しんでいる私たちの現実のただ中に、幸いを作り出そうとしておられる。 その幸いとは何か。 それは「その人たちは慰められる」ということ。 悲しむ人々には、慰めが与えられる、そこに、悲しむ人々の幸いがあると主イエスは言われる。 3.慰めとは何か  私たちは、悲しみは人それぞれに違っており、だから慰めも人によって違うものとなると考える。 「慰め」を、悲しみの原因の解決、解消と考えるならばその通り。しかし「慰められる」とは、問題の解決や解消ではなく、悲しみの現実の中で、その重荷を背負って生きていく力を与えられること。慰められることによって、悲しみがなくなるのではなく、悲しみを背負って生きていく力を与えられる。 「慰める」という言葉は、「励ます」、「勧める」とも訳される、広がりを持った言葉。 そのもとの意味は「傍らに呼ぶ」。慰めは、傍らに呼んで下さる方がおられるところに与えられる。私たちを傍らに呼んで、慰めと励ましと勧めを与えて下さるのは主イエス・キリスト。 「その人たちは慰められる」とは、主イエスご自身が、悲しむ者たちを傍らに呼び、ねんごろに慰めを与えて下さる、という宣言、約束。 4.どこで慰めを受けるのか 私たちはどこで主イエスの傍らに呼ばれるのか。 日曜日の礼拝の時間に、人生の戦いからしばし離れて、監督が試合の途中にタイムをかけて選手たちを呼ぶように主イエスのもとに呼ばれ、慰め、励まし、勧めを受けるのか。しかし人生にタイムはない。私たちは、自分の悲しみの全てをかかえたままで礼拝に集う。そこで主イエスの傍らに呼ばれることが起る。 それは実は、主イエスの方が、悲しんでいる私たちの傍らへと来て下さり、ねんごろに語りかけて下さるということ。主イエス・キリストがこの世にお生まれになったことにはそういう意味がある。私たちは、主イエスの傍らに呼ばれるのではなくて、主イエスご自身が、私たちの傍らにまで降りて来て下さって、悲しんでいる私たちの傍らに立って下さっている。悲しみにおしつぶされそうになっている身をひきずるようにして、私たちは礼拝に集う。そしてそこで、私たちのために苦しみと死とを引き受けて下さった主イエス・キリストが、傍らにいて、私たちを担い、支えていて下さることを示される。そして慰めを受ける。 5.悲しみを背負って  悲しみの現実はなお変わることなく私たちの重荷としてある。しかし、その下にある私たちが、傍らに共にいて下さる主イエスとの出会いによって、主イエスが悲しむ私たちを担って下さることによって、悲しみに押しつぶされることなく、それを背負って立ち上がり、新しい一歩を踏み出していく力を与えられる。その力は私たちの中にあるものではない。主イエス・キリストの父なる神様から与えられるもの。主イエスによって、父なる神様が、私たちをご自分のものとして傍らに置いて下さる。それによって大きな力が与えられ、それぞれの悲しみを背負いながら、共にいて下さる主イエスに支えられて歩む者とされる。 その歩みの中で、慰めを与えられる。悲しむ人々が幸いであるのは、この慰めのゆえである。 3節の「心の貧しい人々は、幸いである」という教えにおいて、心の貧しいことそれ自体が幸いなことではなかったように、「悲しむ人々は幸いである」という教えも、悲しみそれ自体が幸いであったり、価値があったりするわけではない。悲しみをも無理に幸いと思わければならないのではない。私たちのために十字架の苦しみと死とを受けて下さった主イエス・キリストが傍らにいて下さることによって、悲しむ私たちが慰められる。 その慰めをいただきつつ歩む時に、私たちの悲しみは、意味のあるものとなる。 人の悲しみに共感する感性が与えられていくというのもその一つ。自分の罪を悲しみ、悔い改めることも、この主イエスによる慰めの中でこそできる。そして人の罪を悲しみ、それを責めるのではなく共に嘆き悲しみ、共に悔い改めへと至るということも、主イエスによる慰めを与えられている者にこそできること。 主イエス・キリストによる慰めの中で悲しむ者は幸いなのである。 6.あなたは悲しんでよい  信仰者はいつも喜んでいなければならない、という強迫観念に捉えられる必要はない。 主イエスはここで、悲しむ人々の幸いを語られた。「あなたがたは悲しんでよいのだ、泣いてよいのだ。ただ、忘れないでほしい、その悲しんでいるあなたの傍らに、私がいる、泣いているあなたの隣に私がいて、慰めを与えようとしている、あなたがたの悲しみは、その慰めの中にあるのだ」。 この慰めの中で生きることが信仰。 「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5・16)というのは、悲しみなどないかのように、あってもおし隠して生きよということではなくて、この慰めに支えられて、悲しみを背負って歩みなさいということである。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 悲しむ人々の幸い(애통하는 사람들의 행복)/ マタイ5:4(마5:4)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 悲しむ人々の幸い(애통하는 사람들의 행복) マタイ5:4(마5:4) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 悲しむ人々の幸い マタイによる福音書 第5章4節   1.悲しんでいる人が何故幸いなのか? この言葉は以下のように読まれることが多かった。  「この悲しみとは、自分の罪を嘆き悲しむこと。つまりこの幸いは、悔い改める者の幸い。  悔い改めこそが、神様から与えられる本当の祝福、幸いへの道である。自分の罪を悲しむことは、他者の罪を悲しむことにもつながる。そこには、人の罪をただ批判し裁くのではなく、それを共に嘆き悲しむ姿勢が生まれる。そのような働きかけによって、罪を犯している者が悔い改めへと導かれていく。 またそれは、この世に起る様々な悲惨な出来事、人間の罪が引き起こす苦しみの現実を悲しむことにもつながる。戦争、難民、飢餓、災害、南北問題… これらの現実を悲しむところから、何とかしていこうとする努力が生じる。人の悲しみへの共感、同情はとても大事。人の悲しみを自分の悲しみとする感受性は、自分自身の悲しみの中で育てられる。悲しみを知っている者こそが、人の悲しみを思いやり、人と心を通わせることができる。 そういう意味で、悲しむ人々は幸いであると言うことができる。」 しかしこのように理解し、説明する時に、この言葉は私たちから遠く離れた、別の世界の事柄になってしまうのではないか。私たちは、自分の罪を嘆き悲しむよりもむしろ、いろいろと言い訳をし、人のせいにしてしまう。人の罪を悲しむよりもそれを喜び、興味の対象とし、優越感にひたっている。 また本当に悲しんでいる時には、自分のことで精一杯で、人のことをかまっている余裕などなくなる。それが私たちの現実ではないだろうか。 「悲しみはこのような意味で幸いなのだ」と説明するどのような言葉も、私たちの現実の具体的な悲しみの前では力を失い、私たちとは遠く離れた別世界の話になってしまう。 2.宣言された幸い  主イエスは、悲しむ人々はこういう意味で幸いなのだ、という説明をしてはいない。主イエスが語っているのは、悲しむ人々は幸いであるという宣言。このような悲しみならば、という限定も、このような見方をすれば、という留保もない。私たちはそれぞれが、様々な悲しみをかかえている。その私たち一人一人に対して、「悲しむ人々は、幸いである」と宣言されている。この宣言によって主イエスは、悲しんでいる私たちの現実のただ中に、幸いを作り出そうとしておられる。 その幸いとは何か。 それは「その人たちは慰められる」ということ。 悲しむ人々には、慰めが与えられる、そこに、悲しむ人々の幸いがあると主イエスは言われる。 3.慰めとは何か  私たちは、悲しみは人それぞれに違っており、だから慰めも人によって違うものとなると考える。 「慰め」を、悲しみの原因の解決、解消と考えるならばその通り。しかし「慰められる」とは、問題の解決や解消ではなく、悲しみの現実の中で、その重荷を背負って生きていく力を与えられること。慰められることによって、悲しみがなくなるのではなく、悲しみを背負って生きていく力を与えられる。 「慰める」という言葉は、「励ます」、「勧める」とも訳される、広がりを持った言葉。 そのもとの意味は「傍らに呼ぶ」。慰めは、傍らに呼んで下さる方がおられるところに与えられる。私たちを傍らに呼んで、慰めと励ましと勧めを与えて下さるのは主イエス・キリスト。 「その人たちは慰められる」とは、主イエスご自身が、悲しむ者たちを傍らに呼び、ねんごろに慰めを与えて下さる、という宣言、約束。 4.どこで慰めを受けるのか 私たちはどこで主イエスの傍らに呼ばれるのか。 日曜日の礼拝の時間に、人生の戦いからしばし離れて、監督が試合の途中にタイムをかけて選手たちを呼ぶように主イエスのもとに呼ばれ、慰め、励まし、勧めを受けるのか。しかし人生にタイムはない。私たちは、自分の悲しみの全てをかかえたままで礼拝に集う。そこで主イエスの傍らに呼ばれることが起る。 それは実は、主イエスの方が、悲しんでいる私たちの傍らへと来て下さり、ねんごろに語りかけて下さるということ。主イエス・キリストがこの世にお生まれになったことにはそういう意味がある。私たちは、主イエスの傍らに呼ばれるのではなくて、主イエスご自身が、私たちの傍らにまで降りて来て下さって、悲しんでいる私たちの傍らに立って下さっている。悲しみにおしつぶされそうになっている身をひきずるようにして、私たちは礼拝に集う。そしてそこで、私たちのために苦しみと死とを引き受けて下さった主イエス・キリストが、傍らにいて、私たちを担い、支えていて下さることを示される。そして慰めを受ける。 5.悲しみを背負って  悲しみの現実はなお変わることなく私たちの重荷としてある。しかし、その下にある私たちが、傍らに共にいて下さる主イエスとの出会いによって、主イエスが悲しむ私たちを担って下さることによって、悲しみに押しつぶされることなく、それを背負って立ち上がり、新しい一歩を踏み出していく力を与えられる。その力は私たちの中にあるものではない。主イエス・キリストの父なる神様から与えられるもの。主イエスによって、父なる神様が、私たちをご自分のものとして傍らに置いて下さる。それによって大きな力が与えられ、それぞれの悲しみを背負いながら、共にいて下さる主イエスに支えられて歩む者とされる。 その歩みの中で、慰めを与えられる。悲しむ人々が幸いであるのは、この慰めのゆえである。 3節の「心の貧しい人々は、幸いである」という教えにおいて、心の貧しいことそれ自体が幸いなことではなかったように、「悲しむ人々は幸いである」という教えも、悲しみそれ自体が幸いであったり、価値があったりするわけではない。悲しみをも無理に幸いと思わければならないのではない。私たちのために十字架の苦しみと死とを受けて下さった主イエス・キリストが傍らにいて下さることによって、悲しむ私たちが慰められる。 その慰めをいただきつつ歩む時に、私たちの悲しみは、意味のあるものとなる。 人の悲しみに共感する感性が与えられていくというのもその一つ。自分の罪を悲しみ、悔い改めることも、この主イエスによる慰めの中でこそできる。そして人の罪を悲しみ、それを責めるのではなく共に嘆き悲しみ、共に悔い改めへと至るということも、主イエスによる慰めを与えられている者にこそできること。 主イエス・キリストによる慰めの中で悲しむ者は幸いなのである。 6.あなたは悲しんでよい  信仰者はいつも喜んでいなければならない、という強迫観念に捉えられる必要はない。 主イエスはここで、悲しむ人々の幸いを語られた。「あなたがたは悲しんでよいのだ、泣いてよいのだ。ただ、忘れないでほしい、その悲しんでいるあなたの傍らに、私がいる、泣いているあなたの隣に私がいて、慰めを与えようとしている、あなたがたの悲しみは、その慰めの中にあるのだ」。 この慰めの中で生きることが信仰。 「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5・16)というのは、悲しみなどないかのように、あってもおし隠して生きよということではなくて、この慰めに支えられて、悲しみを背負って歩みなさいということである。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 憐れみ深い人々の幸い(긍휼히 여기는 사람들의 행복)/ マタイ5:7(마5:7)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 憐れみ深い人々の幸い(긍휼히 여기는 사람들의 행복) マタイ5:7(마5:7) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 憐れみ深い人々の幸い マタイによる福音書 第5章7節   1.「情けは人のためならず」? 日本の諺に「情けは人のためならず」というのがある。 私たちは主イエスのこの教えをそれと同じと理解し、「この教えは既に知っている」と思っているのではないか? この諺における「情け」と、主イエスの言われる「憐れみ」は同じなのか? 「憐れみ深い」についての聖書の教え マタイ福音書25章31節以下 「憐れみ深い人々」とは、思うだけでなく具体的な行動ができる人。自分の周囲にいる、自分が助けるべき「最も小さい人の一人」に気づく感性を持っている人。隣人を見出し、隣人となることができる人。 ルカによる福音書第10章25節以下(「善いサマリア人」の話) 隣人になるとは、敵意を乗り越えること。「最も小さい者」とはしばしば自分の敵のこと。 「憐れみ深い者」=敵をも愛する人(5章44節)。 これらの教えから、主イエスが教えている「憐れみ」は、「情けは人のためならず」の「情け」をはるかに越えたものであることがわかる。私たちは、自分は「憐れみ深さ」からはるかに遠いと言わざるを得ない。そのことを知ることによってこそ、私たちはこの教えの前に本当に立つことができる。「情けは人のためならず」と同じに受け止め、「それは知っている」と思っている間は、この教えを本当に聞くことができない。 「幸いの教え」はどれも、私たちがもともと知っていることではない。 主イエスはこれらの教えによって、私たちの生活の中に、私たちの知らない新しい、本当の幸いを造り出そうとしておられる。 2.神の憐れみ  この教えが与えようとしている「幸い」は、「その人たちは憐れみを受ける」という幸い。 それは人からの憐れみでなく、神の憐れみ。 神の憐れみとはどのようなものか? 詩編第89編 「主の慈しみ」(2節)=「憐れみ」 「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び、わたしの僕ダビデに誓った。あなたの子孫をとこしえに立て、あなたの王座を代々に備える、と」(4、5節)。 主の慈しみとは、お選びになった者(ここではダビデとその子孫)と契約を結び、それをどこまでも守って下さること。 31~33節…ダビデの子孫である王たちの罪とそれに対する神の罰 「それでもなお、わたしは慈しみを彼から取り去らず、わたしの真実をむなしくすることはない。契約を破ることをせず、わたしの唇から出た言葉を変えることはない」 (34、5節) 主なる神が、人間との間に結んだ契約をどこまでも守り、人間の裏切りに対して怒りはするし罰を与えるが、契約を破棄することなく、どこまでもそれに忠実であって下さる。これが神の慈しみ=憐れみ。この神の憐れみは、主イエス・キリストによって私たちに与えられている。キリストの十字架の死によって、神は私たちと新しい契約を結んで下さった。その契約において、私たちは罪を赦され、神の恵みの下に生きる新しい命を与えられている。私たちは主イエスが求めておられる憐れみからほど遠い者だが、既にこのような憐れみを受けている。 3.憐れみを受けた者として  7節の教えは、「憐れみ深い者となりなさい、そうすればあなたがたは神の憐れみを受けることができ、幸いになることができる」ということではない。私たちはキリストによって神の憐れみを既に受けているがゆえに、憐れみ深い者となることができるし、そのために努力することができる、ということ。 18章21節以下(「仲間を赦さない家来のたとえ」) 「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(33節)。 私たちは自分では決して償うことができない罪(負債)を、キリストの十字架の死によって赦して(帳消しにして)いただいた。借金を帳消しにする時に、貸していた者は損害を引き受ける。神が私たちの罪を赦すために引き受けて下さった損害が、独り子主イエス・キリストの十字架の死。そこに神の深い憐れみがある。その憐れみを受けた私たちが、自分に百デナリオンの負債(罪)のある人を赦すこと、それが、私たちが「憐れみ深い者」となること。百デナリオンは決して小さい額ではない。人を赦し、憐れみ深い者であろうとすることは、苦しみと損害を伴う。「情けは人のためならず(=それは結局は自分のためだ)」などと思っていたらそれはできない。どう廻り廻っても自分のためになりそうもない、損失を受けることにしかならない、という場面において、私たちの憐れみ深さが問われている。そこでなお憐れみ深い者として生きることは、主イエスによって神の大きな憐れみをいただいていることを知り、その憐れみに応えて生きようとする所でこそ可能となる。 逆に私たちが人に対して憐れみ深くなろうとしないならば、それは神が御子の十字架の死によって与えて下さった憐れみを無にすることになる。 4.憐れみ深い人々の幸い  憐れみ深い人が憐れみを受け、幸いになるのではない。神の憐れみを受けている幸いな者が、憐れみ深くあろうとすることができる。それが信仰における順序。それならなぜ主イエスは「憐れみを受けている人々は幸いである、その人たちは憐れみ深くあるであろう」と言わないのか。 マタイ18章においても、あのたとえ話の前に、「あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」というみ言葉がある。 七の七十倍までも(徹底的に)兄弟の罪を赦す、憐れみ深い者であれ、とまず命じられている。あなたがたは憐れみを受けている者なのだから、という根拠はその後で示される。それと同じように、私たちは、「憐れみ深い人々は幸いである」という主のお言葉に従って、人の自分に対する百デナリオンの罪を赦そうと努力していく。そのことの中でこそ、主イエス・キリストによる神の憐れみ(一万タラントンの赦し)を本当に知ることができる。憐れみにほど遠い者であることをいつも思い知らされていく私たちだが、主イエスにおける神の憐れみを知らされているがゆえに、なお憐れみ深い者であろうとすることができる。そこに、私たちの幸いがある。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 柔和な人々の幸い(온유한 사람들의 행복)/ マタイ5:5(마5:5)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 柔和な人々の幸い(온유한 사람들의 행복) マタイ5:5(마5:5) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 柔和な人々の幸い マタイによる福音書 第5章5節   1.柔和とは  「穏やかな、やさしい」、しかし「軟弱」ではない、本当の強さに基づくもの。  「柔和」と訳されている聖書の言葉は、「中庸な」という意味   怒るべき時に怒り、怒るべきでない時には怒らない、強い自己制御能力  「訓練を受けている人びとの祝福」(ウィリアム・バークレー『山上の説教に学ぶ』)  このような柔和さを持っている人は確かに幸いだと私たちは思う。 2.幸いだから柔和になれる?   しかし私たちは次のようにも思うのでは?  「柔和になれるのは幸いな人だけだ。私はとてもそんなにおっとりと構えていられるような状態にない。私は柔和に生きることができるほど幸いではないし、そんな余裕はない」 3.詩編37編  この教えは旧約聖書、詩編第37編11節からの引用  「貧しい人は地を継ぎ」(「しかし柔和な者は国を継ぎ」、口語訳聖書)  「柔和な」という新約の言葉は、この個所の「七十人訳」(ギリシャ語訳)による。  「柔和」という言葉の背後には、「貧しい」という言葉がある。  詩編37編において「貧しい人」とはどのような人か。  「悪事を謀る者は断たれ、主に望みをおく人は、地を継ぐ」(9節)  「神の祝福を受けた人は地を継ぐ。神の呪いを受けた者は断たれる」(22節)  …「貧しい人」とは、主に望みをおき、神の祝福を受ける人  「地を受け継ぐ」=神の豊かな祝福の中に生かされる  この「貧しい人々」は、7、8節のような苛立ちの中にある  「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や悪だくみをする者のことでいら立つな。怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない」(7、8節)。  悪事を行う者が繁栄し、豊かに富み栄えているという現実がある。それに対して、主なる神に従い、正しいことをして歩もうとする自分たちは、かえって苦しみを受け、いつまでも貧しい者であり続けている、という苛立ち。(1節も)  いっそのこと自分も彼らと一緒になって悪事を謀り、自分の豊かさを追及した方がよいのではないか、という苛立ちの中にある者たちに対して、苛立ってはならない、沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれ、主に望みを置け、貧しい人は地を継ぐのだ、あなたがたは神の豊かな祝福の約束を与えられているのだ、とこの詩は語っている。  つまり「柔和な人々」とは、決して幸いな、力と余裕のある人ではない。むしろ弱く貧しく力ない者が、神に従って生きようと必死になっている、しかし悪い者の方が富み栄えていくというこの世の現実の中で、押しつぶされそうになり、いっそ自分の好き勝手に生きていこうか、という苛立ちの中にある、そういう者こそがここで見つめられている。  私たちもしばしばこのような苛立ちを覚える。自分の弱さ、乏しさを嘆き、こんな自分の力では、こんな状況では、柔和になどなっておれない、なぜ神はもっと力を与えて下さらないのか、なぜもっとよい条件の下に置いて下さらないのか、とうらみつらみを言いたくなる。 主イエスはそういう私たち一人一人に、「柔和な人々は幸いである」と語りかけておられる。 4.柔和に生きることこそ幸い  詩編37編が教えているのは「柔和に生きよ」ということ。  悪事を謀る者が繁栄している現実の中でも苛立たずに、主に従う道に踏み止まれ、とこの詩は教えている。それは苛立ちまぎれに神を否定するような不信仰に走らず、しっかり自らを制御せよということ。そこにこそ神からの祝福、恵みが約束されている。  自分は貧しいから、余裕がないから、柔和になれない、と言っていたのでは救いはない。力も余裕もなく、苦しみと悲しみに翻弄され、苛立ちを覚えずにはおれない私たちが、そのような中で、沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれ、主に望みを置く、その柔和さによってこそ、私たちは信仰による幸いにあずかることができる。  柔和になれないとは、苛立ちに負けること。 そこでは、沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれるのではなく、自分が語りだし、自分の力で何とかしようとすることが起る。自分の思いに従って事を裁こうとするようになる。その裁きは、背後に苛立ちや怒りがある限り、幸いを生まない。 人を本当に救う働きは、怒りや苛立ちによってではなく、柔和さによってこそなされる。 5.真実に柔和な方、主イエス・キリスト  「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」 (11章28、29節)  主イエス・キリストは柔和で謙遜な方。苛立ちに負け、怒りに任せ、力に任せて事をなすのではなく、私たちの罪を黙って背負い、十字架の死への道を歩いて下さった。主イエスの柔和さによって、私たちの罪の赦し、救いが実現した。そして主イエスは私たちにも、この柔和さの道を歩むことを求めておられる。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」。それは決して負いきれない重い軛ではない。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」。それは主イエスが大部分を背負っていて下さるから。私たちはこの主イエスにつながって、主イエスと共にその軛を負い、柔和に生きる。  「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」(21章5節)。  「柔和な王」としてエルサレムに来られた主イエスは、その週の内に十字架につけられた。主イエスが「柔和な方」であるとは、十字架の死への道を黙って歩まれたこと。その柔和さのゆえに、私たちの救いが実現した。  真実に柔和な方である主イエス・キリストの十字架の死によって、罪の赦しの恵みを与えられた者が、主なる神のみ前に沈黙し、主に望みを置き、その恵みのみ業を待ち望みつつ生きるところに、真実の幸いが与えられる。  十字架の死に至る柔和な歩みを歩み通された主イエスは、復活して天に昇り、父なる神の右に座して、今や私たちを、この世界を、支配しておられる。つまり地を受け継いでおられる。今はまだ隠されているその主イエスのご支配を信じて生きることが私たちの信仰。  つまり私たちの信仰は、主イエスが、その柔和さによって地を受け継いでおられることを信じること。そして柔和な方である主イエスのご支配に支えられて生きること。主イエスの柔和さに支えられて、私たちもまた、様々な苦しみ悲しみがあり、悪を行う者がむしろ栄えていくようなこの世の現実の中にあっても、苛立ちに負けることなく、沈黙して主を仰ぎ、主に望みを置く柔和な者として生きることができる。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 義に飢え渇く人々の幸い(의에 주리고 목마른 사람들의 행복)/ マタイ5:6(마5:6)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 義に飢え渇く人々の幸い(의에 주리고 목마른 사람들의 행복) マタイ5:6(마5:6) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 義に飢え渇く人々の幸い マタイによる福音書 第5章6節 1.マタイの教えは抽象的? 「今飢えている人々は幸いである。あなたがたは満たされる。」 (ルカ福音書6章21節)  ルカの具体的な教えが、マタイでは「義に」という精神的、抽象的な教えに変えられている  ←「義に飢え渇く」などというのは、生活に余裕がある者のぜいたくな飢え渇きだ  →自分はまだ義に飢え渇いているような余裕はない。 2.ルカの教えの意味 「今飢えている人々は」 =今この世において「あなたがたは満たされる」 =神の国においては、満ち足りることができる。 =「金持ちとラザロ」の話(ルカ福音書16章)  主イエスは、飢えている人々の具体的空腹を満たそうとはしていない(荒れ野の誘惑)。 この世の不公平、不平等が、そのままで終ることはない、飢えに苦しんだ者には、神の国において満ち足りる喜びが与えられ、それによって神の正しさ、正義が貫かれる。本当の飢えは、食物の乏しさよりも、神の正義が貫かれず、神が自分の苦しみを無視している、という絶望。主イエスは人々のその絶望に目をとめ、神はあなたがたの苦しみを見ておられ、神の国においてあなたがたをねぎらい、飢えを満たして下さるのだ、と語られた。それがルカにおけるこの教えの意味。 3.私たちは義に飢え渇いている  「義に飢え渇く」のは、生活に余裕のある人のみが覚える、精神的、抽象的な、贅沢な飢え渇きではない。私たちの具体的な生活における、深刻な飢え渇き。私たちはこの世の人生において、神の正しさ、正義はどこにあるのか、自分の苦しみをちゃんと見ておられる神がおられるのか、という問いを感じる。それが義に対する飢え渇き。私たちは様々な苦しみの中で、常に、神の義、神の正しさが貫かれ、実現することに飢え渇いている。  詩編42編参照 「お前の神はどこにいる」という嘲笑による渇き 「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、嘆きつつ歩くのか」という渇き 4.この社会、世界において義に飢え渇く 「義に飢え渇く」は、自分の人生における自分のための義に飢え渇くのみではなく、この世界に存在する不正義、不平等に目を向け、義に飢え渇いている隣人のことを思い、そこでなすべき正義を行なっていくことをも意味している。(「金持ちとラザロ」の話) 5.その人たちは満たされる  義への飢え渇きは、私たちの苦しみ悲しみが解決することによって満たされるのではない。 神の義は、独り子イエス・キリストの十字架の死において貫かれている。 まことの神であられる方が、私たちの罪の赦しのために、苦しみを受け、命を捨てて下さった。神の正しさはそこに貫かれている。そのことによって私たちは救われた。もしも神の正しさが、人間に正しさを求め、正しい者のみを救い、悪い者を滅ぼすという形で貫かれたとしたら、私たちは救われない。そこでは、神の正しさが貫かれると、私たちが滅ぼされることになる。神の正しさが貫かれ、なおそこで罪人である私たちが救われるためには、独り子主イエスが、十字架の苦しみと死とを引き受けなければなかった。神の独り子が、私たちのために、私たちに代わって滅ぼされて下さったことによって、神の正しさは私たちを滅ぼすものではなく、救うものとなった。神の義はこのようにして貫かれた。 主イエスによって貫かれ、満たされた義は、神の恵みであり、私たちの救いである。 6.主イエスに従うことの中で  主イエス・キリストにおいて神の義、正しさが貫かれていることと、私たちの苦しみにおける義への飢え渇きが満たされることの間には、なお大きな隔たりがある。この隔たりは何によって乗り越えられるのか。 この説教は、弟子たち、即ち主イエスに従っている人々に向かって語られている。主イエスに従い、主イエスと共に歩むことにおいてこそ、その隔たりは乗り越えられる。私たちは、苦しみの中で、義に飢え渇きつつ、主イエスの十字架の苦しみと死とを見つめつつ主イエスに従う。その時、自分の傍らに、自分のために苦しんで下さった主イエスがいて下さることを示される。そこでこそ、主イエスの苦しみと死において貫かれている神の義を実感することができる。苦しみは相変わらず苦しみであり、義への飢え渇きは続いているが、それは絶望に陥ることのない、満たされた飢え渇きとなる。 ルカ福音書は、今飢えている人が、神の国において満たされるという、終りの日の希望を語っていた。マタイは、むしろそれが今のこの世の歩みにおいて現実となることを見つめている。それは主イエス・キリストが、その十字架の苦しみと死とによって、私たちの苦しみ悲しみを担って下さることにおいて実現する。そのことを私たちは、主イエスに従うことの中で、体験する。こうして、私たちの義への飢え渇きは、この世において確かに満たされる。 7.義に飢え渇く人々は幸いである  主イエス・キリストの苦しみと死とによって神の義がこの世に貫かれていることを知っているからこそ、私たちは、自分のためにも、またこの世界においても、飢え渇くように義を求めていくことができる。この信仰を失い、神の正義がこの世で貫かれることはないと思ってしまう時、そこには絶望が支配する。絶望が支配するところには「どうせ正義が貫かれることはないのだから、せいぜい自分の好きなことをして生きよう。正義を貫こうとしても骨折り損のくたびれ儲けだ」という気楽な思いが生まれる。 このような思いが蔓延し、人々がもはや義に飢え渇くことをせず、楽しく楽なことだけを追い求めるようになるとしたら、その社会は絶望に支配されているということ。義を追い求めるにはエネルギーがいる。それはつらいことでもあり、損をするようなことでもある。そのような中で私たちは、楽な方に流され、義を求めることをやめてしまう。 主イエスはそういう私たちに、「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる」と語りかけておられる。 それは、「私の十字架と復活において、この世には確かに神の義が貫かれている。だからあなたがたは、どんな時にも絶望せずに、義に飢え渇く者となることができるのだ。そこにあなたがたの幸いがあるのだ」ということ。 この社会に義が完全に達成されることはない。それが与えられるのは神の国においてであり、この世においては、義への飢え渇きが続く。しかし私たちは、主イエス・キリストにおいて神が義を貫いて下さり、同時に私たちを救って下さったことを知っている。その恵みに支えられて、義に飢え渇く者であり続けることができる。 そこに私たちの幸いがある。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 義に飢え渇く人々の幸い(의에 주리고 목마른 사람들의 행복)/ マタイ5:6(마5:6)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-23
家庭集会説教(가정집회설교)/ 義に飢え渇く人々の幸い(의에 주리고 목마른 사람들의 행복) マタイ5:6(마5:6) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 義に飢え渇く人々の幸い マタイによる福音書 第5章6節 1.マタイの教えは抽象的? 「今飢えている人々は幸いである。あなたがたは満たされる。」 (ルカ福音書6章21節)  ルカの具体的な教えが、マタイでは「義に」という精神的、抽象的な教えに変えられている  ←「義に飢え渇く」などというのは、生活に余裕がある者のぜいたくな飢え渇きだ  →自分はまだ義に飢え渇いているような余裕はない。 2.ルカの教えの意味 「今飢えている人々は」 =今この世において「あなたがたは満たされる」 =神の国においては、満ち足りることができる。 =「金持ちとラザロ」の話(ルカ福音書16章)  主イエスは、飢えている人々の具体的空腹を満たそうとはしていない(荒れ野の誘惑)。 この世の不公平、不平等が、そのままで終ることはない、飢えに苦しんだ者には、神の国において満ち足りる喜びが与えられ、それによって神の正しさ、正義が貫かれる。本当の飢えは、食物の乏しさよりも、神の正義が貫かれず、神が自分の苦しみを無視している、という絶望。主イエスは人々のその絶望に目をとめ、神はあなたがたの苦しみを見ておられ、神の国においてあなたがたをねぎらい、飢えを満たして下さるのだ、と語られた。それがルカにおけるこの教えの意味。 3.私たちは義に飢え渇いている  「義に飢え渇く」のは、生活に余裕のある人のみが覚える、精神的、抽象的な、贅沢な飢え渇きではない。私たちの具体的な生活における、深刻な飢え渇き。私たちはこの世の人生において、神の正しさ、正義はどこにあるのか、自分の苦しみをちゃんと見ておられる神がおられるのか、という問いを感じる。それが義に対する飢え渇き。私たちは様々な苦しみの中で、常に、神の義、神の正しさが貫かれ、実現することに飢え渇いている。  詩編42編参照 「お前の神はどこにいる」という嘲笑による渇き 「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、嘆きつつ歩くのか」という渇き 4.この社会、世界において義に飢え渇く 「義に飢え渇く」は、自分の人生における自分のための義に飢え渇くのみではなく、この世界に存在する不正義、不平等に目を向け、義に飢え渇いている隣人のことを思い、そこでなすべき正義を行なっていくことをも意味している。(「金持ちとラザロ」の話) 5.その人たちは満たされる  義への飢え渇きは、私たちの苦しみ悲しみが解決することによって満たされるのではない。 神の義は、独り子イエス・キリストの十字架の死において貫かれている。 まことの神であられる方が、私たちの罪の赦しのために、苦しみを受け、命を捨てて下さった。神の正しさはそこに貫かれている。そのことによって私たちは救われた。もしも神の正しさが、人間に正しさを求め、正しい者のみを救い、悪い者を滅ぼすという形で貫かれたとしたら、私たちは救われない。そこでは、神の正しさが貫かれると、私たちが滅ぼされることになる。神の正しさが貫かれ、なおそこで罪人である私たちが救われるためには、独り子主イエスが、十字架の苦しみと死とを引き受けなければなかった。神の独り子が、私たちのために、私たちに代わって滅ぼされて下さったことによって、神の正しさは私たちを滅ぼすものではなく、救うものとなった。神の義はこのようにして貫かれた。 主イエスによって貫かれ、満たされた義は、神の恵みであり、私たちの救いである。 6.主イエスに従うことの中で  主イエス・キリストにおいて神の義、正しさが貫かれていることと、私たちの苦しみにおける義への飢え渇きが満たされることの間には、なお大きな隔たりがある。この隔たりは何によって乗り越えられるのか。 この説教は、弟子たち、即ち主イエスに従っている人々に向かって語られている。主イエスに従い、主イエスと共に歩むことにおいてこそ、その隔たりは乗り越えられる。私たちは、苦しみの中で、義に飢え渇きつつ、主イエスの十字架の苦しみと死とを見つめつつ主イエスに従う。その時、自分の傍らに、自分のために苦しんで下さった主イエスがいて下さることを示される。そこでこそ、主イエスの苦しみと死において貫かれている神の義を実感することができる。苦しみは相変わらず苦しみであり、義への飢え渇きは続いているが、それは絶望に陥ることのない、満たされた飢え渇きとなる。 ルカ福音書は、今飢えている人が、神の国において満たされるという、終りの日の希望を語っていた。マタイは、むしろそれが今のこの世の歩みにおいて現実となることを見つめている。それは主イエス・キリストが、その十字架の苦しみと死とによって、私たちの苦しみ悲しみを担って下さることにおいて実現する。そのことを私たちは、主イエスに従うことの中で、体験する。こうして、私たちの義への飢え渇きは、この世において確かに満たされる。 7.義に飢え渇く人々は幸いである  主イエス・キリストの苦しみと死とによって神の義がこの世に貫かれていることを知っているからこそ、私たちは、自分のためにも、またこの世界においても、飢え渇くように義を求めていくことができる。この信仰を失い、神の正義がこの世で貫かれることはないと思ってしまう時、そこには絶望が支配する。絶望が支配するところには「どうせ正義が貫かれることはないのだから、せいぜい自分の好きなことをして生きよう。正義を貫こうとしても骨折り損のくたびれ儲けだ」という気楽な思いが生まれる。 このような思いが蔓延し、人々がもはや義に飢え渇くことをせず、楽しく楽なことだけを追い求めるようになるとしたら、その社会は絶望に支配されているということ。義を追い求めるにはエネルギーがいる。それはつらいことでもあり、損をするようなことでもある。そのような中で私たちは、楽な方に流され、義を求めることをやめてしまう。 主イエスはそういう私たちに、「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる」と語りかけておられる。 それは、「私の十字架と復活において、この世には確かに神の義が貫かれている。だからあなたがたは、どんな時にも絶望せずに、義に飢え渇く者となることができるのだ。そこにあなたがたの幸いがあるのだ」ということ。 この社会に義が完全に達成されることはない。それが与えられるのは神の国においてであり、この世においては、義への飢え渇きが続く。しかし私たちは、主イエス・キリストにおいて神が義を貫いて下さり、同時に私たちを救って下さったことを知っている。その恵みに支えられて、義に飢え渇く者であり続けることができる。 そこに私たちの幸いがある。 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 義のために迫害される人々の幸い(의를 위하여 박해 받는 사람들의 행복)/ マタイ5:10-12(마5:10-12)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-22
家庭集会説教(가정집회설교)/ 義のために迫害される人々の幸い(의를 위하여 박해 받는 사람들의 행복) マタイ5:10-12(마5:10-12) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 義のために迫害される人々の幸い マタイによる福音書 第5章10~12節 1.八つの幸いの教えのしめくくり 「今飢えている人々は幸いである。あなたがたは満たされる。」 (ルカ福音書6章21節) 主イエスは私たち一人一人の中に、これら八つの幸いを造り出し、与えようとしておられる。私たちはこの八つの幸いのどれか好きなものを選び取るのではない。これらの八つの幸い全てを主イエスからいただいて生きるのが、信仰者の生活。「義のために迫害される者の幸い」もその一つであり、「これだけはご免被る」というものではない。 2.教会の歴史は迫害の歴史 この幸いの教えは、過去の教会の歩み、キリスト教の歴史において、大きな励ましと力とを信仰者たちに与えてきた。殉教者(マーター)は「証人、証し人」という言葉から来ている。殉教こそ、信仰の最大の証しであり、「一人の殉教者は十人の信者を生む」と言われる。 3.わたしのために 「義のために」は11節では「わたしのために」と置き換えられている。迫害は、私たちが積極的に義(正しいこと)を行っていくところに起るのみでなく、主イエスに属する者、主イエスを信じる者として生きるところに起る。主イエスを信じて生きようとする時に、私たちは、そうでない人々から様々な仕方でののしられ、悪口を言われる。「義のために迫害される」は、特別な時代の、特別な人々の話ではなく、私たちが教会に通い、主イエス・キリストを信じて生きようとする時に身近な所で日々起って来る様々なすれ違い、誤解、行き違いにまで及んでいる。 4.「あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい」 主イエスのゆえに誤解を受け、悪口を言われることは、あってはならないことではない。それが当たり前なのだ、ということ。私たちは、主イエスを信じ、信仰者としての奉仕や働きに励めば、人に受け入れられ、認められ、尊敬されるようになる、と心のどこかで思っているのではないか。そう思っていると、ののしられたり、身に覚えのない悪口を言われたりすることに耐えられない。しかし主イエスは、そのことでくよくよする必要はない、それが当然なのだ、とおっしゃっている。 5.「天には大きな報いがある」 「天に」とは、父なる神様のみもとに、ということ。父なる神様の大きな報いを見つめよ、と主イエスは言っておられる。 「そんな報いの約束は何の力にもならない」と思うとしたらそれは、私たちがこの世のこと、地上のこと、人間のことしか見つめておらず、天を、神様を見つめていないということ。言い換えれば、人に受け入れられ、喜ばれ、認められることしか考えていないということ。「彼らは既に報いを受けている」[6章5節]と通じる。 天を、神様を見つめている者は、神様が自分を見ていて下さり、主イエスのゆえにののしりや悪口を受けていることを知っていて下さり、必ず報いて下さることに望みを置いて生きる。その報いがどんな形で与えられるかはわからない。 地上の生活における幸いという形でなのか、地上の命を終えた後、天の父のみもとでの祝福としてなのか、いずれにせよ、報いは天の神様が与えて下さることを信じてそこに希望を置く。神様を信じるとはそういうこと。 6.「天の国はその人たちのものである」 「天の国はその人たちのものである」は、第一の幸いの教え「心の貧しい人々は幸いである」においても語られていた。八つの幸いの教えの最初と最後が「天の国はその人たちのものである」で括られている。そういう意味でこの言葉は、幸いの教え全体の枠となっている、中心的な幸い。「天の国」とは、神様の恵みのご支配という意味。天の国、神の恵みのご支配の下に生きることができるのは、地上の、人間からの報いや賞賛ではなく、神様の報いをこそ見つめ、求める者。「心の貧しい人々」の場合も、自分の心の中に何らかの豊かさを求め、拠り所を見出していこうとする者は、天の国に生きることができなかった。できないと言うよりも、彼らが求めているのは神様の恵みのご支配ではなくて、自分の豊かさによる満足である。自分の中に、人間の間に、地上に、寄り頼むべき理解者を持たず、報いてくれる人を持たず、ただ天の神様が自分を理解し、豊かに報いて下さることのみを信じ、求めていくという点で、「心の貧しい人々」と「義のために迫害される人々」とは相通じる。 7.あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害された 主イエスがここで見つめさせようとしているのは、教会の歴史における殉教者たちのことのみではない。最後、最大の預言者、預言者の中の預言者として来られた主イエス・キリストが、「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられ」た。この主イエス・キリストをこそ私たちはしっかりと思い起し、見つめるべき。主イエスは私たちのために、全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さった救い主であり、私たちが従っていくべき主。 その方が、迫害を受け、ののしられ、悪口を浴びせられて歩まれたのだから、私たちがそのような体験をするとしたら、それは主イエスの後に従っているということ。それは幸いなことであり、喜ばしいこと。私たちはまことに弱い者であり、自分の力で迫害に耐えて信仰の証をなすことができるような者ではないが、しかし私たちが、それぞれの生活の中で主イエス・キリストに従い、天の父なる神様の報いをこそ求めて生きていく時、主イエスがお語りになったこの第八の幸いもまた私たちに与えられる 8.ペトロの手紙一、第2章18~25節  召し使い(奴隷)、(妻、夫)への教え 「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(21~25節) 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
かてい(家庭)集会説教(가정집회설교)/ 義のために迫害される人々の幸い(의를 위하여 박해 받는 사람들의 행복)/ マタイ5:10-12(마5:10-12)/ ふじかけ じゅんいち(藤掛順一)牧師(横浜指路教会)/ 2012-02-22
家庭集会説教(가정집회설교)/ 義のために迫害される人々の幸い(의를 위하여 박해 받는 사람들의 행복) マタイ5:10-12(마5:10-12) 家庭集会説教/ 牧師 藤掛 順一 ◆ 義のために迫害される人々の幸い マタイによる福音書 第5章10~12節 1.八つの幸いの教えのしめくくり 「今飢えている人々は幸いである。あなたがたは満たされる。」 (ルカ福音書6章21節) 主イエスは私たち一人一人の中に、これら八つの幸いを造り出し、与えようとしておられる。私たちはこの八つの幸いのどれか好きなものを選び取るのではない。これらの八つの幸い全てを主イエスからいただいて生きるのが、信仰者の生活。「義のために迫害される者の幸い」もその一つであり、「これだけはご免被る」というものではない。 2.教会の歴史は迫害の歴史 この幸いの教えは、過去の教会の歩み、キリスト教の歴史において、大きな励ましと力とを信仰者たちに与えてきた。殉教者(マーター)は「証人、証し人」という言葉から来ている。殉教こそ、信仰の最大の証しであり、「一人の殉教者は十人の信者を生む」と言われる。 3.わたしのために 「義のために」は11節では「わたしのために」と置き換えられている。迫害は、私たちが積極的に義(正しいこと)を行っていくところに起るのみでなく、主イエスに属する者、主イエスを信じる者として生きるところに起る。主イエスを信じて生きようとする時に、私たちは、そうでない人々から様々な仕方でののしられ、悪口を言われる。「義のために迫害される」は、特別な時代の、特別な人々の話ではなく、私たちが教会に通い、主イエス・キリストを信じて生きようとする時に身近な所で日々起って来る様々なすれ違い、誤解、行き違いにまで及んでいる。 4.「あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい」 主イエスのゆえに誤解を受け、悪口を言われることは、あってはならないことではない。それが当たり前なのだ、ということ。私たちは、主イエスを信じ、信仰者としての奉仕や働きに励めば、人に受け入れられ、認められ、尊敬されるようになる、と心のどこかで思っているのではないか。そう思っていると、ののしられたり、身に覚えのない悪口を言われたりすることに耐えられない。しかし主イエスは、そのことでくよくよする必要はない、それが当然なのだ、とおっしゃっている。 5.「天には大きな報いがある」 「天に」とは、父なる神様のみもとに、ということ。父なる神様の大きな報いを見つめよ、と主イエスは言っておられる。 「そんな報いの約束は何の力にもならない」と思うとしたらそれは、私たちがこの世のこと、地上のこと、人間のことしか見つめておらず、天を、神様を見つめていないということ。言い換えれば、人に受け入れられ、喜ばれ、認められることしか考えていないということ。「彼らは既に報いを受けている」[6章5節]と通じる。 天を、神様を見つめている者は、神様が自分を見ていて下さり、主イエスのゆえにののしりや悪口を受けていることを知っていて下さり、必ず報いて下さることに望みを置いて生きる。その報いがどんな形で与えられるかはわからない。 地上の生活における幸いという形でなのか、地上の命を終えた後、天の父のみもとでの祝福としてなのか、いずれにせよ、報いは天の神様が与えて下さることを信じてそこに希望を置く。神様を信じるとはそういうこと。 6.「天の国はその人たちのものである」 「天の国はその人たちのものである」は、第一の幸いの教え「心の貧しい人々は幸いである」においても語られていた。八つの幸いの教えの最初と最後が「天の国はその人たちのものである」で括られている。そういう意味でこの言葉は、幸いの教え全体の枠となっている、中心的な幸い。「天の国」とは、神様の恵みのご支配という意味。天の国、神の恵みのご支配の下に生きることができるのは、地上の、人間からの報いや賞賛ではなく、神様の報いをこそ見つめ、求める者。「心の貧しい人々」の場合も、自分の心の中に何らかの豊かさを求め、拠り所を見出していこうとする者は、天の国に生きることができなかった。できないと言うよりも、彼らが求めているのは神様の恵みのご支配ではなくて、自分の豊かさによる満足である。自分の中に、人間の間に、地上に、寄り頼むべき理解者を持たず、報いてくれる人を持たず、ただ天の神様が自分を理解し、豊かに報いて下さることのみを信じ、求めていくという点で、「心の貧しい人々」と「義のために迫害される人々」とは相通じる。 7.あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害された 主イエスがここで見つめさせようとしているのは、教会の歴史における殉教者たちのことのみではない。最後、最大の預言者、預言者の中の預言者として来られた主イエス・キリストが、「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられ」た。この主イエス・キリストをこそ私たちはしっかりと思い起し、見つめるべき。主イエスは私たちのために、全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さった救い主であり、私たちが従っていくべき主。 その方が、迫害を受け、ののしられ、悪口を浴びせられて歩まれたのだから、私たちがそのような体験をするとしたら、それは主イエスの後に従っているということ。それは幸いなことであり、喜ばしいこと。私たちはまことに弱い者であり、自分の力で迫害に耐えて信仰の証をなすことができるような者ではないが、しかし私たちが、それぞれの生活の中で主イエス・キリストに従い、天の父なる神様の報いをこそ求めて生きていく時、主イエスがお語りになったこの第八の幸いもまた私たちに与えられる 8.ペトロの手紙一、第2章18~25節  召し使い(奴隷)、(妻、夫)への教え 「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(21~25節) 藤掛順一牧師(横浜指路教会)
せんきょう(宣教)する神の栄光教会(선교하는 주님의영광교회)/ 行13:1-3(행13:1-3)/ カンヨハネ(姜永來、カンヨンレ)牧師(강영래 목사)(仁川 神の栄光教会)/ 일한대역설교/ 2011-07-17
宣教する神の栄光教会 行13:1-3 私は明日から中国宣教に発ちます。明日の朝仁川(インチョン)空港で8時30分の飛行機で昔満州の奉天、今の中国の沈陽に発ちます。聖靈が私をそちらへ導いて下さるのを真に感謝申し上げます。 私が牧師になる前に、ずっと前に、もう15年前にビジョンで見ました。私が執事であった時に教会に早天祈祷をしに行って祈っていたんですが、私が目をとじていたのに、目の前に何かが見えるのでした。人々がたくさん集まっていました。講壇に中国の人が誰かを紹介しました。“センジャイ ジャンウェハンムース ライ チャンダオ(現在姜約翰牧師来講道)”(もうカンヨハネ牧師様が出てきて説教します。) ところで、講壇に出てきて中国語で説教する牧師様の顔を見ると、それは私の顔ではないでしょうか。その時、私の名前はカン・ヨンレでした。確かにカンヨハネ牧師様が出てこられるといったが、そちらでは私の名前がカンヨハネ、中国語でジャンウェハンだったのです。 もう明日になれば、15年前に私が確かに見たそのビジョンが実際に成り立つ日が近づいてきているのです。何の考えもないまま生きていた私に神様がその夢を見るようにして、15年が過ぎた今日、その夢をかなえて下さる神様に、私を細心に導いておられる聖靈様に心より感謝申し上げます。聖靈様、今後のすべてのことを聖靈様に任せるから、聖靈様が親しく導いて下さい。アーメン。 その夢のとおり、遠くない内に中国に、ションドルンヤオチャオフェイ(神的栄耀教会:神の栄光教会)が建てられるだろうと信じます。私を呼ばれた神様がその仕事をしろとおっしゃったので、神様が全部責任を負ってくださることであるから、私は神様がさせることだけすれば良いのです。心配することがありません。なぜなら神様が全部成し遂げて下さることを確かに信じるからです。 私たちは使徒行伝の御言葉を調べなければなりません。私たちが2000年前の使徒の時の姿を調べるのは一つの過ぎ去った教会の話を調べることで終わりません。使徒行伝は聖靈が教会と使徒らをつかんでどのように福音伝播をするわざをしたかというのを調べることなのに、初代教会と使徒らに臨まれた同一な生きておられて働く聖靈が今日私たちにも充満に臨んでおられるのを信じて、聖霊の引導について福音を伝えることをしようとする目的なのです。 使徒行伝1:8は使徒行伝全体を導く御言葉です。また、この御言葉は今私たちを導く御言葉です。やはり私たちも使徒行伝の延長にあって、使徒行伝の人物なのです。 使徒行伝1-7章はエルサレム教会の姿を説明しています。 聖靈充満を受けたエルサレム教会がどのように過ごしてきましたか? その教会は御言葉と祈祷と傳道することを力を使いました。愛があふれたし、奉仕がありました。彼による神様の驚くべき奇跡のみわざがあった教会です。この教会に毎日数を加える復興がありました。元気な教会は必ず成長することを習いました。今日私たちの教会にもエルサレム教会の復興する姿があることを祈願します。 しかし聖靈はエルサレムにだけ集まっていて散らないエルサレム教会に圧迫という道具を使ってサマリアまで福音を伝えるようにしました。 使徒行伝8-12章は、福音がエルサレムにきたが、この福音がエルサレムにだけ留まっていなかったことを見せます。 圧迫でエルサレムとユダヤとサマリアと地の果てまで福音が伝播されました。エルサレムに来た福音はユダヤ全体とサマリアに拡張されたのです。 福音の性質がそうなのです。私を救援したこの福音は、私にきて私で終わるようになるそんな福音ではありません。福音は私たちにきたが、私たちに制限されません。福音を受けた人はじっとしていられません。 キリスト人はキリストによって生き返った人で、キリストによって生きる人です。彼が真にキリストによって生き返ったのを知って、キリストで毎日を生きる人なら、身ごもった女性がお腹の子をいつかは産むしかないように、自分の中に生じた新しい生命であるキリストを伝播する人になることしかないのです。苦難があるといってもその苦難のために詰まらないのです。 福音はエルサレムにだけ制限されなかったのです。圧迫と苦難のために散ったキリスト人がユダヤとサマリアへ前進することになったし、すべての異邦人らにこの福音は流れることになりました。 それが8-12章の御言葉です。ピリポがサマリアを伝道して聖靈が彼の上に臨むことになりました。これにエルサレム教会はペテロとヨハネを送って聖靈の歴史であることを確認することになります。サマリアとユダヤの土地にも福音が伝えられたのです。 特にローマの百人隊長のコルネリウスとユダヤ人の使徒ペテロは、会うことのできない人たちでしたが、会ったのです。聖靈の強権的な恵みの中で起きた事件です。 躍動的に働く福音の進行は私たちの固定観念を破らせます。まったく会うことのできない人たちに会うのです。まったく起こられないことを可能にさせる福音の能力です。 どんなに詰まった壁をも壊すようになるのが福音のみわざだということを信じます。 聖靈のはたらきは会うことのできない人々に会うようにするのです。 みなさんもこういう聖靈のみわざを体験できるようお願いします。会うことのできない人に会うようになり、できない仕事ができるようになります。 日曜学校の教師をしてみるとこのような、可能にする聖靈のはたらきを体験することになるだろうと思います。 私にはできないが、神様には不可能がありません。私たちは不可能な壁にぶつかるが、私の中にいらっしゃるキリストの中には無限の能力があります。 何よりも大きい奇跡のはたらきはパウロの回心です。 使徒行伝9章に現れた徹底した律法主義者で、教会を反対して迫害したサウルという青年の回心は一個人の回心事件ですが、これもまた、神様が異邦人宣教のために起こされた驚くべきみわざです。パウロにだけ起こったことだと知ってはいけません。 今日もそうです。私を救援させられた聖靈が私を呼んでたてて私ではできない仕事をするようにします。 したがって福音を伝えながらこの福音をまったく受け入れないでかえって反対して圧迫する人に会っても失望したりあきらめないようお願いします。ここに神様の逆説的な真理があるということを信じて下さい。反対者を倒して福音伝者に作る神様でいらっしゃいます。ただし私たちにこの信頼があるかということが問題です。 パウロを変化させた福音はパウロにだけ留まらなかったです。彼をご使用になった聖靈が彼を通じて福音を全世界にさく烈させる仕事をしました。 救贖史的生活を送って下さい。 皆さん、イエスを信じて救援を得たのを信じますか。この恵みを感謝するところで留まってはいけません。もう神様は私を通じて光栄を受けられようとされるのです。 神様が私を救援されるということには神様のみむねがあるということを信じて下さい。私を今日も世の中に置きながら様々の恵みを施されるのは、神様が私たちに要求する期待と目的があります。それが何でしょうか? 今日読んだ本文の13-28章に現れる、福音が地の果てまで伝播されるその開始を見せる御言葉なのです。今までペテロを通じてエルサレムを中心にして働いた聖靈がパウロを通じて民族と国家、すべての文化の壁を越えてはたらくことを見せます。 異邦人らに向かった宣教の歴史がここに記録されています。そのような意味で、アンテオケ教会という、たててからいくらも経たない小さい教会がパウロとバルナバを宣教師として派遣させる場面を記録した今日読んだこの本文は、宣教の本質がどうなのかを知らせています。 宣教は何ですか?宣教を知っていなければなりません。情熱だけ持ってはなりません。聖書に帰らなければなりません。 2000年の宣教歴史で正しい宣教をどのようにするのかは、この本文の御言葉を教科書とみなすべきです。 使徒行伝13章 1. さて、アンテオケにある敎會には、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデ の乳兄弟マナエン、およびサウロなどの預言者や敎師がいた。 2. 一同が主に礼拝をささげ、斷食をしていると、聖靈が「さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に當らせなさい」と告げた。 3. そこで一同は、斷食と祈りとをして、手をふたりの上においた後、出發させた。(口語譯) アンテオケ教会に預言者らと教師たちがいると、まもなくバルナバとニゲルというシメオンとクレネ人ルキオと分封王ヘロデの乳兄弟マナエンとおよびサウルがいました。2週間を仕えて斷食する時に聖靈が、私が呼んでさせることのためにバルナバとサウルを別にたてなさいというと、このために教会が斷食して祈って二人に按手して送るのです。 私たちはこのお言葉で何を一番最初に発見することになりますか? アンテオケ教会が宣教を始めたんだなという事実を悟る人もいますが、今日のお言葉は布教の主体が聖霊だということを見せます。宣教の主体は神様、すなわち聖霊だということを信じてください。 決してある一人の人間が宣教の主体者になることはできません。 2週を仕えて断食する時に聖靈がいわく、私が呼んでさせることのためにバルナバとサウルを別にたてなさいといったんですね。 誰がおっしゃったことですか? “聖靈がいわく” “私が呼んだバルナバとサウル” “私がさせる仕事をするために” “お前らが別にたてなさい” アンテオケ教会は1節で見た通り霊的指導者がいました。彼らは教師と預言者の役割をしました。彼らが断食して祈る時に聖様がおっしゃいました。 宣教を命じられた方は聖靈様でいらっしゃいます。 世の中には使命者が多いです。使命者という話は命令を敬ってお手伝いする人です。 お手伝いをする人の種類が多いです。 しかし誰の命令に従うのかということは、使命者からとても重要です。 事務室でお手伝いをする人を昔は給仕といいました。学校を守る人の小使もありました。 しかし同じ小使でも国で大統領が外国に送った給仕を大使といいます。給仕も小使も大使もみんなお手伝いをする人ですだが、誰が送ったのか、誰の命令により動くかというのは、使命者にとって、その使命を成し遂げるのに重要なのです。 福音宣教をすることは容易なことではありません。 苦難と逆境が待ちます。しかし神様である聖靈が命じられたことという認識をする時は使命を耐えられるために生命を出しておくことになります。 パウロが話した通り(行20:24)、私の走って行く道と主イエスに受けた使命、すなわち神様の恵みの福音を証拠する仕事を終えようとするということには私の生命を少しも尊いものに感じないのです。自分の生命を尊いのと思いません。生命は尊いのです。しかし使命者には使命が生命よりさらに尊いのです。 また申し上げます。私たちの教会の幹事が宣教師に出て行かなければならない時がちかついましたが、宣教現場が昨日と今日が違います。宣教師がどんな困難を経験するべきかは誰あも知りません。このようだから私たちは祈るべきです。 神様である聖靈がおっしゃいます。神様が言い付けました。 宣教は神様の関心事です。 教会は神様の聖靈が命じられた宣教をしなければなりません。これが真の教会です。 また、聖靈が宣教する人を呼んだとおっしゃいました。 宣教使命者は聖靈が呼ばれた人です。 エレミに(エレミヤ1:5)、「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを 聖別し、あなたを 立てて万國の預言者とした。」とおっしゃったように、パウロを呼ばれる時から神様が彼を異邦人の使徒で使えようとして呼んだことをおっしゃいました。 皆さん福音傳道と宣教は救援された者ならば誰でもしなければならない使命です。 私たちを王のような祭司長だとぺテロはいいます。広い意味で見る時は私たちがみな祭司長で宣教者になるべきです。 しかし誰でもしなければならないが、誰もがするのではありません。 特別にたてるということをすべきです。 神様が旧約のイスラエルがみんな祭司長国家だといいましたが、その中で特別に預言者を呼ばれたし、イエス様が輩中で弟子らを呼んで弟子らを養育して使徒に送られたように、神様が呼ぶ第2次天の命令という特別に呼ばれるということがあります。この呼ばれるということのために生命を出しておいて忠誠をつくす使命があるのです。 アンテオ教会には預言者らと教師たちがいました。 “さて、アンテオケにある敎會には、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、およびサウロなどの預言者や敎師がいた。”のです。しかし聖靈はこれらをみな呼ばれはしなくて、“バルナバとサウルを別にたてなさい”といいました。 聖靈の命令された、その宣教命令を成し遂げるために聖靈が別にたてろというひとがいます。そうではなくてはこのことを耐えられません。 牧師もそうです。 教会の中に多くの教師たちと職分者などがあるが、それでも福音を伝える専任使役者などでたてるということを受けるのは区別して別にたてられた者です。信じて下さい。 今日韓国教会の困難は牧師が、別にたてるということを受けた者というこの認識がなくなったところが問題です。だから使命感を持って、くださった職分を耐えられることができなくて聖徒がこれを認めないところから牧場の危機、教会の危機がきたのです。 この責任は聖徒の皆さんにあります。 子供らの中にも信仰的に人格を整えた子供らに対して神様の呼ばれるということがあっても、献身するように両親が許さないために、失敗が多くて過ちが多い人でも神様が呼んで使っていますが、こうするから教会の使役に副作用が多いのです。 だから勉強がよくできないから神学校に送ろうという考えは今はしないでください。神学大学校に入って勉強するのもそんなに容易ではありません。しかし勉強が上手だったらとその人が牧師になろうとしますか? まず神様の呼ばれるということが先行するべきです。牧会をすればするほどこの天の命令の重要性をさらに感じます。 私たちの教会の教友の皆さんがみんな福音の献身者になられることを祈願します。しかし聖靈が命じられた命令のために、聖靈の呼んだことを受けて献身して下さい。 献身者は聖書を見ても格別に聖書が見えます。 マタイによる福音書28章に神様は命じられました。行きなさい。すべての種族に行けとの命令が他の人はまあまあに聞こえるが、神様が呼ばれた者はこの命令がすぐに神様が自分に直接命じられる命令で急に強く聞こえるようになる人々です。多くの人々が教会の中にいますが、みんな必ず一緒に聞こえられるのではありません。特別に神様の国に対する関心があって、福音に対する熱い使命が起きるでしょう。 何のために聖靈が献身者、使命者を呼んでたてますか? 2週を仕えて断食する時に聖靈がいわく、私が呼んでさせることのためにバルナバとサウルを別にたてなさいといったんです。“私が呼んでさせることのために。”  聖靈がなぜいらっしゃいましたか? 聖靈が教会をたてて、教会が使役者などをたてるようにする理由があります。聖靈がしようと思うことがあります。それはキリストの福音宣教です。これを聖靈が主導されるのです。たてられた教会を通じて、また、使命者らを通じて成し遂げています。このために私たちにさせることがあります。 宣教は聖靈がすることです。 聖靈の命じられた通り、聖靈の仕事をするために聖靈が別にたてた人が宣教使命者です。 聖靈がしようと思う宣教の仕事をするためには、使役者の自分の意向のままにしてはならないのです。聖靈がさせられ次第動かなければなりません。 宣教は聖靈が主体者になります。 宣教の命令は聖靈の命令です。 宣教使役者は聖靈が別にたてられた者です。 宣教は聖靈のさせる仕事をすれば良いです。 この原理を宣教するという教会や宣教使役者や宣教団体が忘れてはいけません。 二番目に私達が知ることは宣教は聖靈が主体だが、それを行うのは地上の教会に命じられたのです。宣教するバルナバとパウロを別にたてろと教会に命じました。 聖靈が主体者になれば私たちの人間側からは何の仕事もしないで待てば良いでしょうか?そうではありません。聖靈がこのことを教会に任せました。 誰がこの仕事をしますか?教会がこのことをします。 教会は何ですか?神様の国民ら、キリストの使節が成し遂げた偉大な神様の子供の群れです。 教会は単に建物ではありません。 神様の民を示して教会といいます。 宣教の主体は聖靈で、宣教は教会にくれた命令です。今日宣教団体がたくさんありますが、宣教団体が分からなければならないのは、宣教は聖靈が教会に命じられたことだということです。 宣教団体は一つの教会でたてた、教会と関係を切ることはできない、教会の宣教助力団体になるべきです。今日多くの宣教団体が教会を離れて団体を作りながら聖靈がたてられた教会を無視して、何をするとしていますが、これは誤ったのです。宣教団体があるとしても、あくまでも教会と連合して宣教をするのです。宣教団体が立てられるのはこういうものです。教会が当然宣教をしなければならないが、教会もまた、色々な使命を耐えられなければならないですが、これをまともに耐えられることができないので、聖徒が自生的に宣教団体をたてて宣教を叫んで宣教をしてきました。しかし教会がする宣教がさらに多いです。その宣教団体が教会を仕えるべきです。宣教団体の仕事をする人々も自分の教会を仕えながらしてこそ、その意義があるのです。 今日私たちの現実は、多くの宣教団体らと教会がこの関係を忘却して衝突することがあるのです。教会も宣教団体らを異端視しないで、抱かなければならず、宣教団体も教会の中にあるべきです。また、宣教の実が教会をたてることです。この関係が誤れば聖靈がしろという仕事をするといいながら教会の連合を破るので結局宣教の目的を成し遂げられません。 今日の本文が宣教の開始なら、この宣教の開始もアンテオケ教会という教会に神様である聖靈がおっしゃったのです。 アンテオケ教会に預言者らと教師たちがいました。アンテオケ教会はエルサレム教会とは違うように教会の中に多様な人々がいるということを見ることができます。 バルナバ: 行4:36でキプロス出身のレビ族の人だといいます。 ニゲル: シメオンともいうニゲルは、ニグロ(皮膚が黒い)という話なのにアフリカから来たある改宗者です。 ルキオ:クレネから来たルキオは、ローマ圏から来た人です。 ヘロデの乳兄弟マナエンは、洗礼ヨハネを殺したヘロデと一緒にお母さんの乳を飲んで寝たという弟で高い権力層の人であることを話します。 このように多様な部類の人々がアンテオケ教会に集まりました。 教会は集いです。キリストの血で救贖を受けた聖徒らの集いです。なぜ聖靈が教会をたてましたか?私たちの教会の中にも多様な人々が集まっていますが、しかしこの教会は一致を成し遂げるべきです。何のためにですか?聖靈が命じられた宣教をするためです。 このように立てられたアンテオケ教会が初めてしたことは何ですか? 彼らは福音を伝えました。彼らは世の中でも真の生活を送ってキリスト人という称号を得ることになりました。その教会は日照りで苦労するエルサレム教会を助けることにしました。 このように宣教のために立てられたのが教会ですが、教会は究極的目的の宣教のために多様なことをまたしなければなりません。これが宣教団体と違った点です。 傳道して、教育して、奉仕することをしなければなりません。どれ一つでも偏ったり足りなければ円満な教会になりません。 救済するアンテオケ教会が宣教する教会の使命もよく耐えられます。私たちの教会も私たちの周辺にある貧しい人々を助けること、私たちの教会の中にある貧しい人々を助けることです。愛を持って、これを先に先行にならなければなりません。 しかし教会は救済団体ではありません。世の中に対する奉仕をするために立てられたところではありません。 アンテオケ教会は救済にだけ留まっていはできないのです。福音は救済にだけ留まりません。進んで宣教しました。 アンテオケ教会の指導者は預言者と教師だったと本文にはおっしゃいましたが、これらの三種類のことを教会の中でして、教えました。 宣教する教会になるためにです。 第一に彼らは預言者と教師の職務を引き受けました。 預言者は予言者として御言葉を宣言する役割をする人です。 神様の御言葉を予言して宣言してその時代に神様の御言葉をあたえる役割です。御言葉を教える役割です。 誰でもキリスト人はいつもどんな所でも御言葉を学び教えて宣言するべきです。 御言葉が分からなくては信仰生活はできません。 宣教使役者も、教会の一般信者使役者も御言葉が分からなければ何もできません。 それで私は、献身するという人々に最小限の神学をすることをいいます。称賛献身者になるといっても神学をしなければなりません。牧会をするといえば、より一層正統神学をしなければなりません。聖書が分からなくては私の心のままにする信仰生活になるしかありません。 それでも韓国教会に大きい教会、本当に正しく立て直した教会がそれでも牧師がすぐにできていて、その方が神学をした方々であることは感謝すべきです。 私たちのキリスト人は聖書を皆知るべきです。 世の中の勉強をするのは必要によってすることですが、聖書の御言葉を勉強するのはこれは私たちの人生全体であるためです。 聖書を分からなくては信仰生活をするといっても主観的です。 使徒の教えを受けられるよう願います。 どんな人でも御言葉を学び御言葉を教えてしなければなりません。教会だけ行ったり来たりせずに御言葉を学び御言葉を教えてしなければなりません。 御言葉は運動力があります。生きています。 御言葉がある時私たちは疲れません。孤独ではありません。疲れません。しかし御言葉がない時は疲れて、うつ病になりやすいです。御言葉を毎日教えて習って一緒にすることで蘇生力があるキリスト人になられるようお願いします。 二番目に彼らは神様に奉仕する生を生きました。 互いに奉仕します。きて礼拝だけ差し上げて行くことは、劇場式礼拝です。信仰は熱心に教会出てきて奉仕するのです。御言葉を持って熱心に奉仕すれば信仰ができます。 教会に愛情を持って献身して奉仕して下さい。ここが私の教会だという考えを持つ時に忠誠があることになります。 お客さんは恩恵受けられません。お客さんは皿洗いする必要がありません。食べ物だけ食べて、コーヒーも格好良く飲んでそのまま行けば良いです。 しかし主人は皿洗いをします。そして器を乾いた布巾できれいに磨いて入れておきます。これらは神様を仕える喜びが教会を仕える喜びがありました。それで彼らには愛情ができます。ここが私の教会だ、私が仕えることができる教会だ、忠誠できる教会を持っているということを幸せになって下さい。 三番目に彼らは祈りました。 御言葉があったし、奉仕があったし、祈祷がありました。 信仰生活は出血する闘争です。死ぬか、生きるかという戦いです。汗が血になるべく祈らなければ勝つことができない戦いの現場です。どのように聖書を読まないで、断食もしてみないで、山祈祷も一度してみなくて、夜を明かして祈祷も一度してみなくて勝利する信仰生活がありますか? 本当に信仰生活をよくするならそのような献身と闘争がいるのです。信実な奉仕、切実な祈り、それが行き過ぎれば断食しないですか? 断食は退屈ですることではありません。本当にご飯を食べることができなく、寝ることができないので、それで断食をするのです。 四回目この教会は宣教師を出しておきました。 宣教は聖靈が準備して予備された人々を通じてするのにこの教会は“バルナバとパウロを別にたてなさい”という聖靈の音声のとおりその教会の最も有力な一群の牧師だと言えるバルナバとパウロを宣教に出しておきました。アンテオケ教会が自分の教会だけを考えるならばこのようなことはできません。 私は私たちの教会聖徒が神の栄光教会に登録されたら教会を離れないで教会中心の信仰生活をすることをお願いします。それで移っても教会中心に、学校を進学しても教会中心に、結婚をしてもそのようにしたらと思います。一教会を仕えることがどれくらい重要なのかわかりません。無条件ソウルから地方に送るのは考えてみなければならない問題です。 しかしこのより尊いことに献身することを決意する人々が起きてこの教会をみな離れることになるならばそれは本当に祝福することだと考えます。 私たちの人生は献身しなければなりません。神様に献身することが人生の本質です。献身をすれば優先順位ができます。 皆さんは果たして誰に献身していますか? 一番かわいそうな人は献身する所さえない人です。 なるように生きる人、良い状態によって生きる人、良い条件与えれば付いて回る人が不幸な人です。 だから自分が献身しなければならない対象がなければなりません。 神様は今日も献身者を探します。 皆さんがどんな職業を持っていても、どんな都合にあっても、神様に献身することを決心することになるようお願いします。 献身すれば心が決定されます。献身すればこちらに行くかあちらに行くか悩まなくなります。なぜなら献身すればどこへ行かなければならないのか決定になるためです。 パウロは献身しました。ぺテロも献身した人です。 私たちも献身できるようお願いします。私の心が確定したなら、世の中が私を揺さぶることができないでしょう。 聖靈のはたらかれるということについて聖靈の命じられた宣教する神の栄光教会になるのを祈願します。アーメン。 선교하는 주님의영광교회 행13:1-3 저는 내일부터 중국 선교를 떠납니다. 내일 아침 인천공항에서 8시 30분 비행기로 옛날 만주의 봉천, 지금은 중국의 선양(沈陽)으로 떠납니다. 성령께서 저를 그곳으로 인도해 주시는 것을 참으로 감사드립니다. 제가 목사가 되기 전에 오래 전에 벌써 15년 전에 비전으로 보았습니다. 제가 집사 때에 교회에 새벽기도하러 가서 기도하고 있는데 제가 눈을 감고 있는데 눈앞에 뭐가 보이는 것이었습니다. 사람들이 많이 모여 있는데 강단에 중국 사람이 누군가를 소개했습니다. “셴자이 쟝웨한 무스 라이 쟝다오(現在姜約翰牧師來講道)”(이제 강요한 목사님이 나오셔서 설교하시겠습니다.) 그런데, 강단에 나와서 중국어로 설교하는 목사님 얼굴을 보니 아니 바로 제 얼굴이 아니겠습니까? 그 때 제 이름은 강영래였습니다. 분명히 강요한 목사님이 나오신다고 했는데 그곳에서는 제 이름이 강요한, 중국어로 쟝웨한이었습니다. 이제 내일이면 15년 전에 제가 분명히 보았던 그 비전이 실제로 이루어질 날이 다가오고 있습니다. 아무 생각 없이 살고 있던 저에게 하나님이 그 꿈을 꾸게 하시고 15년이 지난 오늘 그 꿈을 이루어 주시는 하나님께, 저를 세심하게 인도하고 계시는 성령님께 진심으로 감사를 드립니다. 성령님, 앞으로의 모든 일을 성령님께 맡기오니 성령님께서 친히 이끌어 주시옵소서. 아멘. 그 꿈대로 멀지 않아서 중국에 션더룽야오쨔오훼이(神的榮耀敎會:주님의영광교회)가 세워질 줄 믿습니다. 저를 부르신 하나님이 그 일을 하라고 하셨으니 하나님이 다 책임져 줄 것이니까 저는 하나님이 시키시는 대로만 하면 됩니다. 걱정할 것이 없습니다. 왜냐하면 하나님이 다 이루어 주실 줄을 확실히 믿기 때문입니다. 우리들은 사도행전의 말씀을 살펴보아야 합니다. 우리들이 2000년 전의 사도 때의 모습을 살펴보는 것은 하나의 지나간 교회 이야기를 살펴보는 것으로 그치지 않습니다. 사도행전은 성령께서 교회와 사도들을 붙들고 어떻게 복음 전파하는 역사를 하셨는가 하는 것을 살펴보는 것인데, 초대교회와 사도들에게 임하셨던 동일하신 살아계셔서 역사하시는 성령께서 오늘 우리에게도 충만히 임하여 계심을 믿고, 성령의 인도를 따라 복음 전하는 일을 하려하는 목적입니다. 사도행전 1:8은 사도행전 전체를 이끄는 말씀입니다. 또한 이 말씀은 지금 우리들을 이끄는 말씀이기도 합니다. 역시 우리들도 사도행전의 연장에 있고, 사도행전의 인물들입니다. 사도행전 1-7장은 예루살렘 교회의 모습을 설명하고 있습니다. 성령의 충만을 받은 예루살렘 교회가 어떻게 지내왔습니까? 그 교회는 말씀과 기도와 전도하기를 힘을 썼습니다. 사랑이 넘쳤고, 봉사가 있었습니다. 그로 인한 하나님의 놀라운 기적의 역사가 있었던 교회입니다. 이 교회가 날마다 수를 더하는 부흥이 있었습니다. 건강한 교회는 반드시 성장하는 것을 배웠습니다. 오늘 우리 교회에도 예루살렘의 부흥하는 모습이 있기를 축원합니다. 그러나 성령께서는 예루살렘에만 모여 있고 흩어지지 않는 예루살렘교회에 핍박이라는 도구를 사용하여 온 유대와 사마리아까지 복음을 전하게 했습니다. 8-12장은 복음은 예루살렘에 왔지만 이 복음은 예루살렘에만 머물러 있지 않았음을 보여주었습니다. 핍박으로 예루살렘과 온 유대와 사마리아와 땅끝까지 복음이 전파되었습니다. 예루살렘에 온 복음은 온 유대와 사마리아로 확장된 것입니다. 복음의 성질이 그러합니다. 나를 구원한 이 복음은 나에게 왔지만 나에게서 그쳐지는 복음이 아닙니다. 복음은 우리에게 왔지만 우리에게 제한되지 않습니다. 복음을 받은 사람은 가만히 있지 않습니다. 그리스도인은 그리스도로 인하여 살아난 사람이고, 그리스도로 인하여 사는 사람입니다. 그가 진정 그리스도로 인하여 살아난 것을 알고, 그리스도로 날마다 사는 사람이라면 아이를 밴 여인이 밴 아이를 낳을 수밖에 없는 것 같이 자기 속에 잉태된 새 생명 되신 그리스도를 전파하는 사람이 될 수밖에 없습니다. 고난이 일어난다고 해도 그 고난 때문에 막히지 않는 사람입니다. 복음은 예루살렘에만 제한되지 않았습니다. 핍박과 고난 때문에 흩어진 그리스도인들이 유대와 사마리아로 전진하게 되었고 모든 이방인들에게 이 복음은 흘러가게 되었습니다. 그것이 8-12장의 말씀입니다. 빌립이 사마리아를 전도하고 성령이 그들 위에 임하게 되었습니다. 이에 예루살렘 교회는 베드로와 요한을 보내고 성령의 역사임을 확인하게 됩니다. 사마리아와 유대 땅에도 복음이 전해진 것입니다. 특히 로마 백부장인 고넬료와 유대인 사도 베드로는 만날 수 없는 사람들이 만난 것입니다. 그러나 성령의 강권적인 은혜 역사 가운데 일어난 사건입니다. 역동적으로 역사하는 복음의 진행은 우리들의 고정관념을 깨게 만듭니다. 도무지 만날 수 없는 사람들이 만나는 것입니다. 도무지 일어날 수 없는 일을 가능하게 만드는 복음의 능력입니다. 어떤 막힌 벽을 헐게 하는 것이 복음의 역사임을 믿습니다. 성령의 역사는 만날 수 없는 사람들을 만나게 하는 것입니다. 이런 성령의 역사를 체험할 수 있기를 바랍니다. 만날 수 없는 사람을 만나게 하고, 할 수 없는 일을 하게 하십니다. 주일학교 반사를 해 보시면 이런 일을 가능하게 하시는 성령의 역사를 체험하게 될 것입니다. 나는 할 수 없지만 주님은 불가능이 없습니다. 우리는 불가능한 벽에 부딪치지만 내 안에 그리스도 안에서는 무한한 능력이 있습니다. 무엇보다 큰 기적의 역사는 바울의 회심입니다. 사도행전 9장에서 나타난 철저한 율법주의자요, 교회를 반대하고 박해했던 사울이라는 청년의 회심은 한 개인의 회심 사건에 불과하지만, 이것 또한 하나님께서 이방 선교를 위해서 일으키신 놀라운 역사입니다. 바울에게만 일어난 일로 아시면 안 됩니다. 오늘도 그러합니다. 나를 구원시키신 성령께서 나를 부르시고 세우셔서 나로는 할 수 없는 일을 하게 하십니다. 그러므로 복음을 전하면서 이 복음을 도무지 받아들이지 않고 오히려 반대하며 핍박하는 사람을 만나도 실망하거나 포기하지 말기 바랍니다. 여기에 하나님의 역설적인 진리가 있음을 믿으시기 바랍니다. 반대자를 거꾸러뜨려 복음전파자로 만드실 수 있는 하나님이십니다. 다만 우리들에게 이 믿음이 있느냐 하는 것이 문제입니다. 바울을 변화시킨 복음은 바울에게서 머무르지 않았습니다. 그를 사용하신 성령께서 그를 통하여 복음을 온 세계에 터뜨리는 일을 하셨습니다. 구속사적인 삶을 사시기 바랍니다. 여러분, 예수를 믿어 구원 얻으신 것을 믿으십니까? 이 은혜를 감사하는데서 머무르면 안됩니다. 이제 하나님은 나를 통하여 영광을 받으시려 하신다는 것입니다. 하나님께서 나를 구원하심에는 뜻이 있음을 믿으시기 바랍니다. 나를 오늘도 세상에 두시면서 각양의 은혜를 베푸시는 데에는 하나님이 우리에게 요구하시는 기대와 목적이 있습니다. 그것이 무엇이겠습니까? 오늘 읽은 본문은 13-28장에서 나타나는 복음이 땅 끝까지 전파되는 그 시작을 보여주는 말씀인데, 이제까지 베드로를 통하여 예루살렘을 중심해서 역사하시던 성령께서 바울을 통하여 민족과 국가, 모든 문화의 벽을 넘어서서 역사하심을 보여줍니다. 이방인들을 향한 선교의 역사가 여기에 기록이 되어 있습니다. 그런 의미에서 안디옥교회 라는 불과 세운지 얼마 안 되는 작은 교회가 바울과 바나바를 선교사로 파송시키는 장면을 기록한 오늘 읽은 이 본문은 선교의 본질이 어떤가를 알려주고 있습니다. 선교가 무엇입니까? 선교를 알고 해야 합니다. 열정만 가지고 안 됩니다. 성경으로 돌아가야 합니다. 2000년 선교역사에서 바른 선교를 어떻게 해야 하는가는 이 본문 말씀에서 교과서 삼아야합니다. 행 13:1 안디옥 교회에 선지자들과 교사들이 있으니 곧 바나바와 니게르라 하는 시므온과 구레네 사람 루기오와 분봉왕 헤롯의 젖동생 마나엔과 및 사울이라 2 주를 섬겨 금식할 때에 성령이 가라사대 내가 불러 시키는 일을 위하여 바나바와 사울을 따로 세우라 하시니 3 이에 금식하며 기도하고 두 사람에게 안수하여 보내니라 우리가 이 말씀에서 무엇을 제일 먼저 발견하게 됩니까? 안디옥교회가 선교를 시작했구나 하는 사실을 깨닫는 사람도 있겠습니다만, 오늘 말씀은 선교의 주체가 성령이심을 보여줍니다. 선교의 주체는 하나님, 곧 성령이심을 믿으시기 바랍니다. 결코 어떤 한 인간이 선교의 주체자는 될 수 없습니다. 2 주를 섬겨 금식할 때에 성령이 가라사대 내가 불러 시키는 일을 위하여 바나바와 사울을 따로 세우라 하시니 누가 말씀하신 것입니까? “성령이 가라사대” “내가 부른 바나바와 사울이다” “내가 시키는 일을 하기 위하여” “너희가 따로 세우라” 안디옥 교회는 1절에서 보인대로 영적 지도자들이 있었습니다. 그들은 교사와 선지자의 역할을 했습니다. 그들이 금식하며 기도할 때에 성령님이 말씀하셨습니다. 선교를 명하신 분은 성령님이십니다. 세상에도 사명자들이 많습니다. 사명자라는 말은 명을 받들어서 심부름하는 사람입니다. 심부름을 하는 사람의 종류가 많습니다. 그러나 누구의 명령을 따른 것인가 하는 것은 사명자에게서 중요합니다. 사무실에서 심부름을 하는 사람을 옛날에는 ‘급사’라고 했습니다. 학교를 지키는 사람 ‘소사’도 있습니다. 그러나 같은 심부름꾼이라도 나라에서 대통령이 외국에 보낸 사환을 대사라고 합니다. 급사나 소사, 대사가 다 심부름하는 사람이지만 누가 보냈는가, 누구의 명령에 따라 움직이는가 하는 것은 사명자에게 그 사명을 감당하는데 중요한 것입니다. 복음 선교를 하는 일이 쉬운 일이 아닙니다. 고난과 역경이 기다립니다. 그러나 하나님이신 성령께서 명하신 일이라는 인식을 할 때는 사명을 감당하기 위해서 생명을 내어놓게 됩니다. 바울이 말한 대로 (행 20:24) 나의 달려갈 길과 주 예수께 받은 사명 곧 하나님의 은혜의 복음 증거 하는 일을 마치려 함에는 나의 생명을 조금도 귀한 것으로 여기지 아니하노라 생명을 귀한 것으로 여기지 않습니다. 생명이 귀한 것입니다. 그러나 사명자에게는 사명이 생명보다 더 귀한 것입니다. 또 말씀드립니다. 우리 이지순 간사가 선교사로 나가야할 때가 다 되었는데, 선교현장이 어제와 오늘이 다릅니다. 선교사들이 어떤 어려움을 겪어야할지 모릅니다. 이렇기 때문에 우리들이 기도해야합니다. 하나님이신 성령께서 말씀하십니다. 주님께서 분부하셨습니다. 선교는 하나님의 관심입니다. 교회는 하나님의 성령이 명하신 선교를 해야 합니다. 이것이 진정한 교회입니다. 또한 성령께서 선교할 사람을 불렀다고 말씀하셨습니다. 선교 사명자는 성령께서 부르신 사람입니다. 예레미야에게 (렘 1:5) 내가 너를 복중에 짓기 전에 너를 알았고 네가 태에서 나오기 전에 너를 구별하였고 너를 열방의 선지자로 세웠노라 말씀하신 것 같이, 바울을 부르실 때부터 하나님께서 그를 이방인의 사도로 쓰시겠다는 부르심을 말씀했습니다. 여러분 복음 전도와 선교는 구원받은 자라면 누구라도 해야할 사명입니다. 우리를 왕 같은 제사장으로 세우신 그 넓은 의미에서 볼 때는 우리가 다 선교자가 되어야합니다. 그러나 누구라도 해야하지만 아무나 하는 것은 아닙니다. 특별히 세움을 입어야합니다. 하나님께서 구약의 이스라엘이 다 제사장 나라이지만, 특별히 선지자를 부르셨고, 예수님께서 무리들 가운데서 제자들을 부르시고 제자들을 양육해서 사도로 보내신 것 같이, 하나님께서 부르시는 제 2차 소명이라는 특별한 부르심이 있습니다. 이 부르심 때문에 생명을 내어놓고 충성 다하는 사명이 있는 것입니다. 안디옥교회에는 선지자들과 교사들이 있었습니다. “곧 바나바와 니게르라 하는 시므온과 구레네 사람 루기오와 분봉왕 헤롯의 젖동생 마나엔과 및 사울”입니다. 그러나 성령께서는 이들을 다 부르시지는 않고 “바나바와 사울을 따로 세우라”고 하셨습니다. 성령의 명령하신 그 선교명령을 이루기 위해서 성령께서 따로 세워라고 하여서 세우신 사람이어야 합니다. 그렇지 않고는 이 일을 감당하지 못합니다. 목회자도 그렇습니다. 교회 안에 많은 교사들과 직분자들이 있지만 그래도 복음을 전할 전임사역자들로 세움을 받는 것은 구별하여 따로 세우신 자입니다. 믿으시기 바랍니다. 오늘 한국교회의 어려움은 목회자가 따로 세움을 받은 자라는 이 인식이 없어진 데서 온 것입니다. 그러니 사명감을 가지고 주신 직분을 감당하지 못하고 성도들이 이를 인정하지 않는데서 목회의 위기, 교회의 위기가 온 것입니다. 이 책임은 성도 여러분들에게 있습니다. 자녀들 가운데도 신앙적으로 인격을 갖춘 자녀들에 대하여 하나님의 부르심이 있어도 헌신하도록 부모가 허락하지 않기 때문에 저 같이 실수 많고 허물 많은 사람이라도 하나님께서 불러서 쓰시는데 이러니까 교회 사역에 부작용이 많은 것입니다. 그러나 공부가 안되니까 신학교나 보내자는 생각은 이제는 안 할 것입니다. 신학대학교 들어가기가 그렇게 쉽지 않습니다. 그러나 공부만 잘한다고 그 사람이 목회자가 되겠습니까? 하나님의 부르심이 선행되어야합니다. 목회를 하면 할수록 이 소명의 중요성을 더 느낍니다. 우리 교회 교우 여러분들이 다 복음의 헌신자가 되시기를 축원합니다. 그러나 성령께서 명하신 명령 때문에, 성령의 부르심을 받고 헌신하시기 바랍니다. 헌신자는 성경을 봐도 남다르게 성경이 봐집니다. 마태복음 28장에 주님이 명하신 가라, 모든 족속에게 가라는 명령이 다른 사람들은 그저 그렇게 들리는데, 하나님이 부르신 자는 이 명령이 바로 주님께서 자기에게만 명하신 명령으로 급하게 강하게 들려지는 사람들입니다. 많은 사람들이 교회 안에 있지만, 다 꼭 같이 들려지는 것은 아닙니다. 특별히 하나님 나라에 대한 관심이 있고, 복음에 대한 뜨거운 사명이 일어날 것입니다. 무엇을 위해서 성령께서 헌신자, 사명자를 부르시고 세우십니까? 2 주를 섬겨 금식할 때에 성령이 가라사대 내가 불러 시키는 일을 위하여 바나바와 사울을 따로 세우라 하시니 “내가 불러 시키는 일을 위하여” 성령께서 왜 오셨습니까? 성령께서 교회를 세우시고, 교회가 사역자들을 세우도록 하시는 이유가 있습니다. 성령께서 하시고자 하시는 일이 있습니다. 바로 그리스도의 복음 선교입니다. 이를 성령께서 주도하시되 세우신 교회를 통해서 또 사명자들을 통해서 이루시는데 이를 위해서 우리들에게 시키는 일이 있습니다. 선교는 성령께서 하시는 일입니다. 성령의 명하신 대로 성령의 시키시는 일을 하기 위해서 성령께서 따로 세운 사람이 선교 사명자입니다. 성령께서 하시고자 하는 선교의 일을 하기 위해서는 자기 뜻대로 해서는 안 됩니다. 성령께서 시키시는 대로 움직여야 합니다. 선교는 성령께서 주체자가 됩니다. 선교의 명령은 성령의 명령입니다. 선교사역자는 성령께서 따로 세우신 자입니다. 선교는 성령의 시키시는 일을 하면 됩니다. 이 원리를 선교한다는 교회나 선교사역자나 선교단체가 잊어서는 안 됩니다. 두 번째 우리가 알 것은 선교는 성령이 주체이지만 그것을 행하는 것은 지상의 교회에게 명하신 것입니다. 선교할 바나바와 바울을 따로 세우라고 교회에게 명하셨습니다. 성령께서 주체자가 되시면 우리 인간 측에서는 아무 일을 하지 않고 기다리면 되는가 그렇지 않습니다. 성령께서 이 일을 교회에게 맡기셨습니다. 누가 이일을 합니까? 교회가 이일을 합니다. 교회는 무엇입니까? 하나님의 백성들, 그리스도의 피로 사신 지체들이 이룬 거룩한 하나님의 자녀의 무리입니다. 교회는 단지 건물이 아닙니다. 교회는 하나님의 백성을 가리켜 교회라고 합니다. 선교의 주체는 성령이시고, 선교는 교회에게 주신 명령입니다. 오늘 선교단체들이 많이 있지만 선교단체들이 알아야하는 것은 선교는 성령께서 교회에게 명하신 것이라는 것입니다. 선교단체는 하나의 교회에서 세운 교회와 관계를 끊을 수 없는 교회의 선교조력단체가 되어야합니다. 오늘 많은 선교단체들이 교회를 떠나서 단체를 만들면서 성령께서 세우신 교회를 무시하고, 무엇을 한다고 하지만 이것은 잘못된 것입니다. 선교단체가 있다고해도 어디까지나 교회와 연합해서 선교를 하는 것입니다. 선교단체가 세워지는 것은 교회가 마땅히 선교를 해야 하지만 교회는 또한 여러 가지 사명을 감당해야하는데, 이를 제대로 감당하지 못하므로 성도들이 자생적으로 선교단체를 세워서 선교를 부르짖고 선교를 해 왔습니다. 그러나 교회가 하는 선교가 더 많습니다. 그 선교단체들이 교회를 섬겨야합니다. 선교단체의 일을 하는 사람들도 자기 교회를 섬기면서 해야 바로 된 것입니다. 오늘 우리 현실은 많은 선교단체들과 교회가 이 관계를 망각해서 충돌되는 일이 있습니다. 교회도 선교단체들을 이단시 말고, 품어야하고, 선교단체도 교회 안에 있어야합니다. 또 선교의 열매가 교회를 세우는 것이 됩니다. 이 관계가 잘못되면 성령께서 하라는 일을 한다고 하면서 교회의 연합을 깨므로 결국 선교의 목적을 이루지 못합니다. 오늘 본문이 선교의 시작이라면 이 선교의 시작도 안디옥 교회라는 교회에게 하나님이신 성령께서 말씀하신 것입니다. 안디옥교회에 선지자들과 교사들이 있었습니다. 안디옥 교회는 예루살렘 교회와는 다르게 교회 안에 다양한 사람들이 있음을 볼 수 있습니다. 바나바-행4:36에 구브로 출신의 레위족이라고 합니다. 니게르라는 시몬- 니게르는 니그로(피부가 검은)이란 말인데 아프리카에서 온 한 개종자입니다. 루기오-구레네에서 온 루기오, 로마권에서 온 사람입니다. 헤롯의 젖동생 마나엔- 세례요한을 죽인 헤롯과 어머니 젖을 함께 먹고 자란 동생으로 높은 권력층의 사람임을 말합니다. 이렇게 다양한 부류의 사람들이 안디옥 교회에 모였습니다. 교회는 모임입니다. 그리스도의 피로 구속받은 성도들의 모임입니다. 왜 성령께서 교회를 세우셨습니까? 우리 교회 안에도 다양한 사람들이 모여 있는데, 그러나 이 교회는 일치를 이루어야합니다. 무엇을 위해서입니까? 성령께서 명하신 선교를 하기 위해서입니다. 이렇게 세워진 안디옥 교회가 처음으로 한 일이 무엇입니까? 그들은 복음을 전했습니다. 그들은 세상에서도 진실된 삶을 살아서 그리스도인이라는 칭호를 얻게 되었습니다. 그 교회는 가뭄으로 고생하는 예루살렘 교회를 돕는 일이었습니다. 이렇게 선교를 위해서 세워진 것이 교회이지만, 교회는 궁극적 목적인 선교를 위해서 다양한 일을 또한 해야합니다. 이것이 선교단체와 다른 점이기도 합니다. 전도하며, 교육하고, 봉사하는 일을 해야 합니다. 어느 것 하나라도 치우치거나 모자라면 원만한 교회가 되지 못합니다. 구제하는 안디옥 교회가 선교하는 교회의 사명도 잘 감당합니다. 우리 교회도 우리 주변에 있는 가난한 사람들을 돕는 일, 우리 교회 안에 있는 가난한 사람들을 돕는 일. 사랑을 가지고. 이것이 먼저 선행이 되어야 합니다. 그러나 교회는 구제단체는 아닙니다. 세상에 대한 봉사하기 위해서 세워진 곳은 아닙니다. 안디옥 교회는 구제에만 머물러 있지는 않습니다. 복음은 구제에만 머물지 않습니다. 나아가 선교했던 것입니다. 안디옥 교회의 지도자들은 선지자와 교사라고 본문에는 말씀했는데, 이들은 세 가지 일을 교회 안에서 하고, 가르쳤습니다. 선교하는 교회가 되기 위해서 입니다. 첫째로 그들은 선지자와 교사의 직무를 맡았습니다. 선지자는 예언자로 말씀을 선포하는 역할을 하는 사람입니다. 하나님의 말씀을 예언하고 선포하고 그 시대에 하나님의 말씀을 주는 역할입니다. 말씀을 가르치는 역할입니다. 누구든지 그리스도인은 언제나 어떤 곳에서든지 말씀을 배우고 가르치고 선포해야합니다. 말씀을 모르고는 신앙생활을 못합니다. 선고사역자들이든지 교회의 평신도 사역자들이든지 말씀을 모르고야 아무 것도 하지 못합니다. 그래서 저는 헌신하겠다는 사람들에게 최소한 신학을 할 것을 말합니다. 찬양 헌신자가 되겠다고 해도 신학을 해야 합니다. 목회를 하겠다고 하면 더욱 정통신학을 해야 합니다. 성경을 모르고야 제 마음대로 하는 신앙생활이 될 수밖에 없습니다. 그래도 한국교회에 큰 교회, 정말 바로 세워진 교회들이 그래도 목회자들이 바로 되어있고, 그분들이 신학을 바로 한 분들임을 감사해야합니다. 우리 그리스도인들이 성경을 다 알아야합니다. 세상 공부를 하는 것은 필요에 의해서 하는 것이지만 성경 말씀을 공부하는 것은 이는 우리 삶 전체이기 때문입니다. 성경을 모르고는 신앙생활을 한다고 해도 주관적입니다. 사도의 가르침을 받으시기를 바랍니다. 어떤 사람이든지 말씀을 배우고 말씀을 가르치고 해야 합니다. 교회만 왔다갔다 하지 말고 말씀을 배우고 말씀을 가르치고 해야 합니다. 말씀은 운동력이 있습니다. 살아있습니다. 말씀이 있을 때 우리는 지치지 않습니다. 외롭지 않습니다. 피곤하지 않습니다. 그러나 말씀이 없을 때는 지치고, 우울증에 빠지기 쉽습니다. 말씀을 날마다 가르치고 배우며 함께 함으로 생동력이 있는 그리스도인이 되시기를 바랍니다. 두 번째로 그들은 주님께 봉사하는 생을 살았습니다. 서로 봉사합니다. 와서 예배만 드리고 가는 것, 극장식 예배입니다. 신앙은 열심히 교회 나와서 봉사하는 것입니다. 말씀을 가지고 열심히 봉사하면 신앙이 생깁니다. 얌체처럼 싹 먹고, 싹가는 사람이 되지 마십시오. 그 사람은 극장 가는 거에요. 교회에 애정을 가지고 헌신하고 봉사하십시오. 여기가 내 교회라는 생각을 가질 때에 충성이 있게 됩니다. 손님은 은혜 받지 못합니다. 손님은 설거지 할 것 없습니다. 음식만 먹고 커피도 멋지게 폼 잡고 먹고 그냥 가면 됩니다. 그러나 주인은 설거지를 합니다. 그리고는 그릇을 마른 행주로 깨끗이 닦아 넣어 놓습니다. 이들은 주님을 섬기는 기쁨이 교회를 섬기는 기쁨이 있었습니다. 그래서 그들에게는 애정이 생깁니다. 여기가 내 교회다. 내가 섬길 수 있는 교회다. 충성할 수 있는 교회를 가지고 있음을 행복해하시기 바랍니다. 세 번째로 그들은 기도했습니다. 말씀이 있었고, 봉사가 있었고, 기도가 있었습니다. 신앙생활은 피나는 투쟁입니다. 죽느냐, 사느냐 하는 싸움입니다. 땀이 피가 되도록 기도하지 않으면 이길 수 없는 싸움의 현장입니다. 어떻게 성경을 읽지 않고, 금식도 해보지 않고, 산 기도도 한 번 해보지 아니하고, 밤새서 기도도 한번 해보지 아니하고 승리하는 신앙생활을 할 수 있겠습니까? 정말 신앙생활을 잘하려면 그런 헌신과 투쟁이 있는 것입니다. 신실한 봉사, 간절한 기도, 그것이 지나치면 금식하지 않습니까? 금식은 심심해서 하는 일이 아닙니다. 정말 밥을 먹을 수가 없고, 잠을 잘 수가 없습니다. 그래서 금식을 하는 것입니다. 네 번째 이 교회는 선교사를 내어놓았습니다. 선교는 성령께서 준비하시고 예비하신 사람들을 통해서 하시는데 이 교회는 “바나바와 바울을 따로 세우라”는 성령의 음성대로 그 교회의 가장 유력한 일군인 목회자라고 할 수 있는 바나바와 바울을 선교에 내어놓았습니다. 안디옥교회가 자기 교회만을 생각한다면 이런 일을 할 수 없습니다. 저는 우리 교회 성도들이 주님의영광교회에 등록되었으면 교회를 떠나지 않고 교회 중심의 신앙생활을 하기를 소원합니다. 그래서 이사를 해도 교회 중심으로, 학교를 진학해도 교회 중심으로 결혼을 해도 그렇게 했으면 합니다. 한 교회를 섬기는 것이 얼마나 중요한지 모릅니다. 무조건 서울로 지방으로 보내는 것은 생각해봐야할 문제입니다. 그러나 이 보다 더 귀한 일에 헌신하기를 작정하는 사람들이 일어나서 이 교회를 다 떠나게 된다면 그것은 정말로 축복할 일이라고 생각합니다. 우리의 인생은 헌신해야 합니다. 하나님께 헌신하는 것이 인생의 본질입니다. 헌신을 하면 우선순위가 생깁니다. 여러분은 과연 누구에게 헌신하고 있습니까? 제일 불쌍한 사람은 헌신할 곳조차 없는 사람입니다. 되는대로 사는 사람, 좋은 형편 따라 사는 사람, 좋은 조건 주면 따라 다니는 사람이 불행한 사람입니다. 그러니 자기가 헌신해야 할 대상이 있어야 합니다. 하나님은 오늘도 헌신자를 찾으십니다. 여러분이 어떤 직업을 가지고 있든지, 어떤 형편에 있든지 하나님께 헌신하기를 결심하게 되기를 바랍니다. 헌신하면 마음이 결정이 됩니다. 헌신하면 이곳에 갈까 저곳에 갈까 고민하지 않게 됩니다. 왜냐하면 헌신하면 어디로 가야 하는지 결정이 되기 때문입니다. 바울은 헌신했습니다. 베드로도 헌신한 사람입니다. 우리들도 헌신할 수 있기를 바랍니다. 내 마음이 확정되었사오니, 세상이 나를 흔들지 못할 것입니다. 성령의 역사하심을 따라 성령의 명하신 선교하는 주님의영광교회가 되길 축원합니다. 아멘. 강영래 목사(인천 주님의영광교회)
せんきょう(宣教)する神の栄光教会(선교하는 주님의영광교회)/ 行13:1-3(행13:1-3)/ カンヨハネ(姜永來、カンヨンレ)牧師(강영래 목사)(仁川 神の栄光教会)/ 일한대역설교/ 2011-07-17
宣教する神の栄光教会 行13:1-3 私は明日から中国宣教に発ちます。明日の朝仁川(インチョン)空港で8時30分の飛行機で昔満州の奉天、今の中国の沈陽に発ちます。聖靈が私をそちらへ導いて下さるのを真に感謝申し上げます。 私が牧師になる前に、ずっと前に、もう15年前にビジョンで見ました。私が執事であった時に教会に早天祈祷をしに行って祈っていたんですが、私が目をとじていたのに、目の前に何かが見えるのでした。人々がたくさん集まっていました。講壇に中国の人が誰かを紹介しました。“センジャイ ジャンウェハンムース ライ チャンダオ(現在姜約翰牧師来講道)”(もうカンヨハネ牧師様が出てきて説教します。) ところで、講壇に出てきて中国語で説教する牧師様の顔を見ると、それは私の顔ではないでしょうか。その時、私の名前はカン・ヨンレでした。確かにカンヨハネ牧師様が出てこられるといったが、そちらでは私の名前がカンヨハネ、中国語でジャンウェハンだったのです。 もう明日になれば、15年前に私が確かに見たそのビジョンが実際に成り立つ日が近づいてきているのです。何の考えもないまま生きていた私に神様がその夢を見るようにして、15年が過ぎた今日、その夢をかなえて下さる神様に、私を細心に導いておられる聖靈様に心より感謝申し上げます。聖靈様、今後のすべてのことを聖靈様に任せるから、聖靈様が親しく導いて下さい。アーメン。 その夢のとおり、遠くない内に中国に、ションドルンヤオチャオフェイ(神的栄耀教会:神の栄光教会)が建てられるだろうと信じます。私を呼ばれた神様がその仕事をしろとおっしゃったので、神様が全部責任を負ってくださることであるから、私は神様がさせることだけすれば良いのです。心配することがありません。なぜなら神様が全部成し遂げて下さることを確かに信じるからです。 私たちは使徒行伝の御言葉を調べなければなりません。私たちが2000年前の使徒の時の姿を調べるのは一つの過ぎ去った教会の話を調べることで終わりません。使徒行伝は聖靈が教会と使徒らをつかんでどのように福音伝播をするわざをしたかというのを調べることなのに、初代教会と使徒らに臨まれた同一な生きておられて働く聖靈が今日私たちにも充満に臨んでおられるのを信じて、聖霊の引導について福音を伝えることをしようとする目的なのです。 使徒行伝1:8は使徒行伝全体を導く御言葉です。また、この御言葉は今私たちを導く御言葉です。やはり私たちも使徒行伝の延長にあって、使徒行伝の人物なのです。 使徒行伝1-7章はエルサレム教会の姿を説明しています。 聖靈充満を受けたエルサレム教会がどのように過ごしてきましたか? その教会は御言葉と祈祷と傳道することを力を使いました。愛があふれたし、奉仕がありました。彼による神様の驚くべき奇跡のみわざがあった教会です。この教会に毎日数を加える復興がありました。元気な教会は必ず成長することを習いました。今日私たちの教会にもエルサレム教会の復興する姿があることを祈願します。 しかし聖靈はエルサレムにだけ集まっていて散らないエルサレム教会に圧迫という道具を使ってサマリアまで福音を伝えるようにしました。 使徒行伝8-12章は、福音がエルサレムにきたが、この福音がエルサレムにだけ留まっていなかったことを見せます。 圧迫でエルサレムとユダヤとサマリアと地の果てまで福音が伝播されました。エルサレムに来た福音はユダヤ全体とサマリアに拡張されたのです。 福音の性質がそうなのです。私を救援したこの福音は、私にきて私で終わるようになるそんな福音ではありません。福音は私たちにきたが、私たちに制限されません。福音を受けた人はじっとしていられません。 キリスト人はキリストによって生き返った人で、キリストによって生きる人です。彼が真にキリストによって生き返ったのを知って、キリストで毎日を生きる人なら、身ごもった女性がお腹の子をいつかは産むしかないように、自分の中に生じた新しい生命であるキリストを伝播する人になることしかないのです。苦難があるといってもその苦難のために詰まらないのです。 福音はエルサレムにだけ制限されなかったのです。圧迫と苦難のために散ったキリスト人がユダヤとサマリアへ前進することになったし、すべての異邦人らにこの福音は流れることになりました。 それが8-12章の御言葉です。ピリポがサマリアを伝道して聖靈が彼の上に臨むことになりました。これにエルサレム教会はペテロとヨハネを送って聖靈の歴史であることを確認することになります。サマリアとユダヤの土地にも福音が伝えられたのです。 特にローマの百人隊長のコルネリウスとユダヤ人の使徒ペテロは、会うことのできない人たちでしたが、会ったのです。聖靈の強権的な恵みの中で起きた事件です。 躍動的に働く福音の進行は私たちの固定観念を破らせます。まったく会うことのできない人たちに会うのです。まったく起こられないことを可能にさせる福音の能力です。 どんなに詰まった壁をも壊すようになるのが福音のみわざだということを信じます。 聖靈のはたらきは会うことのできない人々に会うようにするのです。 みなさんもこういう聖靈のみわざを体験できるようお願いします。会うことのできない人に会うようになり、できない仕事ができるようになります。 日曜学校の教師をしてみるとこのような、可能にする聖靈のはたらきを体験することになるだろうと思います。 私にはできないが、神様には不可能がありません。私たちは不可能な壁にぶつかるが、私の中にいらっしゃるキリストの中には無限の能力があります。 何よりも大きい奇跡のはたらきはパウロの回心です。 使徒行伝9章に現れた徹底した律法主義者で、教会を反対して迫害したサウルという青年の回心は一個人の回心事件ですが、これもまた、神様が異邦人宣教のために起こされた驚くべきみわざです。パウロにだけ起こったことだと知ってはいけません。 今日もそうです。私を救援させられた聖靈が私を呼んでたてて私ではできない仕事をするようにします。 したがって福音を伝えながらこの福音をまったく受け入れないでかえって反対して圧迫する人に会っても失望したりあきらめないようお願いします。ここに神様の逆説的な真理があるということを信じて下さい。反対者を倒して福音伝者に作る神様でいらっしゃいます。ただし私たちにこの信頼があるかということが問題です。 パウロを変化させた福音はパウロにだけ留まらなかったです。彼をご使用になった聖靈が彼を通じて福音を全世界にさく烈させる仕事をしました。 救贖史的生活を送って下さい。 皆さん、イエスを信じて救援を得たのを信じますか。この恵みを感謝するところで留まってはいけません。もう神様は私を通じて光栄を受けられようとされるのです。 神様が私を救援されるということには神様のみむねがあるということを信じて下さい。私を今日も世の中に置きながら様々の恵みを施されるのは、神様が私たちに要求する期待と目的があります。それが何でしょうか? 今日読んだ本文の13-28章に現れる、福音が地の果てまで伝播されるその開始を見せる御言葉なのです。今までペテロを通じてエルサレムを中心にして働いた聖靈がパウロを通じて民族と国家、すべての文化の壁を越えてはたらくことを見せます。 異邦人らに向かった宣教の歴史がここに記録されています。そのような意味で、アンテオケ教会という、たててからいくらも経たない小さい教会がパウロとバルナバを宣教師として派遣させる場面を記録した今日読んだこの本文は、宣教の本質がどうなのかを知らせています。 宣教は何ですか?宣教を知っていなければなりません。情熱だけ持ってはなりません。聖書に帰らなければなりません。 2000年の宣教歴史で正しい宣教をどのようにするのかは、この本文の御言葉を教科書とみなすべきです。 使徒行伝13章 1. さて、アンテオケにある敎會には、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデ の乳兄弟マナエン、およびサウロなどの預言者や敎師がいた。 2. 一同が主に礼拝をささげ、斷食をしていると、聖靈が「さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に當らせなさい」と告げた。 3. そこで一同は、斷食と祈りとをして、手をふたりの上においた後、出發させた。(口語譯) アンテオケ教会に預言者らと教師たちがいると、まもなくバルナバとニゲルというシメオンとクレネ人ルキオと分封王ヘロデの乳兄弟マナエンとおよびサウルがいました。2週間を仕えて斷食する時に聖靈が、私が呼んでさせることのためにバルナバとサウルを別にたてなさいというと、このために教会が斷食して祈って二人に按手して送るのです。 私たちはこのお言葉で何を一番最初に発見することになりますか? アンテオケ教会が宣教を始めたんだなという事実を悟る人もいますが、今日のお言葉は布教の主体が聖霊だということを見せます。宣教の主体は神様、すなわち聖霊だということを信じてください。 決してある一人の人間が宣教の主体者になることはできません。 2週を仕えて断食する時に聖靈がいわく、私が呼んでさせることのためにバルナバとサウルを別にたてなさいといったんですね。 誰がおっしゃったことですか? “聖靈がいわく” “私が呼んだバルナバとサウル” “私がさせる仕事をするために” “お前らが別にたてなさい” アンテオケ教会は1節で見た通り霊的指導者がいました。彼らは教師と預言者の役割をしました。彼らが断食して祈る時に聖様がおっしゃいました。 宣教を命じられた方は聖靈様でいらっしゃいます。 世の中には使命者が多いです。使命者という話は命令を敬ってお手伝いする人です。 お手伝いをする人の種類が多いです。 しかし誰の命令に従うのかということは、使命者からとても重要です。 事務室でお手伝いをする人を昔は給仕といいました。学校を守る人の小使もありました。 しかし同じ小使でも国で大統領が外国に送った給仕を大使といいます。給仕も小使も大使もみんなお手伝いをする人ですだが、誰が送ったのか、誰の命令により動くかというのは、使命者にとって、その使命を成し遂げるのに重要なのです。 福音宣教をすることは容易なことではありません。 苦難と逆境が待ちます。しかし神様である聖靈が命じられたことという認識をする時は使命を耐えられるために生命を出しておくことになります。 パウロが話した通り(行20:24)、私の走って行く道と主イエスに受けた使命、すなわち神様の恵みの福音を証拠する仕事を終えようとするということには私の生命を少しも尊いものに感じないのです。自分の生命を尊いのと思いません。生命は尊いのです。しかし使命者には使命が生命よりさらに尊いのです。 また申し上げます。私たちの教会の幹事が宣教師に出て行かなければならない時がちかついましたが、宣教現場が昨日と今日が違います。宣教師がどんな困難を経験するべきかは誰あも知りません。このようだから私たちは祈るべきです。 神様である聖靈がおっしゃいます。神様が言い付けました。 宣教は神様の関心事です。 教会は神様の聖靈が命じられた宣教をしなければなりません。これが真の教会です。 また、聖靈が宣教する人を呼んだとおっしゃいました。 宣教使命者は聖靈が呼ばれた人です。 エレミに(エレミヤ1:5)、「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを 聖別し、あなたを 立てて万國の預言者とした。」とおっしゃったように、パウロを呼ばれる時から神様が彼を異邦人の使徒で使えようとして呼んだことをおっしゃいました。 皆さん福音傳道と宣教は救援された者ならば誰でもしなければならない使命です。 私たちを王のような祭司長だとぺテロはいいます。広い意味で見る時は私たちがみな祭司長で宣教者になるべきです。 しかし誰でもしなければならないが、誰もがするのではありません。 特別にたてるということをすべきです。 神様が旧約のイスラエルがみんな祭司長国家だといいましたが、その中で特別に預言者を呼ばれたし、イエス様が輩中で弟子らを呼んで弟子らを養育して使徒に送られたように、神様が呼ぶ第2次天の命令という特別に呼ばれるということがあります。この呼ばれるということのために生命を出しておいて忠誠をつくす使命があるのです。 アンテオ教会には預言者らと教師たちがいました。 “さて、アンテオケにある敎會には、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、およびサウロなどの預言者や敎師がいた。”のです。しかし聖靈はこれらをみな呼ばれはしなくて、“バルナバとサウルを別にたてなさい”といいました。 聖靈の命令された、その宣教命令を成し遂げるために聖靈が別にたてろというひとがいます。そうではなくてはこのことを耐えられません。 牧師もそうです。 教会の中に多くの教師たちと職分者などがあるが、それでも福音を伝える専任使役者などでたてるということを受けるのは区別して別にたてられた者です。信じて下さい。 今日韓国教会の困難は牧師が、別にたてるということを受けた者というこの認識がなくなったところが問題です。だから使命感を持って、くださった職分を耐えられることができなくて聖徒がこれを認めないところから牧場の危機、教会の危機がきたのです。 この責任は聖徒の皆さんにあります。 子供らの中にも信仰的に人格を整えた子供らに対して神様の呼ばれるということがあっても、献身するように両親が許さないために、失敗が多くて過ちが多い人でも神様が呼んで使っていますが、こうするから教会の使役に副作用が多いのです。 だから勉強がよくできないから神学校に送ろうという考えは今はしないでください。神学大学校に入って勉強するのもそんなに容易ではありません。しかし勉強が上手だったらとその人が牧師になろうとしますか? まず神様の呼ばれるということが先行するべきです。牧会をすればするほどこの天の命令の重要性をさらに感じます。 私たちの教会の教友の皆さんがみんな福音の献身者になられることを祈願します。しかし聖靈が命じられた命令のために、聖靈の呼んだことを受けて献身して下さい。 献身者は聖書を見ても格別に聖書が見えます。 マタイによる福音書28章に神様は命じられました。行きなさい。すべての種族に行けとの命令が他の人はまあまあに聞こえるが、神様が呼ばれた者はこの命令がすぐに神様が自分に直接命じられる命令で急に強く聞こえるようになる人々です。多くの人々が教会の中にいますが、みんな必ず一緒に聞こえられるのではありません。特別に神様の国に対する関心があって、福音に対する熱い使命が起きるでしょう。 何のために聖靈が献身者、使命者を呼んでたてますか? 2週を仕えて断食する時に聖靈がいわく、私が呼んでさせることのためにバルナバとサウルを別にたてなさいといったんです。“私が呼んでさせることのために。”  聖靈がなぜいらっしゃいましたか? 聖靈が教会をたてて、教会が使役者などをたてるようにする理由があります。聖靈がしようと思うことがあります。それはキリストの福音宣教です。これを聖靈が主導されるのです。たてられた教会を通じて、また、使命者らを通じて成し遂げています。このために私たちにさせることがあります。 宣教は聖靈がすることです。 聖靈の命じられた通り、聖靈の仕事をするために聖靈が別にたてた人が宣教使命者です。 聖靈がしようと思う宣教の仕事をするためには、使役者の自分の意向のままにしてはならないのです。聖靈がさせられ次第動かなければなりません。 宣教は聖靈が主体者になります。 宣教の命令は聖靈の命令です。 宣教使役者は聖靈が別にたてられた者です。 宣教は聖靈のさせる仕事をすれば良いです。 この原理を宣教するという教会や宣教使役者や宣教団体が忘れてはいけません。 二番目に私達が知ることは宣教は聖靈が主体だが、それを行うのは地上の教会に命じられたのです。宣教するバルナバとパウロを別にたてろと教会に命じました。 聖靈が主体者になれば私たちの人間側からは何の仕事もしないで待てば良いでしょうか?そうではありません。聖靈がこのことを教会に任せました。 誰がこの仕事をしますか?教会がこのことをします。 教会は何ですか?神様の国民ら、キリストの使節が成し遂げた偉大な神様の子供の群れです。 教会は単に建物ではありません。 神様の民を示して教会といいます。 宣教の主体は聖靈で、宣教は教会にくれた命令です。今日宣教団体がたくさんありますが、宣教団体が分からなければならないのは、宣教は聖靈が教会に命じられたことだということです。 宣教団体は一つの教会でたてた、教会と関係を切ることはできない、教会の宣教助力団体になるべきです。今日多くの宣教団体が教会を離れて団体を作りながら聖靈がたてられた教会を無視して、何をするとしていますが、これは誤ったのです。宣教団体があるとしても、あくまでも教会と連合して宣教をするのです。宣教団体が立てられるのはこういうものです。教会が当然宣教をしなければならないが、教会もまた、色々な使命を耐えられなければならないですが、これをまともに耐えられることができないので、聖徒が自生的に宣教団体をたてて宣教を叫んで宣教をしてきました。しかし教会がする宣教がさらに多いです。その宣教団体が教会を仕えるべきです。宣教団体の仕事をする人々も自分の教会を仕えながらしてこそ、その意義があるのです。 今日私たちの現実は、多くの宣教団体らと教会がこの関係を忘却して衝突することがあるのです。教会も宣教団体らを異端視しないで、抱かなければならず、宣教団体も教会の中にあるべきです。また、宣教の実が教会をたてることです。この関係が誤れば聖靈がしろという仕事をするといいながら教会の連合を破るので結局宣教の目的を成し遂げられません。 今日の本文が宣教の開始なら、この宣教の開始もアンテオケ教会という教会に神様である聖靈がおっしゃったのです。 アンテオケ教会に預言者らと教師たちがいました。アンテオケ教会はエルサレム教会とは違うように教会の中に多様な人々がいるということを見ることができます。 バルナバ: 行4:36でキプロス出身のレビ族の人だといいます。 ニゲル: シメオンともいうニゲルは、ニグロ(皮膚が黒い)という話なのにアフリカから来たある改宗者です。 ルキオ:クレネから来たルキオは、ローマ圏から来た人です。 ヘロデの乳兄弟マナエンは、洗礼ヨハネを殺したヘロデと一緒にお母さんの乳を飲んで寝たという弟で高い権力層の人であることを話します。 このように多様な部類の人々がアンテオケ教会に集まりました。 教会は集いです。キリストの血で救贖を受けた聖徒らの集いです。なぜ聖靈が教会をたてましたか?私たちの教会の中にも多様な人々が集まっていますが、しかしこの教会は一致を成し遂げるべきです。何のためにですか?聖靈が命じられた宣教をするためです。 このように立てられたアンテオケ教会が初めてしたことは何ですか? 彼らは福音を伝えました。彼らは世の中でも真の生活を送ってキリスト人という称号を得ることになりました。その教会は日照りで苦労するエルサレム教会を助けることにしました。 このように宣教のために立てられたのが教会ですが、教会は究極的目的の宣教のために多様なことをまたしなければなりません。これが宣教団体と違った点です。 傳道して、教育して、奉仕することをしなければなりません。どれ一つでも偏ったり足りなければ円満な教会になりません。 救済するアンテオケ教会が宣教する教会の使命もよく耐えられます。私たちの教会も私たちの周辺にある貧しい人々を助けること、私たちの教会の中にある貧しい人々を助けることです。愛を持って、これを先に先行にならなければなりません。 しかし教会は救済団体ではありません。世の中に対する奉仕をするために立てられたところではありません。 アンテオケ教会は救済にだけ留まっていはできないのです。福音は救済にだけ留まりません。進んで宣教しました。 アンテオケ教会の指導者は預言者と教師だったと本文にはおっしゃいましたが、これらの三種類のことを教会の中でして、教えました。 宣教する教会になるためにです。 第一に彼らは預言者と教師の職務を引き受けました。 預言者は予言者として御言葉を宣言する役割をする人です。 神様の御言葉を予言して宣言してその時代に神様の御言葉をあたえる役割です。御言葉を教える役割です。 誰でもキリスト人はいつもどんな所でも御言葉を学び教えて宣言するべきです。 御言葉が分からなくては信仰生活はできません。 宣教使役者も、教会の一般信者使役者も御言葉が分からなければ何もできません。 それで私は、献身するという人々に最小限の神学をすることをいいます。称賛献身者になるといっても神学をしなければなりません。牧会をするといえば、より一層正統神学をしなければなりません。聖書が分からなくては私の心のままにする信仰生活になるしかありません。 それでも韓国教会に大きい教会、本当に正しく立て直した教会がそれでも牧師がすぐにできていて、その方が神学をした方々であることは感謝すべきです。 私たちのキリスト人は聖書を皆知るべきです。 世の中の勉強をするのは必要によってすることですが、聖書の御言葉を勉強するのはこれは私たちの人生全体であるためです。 聖書を分からなくては信仰生活をするといっても主観的です。 使徒の教えを受けられるよう願います。 どんな人でも御言葉を学び御言葉を教えてしなければなりません。教会だけ行ったり来たりせずに御言葉を学び御言葉を教えてしなければなりません。 御言葉は運動力があります。生きています。 御言葉がある時私たちは疲れません。孤独ではありません。疲れません。しかし御言葉がない時は疲れて、うつ病になりやすいです。御言葉を毎日教えて習って一緒にすることで蘇生力があるキリスト人になられるようお願いします。 二番目に彼らは神様に奉仕する生を生きました。 互いに奉仕します。きて礼拝だけ差し上げて行くことは、劇場式礼拝です。信仰は熱心に教会出てきて奉仕するのです。御言葉を持って熱心に奉仕すれば信仰ができます。 教会に愛情を持って献身して奉仕して下さい。ここが私の教会だという考えを持つ時に忠誠があることになります。 お客さんは恩恵受けられません。お客さんは皿洗いする必要がありません。食べ物だけ食べて、コーヒーも格好良く飲んでそのまま行けば良いです。 しかし主人は皿洗いをします。そして器を乾いた布巾できれいに磨いて入れておきます。これらは神様を仕える喜びが教会を仕える喜びがありました。それで彼らには愛情ができます。ここが私の教会だ、私が仕えることができる教会だ、忠誠できる教会を持っているということを幸せになって下さい。 三番目に彼らは祈りました。 御言葉があったし、奉仕があったし、祈祷がありました。 信仰生活は出血する闘争です。死ぬか、生きるかという戦いです。汗が血になるべく祈らなければ勝つことができない戦いの現場です。どのように聖書を読まないで、断食もしてみないで、山祈祷も一度してみなくて、夜を明かして祈祷も一度してみなくて勝利する信仰生活がありますか? 本当に信仰生活をよくするならそのような献身と闘争がいるのです。信実な奉仕、切実な祈り、それが行き過ぎれば断食しないですか? 断食は退屈ですることではありません。本当にご飯を食べることができなく、寝ることができないので、それで断食をするのです。 四回目この教会は宣教師を出しておきました。 宣教は聖靈が準備して予備された人々を通じてするのにこの教会は“バルナバとパウロを別にたてなさい”という聖靈の音声のとおりその教会の最も有力な一群の牧師だと言えるバルナバとパウロを宣教に出しておきました。アンテオケ教会が自分の教会だけを考えるならばこのようなことはできません。 私は私たちの教会聖徒が神の栄光教会に登録されたら教会を離れないで教会中心の信仰生活をすることをお願いします。それで移っても教会中心に、学校を進学しても教会中心に、結婚をしてもそのようにしたらと思います。一教会を仕えることがどれくらい重要なのかわかりません。無条件ソウルから地方に送るのは考えてみなければならない問題です。 しかしこのより尊いことに献身することを決意する人々が起きてこの教会をみな離れることになるならばそれは本当に祝福することだと考えます。 私たちの人生は献身しなければなりません。神様に献身することが人生の本質です。献身をすれば優先順位ができます。 皆さんは果たして誰に献身していますか? 一番かわいそうな人は献身する所さえない人です。 なるように生きる人、良い状態によって生きる人、良い条件与えれば付いて回る人が不幸な人です。 だから自分が献身しなければならない対象がなければなりません。 神様は今日も献身者を探します。 皆さんがどんな職業を持っていても、どんな都合にあっても、神様に献身することを決心することになるようお願いします。 献身すれば心が決定されます。献身すればこちらに行くかあちらに行くか悩まなくなります。なぜなら献身すればどこへ行かなければならないのか決定になるためです。 パウロは献身しました。ぺテロも献身した人です。 私たちも献身できるようお願いします。私の心が確定したなら、世の中が私を揺さぶることができないでしょう。 聖靈のはたらかれるということについて聖靈の命じられた宣教する神の栄光教会になるのを祈願します。アーメン。 선교하는 주님의영광교회 행13:1-3 저는 내일부터 중국 선교를 떠납니다. 내일 아침 인천공항에서 8시 30분 비행기로 옛날 만주의 봉천, 지금은 중국의 선양(沈陽)으로 떠납니다. 성령께서 저를 그곳으로 인도해 주시는 것을 참으로 감사드립니다. 제가 목사가 되기 전에 오래 전에 벌써 15년 전에 비전으로 보았습니다. 제가 집사 때에 교회에 새벽기도하러 가서 기도하고 있는데 제가 눈을 감고 있는데 눈앞에 뭐가 보이는 것이었습니다. 사람들이 많이 모여 있는데 강단에 중국 사람이 누군가를 소개했습니다. “셴자이 쟝웨한 무스 라이 쟝다오(現在姜約翰牧師來講道)”(이제 강요한 목사님이 나오셔서 설교하시겠습니다.) 그런데, 강단에 나와서 중국어로 설교하는 목사님 얼굴을 보니 아니 바로 제 얼굴이 아니겠습니까? 그 때 제 이름은 강영래였습니다. 분명히 강요한 목사님이 나오신다고 했는데 그곳에서는 제 이름이 강요한, 중국어로 쟝웨한이었습니다. 이제 내일이면 15년 전에 제가 분명히 보았던 그 비전이 실제로 이루어질 날이 다가오고 있습니다. 아무 생각 없이 살고 있던 저에게 하나님이 그 꿈을 꾸게 하시고 15년이 지난 오늘 그 꿈을 이루어 주시는 하나님께, 저를 세심하게 인도하고 계시는 성령님께 진심으로 감사를 드립니다. 성령님, 앞으로의 모든 일을 성령님께 맡기오니 성령님께서 친히 이끌어 주시옵소서. 아멘. 그 꿈대로 멀지 않아서 중국에 션더룽야오쨔오훼이(神的榮耀敎會:주님의영광교회)가 세워질 줄 믿습니다. 저를 부르신 하나님이 그 일을 하라고 하셨으니 하나님이 다 책임져 줄 것이니까 저는 하나님이 시키시는 대로만 하면 됩니다. 걱정할 것이 없습니다. 왜냐하면 하나님이 다 이루어 주실 줄을 확실히 믿기 때문입니다. 우리들은 사도행전의 말씀을 살펴보아야 합니다. 우리들이 2000년 전의 사도 때의 모습을 살펴보는 것은 하나의 지나간 교회 이야기를 살펴보는 것으로 그치지 않습니다. 사도행전은 성령께서 교회와 사도들을 붙들고 어떻게 복음 전파하는 역사를 하셨는가 하는 것을 살펴보는 것인데, 초대교회와 사도들에게 임하셨던 동일하신 살아계셔서 역사하시는 성령께서 오늘 우리에게도 충만히 임하여 계심을 믿고, 성령의 인도를 따라 복음 전하는 일을 하려하는 목적입니다. 사도행전 1:8은 사도행전 전체를 이끄는 말씀입니다. 또한 이 말씀은 지금 우리들을 이끄는 말씀이기도 합니다. 역시 우리들도 사도행전의 연장에 있고, 사도행전의 인물들입니다. 사도행전 1-7장은 예루살렘 교회의 모습을 설명하고 있습니다. 성령의 충만을 받은 예루살렘 교회가 어떻게 지내왔습니까? 그 교회는 말씀과 기도와 전도하기를 힘을 썼습니다. 사랑이 넘쳤고, 봉사가 있었습니다. 그로 인한 하나님의 놀라운 기적의 역사가 있었던 교회입니다. 이 교회가 날마다 수를 더하는 부흥이 있었습니다. 건강한 교회는 반드시 성장하는 것을 배웠습니다. 오늘 우리 교회에도 예루살렘의 부흥하는 모습이 있기를 축원합니다. 그러나 성령께서는 예루살렘에만 모여 있고 흩어지지 않는 예루살렘교회에 핍박이라는 도구를 사용하여 온 유대와 사마리아까지 복음을 전하게 했습니다. 8-12장은 복음은 예루살렘에 왔지만 이 복음은 예루살렘에만 머물러 있지 않았음을 보여주었습니다. 핍박으로 예루살렘과 온 유대와 사마리아와 땅끝까지 복음이 전파되었습니다. 예루살렘에 온 복음은 온 유대와 사마리아로 확장된 것입니다. 복음의 성질이 그러합니다. 나를 구원한 이 복음은 나에게 왔지만 나에게서 그쳐지는 복음이 아닙니다. 복음은 우리에게 왔지만 우리에게 제한되지 않습니다. 복음을 받은 사람은 가만히 있지 않습니다. 그리스도인은 그리스도로 인하여 살아난 사람이고, 그리스도로 인하여 사는 사람입니다. 그가 진정 그리스도로 인하여 살아난 것을 알고, 그리스도로 날마다 사는 사람이라면 아이를 밴 여인이 밴 아이를 낳을 수밖에 없는 것 같이 자기 속에 잉태된 새 생명 되신 그리스도를 전파하는 사람이 될 수밖에 없습니다. 고난이 일어난다고 해도 그 고난 때문에 막히지 않는 사람입니다. 복음은 예루살렘에만 제한되지 않았습니다. 핍박과 고난 때문에 흩어진 그리스도인들이 유대와 사마리아로 전진하게 되었고 모든 이방인들에게 이 복음은 흘러가게 되었습니다. 그것이 8-12장의 말씀입니다. 빌립이 사마리아를 전도하고 성령이 그들 위에 임하게 되었습니다. 이에 예루살렘 교회는 베드로와 요한을 보내고 성령의 역사임을 확인하게 됩니다. 사마리아와 유대 땅에도 복음이 전해진 것입니다. 특히 로마 백부장인 고넬료와 유대인 사도 베드로는 만날 수 없는 사람들이 만난 것입니다. 그러나 성령의 강권적인 은혜 역사 가운데 일어난 사건입니다. 역동적으로 역사하는 복음의 진행은 우리들의 고정관념을 깨게 만듭니다. 도무지 만날 수 없는 사람들이 만나는 것입니다. 도무지 일어날 수 없는 일을 가능하게 만드는 복음의 능력입니다. 어떤 막힌 벽을 헐게 하는 것이 복음의 역사임을 믿습니다. 성령의 역사는 만날 수 없는 사람들을 만나게 하는 것입니다. 이런 성령의 역사를 체험할 수 있기를 바랍니다. 만날 수 없는 사람을 만나게 하고, 할 수 없는 일을 하게 하십니다. 주일학교 반사를 해 보시면 이런 일을 가능하게 하시는 성령의 역사를 체험하게 될 것입니다. 나는 할 수 없지만 주님은 불가능이 없습니다. 우리는 불가능한 벽에 부딪치지만 내 안에 그리스도 안에서는 무한한 능력이 있습니다. 무엇보다 큰 기적의 역사는 바울의 회심입니다. 사도행전 9장에서 나타난 철저한 율법주의자요, 교회를 반대하고 박해했던 사울이라는 청년의 회심은 한 개인의 회심 사건에 불과하지만, 이것 또한 하나님께서 이방 선교를 위해서 일으키신 놀라운 역사입니다. 바울에게만 일어난 일로 아시면 안 됩니다. 오늘도 그러합니다. 나를 구원시키신 성령께서 나를 부르시고 세우셔서 나로는 할 수 없는 일을 하게 하십니다. 그러므로 복음을 전하면서 이 복음을 도무지 받아들이지 않고 오히려 반대하며 핍박하는 사람을 만나도 실망하거나 포기하지 말기 바랍니다. 여기에 하나님의 역설적인 진리가 있음을 믿으시기 바랍니다. 반대자를 거꾸러뜨려 복음전파자로 만드실 수 있는 하나님이십니다. 다만 우리들에게 이 믿음이 있느냐 하는 것이 문제입니다. 바울을 변화시킨 복음은 바울에게서 머무르지 않았습니다. 그를 사용하신 성령께서 그를 통하여 복음을 온 세계에 터뜨리는 일을 하셨습니다. 구속사적인 삶을 사시기 바랍니다. 여러분, 예수를 믿어 구원 얻으신 것을 믿으십니까? 이 은혜를 감사하는데서 머무르면 안됩니다. 이제 하나님은 나를 통하여 영광을 받으시려 하신다는 것입니다. 하나님께서 나를 구원하심에는 뜻이 있음을 믿으시기 바랍니다. 나를 오늘도 세상에 두시면서 각양의 은혜를 베푸시는 데에는 하나님이 우리에게 요구하시는 기대와 목적이 있습니다. 그것이 무엇이겠습니까? 오늘 읽은 본문은 13-28장에서 나타나는 복음이 땅 끝까지 전파되는 그 시작을 보여주는 말씀인데, 이제까지 베드로를 통하여 예루살렘을 중심해서 역사하시던 성령께서 바울을 통하여 민족과 국가, 모든 문화의 벽을 넘어서서 역사하심을 보여줍니다. 이방인들을 향한 선교의 역사가 여기에 기록이 되어 있습니다. 그런 의미에서 안디옥교회 라는 불과 세운지 얼마 안 되는 작은 교회가 바울과 바나바를 선교사로 파송시키는 장면을 기록한 오늘 읽은 이 본문은 선교의 본질이 어떤가를 알려주고 있습니다. 선교가 무엇입니까? 선교를 알고 해야 합니다. 열정만 가지고 안 됩니다. 성경으로 돌아가야 합니다. 2000년 선교역사에서 바른 선교를 어떻게 해야 하는가는 이 본문 말씀에서 교과서 삼아야합니다. 행 13:1 안디옥 교회에 선지자들과 교사들이 있으니 곧 바나바와 니게르라 하는 시므온과 구레네 사람 루기오와 분봉왕 헤롯의 젖동생 마나엔과 및 사울이라 2 주를 섬겨 금식할 때에 성령이 가라사대 내가 불러 시키는 일을 위하여 바나바와 사울을 따로 세우라 하시니 3 이에 금식하며 기도하고 두 사람에게 안수하여 보내니라 우리가 이 말씀에서 무엇을 제일 먼저 발견하게 됩니까? 안디옥교회가 선교를 시작했구나 하는 사실을 깨닫는 사람도 있겠습니다만, 오늘 말씀은 선교의 주체가 성령이심을 보여줍니다. 선교의 주체는 하나님, 곧 성령이심을 믿으시기 바랍니다. 결코 어떤 한 인간이 선교의 주체자는 될 수 없습니다. 2 주를 섬겨 금식할 때에 성령이 가라사대 내가 불러 시키는 일을 위하여 바나바와 사울을 따로 세우라 하시니 누가 말씀하신 것입니까? “성령이 가라사대” “내가 부른 바나바와 사울이다” “내가 시키는 일을 하기 위하여” “너희가 따로 세우라” 안디옥 교회는 1절에서 보인대로 영적 지도자들이 있었습니다. 그들은 교사와 선지자의 역할을 했습니다. 그들이 금식하며 기도할 때에 성령님이 말씀하셨습니다. 선교를 명하신 분은 성령님이십니다. 세상에도 사명자들이 많습니다. 사명자라는 말은 명을 받들어서 심부름하는 사람입니다. 심부름을 하는 사람의 종류가 많습니다. 그러나 누구의 명령을 따른 것인가 하는 것은 사명자에게서 중요합니다. 사무실에서 심부름을 하는 사람을 옛날에는 ‘급사’라고 했습니다. 학교를 지키는 사람 ‘소사’도 있습니다. 그러나 같은 심부름꾼이라도 나라에서 대통령이 외국에 보낸 사환을 대사라고 합니다. 급사나 소사, 대사가 다 심부름하는 사람이지만 누가 보냈는가, 누구의 명령에 따라 움직이는가 하는 것은 사명자에게 그 사명을 감당하는데 중요한 것입니다. 복음 선교를 하는 일이 쉬운 일이 아닙니다. 고난과 역경이 기다립니다. 그러나 하나님이신 성령께서 명하신 일이라는 인식을 할 때는 사명을 감당하기 위해서 생명을 내어놓게 됩니다. 바울이 말한 대로 (행 20:24) 나의 달려갈 길과 주 예수께 받은 사명 곧 하나님의 은혜의 복음 증거 하는 일을 마치려 함에는 나의 생명을 조금도 귀한 것으로 여기지 아니하노라 생명을 귀한 것으로 여기지 않습니다. 생명이 귀한 것입니다. 그러나 사명자에게는 사명이 생명보다 더 귀한 것입니다. 또 말씀드립니다. 우리 이지순 간사가 선교사로 나가야할 때가 다 되었는데, 선교현장이 어제와 오늘이 다릅니다. 선교사들이 어떤 어려움을 겪어야할지 모릅니다. 이렇기 때문에 우리들이 기도해야합니다. 하나님이신 성령께서 말씀하십니다. 주님께서 분부하셨습니다. 선교는 하나님의 관심입니다. 교회는 하나님의 성령이 명하신 선교를 해야 합니다. 이것이 진정한 교회입니다. 또한 성령께서 선교할 사람을 불렀다고 말씀하셨습니다. 선교 사명자는 성령께서 부르신 사람입니다. 예레미야에게 (렘 1:5) 내가 너를 복중에 짓기 전에 너를 알았고 네가 태에서 나오기 전에 너를 구별하였고 너를 열방의 선지자로 세웠노라 말씀하신 것 같이, 바울을 부르실 때부터 하나님께서 그를 이방인의 사도로 쓰시겠다는 부르심을 말씀했습니다. 여러분 복음 전도와 선교는 구원받은 자라면 누구라도 해야할 사명입니다. 우리를 왕 같은 제사장으로 세우신 그 넓은 의미에서 볼 때는 우리가 다 선교자가 되어야합니다. 그러나 누구라도 해야하지만 아무나 하는 것은 아닙니다. 특별히 세움을 입어야합니다. 하나님께서 구약의 이스라엘이 다 제사장 나라이지만, 특별히 선지자를 부르셨고, 예수님께서 무리들 가운데서 제자들을 부르시고 제자들을 양육해서 사도로 보내신 것 같이, 하나님께서 부르시는 제 2차 소명이라는 특별한 부르심이 있습니다. 이 부르심 때문에 생명을 내어놓고 충성 다하는 사명이 있는 것입니다. 안디옥교회에는 선지자들과 교사들이 있었습니다. “곧 바나바와 니게르라 하는 시므온과 구레네 사람 루기오와 분봉왕 헤롯의 젖동생 마나엔과 및 사울”입니다. 그러나 성령께서는 이들을 다 부르시지는 않고 “바나바와 사울을 따로 세우라”고 하셨습니다. 성령의 명령하신 그 선교명령을 이루기 위해서 성령께서 따로 세워라고 하여서 세우신 사람이어야 합니다. 그렇지 않고는 이 일을 감당하지 못합니다. 목회자도 그렇습니다. 교회 안에 많은 교사들과 직분자들이 있지만 그래도 복음을 전할 전임사역자들로 세움을 받는 것은 구별하여 따로 세우신 자입니다. 믿으시기 바랍니다. 오늘 한국교회의 어려움은 목회자가 따로 세움을 받은 자라는 이 인식이 없어진 데서 온 것입니다. 그러니 사명감을 가지고 주신 직분을 감당하지 못하고 성도들이 이를 인정하지 않는데서 목회의 위기, 교회의 위기가 온 것입니다. 이 책임은 성도 여러분들에게 있습니다. 자녀들 가운데도 신앙적으로 인격을 갖춘 자녀들에 대하여 하나님의 부르심이 있어도 헌신하도록 부모가 허락하지 않기 때문에 저 같이 실수 많고 허물 많은 사람이라도 하나님께서 불러서 쓰시는데 이러니까 교회 사역에 부작용이 많은 것입니다. 그러나 공부가 안되니까 신학교나 보내자는 생각은 이제는 안 할 것입니다. 신학대학교 들어가기가 그렇게 쉽지 않습니다. 그러나 공부만 잘한다고 그 사람이 목회자가 되겠습니까? 하나님의 부르심이 선행되어야합니다. 목회를 하면 할수록 이 소명의 중요성을 더 느낍니다. 우리 교회 교우 여러분들이 다 복음의 헌신자가 되시기를 축원합니다. 그러나 성령께서 명하신 명령 때문에, 성령의 부르심을 받고 헌신하시기 바랍니다. 헌신자는 성경을 봐도 남다르게 성경이 봐집니다. 마태복음 28장에 주님이 명하신 가라, 모든 족속에게 가라는 명령이 다른 사람들은 그저 그렇게 들리는데, 하나님이 부르신 자는 이 명령이 바로 주님께서 자기에게만 명하신 명령으로 급하게 강하게 들려지는 사람들입니다. 많은 사람들이 교회 안에 있지만, 다 꼭 같이 들려지는 것은 아닙니다. 특별히 하나님 나라에 대한 관심이 있고, 복음에 대한 뜨거운 사명이 일어날 것입니다. 무엇을 위해서 성령께서 헌신자, 사명자를 부르시고 세우십니까? 2 주를 섬겨 금식할 때에 성령이 가라사대 내가 불러 시키는 일을 위하여 바나바와 사울을 따로 세우라 하시니 “내가 불러 시키는 일을 위하여” 성령께서 왜 오셨습니까? 성령께서 교회를 세우시고, 교회가 사역자들을 세우도록 하시는 이유가 있습니다. 성령께서 하시고자 하시는 일이 있습니다. 바로 그리스도의 복음 선교입니다. 이를 성령께서 주도하시되 세우신 교회를 통해서 또 사명자들을 통해서 이루시는데 이를 위해서 우리들에게 시키는 일이 있습니다. 선교는 성령께서 하시는 일입니다. 성령의 명하신 대로 성령의 시키시는 일을 하기 위해서 성령께서 따로 세운 사람이 선교 사명자입니다. 성령께서 하시고자 하는 선교의 일을 하기 위해서는 자기 뜻대로 해서는 안 됩니다. 성령께서 시키시는 대로 움직여야 합니다. 선교는 성령께서 주체자가 됩니다. 선교의 명령은 성령의 명령입니다. 선교사역자는 성령께서 따로 세우신 자입니다. 선교는 성령의 시키시는 일을 하면 됩니다. 이 원리를 선교한다는 교회나 선교사역자나 선교단체가 잊어서는 안 됩니다. 두 번째 우리가 알 것은 선교는 성령이 주체이지만 그것을 행하는 것은 지상의 교회에게 명하신 것입니다. 선교할 바나바와 바울을 따로 세우라고 교회에게 명하셨습니다. 성령께서 주체자가 되시면 우리 인간 측에서는 아무 일을 하지 않고 기다리면 되는가 그렇지 않습니다. 성령께서 이 일을 교회에게 맡기셨습니다. 누가 이일을 합니까? 교회가 이일을 합니다. 교회는 무엇입니까? 하나님의 백성들, 그리스도의 피로 사신 지체들이 이룬 거룩한 하나님의 자녀의 무리입니다. 교회는 단지 건물이 아닙니다. 교회는 하나님의 백성을 가리켜 교회라고 합니다. 선교의 주체는 성령이시고, 선교는 교회에게 주신 명령입니다. 오늘 선교단체들이 많이 있지만 선교단체들이 알아야하는 것은 선교는 성령께서 교회에게 명하신 것이라는 것입니다. 선교단체는 하나의 교회에서 세운 교회와 관계를 끊을 수 없는 교회의 선교조력단체가 되어야합니다. 오늘 많은 선교단체들이 교회를 떠나서 단체를 만들면서 성령께서 세우신 교회를 무시하고, 무엇을 한다고 하지만 이것은 잘못된 것입니다. 선교단체가 있다고해도 어디까지나 교회와 연합해서 선교를 하는 것입니다. 선교단체가 세워지는 것은 교회가 마땅히 선교를 해야 하지만 교회는 또한 여러 가지 사명을 감당해야하는데, 이를 제대로 감당하지 못하므로 성도들이 자생적으로 선교단체를 세워서 선교를 부르짖고 선교를 해 왔습니다. 그러나 교회가 하는 선교가 더 많습니다. 그 선교단체들이 교회를 섬겨야합니다. 선교단체의 일을 하는 사람들도 자기 교회를 섬기면서 해야 바로 된 것입니다. 오늘 우리 현실은 많은 선교단체들과 교회가 이 관계를 망각해서 충돌되는 일이 있습니다. 교회도 선교단체들을 이단시 말고, 품어야하고, 선교단체도 교회 안에 있어야합니다. 또 선교의 열매가 교회를 세우는 것이 됩니다. 이 관계가 잘못되면 성령께서 하라는 일을 한다고 하면서 교회의 연합을 깨므로 결국 선교의 목적을 이루지 못합니다. 오늘 본문이 선교의 시작이라면 이 선교의 시작도 안디옥 교회라는 교회에게 하나님이신 성령께서 말씀하신 것입니다. 안디옥교회에 선지자들과 교사들이 있었습니다. 안디옥 교회는 예루살렘 교회와는 다르게 교회 안에 다양한 사람들이 있음을 볼 수 있습니다. 바나바-행4:36에 구브로 출신의 레위족이라고 합니다. 니게르라는 시몬- 니게르는 니그로(피부가 검은)이란 말인데 아프리카에서 온 한 개종자입니다. 루기오-구레네에서 온 루기오, 로마권에서 온 사람입니다. 헤롯의 젖동생 마나엔- 세례요한을 죽인 헤롯과 어머니 젖을 함께 먹고 자란 동생으로 높은 권력층의 사람임을 말합니다. 이렇게 다양한 부류의 사람들이 안디옥 교회에 모였습니다. 교회는 모임입니다. 그리스도의 피로 구속받은 성도들의 모임입니다. 왜 성령께서 교회를 세우셨습니까? 우리 교회 안에도 다양한 사람들이 모여 있는데, 그러나 이 교회는 일치를 이루어야합니다. 무엇을 위해서입니까? 성령께서 명하신 선교를 하기 위해서입니다. 이렇게 세워진 안디옥 교회가 처음으로 한 일이 무엇입니까? 그들은 복음을 전했습니다. 그들은 세상에서도 진실된 삶을 살아서 그리스도인이라는 칭호를 얻게 되었습니다. 그 교회는 가뭄으로 고생하는 예루살렘 교회를 돕는 일이었습니다. 이렇게 선교를 위해서 세워진 것이 교회이지만, 교회는 궁극적 목적인 선교를 위해서 다양한 일을 또한 해야합니다. 이것이 선교단체와 다른 점이기도 합니다. 전도하며, 교육하고, 봉사하는 일을 해야 합니다. 어느 것 하나라도 치우치거나 모자라면 원만한 교회가 되지 못합니다. 구제하는 안디옥 교회가 선교하는 교회의 사명도 잘 감당합니다. 우리 교회도 우리 주변에 있는 가난한 사람들을 돕는 일, 우리 교회 안에 있는 가난한 사람들을 돕는 일. 사랑을 가지고. 이것이 먼저 선행이 되어야 합니다. 그러나 교회는 구제단체는 아닙니다. 세상에 대한 봉사하기 위해서 세워진 곳은 아닙니다. 안디옥 교회는 구제에만 머물러 있지는 않습니다. 복음은 구제에만 머물지 않습니다. 나아가 선교했던 것입니다. 안디옥 교회의 지도자들은 선지자와 교사라고 본문에는 말씀했는데, 이들은 세 가지 일을 교회 안에서 하고, 가르쳤습니다. 선교하는 교회가 되기 위해서 입니다. 첫째로 그들은 선지자와 교사의 직무를 맡았습니다. 선지자는 예언자로 말씀을 선포하는 역할을 하는 사람입니다. 하나님의 말씀을 예언하고 선포하고 그 시대에 하나님의 말씀을 주는 역할입니다. 말씀을 가르치는 역할입니다. 누구든지 그리스도인은 언제나 어떤 곳에서든지 말씀을 배우고 가르치고 선포해야합니다. 말씀을 모르고는 신앙생활을 못합니다. 선고사역자들이든지 교회의 평신도 사역자들이든지 말씀을 모르고야 아무 것도 하지 못합니다. 그래서 저는 헌신하겠다는 사람들에게 최소한 신학을 할 것을 말합니다. 찬양 헌신자가 되겠다고 해도 신학을 해야 합니다. 목회를 하겠다고 하면 더욱 정통신학을 해야 합니다. 성경을 모르고야 제 마음대로 하는 신앙생활이 될 수밖에 없습니다. 그래도 한국교회에 큰 교회, 정말 바로 세워진 교회들이 그래도 목회자들이 바로 되어있고, 그분들이 신학을 바로 한 분들임을 감사해야합니다. 우리 그리스도인들이 성경을 다 알아야합니다. 세상 공부를 하는 것은 필요에 의해서 하는 것이지만 성경 말씀을 공부하는 것은 이는 우리 삶 전체이기 때문입니다. 성경을 모르고는 신앙생활을 한다고 해도 주관적입니다. 사도의 가르침을 받으시기를 바랍니다. 어떤 사람이든지 말씀을 배우고 말씀을 가르치고 해야 합니다. 교회만 왔다갔다 하지 말고 말씀을 배우고 말씀을 가르치고 해야 합니다. 말씀은 운동력이 있습니다. 살아있습니다. 말씀이 있을 때 우리는 지치지 않습니다. 외롭지 않습니다. 피곤하지 않습니다. 그러나 말씀이 없을 때는 지치고, 우울증에 빠지기 쉽습니다. 말씀을 날마다 가르치고 배우며 함께 함으로 생동력이 있는 그리스도인이 되시기를 바랍니다. 두 번째로 그들은 주님께 봉사하는 생을 살았습니다. 서로 봉사합니다. 와서 예배만 드리고 가는 것, 극장식 예배입니다. 신앙은 열심히 교회 나와서 봉사하는 것입니다. 말씀을 가지고 열심히 봉사하면 신앙이 생깁니다. 얌체처럼 싹 먹고, 싹가는 사람이 되지 마십시오. 그 사람은 극장 가는 거에요. 교회에 애정을 가지고 헌신하고 봉사하십시오. 여기가 내 교회라는 생각을 가질 때에 충성이 있게 됩니다. 손님은 은혜 받지 못합니다. 손님은 설거지 할 것 없습니다. 음식만 먹고 커피도 멋지게 폼 잡고 먹고 그냥 가면 됩니다. 그러나 주인은 설거지를 합니다. 그리고는 그릇을 마른 행주로 깨끗이 닦아 넣어 놓습니다. 이들은 주님을 섬기는 기쁨이 교회를 섬기는 기쁨이 있었습니다. 그래서 그들에게는 애정이 생깁니다. 여기가 내 교회다. 내가 섬길 수 있는 교회다. 충성할 수 있는 교회를 가지고 있음을 행복해하시기 바랍니다. 세 번째로 그들은 기도했습니다. 말씀이 있었고, 봉사가 있었고, 기도가 있었습니다. 신앙생활은 피나는 투쟁입니다. 죽느냐, 사느냐 하는 싸움입니다. 땀이 피가 되도록 기도하지 않으면 이길 수 없는 싸움의 현장입니다. 어떻게 성경을 읽지 않고, 금식도 해보지 않고, 산 기도도 한 번 해보지 아니하고, 밤새서 기도도 한번 해보지 아니하고 승리하는 신앙생활을 할 수 있겠습니까? 정말 신앙생활을 잘하려면 그런 헌신과 투쟁이 있는 것입니다. 신실한 봉사, 간절한 기도, 그것이 지나치면 금식하지 않습니까? 금식은 심심해서 하는 일이 아닙니다. 정말 밥을 먹을 수가 없고, 잠을 잘 수가 없습니다. 그래서 금식을 하는 것입니다. 네 번째 이 교회는 선교사를 내어놓았습니다. 선교는 성령께서 준비하시고 예비하신 사람들을 통해서 하시는데 이 교회는 “바나바와 바울을 따로 세우라”는 성령의 음성대로 그 교회의 가장 유력한 일군인 목회자라고 할 수 있는 바나바와 바울을 선교에 내어놓았습니다. 안디옥교회가 자기 교회만을 생각한다면 이런 일을 할 수 없습니다. 저는 우리 교회 성도들이 주님의영광교회에 등록되었으면 교회를 떠나지 않고 교회 중심의 신앙생활을 하기를 소원합니다. 그래서 이사를 해도 교회 중심으로, 학교를 진학해도 교회 중심으로 결혼을 해도 그렇게 했으면 합니다. 한 교회를 섬기는 것이 얼마나 중요한지 모릅니다. 무조건 서울로 지방으로 보내는 것은 생각해봐야할 문제입니다. 그러나 이 보다 더 귀한 일에 헌신하기를 작정하는 사람들이 일어나서 이 교회를 다 떠나게 된다면 그것은 정말로 축복할 일이라고 생각합니다. 우리의 인생은 헌신해야 합니다. 하나님께 헌신하는 것이 인생의 본질입니다. 헌신을 하면 우선순위가 생깁니다. 여러분은 과연 누구에게 헌신하고 있습니까? 제일 불쌍한 사람은 헌신할 곳조차 없는 사람입니다. 되는대로 사는 사람, 좋은 형편 따라 사는 사람, 좋은 조건 주면 따라 다니는 사람이 불행한 사람입니다. 그러니 자기가 헌신해야 할 대상이 있어야 합니다. 하나님은 오늘도 헌신자를 찾으십니다. 여러분이 어떤 직업을 가지고 있든지, 어떤 형편에 있든지 하나님께 헌신하기를 결심하게 되기를 바랍니다. 헌신하면 마음이 결정이 됩니다. 헌신하면 이곳에 갈까 저곳에 갈까 고민하지 않게 됩니다. 왜냐하면 헌신하면 어디로 가야 하는지 결정이 되기 때문입니다. 바울은 헌신했습니다. 베드로도 헌신한 사람입니다. 우리들도 헌신할 수 있기를 바랍니다. 내 마음이 확정되었사오니, 세상이 나를 흔들지 못할 것입니다. 성령의 역사하심을 따라 성령의 명하신 선교하는 주님의영광교회가 되길 축원합니다. 아멘. 강영래 목사(인천 주님의영광교회)
ヨハネの第一の手紙講解(岩住賢)(01)(요한일서강해(이와즈미 켄)(01))/ 聞き、見て、触れる(듣고 보고 만졌다)/ 1ヨハネ1:1-4(요일1:1-4), エゼキエル11:19-20(겔11:19-20)/ いわずみ けん(岩住賢)伝道師(横浜指路教会)/ 2013-04-07
ヨハネの第一の手紙講解(岩住賢)(01)(요한일서강해(이와즈미 켄)(01))/ 聞き、見て、触れる(듣고 보고 만졌다) 1ヨハネ1:1-4(요일1:1-4), エゼキエル11:19-20(겔11:19-20) 2013年4月7日・夕礼拝説教  ◆ 「聞き、見て、触れる」  伝道師 岩住賢 ・ 旧約聖書: エゼキエル書 第11章19-20節 ・ 新約聖書: ヨハネの手紙一 第1章1-4節   ・ 讃美歌:351、458、73 今ヨハネの手紙一、1章1節から4節の御言葉をわたしたちは聴きました。この1節から4節は、この手紙全体が何のために書かれているのか、また何を書いてあるか、そのことを初めに明らかにしているところであります。 では何のためか、何ついて書かれているのかというと、それは一節の最後のところですが、「命の言について──」これをヨハネは伝えたかったのです。命の言というのは、これは神様の言葉であります。神様の言葉をなぜ「命の言」と言うかというと、実は、その神様の言葉こそ私たちに「命」を与えるものだからであります。旧約聖書の申命記に「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」という言葉があります。そのように、人が生きる、人が人として生きるということのためには、神様の言葉を聞くということが、どうしても必要になります。 しかし、私たちはどうか?私たちも神様の御言葉を聞きたいと思って一生懸命願っているけれども、「あ、いま神様の言葉を聞こえた」そのようには、簡単には聞けません。聖書を見るとアブラハムとか、イサクとか、ヤコブとか、信仰の先達が神様の言葉を聞いたということが書いてある。そこでは神様の言葉は、天から突然声が聞こえる。どうも旧約聖書の話の中では、アブラハムにしても、モーセにしてもそのように言葉を聞いております。わたしたちもそういう経験をすることができるのかと期待をしておりますけれども、大体わたしたちにはそのような経験はありません。そこで私たちは神様の言葉を聞いてないのだろうか、ということを悩み始めます。それではいったいどうしたら、私は神様の言葉を聞くことができるだろうかということが、わたしたちの問題になってくるのです。ここでヨハネは、命の言を聞くにとどまらず、また見た、触れたとも言っています。では言葉を見る、触れるとはまた、いったいなんなのでしょうか。これらの悩みに聖書は、答えております。それはヨハネによる福音書の1章の14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」という言葉であります。この「言」というのは、もちろん神様の言です。どうしたら、いったい神様の言葉を聞くこと、見ること、触れることができるだろうか、思い悩んでおります私たちに、その神様の御言葉が、肉体をとって私たちの目の前に現れたのだ、ということをヨハネは私たちに告げております。肉体を取るということはつまり人となるということです。 では人となられた神様の御言葉とは一体誰なのであるかというと。それは主イエス・キリストです。福音書でヨハネは「わたしたちはその栄光を見た」といっておりますが、ヨハネは肉体をとった主イエス・キリストを栄光としてその目で見たのです。そのことをこのヨハネ手紙一の冒頭でも同じように言っております。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――」とヨハネは言っております。命の言というところを、主イエス・キリストに置き換えてみるとはっきりとします。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、主イエス・キリストについて。――この主イエス・キリストは現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――」命の言であられる主イエス・キリストのことを私はあなたがたにお伝えするというのが、ヨハネの言っていることです。ではヨハネはいつ主イエス・キリストに出会って、見て、聞き、触れたのか。ヨハネが主イエス・キリストに出会ったのは、日常生活をしていた時です。その時、イエスという方がヨハネの元に来られて「わたしについてきなさい」と言われました。ヨハネはその方の話、その肉声を彼自身の耳で聞ききました。主イエス・キリストはいろいろと話してくださったのです。また、その御顔、その御姿、なさることを、彼はその目で見た。そうしているうちに、この方はいったいどなただろうか、弟子たちが主イエス・キリストの御業を見て「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言って驚いているところがあります。改めて、いったいこの方はどなただろうか、思いを込めて見直した、そういう経験もありました。それだけでなくて「この手でさわった」とヨハネは言います。主イエス・キリストがユダの裏切りを予告なさった夜に、主イエス・キリストの胸に寄りかかって「それはだれのことですか」と尋ねたのはヨハネです。そういう目で見て、この手でさわることができた御方が、実は、命を与える神様だということを後に知った時の、弟子たちの衝撃はどのようなものだったのでしょうか。「私は、神様にこの手でさわっていたのだ」とその驚きと感動がこの短い言葉の中に表れております。私たちはそういう驚くべきメッセージをここで聞いています。 しかしここで気付かされることがあります。2000年前に、実際に主イエス・キリストを見、その肉声を聞き、触れたことのあるすべての人が、弟子たちのように主イエス・キリストの御言葉に聞き従ったのか、というと実はそうではありません。実際、主を十字架にその手で架けた人物、主イエス・キリストを陥れようと問答を仕掛けた律法学者やファリサイ派の人たち、その人達も主イエス・キリストを見、その声を聞き、時には触れたことのある人たちです。その者たちは、主を肉眼で見たが、その時にすぐにその主の御言葉を受け入れて、従うということはありませんでした。ですからここから、わたしたちは、直接主を見たり、そのお言葉を直接聞いたりすることができれば、すぐさま「わたしは命の言を聞いた」と自覚するというわけではないのだ、とわたしたちは気付かされます。弟子たちも初めから主イエス・キリストの言葉を命の言だと自覚していたのではありません。弟子たちも最初は主イエス・キリストの言葉は「先生の権威あるお言葉」、「風や湖を従わせることのできる不思議なお言葉」、だったのです。そう理解していたのです。この弟子たちが「主イエス・キリストは命の言である」と気付くのは十字架と復活の出来事の後のことです。十字架の出来事以前の弟子たちは、「イエスが生ける神の子、救い主である」ということを告白していましたけれども、実際にはどれほど主イエス・キリストに従えていたかというと、主イエス・キリストがエルサレムで無実の罪で逮捕されるその時には、弟子たちは主イエス・キリストの下から逃げ出す、また一番弟子ペトロは三度も主イエス・キリストのことなど「知らない」と否む。このようなものでした。なぜ聞き、見て、触れることのできた人たちが、命の言である主イエス・キリストを拒否してしまったのか。それは人の持つ、そしてわたしたちにもある罪の故です。神様などわたしとは無関係である。神様を信じ従うのでなく、自分の信念に従う。神様中心でなく自分中心となる。その罪の中での人の耳は、神様の言葉も都合のいいように聞く耳になっていたり、そもそも聞くことすらも拒否する耳であったりするのです。罪とは神様をいらないと人間の側から神様との関係を切ることなのです。命を与える神様の言葉を拒否するということは、自ら命を絶っているということに等しいのです。 しかし、主イエス・キリストは弟子たちが主を拒絶している時でも、弟子たちが言葉を理解できない時も、弟子たちの信仰が揺れ動いてぶれている時も、彼らをお見捨てにならないで、むしろ言であるかたの方から弟子たちに近づいてきてくださったのです。このことは弟子たちのみならならずわたしたちにも同じなのです。   しかも、命であられるその方が、人の罪のために十字架に架かって死に、わたしたちの罪と死を代わりに受けてくださり、死ぬべきはずのわたしたちを生かしてくださいました。そして三日目に復活され、死に打ち勝つ御姿をわたしたちに示してくださいました。悔い改めてその主イエス・キリストの信じるものは、死ぬことのない永遠の主の命に与ることがゆるされました。弟子たちはその復活された主イエス・キリストに出会って、既に主が語られていたこと、主イエス・キリストがわたしたちを罪の中から救うメシアであることを理解しました。そして主イエス・キリストが命の言である、わたしたちを死から生へと変えてくださる方であると知るようになった。 しかし、ここで最後に大きな問いが残ります。それは、なるほど、ペテロやヨハネ、そういう主イエス・キリストの弟子たちは、主イエス・キリストの肉声を聞き、その御姿を見、手でその御体をさわり、復活された主イエス・キリストと出会った。けれども、2000年の時を隔てた、今この日本に住んでいる私たちはいったいどうなるのか、「イエス様を見ることはできないじゃないか」と思ってしまいます。確かに、私たちは自分自身の目で主イエス・キリストの御姿を見、主イエス・キリストの肉声を聞き、その御体に触れることはできません。 では一体どうすれば、今を生きるわたしたちは神様の言葉、命の言に出会うことができるのか。実は2000年後のこの私たちとは同じ立場にある人達がいます。その人達はこのヨハネの手紙一の手紙の受け取った人たちです。ヨハネは主イエス・キリストを見ることのできなかった人たち、その人たちにこの手紙を書いております。「あなたたちはイエス様を見たからいいでしょうけれども、私たちは見ておりません」この手紙を受け取った人たちは皆そういう人です。そういうことから言えば、この手紙の受取人である当時の教会の人たちと同じです。そういう主イエス・キリストを見たことのない人たちに向かって、ヨハネが主イエス・キリストのことをあなたがたに書き送る。そこでヨハネは自らの言葉をもって、復活の主の福音、命の言をこの人たちに伝えようとしているのです。「あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」私たちが神様の言葉を聞き、神様の御言葉にお答えをするという、そういう交わりを与えられていると同じように、あなたがたもそうなる、そのために私はこの手紙を書いている。ヨハネは教会の人たちに向かって手紙を書いています。そこで重要なことが三節にいわれています。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」主イエス・キリストを見た、神様にさわった、それはただ、不思議な神秘な経験をするということではなくて、その神様との深い交わりを与えられるということです。神様の御言葉を聞き、それにお答えをする、そういう神様との交わりに入れられる、弟子たちはそういう恵みに与りました。 「交わり」というものは、いつも言葉がかけられ、それにお答えをするという、そういう生きた関係というものがないと、その交わりの「命」というものは続かない。人間の体は、これは生まれた時から生き続けていますけれども、いつも呼吸をしています、いつも脈を打っています。信仰者の集まりである教会というものは、ただそこに黙って動かず存在しているというのでなくて、生きています。その生きている生命を保っていくために、いつも呼吸をし、脈打たなければならない、これが信仰者の営み、また教会の営みであります。そのために私はこの手紙を書くというのです。人間というものは一度聞いて、信じて「分かった」と言って、それでそのまま生命がつながっていくかというとそうではない。どうしたら、生き生きとした生命を持つことができるか、これがわたしたちにとっての大切な問題です。  主イエス・キリストは神の御子であって、私たちの救い主である。私たちの罪を贖うために十字架にかかってくださった。主イエス・キリストは復活をなさった。私たちの罪は赦された。死ぬものから生きるものへと変えられる。この命の言を礼拝において、わたしたちが聞いている。実は、この今語られている説教を通して、神様が私たち一人一人に語りかけておられるのです。私たちはアブラハムが神様の言葉を直接聞いたというところを読むと、「いいなあ」と思います。それで「私たちはそんな風には聞けない」と思っているのですけれども、そうではありません。聖書の言葉そのものが、また礼拝の説教を通して、わたしたちは神様の語りかけを聞いています。わたしたちは説教で神様の言葉を聞く、そして生きている主イエス・キリストと出会います。しかしわたしたちは、時にそのみ言葉を聞くことができなくなることがあります。大変な試練の中にある時、悩み苦しみの中にある時、病の中にある時、わたしたちは苦しみの囲いの中にいて一人耳を手で塞ぎ、座り込んでしまう。その時私たちは主の言葉を聞くことができなくなる。しかしその苦しみの囲いの中に主は見える姿で私たちの目の前に現れてくださいます。今日わたしたちの与る聖餐は、まさに見える主の体と血です。そしてわたしたちは聖餐において主の肉と血に触れることができます。これが見える神の言葉としての聖餐です。主イエス・キリストが、今肉眼で主を見ることのできないわたしたちのために備えて下さいました。神様は、この礼拝を私たちに備えてくださいました。今わたしたちはこの礼拝において神様の御前にいます。肉体をとって来られた神の言。目で見、手でさわることのできたあの言が、今この説教を通して私たちに語りかけてくださっています。そして見、触ることの出来る御言葉を聖餐として与えてくださっています。この礼拝で御言葉を聞き、聖餐にあずかり、賛美をし、神様を讃え、わたしたちの身を主に捧げる、これが私たちの応答であり、交わりです。 このことが起こるためにヨハネはこの手紙を書きました。この手紙を通して、主イエス・キリストが、神様が、礼拝を通して私たちに語りかけてくださる。今教会の中でその御方が生きて働き、私たち一人一人に語りかけてくださっている、このことが大変な喜びなのです。そして最後にヨハネは「これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである」と言っております。神様が言葉を語り、神様の言葉を聞く、そういう交わりの中で本当に信仰生活の喜びというものがあります。そのような恵みをわたしたちは与えられています。そうした恵みに与っていることを自覚して、また新しく感謝をもって信仰生活を続けたいと思います。 岩住賢伝道師(横浜指路教会)
ヨハネの第一の手紙講解(岩住賢)(01)(요한일서강해(이와즈미 켄)(01))/ 聞き、見て、触れる(듣고 보고 만졌다)/ 1ヨハネ1:1-4(요일1:1-4), エゼキエル11:19-20(겔11:19-20)/ いわずみ けん(岩住賢)伝道師(横浜指路教会)/ 2013-04-07
ヨハネの第一の手紙講解(岩住賢)(01)(요한일서강해(이와즈미 켄)(01))/ 聞き、見て、触れる(듣고 보고 만졌다) 1ヨハネ1:1-4(요일1:1-4), エゼキエル11:19-20(겔11:19-20) 2013年4月7日・夕礼拝説教  ◆ 「聞き、見て、触れる」  伝道師 岩住賢 ・ 旧約聖書: エゼキエル書 第11章19-20節 ・ 新約聖書: ヨハネの手紙一 第1章1-4節   ・ 讃美歌:351、458、73 今ヨハネの手紙一、1章1節から4節の御言葉をわたしたちは聴きました。この1節から4節は、この手紙全体が何のために書かれているのか、また何を書いてあるか、そのことを初めに明らかにしているところであります。 では何のためか、何ついて書かれているのかというと、それは一節の最後のところですが、「命の言について──」これをヨハネは伝えたかったのです。命の言というのは、これは神様の言葉であります。神様の言葉をなぜ「命の言」と言うかというと、実は、その神様の言葉こそ私たちに「命」を与えるものだからであります。旧約聖書の申命記に「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」という言葉があります。そのように、人が生きる、人が人として生きるということのためには、神様の言葉を聞くということが、どうしても必要になります。 しかし、私たちはどうか?私たちも神様の御言葉を聞きたいと思って一生懸命願っているけれども、「あ、いま神様の言葉を聞こえた」そのようには、簡単には聞けません。聖書を見るとアブラハムとか、イサクとか、ヤコブとか、信仰の先達が神様の言葉を聞いたということが書いてある。そこでは神様の言葉は、天から突然声が聞こえる。どうも旧約聖書の話の中では、アブラハムにしても、モーセにしてもそのように言葉を聞いております。わたしたちもそういう経験をすることができるのかと期待をしておりますけれども、大体わたしたちにはそのような経験はありません。そこで私たちは神様の言葉を聞いてないのだろうか、ということを悩み始めます。それではいったいどうしたら、私は神様の言葉を聞くことができるだろうかということが、わたしたちの問題になってくるのです。ここでヨハネは、命の言を聞くにとどまらず、また見た、触れたとも言っています。では言葉を見る、触れるとはまた、いったいなんなのでしょうか。これらの悩みに聖書は、答えております。それはヨハネによる福音書の1章の14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」という言葉であります。この「言」というのは、もちろん神様の言です。どうしたら、いったい神様の言葉を聞くこと、見ること、触れることができるだろうか、思い悩んでおります私たちに、その神様の御言葉が、肉体をとって私たちの目の前に現れたのだ、ということをヨハネは私たちに告げております。肉体を取るということはつまり人となるということです。 では人となられた神様の御言葉とは一体誰なのであるかというと。それは主イエス・キリストです。福音書でヨハネは「わたしたちはその栄光を見た」といっておりますが、ヨハネは肉体をとった主イエス・キリストを栄光としてその目で見たのです。そのことをこのヨハネ手紙一の冒頭でも同じように言っております。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――」とヨハネは言っております。命の言というところを、主イエス・キリストに置き換えてみるとはっきりとします。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、主イエス・キリストについて。――この主イエス・キリストは現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――」命の言であられる主イエス・キリストのことを私はあなたがたにお伝えするというのが、ヨハネの言っていることです。ではヨハネはいつ主イエス・キリストに出会って、見て、聞き、触れたのか。ヨハネが主イエス・キリストに出会ったのは、日常生活をしていた時です。その時、イエスという方がヨハネの元に来られて「わたしについてきなさい」と言われました。ヨハネはその方の話、その肉声を彼自身の耳で聞ききました。主イエス・キリストはいろいろと話してくださったのです。また、その御顔、その御姿、なさることを、彼はその目で見た。そうしているうちに、この方はいったいどなただろうか、弟子たちが主イエス・キリストの御業を見て「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言って驚いているところがあります。改めて、いったいこの方はどなただろうか、思いを込めて見直した、そういう経験もありました。それだけでなくて「この手でさわった」とヨハネは言います。主イエス・キリストがユダの裏切りを予告なさった夜に、主イエス・キリストの胸に寄りかかって「それはだれのことですか」と尋ねたのはヨハネです。そういう目で見て、この手でさわることができた御方が、実は、命を与える神様だということを後に知った時の、弟子たちの衝撃はどのようなものだったのでしょうか。「私は、神様にこの手でさわっていたのだ」とその驚きと感動がこの短い言葉の中に表れております。私たちはそういう驚くべきメッセージをここで聞いています。 しかしここで気付かされることがあります。2000年前に、実際に主イエス・キリストを見、その肉声を聞き、触れたことのあるすべての人が、弟子たちのように主イエス・キリストの御言葉に聞き従ったのか、というと実はそうではありません。実際、主を十字架にその手で架けた人物、主イエス・キリストを陥れようと問答を仕掛けた律法学者やファリサイ派の人たち、その人達も主イエス・キリストを見、その声を聞き、時には触れたことのある人たちです。その者たちは、主を肉眼で見たが、その時にすぐにその主の御言葉を受け入れて、従うということはありませんでした。ですからここから、わたしたちは、直接主を見たり、そのお言葉を直接聞いたりすることができれば、すぐさま「わたしは命の言を聞いた」と自覚するというわけではないのだ、とわたしたちは気付かされます。弟子たちも初めから主イエス・キリストの言葉を命の言だと自覚していたのではありません。弟子たちも最初は主イエス・キリストの言葉は「先生の権威あるお言葉」、「風や湖を従わせることのできる不思議なお言葉」、だったのです。そう理解していたのです。この弟子たちが「主イエス・キリストは命の言である」と気付くのは十字架と復活の出来事の後のことです。十字架の出来事以前の弟子たちは、「イエスが生ける神の子、救い主である」ということを告白していましたけれども、実際にはどれほど主イエス・キリストに従えていたかというと、主イエス・キリストがエルサレムで無実の罪で逮捕されるその時には、弟子たちは主イエス・キリストの下から逃げ出す、また一番弟子ペトロは三度も主イエス・キリストのことなど「知らない」と否む。このようなものでした。なぜ聞き、見て、触れることのできた人たちが、命の言である主イエス・キリストを拒否してしまったのか。それは人の持つ、そしてわたしたちにもある罪の故です。神様などわたしとは無関係である。神様を信じ従うのでなく、自分の信念に従う。神様中心でなく自分中心となる。その罪の中での人の耳は、神様の言葉も都合のいいように聞く耳になっていたり、そもそも聞くことすらも拒否する耳であったりするのです。罪とは神様をいらないと人間の側から神様との関係を切ることなのです。命を与える神様の言葉を拒否するということは、自ら命を絶っているということに等しいのです。 しかし、主イエス・キリストは弟子たちが主を拒絶している時でも、弟子たちが言葉を理解できない時も、弟子たちの信仰が揺れ動いてぶれている時も、彼らをお見捨てにならないで、むしろ言であるかたの方から弟子たちに近づいてきてくださったのです。このことは弟子たちのみならならずわたしたちにも同じなのです。   しかも、命であられるその方が、人の罪のために十字架に架かって死に、わたしたちの罪と死を代わりに受けてくださり、死ぬべきはずのわたしたちを生かしてくださいました。そして三日目に復活され、死に打ち勝つ御姿をわたしたちに示してくださいました。悔い改めてその主イエス・キリストの信じるものは、死ぬことのない永遠の主の命に与ることがゆるされました。弟子たちはその復活された主イエス・キリストに出会って、既に主が語られていたこと、主イエス・キリストがわたしたちを罪の中から救うメシアであることを理解しました。そして主イエス・キリストが命の言である、わたしたちを死から生へと変えてくださる方であると知るようになった。 しかし、ここで最後に大きな問いが残ります。それは、なるほど、ペテロやヨハネ、そういう主イエス・キリストの弟子たちは、主イエス・キリストの肉声を聞き、その御姿を見、手でその御体をさわり、復活された主イエス・キリストと出会った。けれども、2000年の時を隔てた、今この日本に住んでいる私たちはいったいどうなるのか、「イエス様を見ることはできないじゃないか」と思ってしまいます。確かに、私たちは自分自身の目で主イエス・キリストの御姿を見、主イエス・キリストの肉声を聞き、その御体に触れることはできません。 では一体どうすれば、今を生きるわたしたちは神様の言葉、命の言に出会うことができるのか。実は2000年後のこの私たちとは同じ立場にある人達がいます。その人達はこのヨハネの手紙一の手紙の受け取った人たちです。ヨハネは主イエス・キリストを見ることのできなかった人たち、その人たちにこの手紙を書いております。「あなたたちはイエス様を見たからいいでしょうけれども、私たちは見ておりません」この手紙を受け取った人たちは皆そういう人です。そういうことから言えば、この手紙の受取人である当時の教会の人たちと同じです。そういう主イエス・キリストを見たことのない人たちに向かって、ヨハネが主イエス・キリストのことをあなたがたに書き送る。そこでヨハネは自らの言葉をもって、復活の主の福音、命の言をこの人たちに伝えようとしているのです。「あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」私たちが神様の言葉を聞き、神様の御言葉にお答えをするという、そういう交わりを与えられていると同じように、あなたがたもそうなる、そのために私はこの手紙を書いている。ヨハネは教会の人たちに向かって手紙を書いています。そこで重要なことが三節にいわれています。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」主イエス・キリストを見た、神様にさわった、それはただ、不思議な神秘な経験をするということではなくて、その神様との深い交わりを与えられるということです。神様の御言葉を聞き、それにお答えをする、そういう神様との交わりに入れられる、弟子たちはそういう恵みに与りました。 「交わり」というものは、いつも言葉がかけられ、それにお答えをするという、そういう生きた関係というものがないと、その交わりの「命」というものは続かない。人間の体は、これは生まれた時から生き続けていますけれども、いつも呼吸をしています、いつも脈を打っています。信仰者の集まりである教会というものは、ただそこに黙って動かず存在しているというのでなくて、生きています。その生きている生命を保っていくために、いつも呼吸をし、脈打たなければならない、これが信仰者の営み、また教会の営みであります。そのために私はこの手紙を書くというのです。人間というものは一度聞いて、信じて「分かった」と言って、それでそのまま生命がつながっていくかというとそうではない。どうしたら、生き生きとした生命を持つことができるか、これがわたしたちにとっての大切な問題です。  主イエス・キリストは神の御子であって、私たちの救い主である。私たちの罪を贖うために十字架にかかってくださった。主イエス・キリストは復活をなさった。私たちの罪は赦された。死ぬものから生きるものへと変えられる。この命の言を礼拝において、わたしたちが聞いている。実は、この今語られている説教を通して、神様が私たち一人一人に語りかけておられるのです。私たちはアブラハムが神様の言葉を直接聞いたというところを読むと、「いいなあ」と思います。それで「私たちはそんな風には聞けない」と思っているのですけれども、そうではありません。聖書の言葉そのものが、また礼拝の説教を通して、わたしたちは神様の語りかけを聞いています。わたしたちは説教で神様の言葉を聞く、そして生きている主イエス・キリストと出会います。しかしわたしたちは、時にそのみ言葉を聞くことができなくなることがあります。大変な試練の中にある時、悩み苦しみの中にある時、病の中にある時、わたしたちは苦しみの囲いの中にいて一人耳を手で塞ぎ、座り込んでしまう。その時私たちは主の言葉を聞くことができなくなる。しかしその苦しみの囲いの中に主は見える姿で私たちの目の前に現れてくださいます。今日わたしたちの与る聖餐は、まさに見える主の体と血です。そしてわたしたちは聖餐において主の肉と血に触れることができます。これが見える神の言葉としての聖餐です。主イエス・キリストが、今肉眼で主を見ることのできないわたしたちのために備えて下さいました。神様は、この礼拝を私たちに備えてくださいました。今わたしたちはこの礼拝において神様の御前にいます。肉体をとって来られた神の言。目で見、手でさわることのできたあの言が、今この説教を通して私たちに語りかけてくださっています。そして見、触ることの出来る御言葉を聖餐として与えてくださっています。この礼拝で御言葉を聞き、聖餐にあずかり、賛美をし、神様を讃え、わたしたちの身を主に捧げる、これが私たちの応答であり、交わりです。 このことが起こるためにヨハネはこの手紙を書きました。この手紙を通して、主イエス・キリストが、神様が、礼拝を通して私たちに語りかけてくださる。今教会の中でその御方が生きて働き、私たち一人一人に語りかけてくださっている、このことが大変な喜びなのです。そして最後にヨハネは「これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである」と言っております。神様が言葉を語り、神様の言葉を聞く、そういう交わりの中で本当に信仰生活の喜びというものがあります。そのような恵みをわたしたちは与えられています。そうした恵みに与っていることを自覚して、また新しく感謝をもって信仰生活を続けたいと思います。 岩住賢伝道師(横浜指路教会)